「環境保護の女神」

- レイチェル・カーソン Rachel Carson -

<海を愛した人>
 実は僕は海が大好きです。まあ、たいていの人は海が好きだというかもしれませんが、僕の場合は人一倍海を愛しているつもりです。
 かつて、本気でスキューバ・ダイビングのインストラクターになろうと、月に二回は伊豆の海にかよっていた時期がありました。(ついでながら、うちの奥さんとはダイビングで知り合いました)
 北海道に帰ってきてからは、シーカヤックにはまり小樽近郊の海を制覇、カヤックによるホエール・ウォッチング・ツアーに参加するためアラスカまで行ってきたこともあります。
 二人の息子たちの名前は、長男が拓海(タクミ)で次男が和海(カズミ)です。
 海外旅行も、海の近くを旅するのが好きで、イスタンブールではボスボラス海峡でスキン・ダイビングをしました。船旅も好きで、船でモロッコからスペインへと渡ったこともあります。新婚旅行で行ったヴェネチアでもあえて船に乗ってリド島のホテルに泊まりました。
 もちろん海に関する本を読むのも好きで、海洋地理学の本など学術的なものから「白鯨」などの海洋小説までいろいろと読みまくっています。
 当然のことながら、自分が海が好きだからこそ、「海を愛する人」には人一倍愛情を感じます。その反対に「海を破壊する人」には異常なほど怒りをおぼえます。
 と言っても最近はすっかり海にご無沙汰しており、全然大きなことは言えなくなっているのですが、・・・。
 そんな僕が「海を愛する人」として文句なしに尊敬する偉大な人、それがレイチェル・カーソン女史です。

<海を愛し、地球と生命を愛した人>
 もちろん彼女は海だけを愛していたわけではなく、海も含めた地球とそこに住む生命すべてを愛していたと言うべきかもしれません。そして、その愛情が20世紀における最も重要な文学作品のひとつ「沈黙の春」を生み出すことになったのです。
 しかし、一般的にはあまり知られていませんが、「沈黙の春」の前に発表されている海についての作品「われらをめぐる海」と「海辺」の成功なくして「沈黙の春」の出版はありえませんでした。
 そして、僕自身彼女の前記2作品を読んだからこそ、その文章の美しさと海への愛の深さに気づかされ、彼女のファンになってしまったのです。「沈黙の春」は確かに傑作ですが、文学作品としては前記2作品の方が優れているかもしれません。

<文学作品としての「沈黙の春」>
 とは言え、時代の流れを変えたダーウィンの「進化論」以来の革命的書物「沈黙の春」は、「エコロジー」「環境破壊」などの言葉を、初めて一般大衆に広めた優れた啓蒙の書であると同時に、海とその海が育んだ地球上のすべての生命に捧げられた「愛の詩」でもあります。その証拠に、ほとんどの科学書が時代の流れとともにその価値を失っているにも関わらず、「沈黙の春」は発表されて40年が過ぎた今でも多くの人々に読まれ続けています。それは、科学の専門書であるよりも、社会問題についての抗議の書であるよりも、生命を主役として事実に基づいて書かれた優れた文学作品と呼ぶべきものだからなのです。

<豊かな自然との出会い>
 レイチェル・カーソン(正式にはレイチェル・ルイーズ・カーソン)は、1907年5月27日ペンシルヴァニア州スプリングデールに生まれました。彼女の父親は農場を営んでいて、そこで彼女は豊かな大自然に親しみながら育ちました。しかし、そんな彼女が自然を愛するようになったのは、父親ではなく母親の影響によるものでした。
 彼女の母親カーソン・マクリーンは、長老派教会の牧師の娘として生まれ、神学校を卒業後、結婚するまでの間、教師をしていました。そんな母親の元で読書に熱中していた彼女はいつしか作家を志すようになり、10歳の時には子供向け雑誌に作品が掲載され、その後もいろいろな出版社に寄稿を続けました。しかし、厳格な教育を受けていた母親の影響から、彼女はベストセラー作家になってお金を稼ごうという考えはなく、学校でもあらゆる知識の吸収に熱中していました。

<生物学との出会い>
 こうして彼女は地元のペンシルヴァニア女子大学に進み、そこで作家になるため英文学を専攻します。しかし、必修科目となっていた生物学の授業に魅せられた彼女は、悩み抜いた末途中で方向を転換。生物学者になる道を歩み始めます。そのためジョンズ・ホプキンス大学に移った彼女は、そこで遺伝学を学び、卒業後は同大学やメリーランド大学で非常勤講師の職を得ます。

