世界を動かした天才集団の歴史と秘密


「ランド研究所」

- アレックス・アベラ、バーナード・ブロディ、ハーマン・カーン、アルバート・ウェルステッター -
<謎の研究所、ランド>
 今までアメリカの近代史を調べていて、「ランド研究所」という名前を何度か目にしました。
 でも、それがどんな場所なのか?公的な機関なのか?何を研究する場所なのか?よくわかりませんでした。偶然そのランド研究所について書かれた本を見つけたので速攻読んでみました。すると、まずはその研究所の顔ぶれに驚かされました。
 数学畑では、コンピューター開発や「ゲーム理論」で有名なジョン・フォン・ノイマンや映画「ビューティフル・マインド」の主人公ジョン・ナッシュがいました。それだけでなく、経済学を中心にこの研究所の所員やコンサルタントの中から29人がノーベル賞を受賞していて、その中唯一のノーベル平和賞受賞者にはヘンリー・キッシンジャーもいます。その他にも、映画「博士の異常な愛情」の中の「狂気の博士」のモデルになった人物もランドの研究者だったり、同じ映画の「狂った将軍」のモデルになった人物がランド研究所を設立させた人物だったりとまるで小説のような事実ばかりです。
 天才と狂人は紙一重とは昔から言われていたことですが、アメリカの天才集団「ランド研究所」はどう世界を変えたのか?
 その仕事は膨大なのですが、そのごく一部をここで振り返ろうと思います。
 ここで参考にさせてもらった「ランド 世界を支配した研究所」の著者アレックス・アベラは、その本の最後にこう書いています。

 我々は「西欧文明」という大量消費社会の大混乱の中に生きている。我々はみんな、ランドが生み落とした隠し子のような存在なのであり、それはちゅっと触れれば感じ取れることなのだ。日常的な表現を使えば、ランドの合理的選択は西側世界にある、映画「マトリックス」のような体系といえる。この映画と同様に、ランドが考える数字と合理性はある現実を構成しているのだ。その現実は、実際に目にする前に、少なくとも説明されなければならないし、そうしなければ決して理解されることはない。
 本番については、『マトリックス』に出てくる赤い錠剤と考えてもらいたい。赤い錠剤を飲み込むと、我々全員を支配している秘宝の世界の全貌が見えるようになるのだ。


 正直いうと、そこまで我々はランドによって生き方を決められているわけではありませんが、常にその影響を受けてきたことは確かのようです。
 それでは先ず、ランド研究所が設立された第二次世界大戦の終わりごろから始めます。

<ランド研究所の誕生>
 第二次世界大戦に参戦していたアメリカは、原子爆弾の開発だけでなく、「レーダー」や「ジェット戦闘機」などの研究に多額の研究開発費をつぎ込み、そのために多くの研究者を集めていました。しかし、原子爆弾の開発者であるオッペンハイマーのように自らの研究に疑問を感じる者も多く、彼らは戦後すぐに研究を離れました。さらに平和の訪れと共に多くの軍事関連プロジェクトは打ち切りになりました。そうした状況に、このままでは兵器開発の研究が停滞し、ライバルのソ連に追い抜かれてしまうのではないか?そう考えたアメリカ空軍のヘンリー・アーノルド元帥は、同じ考えを持つダグラス社幹部のアーサー・レイモンド、フランク・コルボムとMITのコンサルタント、エドワード・ボウルズの4人と共に新組織立ち上げの準備を始めます。
 1946年こうして、空軍向けの長距離ミサイルを開発するためのプロジェクトとして「Reseach And Development」略してRANDが誕生しました。初代の所長はフランク・コルボムで、組織の空軍側のお目付け役として、悪名高き将軍カーティス・ルメイが加わりました。(発足時は、ダグラス社の出資で生まれましたが、その後、完全に独立採算制となり、後には空軍からも離れることになります)
 かつてコルボムとレイモンド、ボウルズの3人は東京大空襲の際により効果的な作戦を立てるために集められたチームのメンバーでした。彼らが「オペレーショナル・リサーチ」という科学的手法によって立てた作戦は、上記のカーティス・ルメイによって実行され、10万人もの市民が虐殺されることになりました。ルメイは、この後も空軍を率いて、ベトナムでの北爆も指揮しています。空軍が生んだ英雄とたたえられるものの、「狂気の指揮官」としての方が有名となり、スタンリー・キューブリックの名作「博士の異常な愛情」のモデルになったと言われます。
「すべての戦争は道徳に反している。それで頭を悩ませるなら、優秀な兵士にはなれない」
 ルメイのこのある意味まっとうな言葉は、決して間違いではないのかもしれませんが、ルメイと3人のメンバーは、東京大空襲での恐るべき虐殺チームとしての「成功体験」を再現しようと終結していたことは確かのようです。

