- クィーン Queen -

<2015年9月完全リニューアル>

<女王陛下の心変わり>
 クィーンというバンドほど、ジャンル分けが困難なワン&オンリーのバンドは、他にないかもしれません。
 スタート当初は、独特の音色をもつシンプルなブリティッシュ・ハードロック・バンドでしたが、「シア・ハート・アタック」あたりから、オペラ的な要素を導入、多重録音による複雑な音づくりを進め、「オペラ座の夜」でその成果が見事に発揮されました。しかし、その高度な音楽性をより進めて行くのかと思いきや、彼らはよりシンプル、よりドラマティックな曲づくりの方向へ向かいました。それが、今やスポーツ番組の超定番ソングとなった感がある、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」が入ったアルバム「世界に捧ぐ」です。しかし、大ヒット・アルバムの後、再び彼らは大きく路線を変えます。アメリカのチャートを意識したかのようなソウルフルな作品集「ザ・ゲーム」とシングル「愛という名の欲望」によって、彼ら自身初の全米ナンバー1を獲得したのです。さらに、この後彼らは、アメリカン・コミックを映画化した超B級SF映画「フラッシュ・ゴードン」のサントラ盤を制作。どんどん大衆路線を突き進んで行きましたが、フレディ・マーキュリーの死により、あっさりとその活動に終止符がうたれてしまいました。
 ところがフレディの死後も彼の歌声は世界中で聞かれ続けています。それはなぜなのでしょうか?先ずは、4人のメンバーが集まるところまでを追ってみます。

<フレディ・マーキュリー>
 1946年9月5日、ファルーク・バルサラ(フレディ・マーキュリー )Freddie Mercuryは、当時イギリスの植民地だったザンジバル島(現タンザニア領)で生まれています。父親はイギリス政府管轄の裁判所で出納係として働くペルシャ系英国人でした。
 1954年、父親が仕事でインドとザンジバルを行き来する生活だったため、彼はインドのムンバイ(当時のボンベイ)で英国式の寄宿学校に入学します。「フレディ」という英語名の愛称は、この時期に学校でつけられたようです。5歳からピアノを習っていた彼は高校時代にバンドを結成し、ロックンロールのヒット曲をカバーしていました。
 1963年にザンジバルが独立し、その際、独立後の暴動を逃れ、その後の混乱を恐れた一家はイギリスに移住します。1966年、フレディはロンドンのイーリング・アート・カレッジに入学。グラフィック・デザイナーを目指しながら、バンド活動を始めます。そんな頃、彼はイギリスにやって来たジミ・ヘンドリックスのライブを見て衝撃を受けます。彼は2週間毎日ジミ・ヘンのライブを追いかけたほど、ジミヘンのギター・サウンドにはまりました。
 1970年、彼はヴォーカリストを探していたスマイルというバンドのメンバーと出会います。なんと彼らは、憧れのミュージシャン、ジミ・ヘンドリックスのバックを務めたこともありました。

