最強ポップメニュー「ラーメン」の歴史


「ラーメンの歴史学 -ホットな国民食からクールな世界食へ-」より

- バラク・クシュナー Barak Kushner
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<ラーメンの歴史学>
 このサイトでは「ポップの世紀」というタイトルで、様々な「ポップな文化」を取り上げてきました。その中には、「ポップな食文化」として「サラダ」、「コーヒー」、「ビール」、「バナナ」のページもあります。そんなわけで、今回は寿司よりも大衆的で、世界中で食されるクールなメニュー「ラーメン」を取り上げます。
 今回、そのための参考書として読ませてもらったのは、「ラーメンの歴史学」という本です。(そもそもこの本と出合ったからこそ、このページを作ることにしたのですが・・・)
 「ラーメンの歴史学」とは、なかなかに硬いタイトルに魅かれたのですが、著者が日本人ではないのも魅かれた原因です。日本に長く住んでいたアメリカ人が、客観的に外からの目線で見た「ラーメン」の歴史は、単なる「ラーメン礼賛」や「日本食への讃歌」ではなく、時に「日本の食文化」に対する批判だったり、「日本文化批評」ともなっています。
 「ラーメン」という小宇宙から、日本文化の奥深い歴史を描こうという著者の試みに感動しました。
 もしあなたが、ラーメン・オタクを自称するならこの本は必読の書です!

<日本の食文化の歴史から>
 著者はラーメンの歴史について語るにあたり、先ずは日本の食文化がいかにして形作られて来たのかを探求しています。そして、日本の食に大きな影響を与えてきた中国と日本の関係とその違いから書き始めています。

 今日でも、中国人にとって食事は人間関係を築くことの一環であり、いわば社会的潤滑油のようなものだ。中国には、「礼節のもとは飲食にある」という意味の古い諺がある。エチケットの基本や社会の正しい発展のあり方は、食卓での飲み食いの作法から生じると考えられているのである。
 しかし、日本ではそうはならず、食事が社会的、政治的な役割をもつことはありませんでした。

 古代中国と近代以前の日本において、料理が担った政治的、社会的役割のこうした違いから、なぜ中国人が日本人よりもずっと幅広い味や素材を料理に取り入れてきたのかが説明できるかもしれない。

 歴史を振り返ると日本の食文化は長い歴史をもつ文学に比べれば、ずっと遅い時期に成立したようです。それは室町時代の後の戦国時代が終わり、江戸時代になって以降、政治・社会・経済が安定したからのことでした。それまで奈良、平安の貴族の時代も食文化はあったのですが、それはあくまでも生きるために必要な最低限の存在に過ぎなかったようです。

 歴史的に日本料理の真髄は何もしないことにある - 自然が与える味と形状を生かし、何も加えず、自然の味に自ら語らせようとするのだと。古代の中国人が食べ物は手をかけるべきものだと考えたのに対し、日本人は食材の元の状態を大事にしたというのである。この違いは、ひとつには歴史的に中国人のほうが豊かな食生活を送ってきたのに対し、日本人は乏しい食べ物でなんとか暮らしてきた、やがて料理の方法を洗練させていったことから生じたのかもしれない。・・・

 平安朝の貴族たちは、洗練された文学や和歌を生み出したが、彼らの生活は決して華々しいものではなかった。・・・
 たとえば清朝時代の小説「紅楼夢」は、飲食がストーリーと深く関わっているのに対し、「源氏物語」やそれ以降の同種の小説には、食事や宴会、調理、あるいは食べ物の美しさや味についての描写もない。食べることの楽しみがまったく欠如しているのだ。・・・
 こうした状況は基本的に、17世紀の江戸時代まで続いた。


 日本料理の原点とも言えるような料理の基本的なスタイルが登場したのは、室町時代に登場した「会席料理」だったと言われています。そしてもうひとつ禅宗の広がりから生まれた「懐石料理」もまた日本料理を代表する存在です。

 さまざまな料理を組み合わせた食事の形態として最初に現れたのは、室町時代に上流階級の間で確立された本膳料理と呼ばれるものだ。料理が盛られた皿がいくつもの膳の上に並べられ、個別に供されるという形態で、これはのちに会席と呼ばれる宴会の形式に発展した。

 「懐石」とは禅宗の僧が瞑想中に空腹をしのぐために懐に温めた石を入れたことに由来する。初期の懐石料理は、「客に『かろうじて足りる』という質素の精神を伝えること、そして同時に不十分だが美しく整えられた食事を通して、客に質素であることの深遠な美に気づかせることを目的としていた」。

