- ルドルフ・ヴァレンチノ Rudolph Valentino -

<究極の二枚目俳優>
 ルドルフ・ヴァレンチノという俳優の名は、映画史の中ではあまり語られない存在になりつつあるかもしれません。それは、彼がサイレント映画時代の俳優で、映画史に残る出演作があるというわけではないからかもしれません。
 しかし、1926年8月26日、31歳の若さで彼がこの世を去った後、少なくとも6人の女性が後追い自殺をとげるほど彼の人気は異常なほどでした。その意味では、彼こそ世界初のカリスマ俳優であり、男性初のセックス・シンボルだったようです。
 それだけの存在ですから、過去には彼の伝記映画も製作されています。1951年の「ヴァレンチノ物語」(アンソニー・デクスター主演)と1971年の「バレンチノ」(ルドルフ・ヌレエフ主演)が有名です。ただし、どちらも成功作とはいえないようです。(1971年の「バレンチノ」は僕も映画館で見ましたが、正直いまひとつでした)その原因は、もしかするとバレンチノを演じる魅力的な俳優に恵まれなかったからかもしれません。当時の写真で見ると、ヴァレンチノはとにかく二枚目俳優ですが、ゲイだったといわれるだけあって色白で色気のある美しい顔立ちです。彼に匹敵する美しく色気のある俳優は、現代にいるだろうか?そう思って、僕は映画俳優の名鑑をパラパラとめくってみました。しかし、ジェラール・フィリップ、アラン・ドロン、ビヨルン・アンドレセン・・・ぐらいしか出てきませんでした。考えてみると個性的な俳優、男臭い俳優ならいくらでもいますが、バレンチノのような色気のある俳優で正統派の二枚目俳優は最近ではなかなかいないものです。
 超美男子なだけでなく、彼は踊りの名手で、あの世界的なバレー・ダンサー、ニジンスキーにタンゴの踊り方を教えたとも言われています。どれだけ彼がもてたことか?彼の死後50年後ぐらいまでは、毎年彼の命日には墓に花をたむける謎の女性たちがいたそうです。そんな映画史に残る伝説的俳優、ルドルフ・ヴァレンチノとはいかなる人物だったのでしょうか?

<アメリカへの逃亡>
 ルドルフ・ヴァレンチノ Rudolph Valentino は、本名をルドルフォ・アルフォンゾ・ラファエロ・ピエロ・フィリベルト・グリエルミィ・ディ・ヴァレンティナ・ダントノオラといい、1895年5月6日南イタリアのカステラーネに生まれています。父親はイタリア人の軍人で、母親はフランス人でした。(やはり美男美女は混血から生まれるもののようです!)
 父親の影響もあり、彼は軍人になるためタラント軍属学校に通いますが、軍隊の規律を嫌って悪さを繰り返したために退学させられてしまいます。その後、彼は農家で住み込みで働き始めますが、そこで住み込み先の農家のお金を使い込んでしまいます。結局、彼は故郷にいられなくなり、家を出て逃げるようにアメリカに渡ったのでした。
 歴史を振り返るとき、アメリカに渡った移住者の中に、こうした犯罪者が多くいたのは事実です。昔、オーストラリアは島流しにされた犯罪者の国と言われていましたが、アメリカもまたそうした犯罪者によって支えられた国のひとつだったといえるかもしれません。

<モテモテのダンサー>
 イタリアから身体ひとつで逃げ出したヴァレンチノですが、幸いなことに彼には人並みはずれた美貌と素晴しいダンスのテクニックがありました。多くの移民たちと共にニューヨークにたどりついた彼は、まずはダンス・ホールで働き始めます。すると、すぐに店の人気者となります。特にセレブな女性たちからはモテモテで、彼はダンスの相手だけでなく男妾として稼ぎ頭になってゆきました。ただし、元々遊び人だった彼はその稼ぎを酒や薬物などに注ぎ込み、ヤクザとの付き合いから再び犯罪にも関わるようになります。そしてまたもやニューヨークの街に居られなくなった彼は、今度はアメリカ国内で逃亡しなければならなくなります。そこで彼は踊りの実力を生かしてミュージカルの地方巡業に紛れ込み、西へ西へと旅を続け、ついに映画の都ハリウッドにたどりつきました。

<映画の都ハリウッドにて>
 ダンスの腕前は映画の都ですぐに役立ちます。当初は、ミュージカル映画の中のその他大勢として踊っていましたが、すぐにその美貌とダンスが目立つようになり、しだいにいい役がつくようになります。そして、彼の魅力にほれ込んだ女流脚本家のジューン・マティスが彼を映画「黙示録の四騎士」(1921年)の主役に推薦。その大役を得たことから彼の大活躍が始まることになります。多くの映画俳優がマッチョなイメージで人気を獲得していた中、彼は男臭さとは異なる中性的な色気を武器に女性たちの心をわし掴みにしてゆきます。当時、好景気にわく絶頂期にあったアメリカでは、キャリア・ウーマンの先駆ともいえる働く女性たちが急増しており、そうした女性たちのためのヒーローにピッタリの存在が彼だったといえます。こうして、世界初の男性セックス・シンボル俳優、ルドルフ・ヴァレンチノの時代が始まることになったわけです。