<ブライアン・メイ>
 1947年7月19日、ブライアン・ハロルド・メイ Brian Mayは、ロンドンの西ミドルセックス州で生まれました。6歳の時、父親にウクレレを習い始め、7歳でアコースティック・ギターを買ってもらいます。しかし、そのギターは子供用ではなかったため弾きにくく、彼は電気技師だった父親とギターをエレキギターに改造します。その後、本物のギターが欲しくなるものの当時のギターはまだ高額だったため、彼は父親に協力してもらいながら2年がかりで手作りのギターを完成させます。それが、暖炉の縁材などを用いて独特の音が出る彼だけのギター「レッド・スペシャル」でした。いよいよギタリストとしての準備はできましたが、当時、彼の目標はロックのギタリストというよりも、レス・ポールやジャンゴ・ラインハルトのようなインスト系ギタリストで、ロックをバカにしていたようです。しかし、その後、彼のロックに対するイメージを大きく変えるミュージシャンが次々に現れます。エリック・クラプトン、ザ・フー、そしてジミ・ヘンドリックスを生で見て、彼は完全にロックの虜になったのでした。
 17歳になって、彼は初めてバンドを結成。メンバーがみなSF好きだったため、バンド名をジョージ・オーウェルの名作のタイトルからもらい「1984」としました。(理系のインテリっぽい名前です)
 1965年、彼は名門のロンドン大学インペリアル校に入学し天文学を学び始めますが、並行してバンド活動を続けます。そんな中、彼のバンドは大学でライブを行うためにやって来たジミ・ヘンドリックスのバックを前座を務めたこともあったそうです。(ジミ・ヘンの扱いは当時、そんなものだったのです・・・そっちの方が驚きかも)
 その後、1984が解散したため、ブライアンは大学で出会った同じようにロックに熱いロジャーと新バンド「スマイル」を結成します。そして、マーキュリーからレコード・デビューを果たしますが、すぐに解散してしまいます。そこでブライアンとロジャーはバンドを再結成するため、ヴォーカリストを募集します。そこにやって来たのが、彼らと同じようにジミ・ヘンの大ファン、フレディでした。彼が参加してバンドは新たなスタートを切ることになり、新たなバンド名はフレディの提案により「クイーン」と決まりました。

<ロジャー・テイラー>
 1949年7月26日、ロジャー・メドウス・テイラー Roger Taylorは、イングランド東部ノーフォーク州で生まれ、その後、西部のコーンウォールに引っ越しました。8歳の頃、ウクレレを手にした彼は、早くも友達とスキッフル・バンドを結成します。
 1961年、ドラムに興味を持ち始めていた彼は、友人からもらったスネアと父親からプレゼントされたバスドラム、そして自分で買ったシンバルを合わせてドラムセットを完成させます。1963年に始めてバンドを組んだ時は、リズム・ギターを担当しますが、その後はドラムに専念。R&B、ソウルが好きだった彼はヴォーカルを務めることもありましたが、ジミ・ヘンドリックスの登場に衝撃を受けて、ロックへと方向を転換。当時彼にとって憧れのドラマーは、ジミヘンのバックバンドのドラマー、ミッチ・ミッチェルでした。
 1967年、彼はロンドン歯科大学に入学しますが、当初からその目的は歯科医師になることではなく、ロンドンでロックバンドを組んでデビューすることだったようです。そして、1968年、彼はブライアンが大学でバンド・メンバーを募集していることを知り、スマイルに参加します。

<ジョン・ディーコン>
 1951年8月19日、ジョン・リチャード・ディーコン John Deaconは、イングランド中部レスターで生まれました。7歳の時、両親に買ってもらったオモチャのギターを手にしました。11歳の時、新聞配達をしてアコースティック・ギターを購入。父親が亡くなったこともあり、ひとり音楽にのめりこんで行きました。ビートルズやアメリカのソウル、ブリティッシュ・ブルースが好きだった彼は、14歳の時(1965年)初めてバンドにリズム・ギターで参加しましたが、ベースのメンバーが脱退したために、ベースを弾くようになりました。
 1969年、彼はロンドン大学チェルシー校に入学し、電子工学を学び始めます。しかし、音楽活動の楽しさが忘れられなかった彼は、ブライアンとロジャーに出会い、オーディションを経て、1971年にベーシストとしてクイーン4人目のメンバーとなりました。
 参加した時、19歳で最年少だった彼は当初バンドのなかでは目立たない存在でしたが、彼の電子工学の知識は、その後クイーンの活動に生かされることになります。さらにアルバム「オペラ座の夜」の「マイ・ベスト・フレンド」以降、作曲者としてもその才能を発揮することになります。彼が憧れていたベーシストはポール・マッカートニーで、彼の作る曲にもポールのメロディアスでポップなセンス影響を与えているようです。