<日本の麺料理>
 それでは日本における麺料理の歴史は、どのあたりから始まったのでしょうか?
 先ずは、「麺」という食材が誕生する前、「麺」を作るために必要な「粉」を挽く技術からその歴史は始まります。
 そもそも日本には「麺」という食材は存在せず、それは中国から仏教の僧が持ち込んだと考えられています。それも初めから「麺」ではなく、小麦から「粉」を生み出す技術が最初に持ち込まれたようです。そこから「粉もん」が生まれ、それを細く切ることで「麺」が誕生します。もちろん、それを食べるためには、味噌や醤油による味付けや「粉」を挽く技術それを茹でる技術が必要でした。そして、その「粉もん」を固めたものを味付けするために独自の「スープ」が生まれる必要もありました。

 人々の食生活が大きく変化した日本の中世には、麺類の前身として餅(ビン)は、醤油や味噌とともに、すでに中国から海を渡って日本に到来していた。芽生えたばかりの日本の麺文化に昆布や鰹節から取ったうま味が加わったことで、16世紀には将来のラーメン人気の基礎はほぼできあがったといえる。だが、きわめて重要な要素がまだ一つ欠けていた - 肉、あるいは少なくとも肉を食べたいという欲求である。

 日本の食文化、それも大衆的な食文化の原点は江戸文化にあるといっていいようです。鎌倉時代から室町時代、戦国時代を経て、江戸時代になり、長い平和の到来と安定して生活が続き、大衆レベルにも金銭的、精神的な余裕が生まれ、それが様々な大衆文化を生み出したことは知られています。落語、歌舞伎、大相撲、そして食文化が大きく花開くことになります。
 そんな食べ物の中で、主食である米とは異なるある種、ちょっとした贅沢品として登場したのが、「麺類」だったようです。炊飯器がなかった当時、米を炊くことは、けっこう手間のかかる調理法であり、それに比べると麺類は簡単で失敗のないその後のインスタント・ラーメン的な存在として受け入れられていたのかもしれません。

 鎌倉時代と江戸時代の間の最大の変化の一つは、食べることの重点が、単なる腹を満たす手段から食べ物のおいしさを味わう喜びへと変ったことだ。麺類は、そうしたごちそうを食べるゆとりのあるすべての身分の人にとって、今日のようにおいしくは炊けなかった米に代わる、おいしい食べ物となった。

 1680年代には、江戸にはすでに蕎麦を売る屋台が何千軒もあった。蕎麦は鰻、天ぷら、寿司と並んで江戸の四大名物食の一つに数えられた。もっとも「国民的な味」は一つではなく、食べ物の嗜好は大坂、京都、江戸の三大都市間で大きく異なっていた。だが江戸の力が増すにつれて、江戸の嗜好が市場を支配するようになっていった。

 やはり日本食の基準を作ったのは江戸だったようです。そして、その江戸の食文化がラーメンが登場する土台を作ることにもなたようです。江戸には、どの町よりも多くの食べ物屋があり、1765年に初めてレストランが登場したフランスよりも、19世紀初頭までレストランが一軒もなかったイギリスよりも、はるかに先を行っていたというのです。
 江戸に生まれつき、快楽を求めて気楽に生きる新たなタイプの人種である「江戸っ子」こそ、日本の食文化の基礎を築いたといえそうです。そして、そうして生まれた様々な「食文化」は、江戸から全国各地へと広がることで、さらなる発展を遂げることになります。

・・・参勤交代の制度が日本文化の形成に及ぼした影響について研究する歴史学者コンスタンチン・ヴァポリスは、こうした街道や旅、需要によって「消費者という即席の階級が創出された」と指摘する。領地と江戸を往復する際に、大名や家臣、随行者らは江戸の慣習や食習慣を自分たちの領地へ持ち帰るという、「文化の運び手」の役割を果たした。こうして、麺類を食べることや麺料理は日本中に広まったのである。