<サイレント映画伝説のスター誕生>
 当時はまだサイレント映画しかなかったこともあり、セリフのない俳優たちにとって「顔」は最大の武器だったともいえます。どことなくエキゾチックで中東的な顔の彼は、映画において、その特徴を生かした役を次々に演じることになりました。
「シーク」(1922年)のアラブ人酋長。「血と砂」(1923年)の闘牛士。「情熱の悪鬼」(1923年)のメキシコ人青年。「ボーケル」(1924年)のフランスの宮廷理髪師。「荒鷲」(1925年)のロシア貴族。「熱砂の舞」(1926年)のアラブの王子・・・どの役も異国の色男ばかりでした。
 こうして西部劇のガンマンや現代劇のサラリーマンなどを演じなかったことが、彼のイメージをよりカリスマ的な存在にしたともいえます。それまでの俳優たちが冒険活劇や西部劇の英雄だったのに対し、彼は異国を舞台にしたラブ・ストーリーの主役として男性ではなく女性のためのアイドルになっていったのでした。

<男性たちからのやっかみ>
 人気ナンバー1の俳優になった彼ですが、逆に男性たちからのやっかみがしだいに明らかになり始めます。マスコミによる同性愛疑惑記事はその代表的なものでした。
 彼が最初に結婚した妻が、結婚後すぐに彼のもとを去ったことから、それは彼が同性愛者であることを知った妻が逃げ出したからではないかと疑われたことがきっかけでした。現在と違い、当時は同性愛は法律的にも、社会的にも、道徳的にも許されていなかったため、このスキャンダルは彼にとって致命的となる可能性もありました。
 そこで彼は、彼のことを「白粉を塗ったオカマ」と書いたタブロイド紙の記者に対し、ボクシングによる決闘を申し込みます。(当時、最も男らしい格闘系スポーツといえば、文句なしにボクシングでした)ダンサーである彼にとって、この闘いは明らかに不利でしたが、そこを持ち前の身のこなしとスピードでカバーした彼は見事に勝利をおさめました。その後、彼は別の新聞記者と飲酒対決も行い、それにも勝利しています。
 しかし、こうした男らしさを証明するための闘いやそれまでの薬物やアルコールに溺れる生活は、彼の身体を確実に崩壊へと導いていました。この時、彼の身体はもうボロボロで余命はわずかしか残されていませんでした。結局彼はサイレント映画の時代が終わるまで生きることができませんでした。1926年8月26日、その時彼はまだ31歳だったのですから、まだまだ先はあったはずです。世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」の公開は、彼の死んだ翌年1927年のことです。
 トーキーの時代まで生きていたら、彼はどんな声でしゃべったのか?
 それとも、性格や育った環境からすると、俳優として成功することは厳しかったか?
 サイレント映画とともに消えたからこそ、彼は伝説になりえたのか?
 様々な謎を残したまま、不世出の美男俳優はこの世を去りました。

<追記>2015年4月
「相手をかき抱き目を輝かせ指を女の背中の肉に食いこませ、その女のひき伏せ女をのけぞらせたポーズで接吻する」
淀川長治「映画千夜一夜」より

「伝統的なアメリカ人の行動様式にかわるものとして、映画の観客が最もはっきりと求めたものは、情熱的な行動だった。・・・食品産業がラテン・アメリカにバナナを求めたように、映画産業も情熱の供給源をヨーロッパに求めたのである」
ロバート・スクワラー「映画がつくったアメリカ」より

「どこか悲しいような男だった。はなやかな成功につつまれていたわけだが、むしろそれに殺されかかっているようにすら見えた。聡明で、ものしずかで、思い上がった様子などはみじんもない。女にはずいぶん魅力があったらしいが、それにもかかわらず、女たちとの関係はどれもあまりうまくいかなかったのではないか。妻にした女たちからも、かなり冷たくあしらわれた。・・・」
「チャップリン自伝」より

<参考>
映画「バレンチノ Nureyev is Valentino」(1977年)
(監)(脚)ケン・ラッセル Kenn Russell
(製)アーウィン・ウィンクラー Irwin Winkler、ロバート・チャートフ Robert Chartoff
(脚)マルディク・マーチン Mardik Martin
(撮)ピーター・サスチッキー Peter Suschitsky
(振)ジリアン・グレゴリー Gillian Gregory
(美)フィリップ・ハンソン
(音)ファーディ・グロフェ、スタンリー・ブラック
(出)ルドルフ・ヌレエフ Rudolf Nureyev、レスリー・キャロン Leslie Caron、ミシェル・フィリップス Michelle Phillips、キャロル・ケーン Carol Kane、フェリシティ・ケンドール Felicity Kendol 

  

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