<クイーンのスタート>
 1972年、クイーンはトライデント・オーディオ・プロダクションと契約を結び、その音楽活動をスタートさせます。全員がジミ・ヘンドリックスのファンという四人のデビュー・アルバムは
1972年11月に録音が完了しますが、その録音において早くも彼らのこだわりが発揮されていました。音のリアリティーにこだわる彼らは、スタジオの構造に納得できず、大幅に中を改造したといいます。そして、1973年7月にやっとデビュー・アルバム「クイーン QWEEN」はEMIレコードから発売されますが、売り上げはぱっとしませんでした。
 ちなみに、僕は彼らのデビュー・アルバムとジョーディーのデビュー・アルバム、どちらを買うかさんざん迷った末、ジョーデイーの方を買ってしまいました。当時、中学生だった僕には2枚買うのは無理だったので、・・・。この選択が失敗だったことは、その後、すぐに明らかになり、未だに後悔しています。(ジョーディーのファンには失礼ですが・・・)

<ミック・ロック Mick Rock>
 この頃、クイーンのメンバーは、バンド・イメージを決定づけることになるカメラマン、ミック・ロックと出会っています。デヴィッド・ボウィルー・リード、ストゥージズ(イギー・ポップ)などのアルバム・ジャケットの写真で有名なカメラマンは、アート・デザイナーでもあったフレディと意気投合し、クイーンのヴィジュアル・イメージを固めてゆきます。その中で、グラム・ロックらしいヴィジュエル系でバイセクシャルなメイクとボディ・スーツ的なフィットする衣装が生まれたのでしょう。
 セカンド・アルバム「クイーンU」のアルバム・ジャケットも彼が担当していて、その写真のイメージはそのまま名曲「ボヘミアン・ラプソディ」のミュージック・ビデオに重要なコンセプトとして生かされることになります。

<「クイーンU」&「シア・ハート・アタック>
 1974年に発売されたアルバム「クイーンU」は、アナログ盤のA面がブライアンによる「ホワイトサイド」で、B面がフレディー中心による「ブラックサイド」となっていて、二人の個性を前面に打ち出した作品だったといえます。
 さらに同年、彼らはサード・アルバム「シア・ハート・アタック Sheer Heart Attack」を発表。このアルバムからのシングル「キラー・クイーン」のヒットにより、いよいよクイーンは世界的なロック・バンドの仲間入りを果たします。「キラー・クイーン」は、イギリスのミュージック・ホール・サウンドを代表するアーティスト、ギルバート&サリバンが好きだったフレディならではの曲で、そこにオペラの要素を加えることで彼らの新たなスタイルが誕生することになります。
 1975年4月、クイーンは初来日を果たします。本国での人気が今ひとつだった彼らは日本で初めてロック・の海外アイドル・スターとしての出迎えを受け、メンバーも驚いたといいます。ただし、それまで日本のロック好き男子の間で高い評価を得ていたクイーンでしたが、この時の来日でロック女子の間でアイドルとなっていることが有名になり、男子ファンがひいてしまったことが思い出されます。その後、彼らは日本発のアイドル・ロック・バンドの先駆と呼ばれることになります。

