ジャズ・エイジからスウィング・ジャズ黄金時代へ


1920年~1940年
<ラジオ時代の始まり>
 1920年代から1930年代の大恐慌時代にかけてのアメリカは、「ラジオ」が主役の時代であると同時に「ジャズ」が時代のトレンドだった時代です。「ジャズ」に関しては、20年代がスモール・グループによるバンドだったものが、30年代に入るとビッグバンド・ジャズが主役となります。そして、それらの人気を支えたのが「ラジオ」だったのです。
 1920年、大衆向けのラジオ局としてピッツバーグにKDKAが誕生。音楽、ニュース、宗教家などの放送を開始します。その後、20年代末には放送局の数は600以上になり、アメリカの家庭の3軒に1軒にはラジオがあったといいます。放送されていた番組の中でも特に人気が高かったのは、生放送で中継されたバンドの演奏でした。(テープレコーダーによる録音は1940年代になってからのことになるので、生放送しかなかったのですが)
 その中でもシンガー、ミュージシャン、コメディアンらによる総合的なエンターテイメント番組「ナショナル・バーン・ダンス」は大人気プログラムでした。1924年に放送が始まったシカゴWLSのこの番組にはスポンサーにはシアーズ・ローバックなどのアメリカを代表する企業がついていました。1933年にはこの番組はNBCにより全米ネットワークの番組となり、一時間番組として毎週土曜の夜に放送される全米に指示される大人気番組となりました。(ちなみに「バーン・ダンス」とは、農民たちが集まって「納屋で行うダンス」のこと。1929年公開ミッキー・マウス主演の同じタイトルのディズニー・アニメ作品も有名です)

<大恐慌の1930年代>
 1920年代のバブルの反動として1930年にアメリカを襲った「大恐慌」は、音楽界にも大きな影響を与えました。当時のヒット曲にもそんな時代を描いたヒット曲が数多くありました。
ビル・コックスの「NRAブルース」、スリム・スミスの「ブレッドライン・ブルース」、ロイ・エイカーフの「オールド・エイジ・ペンション・チェック」があり、他にも「オール・アイヴ・ガッツ・ゴーン」、「オール・イン・ダウン・アンド・アウト・ブルース」、「フランクリン・ルーズ・ヴェルツ・バック・アゲイン」などがありました。
 さらにこの時代に登場した仕事を求めて列車での旅を続ける放浪者「ホーボー」の暮らしを描いた曲もありました。そんな「ホーボー」の心情を歌ってアメリカを代表するフォーク・シンガーとなったのが、ウディ・ガスリーです。
「ホーボーズ・フェイト」、「ジャスト・ア・ロンリー・ホーボー」、「ランブリン・・ジャック」・・・

<スウィング・ジャズの時代>
 アメリカ中が大不況に襲われ、多くの人が職を失っていた時代、それでも音楽は街で流れ続けていました。時代が暗い方こそ、人々は楽しいダンス・ミュージックを求めていたようです。レコードは買えなくても、そこにはラジオがあり、そこから聴こえるスウィング・ジャズが人々の心を癒し、元気づけたのです。

 1930年代から40年代にかけての大半を通じて、アメリカ文化の主流にとって、ポップ・ミュージックとは「ビッグ・バンド・サウンド」を意味した。ウィンストン・チャーチル卿の言葉を借りるならば、おそらくはアメリカのポピュラー・ミュージックにおける「最も良き時代」である」、スウィング時代だった。

 ただし、このスウィング・ジャズの時代はあまりにも限られた期間だけのものでした。それは、ベニ―・グッドマンのバンドがハリウッドのパロマ―・ボールルームに出演した歴史的なコンサートの日、1935年8月21日から始まり、ビッグバンドが次々に解散していった1940年代の戦後期に終わっています。ここではその変遷を1920年代から振り返ります。