 いよいよラーメンの歴史における最も重要な部分である「ラーメンの誕生」に著者は迫ります。しかし、ラーメンが誕生するためには、ラーメン以上に必要な存在があったと著者は指摘します。それはラーメンにとって最も重要な「スープ」の基礎となった「肉」または「肉からつくるスープ」の登場です。
 肉食はラーメン誕生への決定的な第一歩だったのです。肉はラーメンのスープにも、上に載せる具材として不可欠だからです。しかし、そうなるには日本人が肉の味に親しむ必要がありました。日本人のほとんどは、江戸時代までほとんど肉の味を知らなかったからです。それは、仏教の影響や米を経済の基本にする政治体制の影響によるものだったのですが、それは明治維新と共に大きく変わります。
 日本が西欧諸国の国力に迫るには、日本人の体力、体格もまた西欧人に負けないレベルにならなければならない。そう考えた明治政府は、食文化の面でも西欧に倣い、肉食の導入も必要であると考えたのです。
 1872年(明治5年)記録によるとこの日、明治天皇が初めて肉を食べたと報じられています。これは国民の食生活を肉食に向かわせるための情報戦略だったと言われています。当然、そうした戦略は仏教指導者である僧侶に対しても実施され、肉食を許可するという決定が発表されています。しかし、そうした政府の方針転換に対し、肉食に反対する御岳行者たちの過激派が皇居に侵入。肉食を禁じなければ天皇を暗殺することも辞さないと脅迫する事件まで起きています。

 明治期には食べ物や食事に対する人々の考えは大きく変化したが、開港都市を訪れた者が気づいたように、肉と麺料理は非常に相性が良かった。しかも麺料理はすでに江戸時代から巷では高い人気があった。麺を好む食文化がすでに確立していたこと、肉食を受け入れる人の数が増加しつつあったこと、そして明治以降の近代化志向がさらなる都市化を促し、旅行の機会を増やしたこと - これらが相まって、ラーメンを迎え入れる舞台は完全に整った。中国人の商人や西洋人など来日する外国人の増加とともに、日本人の舌に合い、かつ「文明的」だと見なされる新しい味覚が持ち込まれたのである。

 こうした社会の変化の中、19世紀から20世紀にかけて日本各地で様々な食文化の変化・発明が進み、その中にはラーメンの元祖ともいえる料理の登場もありました。

<ラーメンの原点>
 19世紀末、日本各地でラーメンの原点ともいえる様々な食べ物が登場しています。そのどれがラーメンの原点であるかは、重要ではなく、それぞれが日本各地にその後誕生するご当地ラーメンの元になり、ラーメン文化を日本独特のものにする下地になったと考えられます。水戸黄門こと水戸光圀がラーメンを最初に食べた人物という説もありますが、さすがにそれは無理があるようです。ただし、彼はうどんを自分で作ることがあったらしいという記述は残されているようです。彼のようなグルメと外来文化に興味を持つ気質が、ラーメンを日本に広めたと考えることもできそうです。ではここからは、日本各地に残されているラーメンの歴史に関わる記録を並べてみます。

 1874年(明治7年)、横浜居留地に住む外国人2411人中、1290人が中国人の貿易商、肉体労働者、事務などでした。これは西洋人よりも多い人数で、彼らによって横浜中華街が後に誕生することにもなります。彼らが持ち込んだ中国の食文化はその後、日本全国へと広がることになります。
 1884年、北海道函館の有名な西洋料理店「養和軒」が「南京そば」という料理を出していたことが記録に残されています。ただし、それがどこまでラーメンに近い料理だったのかは不明です。(食べ物というのは、残すことができないので・・・)
 1885年7月、東京 - 宇都宮間の鉄道車内で黒ゴマをまぶした梅干しおにぎりとタクアンを竹皮で包んだ弁当が販売される。(駅弁の元祖)

 長崎の華僑のコミュニティは、それまで日本では知られていなかったさまざまな商品や生産物を輸入し、実験的精神を鼓舞した。これが19世紀半ばの維新後の明治初期に、新たな日本の出発に向けての政治的原動力となった面もある。また豚肉を好むことや中国の食材市場の影響によって日本人に潜在する料理の力が引き出され、長崎に新しい麺料理を誕生させることにもなった。これが未来のラーメン市場の開拓へとつながったのである。
 1887年(明治20年)福建省からやって来た陳平順が「四海楼」という中華料理店を開業しました。
 1899年に、その日に店で余った野菜を肉や魚介と一緒に油で炒め、それを麺とスープに混ぜ合わせるという料理を創作したところ、これが「長崎チャンポン」として大ヒットメニューとなります。
 1907年、東京帝国大学の池田菊苗教授が「うま味」を作り出すグルタミン酸ナトリウム(MSG)を発見。
 1908年、MSGを5番目の味覚と言われる「うま味」を作り出す調味料「味の素」が特許申請される。これが「味の素」の創業者、鈴木三郎助によって大量生産され、料理の世界に革命を起こすことになります。
 1910年開店の東京浅草「来々軒」も「支那ソバ」を売りにして有名になりました。