<「オペラ座の夜」>
 1975年、彼らはプロデューサーに、ロイ・トーマス・ベイカーを迎え、アルバム「オペラ座の夜 A Night at the Opera」を発表します。そのアルバムからのシングル「ボヘミアン・ラプソディ」は世界中を驚かせ、その後20世紀を代表する名曲として高い評価を受けることになります。
 当初、「ボヘミアン・ラプソディ」のオペラ・パートはほんのわずか「ガリレオ・・・」のフレーズしかありませんでした。ところが、その部分にフレディがどんどん歌詞を追加したため、テープは継ぎ足され、曲もどんどん長くなってゆきました。幸いスタジオには、新しく24トラックの・レコーダーが導入されていましたが、楽器のパートだけでも10トラックは使い、全体では24トラックでも到底足りないとわかったため、何度もヴォーカルやコーラスのパートがオーヴァー・ダビングがされ、テープは限界まで重ねて録音されることになりました。
 こうして完成した20世紀を代表する名曲ですが、当初は長すぎるためにシングルカットをレコード会社は認めようとしませんでした。しかし、エルトン・ジョンからの紹介で彼らのマネージャーとなったやり手のジョン・リードは強硬にシングル・カットを主張します。さらにライブ演奏が困難なため、プロモーション用にビデオ・クリップを制作することにします。こうして当時としては画期的なMTV時代の先駆ともいえる作品が誕生することになりました。
 「オペラ座の夜」は、全英アルバム・チャートの1位となり、次なる作品「華麗なるレース A Day at the Races」は、同じ路線を行く第2弾としてセルフ・プロデュース作品として発表されます。
<ボヘミアン・ラプソディー>
 以前NHKBSで放送された「世紀を刻んだ歌2」の「ボヘミアン・ラプソディー殺人事件」を見ましたか?目から鱗が落ちただけでなく、かつてこの曲を初めて聴いた時の感動を、久しぶりに思い出しました。(1975年)
 フレディがアフリカ、ザンジバル(現タンザニア)生まれだったことをは知っていましたが、インドで育って、ロンドンに移住したペルシャ系、それもゾロアスター教の家系だったとは・・・。
 僕はイギリス人に多いエキセントリックな冒険野郎という意味で「ボヘミアン」という言葉を用いていると思っていました。(「アラビアのロレンス」のT.H.ロレンスのように)
 それが、彼自身ボヘミアンそのものの人生を送っていたとは!そのうえ精神的にも、ゲイであるということでボヘミアン的人生を送らねばならなかったし、そこに厳格な宗教観との葛藤もあったというのですから、・・・これはかなり深い。そのことが、歌詞の中にはっきりと記されていることに、改めて驚かされました。(めちゃめちゃな歌詞と思われていた部分にも、やはりフレディーならではの計算が成されていたです。凄い!)
 そして、この曲がイギリスのTV番組主催の「世紀を代表する名曲」ランキング第1位に輝いたというのですから、さらに驚きです。(なんと第2位は、ジョンの歴史的名曲「イマジン」です)やっぱりイギリス人って、ちょっと変わっていると、妙に納得させられました。超保守的な国であるが故に、逆にそこから異端のヒーローを生み出し続けてきたイギリス。この曲は、そんなエキセントリックな国、イギリスを最もよく象徴している曲なのかもしれません。
 複雑な構造をもち、謎に満ちた歌詞をもちながら・・・誰が歌っても気持ちよい不思議な名曲。それはクイーンを代表する曲であると同時に、イギリスを代表する曲になっていたということなのです。(考えてみると、単純なるが故に、永遠に歌い続けられるであろう「イマジン」とは、まったく好対照の曲です)・・・今にして思えばバンド名の「クイーン」とは、よくぞつけたりです。

<ボヘミアンとは?>「サザビーズで朝食を」フィリップ・フック著より)(追記2017年8月)
 ボヘミアンの語源である「ボヘミアニズム」とは「自由奔放主義」のこと。19世紀のヨーロッパにロマン主義運動の高まりと共に生まれました。
「当時のアーティストには、『苦悩する英雄』、ジプシーのような生活を送るという意味での『ボヘミアン』といった役割が与えられていた。放浪生活、あるいは規範に従わない自由な生活を送る人ということだ。・・・」
 一般には、1843年に「ボヘミアンの生活の情景 La Vie de Boheme」を書いたフランスの小説家アンリ・ミュルジュールが「ボヘミアン」という世界を生み出した功績者と考えられている。ミュルジュールは、このボヘミアのある場所を、常にパリのカルチェラタンを中心とする一帯としており、「それはパリのみにしか存在せず、パリ以外には存在しえない」と断言していた。
「髪を長く伸ばし、茶色のビロードのスーツか、街の女たちのような奇妙なトーガ状の衣を身に着けて、ひらひらとした蝶ネクタイを締めているわ - 全体として、かなり目を引く一群よ」
ドイツの画家パウラ・モーダーゾーン=ベッカー
 その後、ボヘミアンは、第一次世界大戦のベルリンや1960年代のニューヨークにもボヘミアンは現れています。