<1920年代「ジャズ・エイジ」>
 1920年代、シカゴを中心にビックス・バイダーベック、エディ・コンドン、フランク・ティッシュメイカーらが率いるグループがスウィング感のあるジャズを演奏して人気を獲得します。ただし、この時期のジャズ・バンドはほとんどが5人か6人編成の小規模なもので、すでに現れていたビッグ・バンドの中にはまだ観客をスウィングさせるような演奏をするバンドは存在しませんでした。15人ものミュージシャンがいっせいにスウィング感のある演奏をするために個々のミュージシャンはどう演奏すればいいのか?その答えがまだ見いだせていなかったのです。
 例えば、当時、大人気だったポール・ホワイトマン率いるオーケストラは、ジャズを演奏していたものの、それはクラシック音楽用にアレンジされた曲ばかりでした。それでもなお、彼のバンドが果たした役割が大きいのは、彼らによって黒人音楽としてマイナーな存在だったジャズが白人大衆にも受け入れられるメジャーになったからです。ジョージ・ガーシュインの「ラプソディ―・イン・ブルー」の演奏で知られる1924年2月21日のニューヨークでの公演はその頂点となる瞬間でした。彼は、ガーシュインを世に出しただけでなく、その他、ビング・クロスビー、ビックス・バイダーベック、ジミー&トミー・ドーシ―も彼のもとから活躍をし始めています。
 5,6人編成のバンドでスウィングできたことを、15人以上のメンバーでも可能にしたのは優れたアレンジャーによる編曲でした。そのおかげで、楽譜どうりに演奏すれば、そこそこのメンバーでもスウィングできるようになったわけです。(もちろん優れたソロイストも必要でしたが)そのために必要だったのが、和声など音楽理論を深く理解し、楽器の編成や特徴を把握していて、なおかつ「スウィング」を理解しているアレンジャーでした。
 サイ・オリヴァー(トミー・ドーシ―・オーケストラなど)、フレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントン、ドン・レッドマン、ポール・ウェストン(トミー・ドーシ―・オーケストラ)、レイ・コニフ、ヘンリー・マンシーニ、ゴードン・ジェンキンス(フランク・シナトラ)、ジョン・スコット・トロッタ―(ビング・クロスビー)、エディ・ソーター(ベニ―・グッドマン)、ボブ・ハガート、ディーン・キンケイド、ビリー・ストレイホーン(デューク・エリントンの右腕)・・・

<スウィング・ジャズ黄金時代>
 優れたアレンジャーの一人フレッチャー・ヘンダーソンをアレンジャーに起用し、スウィング・ジャズ黄金時代をスタートさせたのが、ベニ―・グッドマンです。1935年8月21日に彼がロサンゼルスのハリウッドで行ったコンサートは、それまでまったく受けなかったスウィング・ジャズが初めて熱狂的に受け入れられた記念すべきライブだったと言われます。そしてこの後のコンサートは、ラジオで全米に生放送され、一躍彼のバンドは若者たちのアイドル的存在となりました。
 1937年に行われたニューヨーク、パラマウント劇場でのコンサートには2万9千人の観客が押し寄せ、熱狂する若者たちが通路などで踊り出し、警官隊が動員されることになりました。その盛り上がりは、後のエルヴィス・ブームやビートルズ・ブームに匹敵するものでした。この時、彼らはこの世代の若者たちのヒーローだったのです。
 1930年代の大恐慌では、1930~32年は確かに国全体が悲惨な状況に陥っていました。しかし、1933年以降は、逆にレコード売り上げはプラスに転じていました。スウィング・ジャズが生み出すダンス音楽は、そんな上向きの大衆心理を象徴する時代の音楽でした。ただし、この時代が多くの国民が経済的に苦しかったこともあり、レコードの売り上げよりもラジオ番組でのライブ演奏がそれぞれのバンドにとって大切な収入源となっていたようです。それらのライブ演奏が行われた店としては、フランク・デイリーズ、メドウブルック、グレン・アイランド・カジノ、ホテル・シャーマン、パラディウムなどのダンス場などがあります。
 当時の人気バンドの中でも、ベニ―・グッドマン、トミー・ドーシ―、ジーン・クルーパ、ハリー・ジェイムズなどがいち早くブレイク。
 ヒット曲としては、現代でもスタンダード・ナンバーとして今でも聞かれ続けている名曲の数々が生まれています。
 「ワン・オクロック・ジャンプ」(カウント・ベイシー)、「タキシード・ジャンクション」「ムーンライト・セレナーデ」(グレン・ミラー)、「タイガー・ラグ」(ベニ―・グッドマン)、「ビギン・ザ・ビギン」(アーティー・ショー)、「言いだしかねて」(バニー・ベリガン)、「アンド・ジ・エンジェルズ・シング」(ジギー・エルマン)、「Getin' Sentimental Over You」(トミー・ドーシー)、「ウッドチョッパーズ・ボール」(ウディ・ハーマン)、「シリビリビン」(ハリー・ジェイムズ)、「スリーピー・タイム・ダウン・サウス」(ルイ・アームストロング)、「サンライズ・セレナーデ」(フランキー・カール)、「ブルースを歌おう」(ジャック・ティガーデン)・・・。

<スウィング・ファン用語集>
 新しい黒人文化の流行は、どの時代にも独自のスラングを生み出してきました。この時代の「スウィング世代」も同様です。
「アリ・ゲーター」=スウィング・ファン
「カナリヤ」=女性ヴォーカリスト
「スクゥェア」=スウィングが理解できない人(その後も「つまらない人」として使われています)
「イン・ザ・グルーヴ In the Groove」「アウト・オブ・ジス・ワールド Out of This World」=スウィングでハイになった状態のこと
「コーン」「ミッキー・マウス」「リッキー・ティッキー」「シュマールツ」「スウィート」=スウィングしないコマーシャルなバンドのこと
(ブルー・バロン、デル・コートニー、トミー・タッカー、ジャン・ガーバーなど)