 1922年(大正1年)、札幌の竹家食堂がメニューに中華料理を加えます。店は北海道帝国大学の近くにあり、そこには180人ほどの中国からの留学生が通っていました。シベリアで料理人をしていたという中国人、王文彩を店主の大久昌治が雇い、中華料理を売りにする店へと転向します。彼が作るメニューで人気となったのが「支那ソバ」でした。(かん水を使用したシコシコとした麺を鶏ガラ、豚バラ肉、野菜などで取った塩味スープに入れたもの)
 王は料理ができると「好了ハオラ(一丁あがり)」と叫んでいて、その「ハオラ―!」の強くきこえる「ラー」に「麺(ミェン)」を合わせて「拉麺」と書くようになったようです。ただし、それが「ラーメン」と片仮名になって初めてその名は定着したとも言われています。

<もうひとつのラーメン革命>
 明治から昭和にかけて、ラーメンは全国に広まりましたが、ラーメンにはもうひとつ重要な「革命期」がありました。それは「インスタント・ラーメン」の登場によってもたらされました。しかし、「インスタント・ラーメン」の誕生にも、歴史の必然があったことを著者は明らかにしています。
 日本の食文化にとって、革命的な変革をもたらした事件、それは「インスタント・ラーメン」の誕生でした。もちろんその「インスタント・ラーメン」が日本で誕生したのにもまた、そうなる必然ともいえる歴史がありました。

<戦争がもたらした食文化の変化>
 戦争による食料の不足は日本人の食文化に大きな変化をもたらしました。
(1)終戦直後の破滅的な経済状態によって、日本人はそれまでの主食だった米以外のものを食べる必要に迫られることになりました。
(2)社会的区分の多くが取り払われ、アメリカ的な消費社会を形成する「大衆」という層が生まれました。軍隊は日本の若者をその身分や職業の関係なしに扱ったため、社会の平等化が一気に進むことになりましたし、男性不在の銃後の職場で女性が活躍し、その社会進出も急速に進むことになりました。

 戦後、米が不足した日本では、飢餓による大量の死者が出る危険性がありました。それを救ったのは、戦争の勝者だったアメリカから大量に送られてきた小麦粉でした。アメリカ側は、小麦粉を使ったパン食が日本に広がれば、アメリカは今後、アメリカ製小麦の輸出先に日本を加えることができると期待していました。ところが、元々パン文化がなかった日本でパン食の文化を広めることは、なかなか上手く行きませんでした。ご飯なら家庭で簡単に炊くことができますが、パンを作ることは普通の家庭では無理だったこと。そして日本には当時パン屋がなかったことは致命的でした。そんな中、小麦粉を使ったパン以外の料理として広がることになったのが、ラーメンや餃子などの中華料理だったと言えます。
 戦後の経済成長期に貢献した労働者や学生たちが安くて満腹感のある脂っこい食べ物を求めて、中華食堂でラーメンや餃子を食べるようになり、一気にラーメンは日本中に広がることになりました。さらに言うと、日本人男性の多くが戦争中、中国で暮らした体験があり、中華料理は身近なものだったことも重要でした。
 そして、そんなラーメンをより大衆的に、より簡単に。より安価に提供することができる存在として誕生したのが、「インスタント・ラーメン」だったのです。

 1958年、大阪近郊の企業家、安藤百福がインスタント・ラーメンの製造法を編み出しました。そして、麺を揚げることで水分を飛ばし、それをお油で戻す3分で完成する「チキン・ラーメン」を発売し、大ヒットさせます。
「味付調理不用、無類に美味しい、強力栄養食、即席チキンラーメン、熱湯をかけるだけで、すぐ召し上がれる」

 インスタント・ラーメンは、日本の食文化における第三の革命を加速させる役目を果たした。第一の革命は、江戸時代の初期、上層階級による白米の消費が増加したことでもたらされた。第二は明治初期、新しい宮中晩さん会の様式が生まれたことによるもの。そして第三は、戦後起きたさまざまな変化によってもたらされたものだ。
 忙しく働く労働者、忙しく学ぶ受験生、単身赴任者・・・などのため、安くて簡単なインスタント・ラーメンは最適の存在でした。
 サラリーマンの通勤時間が増え、共稼ぎが増え、核家族化が進み、食料を準備する時間を縮める必要に迫られた。