<「世界に捧ぐ」>
 1977年、彼らはオペラとロックの融合から脱し、新なスタイルを目指したアルバム「世界に捧ぐ News of the World」を発表します。このアルバムの録音中、同じスタジオではセックス・ピストルズが録音を行っていて、彼らのぶっ飛びぶりにメンバーを驚いたといいます。その時、パンクの時代は扉の向こうの隣のスタジオにまで迫って来ていたわけです。そんな逸話から「世界に捧ぐ」には、パンクの影響があったとも言われますが、実際はアメリカ市場を意識し、ライブでの演奏が可能な曲を選んだ作品集だったのだと思います。そして生まれたのが、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」、「伝説のチャンピオン」などの名曲でした。歌いやすく、覚えやすく、インパクトのある曲は、国境を越え、時代を越えて、歌われるロング・セラーとなりました。

<人気の頂点と内紛>
 クイーンの人気はいよいよピークに達しますが、収入と人気の高まりはバンド内に音楽的な方向性とお金の分配についてもめごとをもたらし、バンドに危機をもたらす原因となります。そんな状況の中、彼らは1978年にアルバム「ジャズ JAZZ」を発表。
 続いてバンド内での喧嘩が絶えない中、彼らはよりアメリカ志向のアルバム「ザ・ゲーム The Game」を発表します。それまで使用してこなかったシンセサイザーの導入やシンプルなポップ路線の追及は、従来のクイーン・ファンには批判的に受けとめられ、「クイーンは終わった」などと批判されました。しかし、皮肉なことに、このアルバムはアメリカを中心に大ヒットすることになりました。シングルカットされた「愛という名の欲望」と「地獄に道づれ」が連続してアメリカでナンバー1となり、それまでの記録を塗り替えたのです。
 なお「地獄に道づれ」はジョン・ディーコンによる曲で初のナンバー1ヒットなり、ソングライターとしてジョンの実力が発揮されたのが、この時期だったといえます。1984年にはロジャーが書いた「レディオ・ガガ Radio Ga Ga」が大ヒットし、クイーンの4人がそれぞれソロとしてもやって行ける状況となり、逆にそれが解散の可能性を高めることになります。しかし、バンドの状況はここから急激に下り坂に向かうことになります。
 ちなみに、「地獄に道づれ Another One Bire The Dust」のシングルカットは当初、予定にありませんでした。それはこの曲がロックというよりもファンクに近い曲でクイーンらしくないからでした。それに曲を作ったのもフレディでもブライアンでもなくジョン・ディーコンだったこともありそうです。ところが、彼らの「ザ・ゲーム・ツアー」を見に来たクイーンの大ファンだったマイケル・ジャクソンが絶対シングルカットするべきだと主張。それがシングルカットのきっけかになったとも言われています。

<人気の下降と復活>
 彼らが音楽を担当した映画「フラッシュ・ゴードン」が映画ともども失敗。さらにフレディがゲイであることを隠さなくなり、そのために大衆的に人気が急落し始めます。胸毛丸出しのファッションも悪趣味だと思われていましたが・・・それだけではすまなくなってきたのです。当時は、「ゲイ」であることをカミング・アウトするなどあり得ないことで、同性愛者であることは秘密にしなかればなりませんでした。それが可能になるのは、まだまだ先のことでした。(1990年代)
 こうしてクイーンの人気は急激に下降しますが、そんな彼らの人気が逆に高まった地域もありました。特に南米ではロックフェスティバルへの出演などによりクイーンの人気は非常に高くなっていました。日本と同じく言語が違うにもかかわらず、南米でも彼らの人気が高いのは、やはり彼らの曲における歌詞のシンプルさとインパクトの強さなどのおかげでしょう。ところがそんな海外での人気も、南アフリカとなると話は違ってきました。
 1984年、彼らは当時アパルトヘイトへの批判が高まっていた中、南アフリカの娯楽施設サン・シティーでコンサートを7回にわたり行いました。多くのアーティストたちが南アでのライブを拒否していただけにクイーンへの批判は避けられませんでした。そんな彼らに反アパルトヘイトを主張した曲「サン・シティー」をプロデュースしたボブ・ゲルドフから、「ライブ・エイド」への誘いがきます。それを断る理由はありませんでした。
 彼らに与えられた「ライブ・エイド」での時間は17分。ヒットメドレーを詰め込んだこの時のパフォーマンスは、世界中にクイーンの実力を再認識させることになりました。その勢いを受けて行われた1986年のヨーロッパ・ツアーは大盛況となり、彼らにとって初めて黒字のツアーになったといいます。
 彼らはそれまでの課題だったライブ・バンドとしての成功もついに果たしたのです。しかし、残念なことにクイーンの新たな時代は長くは続きませんでした。