<海との出会い>
 しかし、1935年父親が急死。その翌年には彼女の姉が亡くなり、彼女と母親は姉の娘二人を引き取ることなります。そのために急にお金が必要になった彼女は、しかたなくワシントンにある政府の漁業局に就職し、そこで漁業者向けのプロモーション用ラジオ番組「海のロマンス」の制作にあたります。その後、彼女は正式に水産局の水産生物学者として採用され、本格的に海と関わるようになってゆきました。

<作家活動のきっかけ>
 ある時、彼女は新しいラジオ番組のための原稿を書き、上司の生物課長エルマー・ヒギンズに提出しました。すると彼は、その原稿を採用しようとせず、彼女に科学雑誌「アトランティック」に投稿してみるよう奨めます。そして、これが彼女を作家の道へと進ませる大きなきっかけとなりました。

「海を本当にわかっている人はいるのだろうか。・・・海の生物の棲む水の世界の感覚をつかむためには、我々は長さや広さ、時間や空間に対する人間的な感覚を捨て去り、水ばかりが満ちている世界へと入り込んでゆかなければならない。・・・」
短編「海の中」より

<作家デビューのきっかけ>
 彼女の短編作品「海の中」は、こうして世に出ることになったのですが、さらにこの作品は彼女にとって次なるステップへのきっかけを生むことになります。
 この短編を読んだ二人の人物が彼女に是非長編作品を書くようにと、手紙を書いてよこしたのです。一人は、ジャーナリストで出版社の編集長でもあったクインシイ・ホウ。もう一人は、「人類の歴史」で有名なノン・フィクション作家ヘンドリック・ウィレム・ヴァン・ルーンでした。二人の強いすすめで、彼女は処女長編となる単行本「潮風の下に」を書き上げ、1941年に発表します。

<太平洋戦争の影響>
 しかし残念なことに、この作品は発表当時ほとんど注目を集めることはありませんでした。、もちろんそれは恋愛小説でも、推理小説でもない、海についての科学エッセイだったのですから、初めからベスト・セラーなど夢のまた夢だったのかもしれません。そのうえ、彼女にとって不運なことに、この作品が発表されてすぐアメリカは太平洋戦争に突入してしまい世間の目は、遙か彼方太平洋の向こうに向いてしまっていたのです。
 さらに戦争の影響は、彼女の仕事にも及びました。男性たちの多くが戦場に向かったため、彼女の職場「魚類・野生生物局」での立場は、より重要なものになってきました。(彼女は海洋軍事作戦における海流の影響についての会議にも出席しています)こうして、彼女は自然保護に関するパンフレットの作成について、企画から文章、装丁などのデザインまでをすべて任されるようになってゆきました。

<「われらをめぐる海」>
 しかし、彼女はそんな忙しさの合間をぬうように、次作の準備を進めていました。そして、1950年長編第2作「われらをめぐる海」を完成させます。この作品は、前作と違い発売と同時に多くの雑誌などで取り上げられ、あっという間にベスト・セラーの仲間入りを果たします。ついに彼女に成功の時が巡ってきたのです。

「大洋の島々の悲劇は、そこで長い年月の間にゆっくりと進化してきた生物の種類が、独特でかけがえのないということにある。理性的な世界においては、人間はこれらの島々を大切な財産として、創造主の美しく奇抜な作品に満たされた自然の博物館として、そしてまた世界のどこにも同一人物が得られない。金銭的価値を超えたものとして扱うべきであった。・・・」
「われらをめぐる海」より

<「海辺」>
 この作品の成功により彼女は重要なものを二つ得ることができました。
 そのひとつは公務員の職を辞め作家に専念できるようになったこと。そして、もうひとつは彼女にとっての長年の夢、海辺に立つ別荘をもつことができたことです。それは東海岸の北部メイン州のウエスト・サウスポートの海辺に建てられ、そこを中心に彼女の新たな作品「海辺」が書かれることになります。

「渚は不思議な美しいところである。地球の長い歴史を通じて、そこには不安定な地域であった。波は陸地に激しくぶちあたって砕け、潮は大地の上まで押し寄せては退いて行く。海岸線の形が、2日もつづいてまったく同じだなどということはありえない。・・・」
「渚は非常に古い世界である。なぜならば、大地と海が存在する限り、そこは陸と水が接する場所だからである。しかもその場所は、絶えず生命が創造され、また無慈悲に奪いさられる場所である。・・・」