 こうして、日本における戦後の食料革命が起き、その後、日本では料理が様々な方向に多様化、進化し続けることになります。
 1990年代、再びラーメンにとって大きな変化の時期が訪れます。それは1990年の「バブル崩壊」がきっかけでした。
 ラーメンが単なる料理の一つから、文化のレベルにまで発展し、「ラーメン道」なる言葉まで生み出すに至ったのは、この時期のことだと言われています。当時は多くのサラリーマンが早期退職を余儀なくされ、その中の一部が大好きだったラーメン店を始めました。その理由は、比較的資金が少なく、一人でも始められ、利益率も高いからですが、やはり本人がラーメン好きだったことが最大の理由だったのでしょう。もちろん不況下で昼食の予算が削られたことから、レストランのランチからラーメンへの移行があったことから社会のニーズにもあったともいえます。

<ラーメンの食べ方>
 ラーメンの丼を見て、ギリシャあたりの円形劇場をイメージしていただきたい。・・・神聖なイメージでラーメンの丼に対峙してほしい。・・・オーバーチュアーとしてコショウをふりかける。・・・割りバシをパチンと割る。・・・麺がヒーローであるならば、スープはヒロインである。・・・まずスープから味わうべきである。・・・次に麺をハシでつまみ上げ・・・スープが待っている口の中にすばやく入れてやらねばならない。・・・さり気なくナルトを口に運ぶ、シナチクを口に運ぶ。・・・麺を口の中に入れ、スープを少々口に含んだところで・・・固い決意をこめてチャーシューを取り上げて口にほうばる。・・・麺を名残惜しむようにして一本も残らずハシですくい上げる・・・「丼」の底の絵模様が、スープごしに薄く見えかくれする(くらいスープを残して終わる)
 林家木久蔵「なるほどザ・ラーメン」より

 まず、出されたラーメンの匂いを嗅ぐ。スープは何をメインに使っているか・・・。なにより、いい匂いがするラーメンは、早く食いたいという食欲にかられる。次にスープをふた口ほどすする。これで作り手の技量がわかる。火加減に注意をしているか、スープの材料の下処理が悪いから、かすかなえぐみがある、旨み調味料が入りすぎている・・・。
 最後に麺に口をつける。麺とスープが絶妙なバランスを生んでいるか、麺は国産か外国産の輸入小麦か、どこかの製麺所で作っているのか、あるいは自家製麺か -

佐野実「ラーメノロジスト」より

 この本でも取り上げられている日本における「ラーメン文化」を象徴する曲といえば、文句なしにこの曲でしょう。
「ラーメンたべたい」
矢野顕子 1984年
ラーメンたべたい
ひとりでたべたい
熱いのたべたい
ラーメンたべたい
うまいのたべたい
今すぐたべたい
チャーシューはいらない
なるともいらない
ぜいたくいわに
けど けど
ねぎはいれてね
にんにくもいれて
山盛りいれて

<蛇足ですが、美味しくないラーメン体験>
 伸びきった麺のラーメンは別にして、美味しくないラーメンと出会うことはそうはありません。(海外なら今でも可能でしょうが・・・)僕が60年近く生きてきて、唯一、「美味しくない!」と思ったラーメンは仕事で札幌に言った時、近所のラーメン屋さんから出前で取ってくれた「味噌ラーメン」でした。どう考えてもそれは普通の「味噌汁」にラーメンを入れただけの「味噌ラーメン」でした。
 頼んだ本人は「美味しい」と言っていたことにも驚かされましたが、「世の中には美味しくないラーメンもあるんだ!」と驚いた覚えがあります。でも、それ以降、そんな驚きの体験は一度もありませんでした。逆に考えると、それだけ「ラーメン」という料理は完成された料理であるということです。(思えば、美味しくないカレーライスにも出会ったことがありません)
 これほど「ポップ」な料理はない!のです。

 このページが作れたのもバラク・クシュナー氏の本があったからこそです。
 まだまだ奥の深いウンチクを知りたい方は、是非、この「ラーメンの歴史学」をお読みください!
 「ラーメン道」を究めたい方は必読です。

「ラーメンの歴史学 -ホットな国民食からクールな世界食へ-」 2018年
Slurp ! A Social and Culinary History of Ramen - Japan's Favorite Noodle Soup
(著)バラク・クシュナー Barak Kushner
(訳)幾島幸子 Sachiko Ikushima
明石書店

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