<フレディ’ズ・デッド>
 1987年、ロジャー、ジョン、ブライアンはフレディがエイズに感染していること、発病し危機的状況にあることを知らされます。当時、エイズはまったく未知の病で、治療法もなく感染することは「死」を意味しているといえました。そのうえ、エイズは同性愛者がかかる病であるとされ、死ぬまでエイズに感染していることは発表しないのが普通でした。(1983年にミュージシャンのクラウス・ノミが39歳の若さで急死し、その原因がエイズであったことがその死後、明らかにされています。その頃から、エイズは世界中に知られるようになりました)そのため、メンバーはフレディとの活動がもう長くは続けられないことを覚悟。再びバンドはひとつになり最後の活動に望むことになります。
 1989年、アルバム「ザ・ミラクル The Miracle」発表。1991年、後期の最高傑作とも言われるアルバム「イニュエンドゥ INNUENDO」を発表。どちらのアルバムも売り上げはぱっとしなかったのですが、これらのアルバムの曲のクレジットは初めてクイーン名義となり、全員が曲つくりに参加していたこと、バンドが一丸となっていたことが示されています。
 1991年、症状が悪化したことから、ついにフレディは自分がエイズに感染していたことを公に発表。その翌日、11月24日にこの世を去りました。衝撃的なフレディの死によりバンドは活動休止状態となり、クイーンはそのまま解散かと誰もが思いました。

<クイーン復活>
 活動休止状態のクイーンには、フレディによるアルバム一枚分のヴォーカル録音済みトラックが残されていました。その曲を元に、1995年クイーンは最後のオリジナル・アルバム「メイド・イン・ヘヴン Made In Heaven」を発表します。「イッツ・ア・ビューティフル・デイ」、「アイ・ワズ・ボーン・トゥ・ラブ・ユー」、「ウィンターズ・テイル」など名曲を収めたこのアルバムは、全世界で700万枚を越える大ヒットとなりました。
 こうして、フレディ亡き後、再びクイーンの人気が復活、いよいよクイーンは伝説のバンドとなります。世界各地のスポーツ・イベントが開催されるたびに、「伝説のチャンピオン We are the Champion」がそのテーマ曲として使用され、今やクイーンの知名度はビートルズをも越えたかもしれません。
 20世紀を代表するポップ・ミュージシャンとして、彼らの存在は、ビートルズ、ボブ・ディラン、エルヴィス・プレスリー、ジェームス・ブラウンらの存在に迫りつつあります。

<例えて言うと>
 彼らの音楽スタイルの変化を、こう例えたらどうでしょうか?
 イギリスの正統派舞台劇俳優が、憧れのオペラ歌手になるためイタリアへ移住、しかし、より世界的に認められることを望んだ彼は、ミュージカルの本場、ブロードウェイを目指します。しかし、ある日彼は、同じニューヨークのマジソン・スクェアガーデンのリングに立つ「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノが腰に巻くWWFの世界チャンピオン・ベルトの輝きに魅せられてしまい、プロレスラーになり、ついに念願の世界チャンピオンの座についたのでした。彼のリング衣装はそれはもう豪華なものだったとか。だって、彼こそゲイとしては、初めての世界チャンピオンだったのですから!
 
