- イツハク・ラビン Yitzhak Rabin -
<中東問題改善の立役者>
21世紀に入ってもなお、イスラエルとパレスチナとの対立は悪化することはあっても改善する兆しはありません。1948年にイスラエル共和国が誕生して以来、中東問題が改善したのはほんのわずかの期間だけでした。そのひとつが、1993年の和平合意調印の時期でした。
なぜ、あの時、あそこまで和平に向かう動きが可能になったのか?和平を実現した二人の政治家、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長とイスラエルのラビン首相の存在なくして、それは可能にはならなかったと思えます。残念ながら、ラビン首相の暗殺によって和平へのプロセスが崩壊してしまったことからも、そのことはわかります。でも、二人の人間によって可能になったのだとしたら、その再現が不可能ではないということでもあります。
アラファト議長については、その構成的な風貌や人懐っこい人柄から和平への調整役にぴったりだったことは予想できます。(世界一周の旅の途中にナオト・イン・ティライミが彼に飛び込みであった話は有名です)しかし、アラファト議長に比べて、イスラエル側のトップにいたラビンという人物について、僕は何も知りませんでした。
彼について、僕も含め多くの人が持っていたのは、あの有名な「エンテべ空港占拠事件」の際、特殊部隊の突入を指示して強硬解決させた右派政治家としてのイメージです。なぜ彼が?
<エンテべ空港占拠事件>
1976年、テルアビブ空港発の旅客機がハイジャックされ、ウガンダのエンテべ空港に着陸させられます。そのままハイジャック犯は、空港ビルに立てこもります。乗客を人質にとった犯人グループは、当時世界各地でテロ事件を起こしていたパレスチナ・ゲリラで、彼らは世界各地で服役中のゲリラ50名の解放を要求します。しかし、その要求を飲めば、同じような事件がまた起きる可能性が高まるのは明らかでした。そのため当時首相に就任したばかりのラビンは、特殊部隊による強行作戦を指示します。
エンテベ空港を建設したのが偶然イスラエルの企業だったため、空港の図面を入手。特殊部隊が乗る輸送機を、イギリスから到着した貨物機の後ろに隠れさせて着陸に成功。その後、一気に部隊を空港ビルに突入させます。この強硬作戦は、幸い人質の被害が3人で済み、見事の空港と人質の奪回に成功しました。(この作戦は事件の半年後「エンテべの勝利」として映画化されています)
作戦は成功したものの、人命を優先するべきという世論は、イスラエルの強硬作戦を批判し、ラビンという人物には右派政治家というイメージが定着することになりました。そのラビン首相がPLOトップのアラファト議長と握手して、和平を前進させることになるとは・・・
<イツハク・ラビン>
イツハク・ラビン Yitzhak Rabin は、イギリスがパレスチナの地を委任統治領とした1922年にエルサレムで生まれています。父親はロシアから移民してきた電気工でしたが、英国からの独立を目指すグループ「ハガナー」のメンバーでした。彼はそんな右派軍事グループに属する父親の血を受け継いでいました。
彼は1937年農業学校に入学し、治水技術者を目指すつもりでした。ところが、第二次世界大戦が始まると学校は閉鎖され、彼は独立に向けた動きを始めたハガナーの突撃隊に入隊し、軍人の道を歩み始めました。
1948年、イスラエル共和国が誕生すると、すぐに第一次中東戦争が勃発。26歳になった彼は、物資を輸送する作戦の司令官として活躍します。
1967年、第三次中東戦争の際には、軍の参謀総長を務め、彼はイスラエル軍を勝利に導き、東エルサレム、シナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラン高原などの占領地を獲得しました。
1974年、彼は軍を離れて駐米大使を務めた後、国会議員に当選。すぐに首相に任命され、その2年後にエンテべ空港での事件を迎えることになったのでした。
事件後、政界のスキャンダルに巻き込まれて辞任に追い込まれますが、1984年再び彼は内閣に国防相として参加します。
<危機的状況改善に向けて>
1984年、イスラエルとパレスチナの対立は深まり、占領地パレスチナでの住民との衝突にイスラエルは武力によって攻撃するわけにもゆかず困っていました。なんとか対立を収める方法はないのか?
1988年、ラビン国防相はショムロン参謀総長と二人でテルアビブ大学に出かけ、三人の歴史学者から「百年間の暴動史」というテーマの特別講義を受けます。世界各地の民族対立や独立運動の歴史を学ぶことで、中東問題における解決の糸口を探るのがその目的でした。しかし、こうした歴史を学ぶ中で、支配者側が被支配者を暴力によって抑え込むことはけっして成功した例はないことを知ることになりました。授業の後、ラビンは帰り道の車の中で、結局、話し合いをするしかないということだな・・・と話していたといいます。
1991年に始まった湾岸戦争が終わり、1992年、彼は再び首相に任命されます。そして、彼は以前から考えていた和平に向けた話し合いを行うことを決意します。
<歴史的和平実現へ>
1993年9月、アメリカのホワイトハウスにおいて、PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相は握手を交わし、パレスチナの和平に向けた合意案に調印します。
1994年、歴史的な和平への一歩を踏み出した、二人の指導者にノーベル平和賞が送られますが、それは数あるノーベル平和賞の中でも十分に価値のある受賞だったと思います。(最近のオバマ大統領の受賞や過去の佐藤栄作総理大臣の受賞など「?」の受賞は多いのですが・・・)
残念なことに、その価値の高さは翌1995年、テルアビブで開かれた平和集会でラビン首相が暗殺された事件で証明されることになりました。その暗殺の実行犯はパレスチナ人ではなく、イスラエルの右派青年という同胞の一人でした。そんなPLOに恨みをもつ右派の青年にとって、パレスチナを認め、和平を進めることは絶対に許せないことだったのです。
ラビンの死後、翌年首相には右派のベンヤミン・ネタニヤフが就任し、和平のプロセスは再びストップしてしまいました。そして、現在に至るまで、中東情勢は不安定なまま一進一退を繰り返し、好転しているようには見えません。
それでも、かつてラビンが歴史を学ぶ中で、和平しか道はないと感じたように、イスラエルとパレスチナ双方で歴史を学ぶ動きが拡がり、「あの時、ラビンとアラファトにできたことは今でも可能なはず・・・」という認識が広がることを期待します。どんなに時間がかかっても、少しずつでも前に進めばいつか・・・。
<参考>
「100人の二十世紀(下)」 2000年
(編)朝日新聞
(出)朝日新聞社