<スウィング時代の終わり>
 1930年代に黄金時代を迎えていたスウィング・ジャズですが、その終わりは意外に早く訪れました。1940年代に入り第二次世界大戦が本格化し始めると、スウィング時代に活躍したバンドが次々に解散して行きました。それには様々な原因があったようです。
(1)ミュージシャンたちが戦場へ
 アメリカは第二次世界大戦に本格参戦。太平洋とヨーロッパ、両地域に兵士を送り出すことになり、多くのジャズメンたちも戦場へと向かいました。
(2)バンド活動が困難な時代へ
 戦争の影響によって、ガソリンやタイヤが不足。当然、バンドが移動するために必要な交通手段にも影響が出てきます。ツアーにかかる予算が急騰し、大人数での移動は困難になり、必然的に人数が少なくなって行きました。
 さらにナイトクラブやダンス・ホールには、戦時中、20%もの遊興税がかかることになります。客の数自体が減っていただけに、店側がバンドに支払う出演料が払えなくなるのも当然でした。
(3)アコースティックからエレクトリックへ
 多くの楽器が電気楽器へと進化。それによって音量が一気に増し、少ない人数のバンドでもかつてのオーケストラに匹敵する音量で演奏できるようになった。ダンスバンドとしてステージに上がる際、より少ない人数で十分になり、人件費も安くあがることになりました。
(4)ダンス音楽としてのジャズから鑑賞する音楽へ
 バンドの変化と同時にジャズがダンス音楽からより複雑で芸術性の高い音楽へと変化していったのが1940年代から1950年代でした。

 「マーチの王様」ジョン・フィリップ・スーザは、人々が頭ではなく足を通して聴くかぎりジャズは生きながらえる、とかつて語ったことがあるという。第二次世界大戦が終わりを告げるまで、アメリカの若者は足を通してジャズを聴き続けた。ジャズは、踊るための、体を動かすための音楽であり続けた。ジャズにはビートがあった - そうだ、つねにビートがだ!だが、やがてジャズ・ミュージシャンは頭でっかちになっていった。複雑な音階、調子っぱずれのハーモニーに基づく実験を、彼らは始めた。音楽の形式は変化と発展を必要としているし、さもなければ停滞してしまうことになるのだが、しかし、ジャズの演奏家たちは複雑で斬新なアイデアを生むことに熱中するあまりに、ビートを忘れてしまった。「クール」であることが、時代のならわしになった。

<レイス・ミュージックとカントリーの時代始まる>
 さらにスウィング・ジャズの時代を終わらせたともいえることとして、新たな音楽ジャンルの登場も忘れてはいけないでしょう。黒人大衆のためのR&Bと白人大衆のためのカントリー音楽の登場です。この二つの音楽が、全米中に広がることにより、ラジオの前の聴衆の好みもまた変化することになるのです。
 1920年代以前、レコード会社は黒人ミュージシャンによるブルースや白人でもカントリーなどのフォーク・ミュージックの録音はほとんど行っていませんでした。そのほとんどは、都市部で活躍するミュージカル、コメディ、ヴォードヴィルの人気アーティストたちに限られていました。
 1920年にニューヨークに誕生したばかりのレーベル、「オーケー」が黒人ブルース・シンガーのマミー・スミスのシングル「クレイジー・ブルース」を発売したところ予想以上のヒットなります。週に8000枚を売り上げるヒットとなったことで、他社も黒人音楽のレコードを売り始めます。そして、そうした黒人音楽に対して「レイス・ミュージック」という差別的な名前がつけられることになりました。
 1923年には、今後はそれまで田舎者の音楽として無視されてきたヒルビリー歌手ウェンディ・ホールの「もう雨は降りゃしないよ」が、ビクター・レコードも予想外の大ヒットに驚かされます。こうして、「ヒルビリー」という白人アーティストによるカントリー音楽にもレコード会社の目が向けられることになります。
 この後、各レコード会社は、アパラチア山脈のヒルビリー地帯、南部の黒人コミュニティーにレコーディング機材を持ち込み、街の空き家を借りて、そこに臨時の録音スタジオを作り、そこでスカウトしたアーティストたちの録音セッションを行いました。(当時の録音を再現した映像は、ウォルター・ヒル監督、ライ・クーダー音楽の映画「クロスロード」で見ることができます。ロバート・ジョンソンの伝説を寓話化したこの映画は必見です)
 これらの出張録音によって、カーター・ファミリーやジミー・ロジャースなどのカントリー音楽のスターが発見されることになりました。コロンビア・レコードがスカウトした黒人女性ヴォーカルのベッシ―・スミスは、1924年200万枚以上のレコードを売り上げ、コロンビアの経営を一人で支えることになり、その後の多くのアーティストたちに影響を与え続けることになります。

<参考>
「レコードの歴史 エディソンからビートルズまで」 1955年
(著)ローランド・ジェラット
(訳)石坂範一郎
音楽之友社

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