<ドラマチックさの裏に>
 そんなわけで、僕はクィーンのサウンドを、勝手に「ドラマチック・ロック」なんて呼んでみたりもしたのですが、彼らクィーンのメンバーは、そんな音楽とは対照的にかなり「クール」な人々でした。
 天文学というよりは、占星術に凝り、ハンドメイドであの独特の音色をもつ伝説のギターを作り上げた職人並の技術も持つギタリストのブライアン・メイ
 電子工学を専攻し、バンドの高度な音楽づくりに多大な貢献をしたベーシストのジョン・ディーコン
 生物学と歯科を専攻した医者になりたかった男、ロジャー・テイラー。(実は、バンド活動をするためにロンドンの大学に入学しのが、その進学理由だったようですが・・・)
 その中で、当時英国領だったアフリカのザンジバルに生まれ、インドで少年時代を過ごし、後にエイズからきたカリニ肺炎によりこの世を去ったボーカルのフレディ・マーキュリーだけが、唯一、アート・スクール出の芸術家タイプの人間だったようです。(そして、彼はどうやらゲイであるというより、バイセクシャルだったようです)
  そう考えてみると、彼らのドラマチックなサウンドの裏には、計算し尽くされた完璧なサウンド・プロダクションがあったことに気づかされます。実際、彼らはその頃のバンドにしては珍しく、3作目のアルバムから自らプロデュースを手がけています。(ちなみに、この頃登場したボストンは、彼らよりもさらに計算されたサウンド・プロダクションを売り物にしていました。ただし、やりすぎの感もありました。彼らの完ぺきな演奏を再現しただけのライブは正直つまらなかった)
 彼らは、自分たちのやりたいことを正確に把握していて、それを順番に実施していたのかもしれません。問題はあまりにも凝りすぎたがゆえに、その音楽をライブで表現することが困難になってしまったことです。それが彼らにとって、ひとつの壁となったのだ思います。80年代に入って、彼らの勢いが急激に落ちたのは、そのせいもあったのでしょう。

<僕にとっての女王陛下の魅力>
 僕にとって、最もクィーンが魅力的だったのは、デビューから「キラー・クィーン」「オペラ座の夜」発表のあたりでした。あの頃のクィーンは、まだその正体が謎に満ちていて、次にどんなサウンドを聴かせてくれるのか、スリリングだったし、楽しみでもありました。その後、少しずつネタが割れてきたわけですが、だからといって、彼らのサウンドが古くさくならないのは、やはり彼らが、自分たちの目指すサウンドを、きっちりと作り上げてきたからでしょう。それは、プロレスをスポーツとしてだけではなく、エンターテイメントとしても素直に楽しむことと似ているかもしれません。
 彼らの大ヒット曲「ウィー・ウィル・ロック・ユー」「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」は、「大衆芸能」としてのロックが生んだ代表的な作品として、間違いなく延々と聴かれ続けるでしょう。天国のフレディ・マーキュリーにとっては、それがなによりの供養になるに違いありません。

<締めのお言葉>
「リーバイ・ストラウスには嫉妬してしまう。僕もブルー・ジーンズのようなものを何か作りたい…それによって僕が思い出されるような何かを」 アンディ・ウォーホル

<追記:21世紀のクイーン>
 ロジャー作のヒット曲「RADIO GA GA」から、21世紀の歌姫レディー・ガガの名前が誕生したわけですが、彼女の一歩間違うと悪趣味このうえないファッションもまた、フレディの胸毛出しまくりのステージ衣装の遺伝子を受け継いでいるのかもしれません。
 ポップ、ロックからジャズまで、多彩な歌を歌う21世紀を代表するエンターテナー、レディーガガは、「21世紀のクイーン」なのかもしれません。

<参考>
「Queen クイーン伝説のチャンピオン」
KAWADE夢ムック 2003年
(編)阿部晴政
河出書房新社

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