「海辺」より

 「われらをめぐる海」は、海全体をとらえ、それをマクロの目で見た作品でしたが、「海辺」は逆に彼女が海辺に立ってミクロの目で海をとらえたものになっていました。こうして視点を変えてものをとらえようとする彼女の試みは、地球全体が一つのシステムとして機能しているととらえなければ環境問題を解決できないとする後の彼女の視点を先取りするものだったと言えるでしょう。

<環境問題への取り組み>
 公務員時代から環境問題に関心が深かった彼女は、作家生活が順調に行くようになると、そのために何か役立てないだろうかと考えるようになっていました。そんな時、彼女に一通の手紙が届きます。
 それはボストン・ヘラルド新聞に出された手紙の写しで、そこにはある夫人が資財をそそぎこんで管理していた鳥獣保護地区が蚊を撲滅するために州政府が空中散布した農薬によって全滅に近い打撃を受けたことが書かれていました。そして、この問題を議会で取り上げてもらうには、いったいどうしたらよいのでしょう?と問いかけていました。
 この手紙を読んだ彼女は、以前から考えていた作品にむけて本格的準備を始める決心をします。

<「沈黙の春」への準備>
 長い間環境問題に関わる機関に所属していた彼女は、国内で行われている殺虫剤による環境汚染に早くから気づいていました。しかし、この問題は経済界、政界とも深く関わりをもっており、中途半端な問題提起ではとうてい通用しないこともわかっていました。それどころか、自分が社会から消される危険性があることも十分に認識していました。
 そこで彼女は静かに計画を進めて行きます。先ず彼女は、自らの知名度を利用しながら全米各地で行われる講演会や会議の場で、政府による殺虫剤の乱用についての指摘を行いました。
 そして、その活動と同時に本格的な攻撃を始めるために必要な膨大な生物学的、化学的、医学的データの収集を行ってゆきます。この時、前記2作品によって得られた高い知名度が大いに役だったことは言うまでもありません。そして、彼女が得ていた弱冠の富もこうした地道な活動の資金として大きな役目を果たすことになります。

<自然が冒された人為的病のカタログ>
 後に彼女が自ら語っているように、「沈黙の春」は大自然が冒されつつある人為的病の総カタログのようなものでした。しかし、その因果関係を明らかにすると同時に、科学的に証明してみせなければ、それはなんの意味もないことを彼女は良くわかっていました。彼女の為すべきことは、それらの問題について、すべての情報をわかりやすくかみ砕き一般大衆にまで公開し、その是非を問うことでした。こうして、1962年「沈黙の春」が世に出たのです。

「私たちはいま、二つの道の分岐点に立っている。しかし、両者は広く知られているロバート・フロストの詩のように、どちらも正しいということではない。私たちが長い間歩んできたのは、偽りの道であって、それは猛スピードで突っ走ることの出きるハイウェイのように見えるが、行く手には大惨事が待っている。もう一つの道は、人も「あまり通らないが」、それを選ぶことによってのみ私たちは、私たちの住んでいる地球の保全をまっとうするという最終の目標に到達できるのである」
「沈黙の春」より

<「沈黙の春」がもたらした衝撃>
 この作品がもたらした衝撃は、今では考えられないほどのものでした。マスコミはこぞってこの問題を取り上げ、その著者に対し興味本位の取材攻勢をかけてきました。
 当然、化学薬品業界はこの作品をつぶしにかかり、大がかりな反「沈黙の春」キャンペーンを展開します。しかし、そのキャンペーンはかえってその知名度を増すことにつながり、その売上はノンフィクションの作品としては異例のものとなります。
 しかし、この作品が全米ベストセラー・ランクのトップに立ったのは、マスコミによって作られたブームのせいだけではありませんでした。それは作品の中で用いられているデータの豊富さと同時に、まったく科学の知識がない人でも理解できるように書かれた文章のわかりやすさと美しさにこそあったのです。これはそれまでの科学書にはほとんどなかった画期的なものだったのでした。かつて作家を目指していた彼女の生き方が、科学と出会うことによって素晴らしい結果を生みだしたのです。

<「沈黙の春」の由来>
 この作品を大ベストセラーにしたもう一つの原因に、その素晴らしいタイトルをあげることができるでしょう。「沈黙の春 Silent Spring」は、DDTに代表される化学薬品の乱用によって環境が破壊され、新たな生命を生み出せなくなった不気味に静かな春の訪れを表す実にシンプルで美しいタイトルです。これは彼女の友人がタイトルに悩む作者のためにと、詩人キーツの作品集から見つけてきた一節から生まれました。
「湖のスゲは枯れ果てた
 そして、鳥はうたわない」


<「沈黙の春」がもたらした結果>
 この作品のブームは、その後国全体を巻き込み、ついに政府もそれを無視できなくなりました。当時の大統領ジョン・F・ケネディー直属の科学諮問委員会は、この問題の本格的な調査を開始します。その結果、DDTなど化学薬品が環境に及ぼす影響が彼女の指摘どうりであることを確認。こうして流れは、いっきに彼女の方へと傾きました。さらにこの流れは世界各地へと拡がりをみせ、10年後の1972年ストックホルムにおいて国連人間環境会議が開催されることになるのです。彼女は、この世界的なうねり(Only One Earth運動)の先駆けだったと言えるでしょう。

<子供たちへ、そして未来へ>
 彼女は、人類による環境破壊を指摘し、国の政治を動かしただけでは未来が決して良くならないことを知っていました。人類にとって、本当に大切なのは自然を大切に思う子供たちを育てて行くことだと考えていました。だからこそ彼女は「われらをめぐる海」のジュニア版を発表したり、子供たちが自然に対して興味をもてるようにと、親と子に向けた写真つきの本「センス・オブ・ワンダー」を残したのです。

「子供たちが、このような妖精からの贈り物に頼らずに生来の驚異の感覚を生き生きと保ち続けるためには、その感覚を分かち合える大人が少なくとも一人、その子供のかたわらにいて、われわれの住んでいる世界の歓喜、感激、神秘などをその子供といっしょに再発見する必要がある。・・・」
「私は、子供にとっても、そして子供を教育しようと努力する親にとっても、『知る』ことは、『感じる』ことの半分の重要性さえももっていないと固く信じている。・・・」

「センス・オブ・ワンダー 」より

<命がけの闘いの後に>
 その後、彼女は時代の流れを変えた功績を称えられ数多くの賞を受賞しました。しかし、この時すでに彼女にはわずかな時間しか残されていませんでした。それどころか、「沈黙の春」自体もう少しで日の目をみなかった可能性もあるほどなのです。
 元々身体が弱い家系に生まれていた彼女は、常に病魔と闘いながら執筆活動を行っていました。そして、「沈黙の春」に取りかかった頃、彼女は悪性の腫瘍(癌)におかされていたのです。その間、まったく執筆が行えないほど病状が悪化した時期もあり、完成が2、3年は遅れたと言われています。出来上がった作品には、まさに彼女の「魂」が込められていたのです。

「私が、私の知らない多くの人びとの心の中にさえ、そして美しく愛すべき物事との連想を通じて、私は生き続けるだろうと考えるのはうれしいことです」
レイチェル・カーソン「レイチェル・カーソン」ポール・ブルックス著より

「私が救おうとしたこの世界の美しさで、いつでも私の頭の中はいっぱいでした。いえ、その美しさとともに私の頭を満たしていたのは、迫り来る無神経で粗野な行いに対する怒りです。わたしは、自分がすべきことをするという、重大な使命を背負わされている気がしていました。せめて努力をしなければ、二度と自然の懐で幸福を感じることはできないのですから。それでもいまわたしは、わずかにせよと何らかの役に立てたのだと、やっと信じることができます。一冊の本によって状況が完全に変わってしまうなどと思うのは、現実的ではありません」
1962年に友人宛に書かれた手紙より

 1964年4月14日、メリーランド州シルバースプリングで彼女は静かに息を引き取りました。享年56歳でした。
 彼女は、これからも環境保護のシンボルとして高く評価されるでしょう。しかし、僕にとっての彼女は、誰よりも海を深く愛する同志です。確かに「沈黙の春」は名著です。でも・・・

・・・技巧的に優れ、勇気にあふれ、簡潔に書かれたこの本は、彼女の、もっとも有名な作品として残るだろう。だが、人々の記憶により長くとどめられるのは、海を題材にした素晴らしいエッセーの方かもしれない。・・・
ピーター・マシーセン(作家)

<締めのお言葉>
「すべての海岸で、過去と未来がくり返されている。時の流れの中で、あるものは消え失せ、過ぎ去ったものが姿を変えて現れてくる。海の永遠のリズム−それは潮の干満であり、打ち寄せる波であり、潮の流れである−のい中で、生命は形づくられ、変えられ、支配されつつ、過去から未来へと無情に流れていく。・・・」

「海辺」より

<主な作品>
「沈黙の春」
 新潮社
「われらをめぐる海」 ハヤカワ文庫
「海辺」 平河出版社
「センス・オブ・ワンダー」 佑学社
「潮風の下に」 思索社

<参考資料>
「レイチェル・カーソン」ポール・ブルックス著 新潮社

20世紀異人伝へ   トップページヘ