 ランドの最初の使命は、大陸間弾道ミサイルの基礎となる軌道衛星の研究でした。第二次世界大戦では多くの爆撃機が敵国上空で撃墜され膨大な犠牲者を出していました。そのため、無人で敵国を攻撃することができる兵器としてミサイルの開発は急務となっていました。ミサイルを飛ばす技術は、大戦中にドイツのV2ロケットで実現されていましたが、それを目標に正確に着弾させるための誘導システムの開発は困難を極めていました。
 「誘導システム」に必要な制御システムを開発するために優秀な数学者ジョン・ウィリアムズが呼ばれ、数学部門の責任者となりました。そして、彼がそのプロジェクトにおける切り札として呼び寄せたのが、ドイツでV-2ロケットの開発を行っていたジョン・フォン・ノイマンでした。彼はここでロケット開発に関わる中で、コンピューターの基礎となる研究を進めることにもなり、「コンピューターの父」と呼ばれることになります。

<抑止力としての兵器>
<バーナード・ブロディ>
 ランドの誕生時、それまでの戦略理論は過去のものになろうとしていました。パットンやロンメルのような将軍たちの伝説的な戦略はもう過去のものとなり、今後の戦争には役立たないと考えられていました。ランドの軍事歴史家バーナード・ブロディは、第二次世界大戦中、広島への原爆投下の記事を見て、こう考えたといいます。
「従来は軍事体制が掲げる最大の目的は戦争に勝つことだった。これからは戦争を回避することが最大の目的になる。これ以外に有益な目的はほとんど見当たらない」

 核兵器という新しい兵器の登場は、抑止力としての核兵器をいかに有効に用いることで、戦わずして敵に勝つ方法の研究を進めることになったといえます。当時、空軍にはより多くの核兵器を保有し、それを運ぶ爆撃機を配備。対ソ連の戦闘開始と共に、それを一気にソ連上空に向かわせて、攻撃を実施する。それこそが最も確実な勝利の方程式と考えていました。それに対して、ランド研究所のブロディは攻撃目標を分析し、必要最小限のポイントを攻撃する作戦を提案します。
 ただし、この作戦は結局空軍の全面攻撃作戦に破れます。当時、アメリカにはソ連の原爆やミサイル開発の状況がまったく把握できておらず、それならばソ連を廃墟にするまで攻撃するしかないという考えが優先されたようです。まして、当時のソ連の指導者スターリンの思惑は、ソ連国内の政治家ですらまったく予想予想不能だったのですから。

 ブロディーは「ミサイル時代の戦略」を出版。そこで彼は「限定戦争」の概念を提案。戦術核兵器を限られた地域でのみ使用することで全面戦争となる前に停戦合意をはかるというものでした。その後、さらにこの考え方は「カウンター・フォース(対兵力攻撃)」に変化します。それは核攻撃の際は都市を攻撃せずに、軍事施設のみを限定的に攻撃するという戦略です。兵器を限定的、段階的に使用することで、停戦の時間を稼ぐというものです。この考え方はこの後アメリカ政府にとっての核戦略の基本的な考え方になります。

 ブロディ―は、核兵器を使った抑止政策をやむを得ないとしても、核戦争そのものはどんな合理的な政治的判断とも相いれない、と結論している。・・・
 ブロディ―の解決策は二通りあった。政策レベルでは、彼はより巨大で、より致死的な核兵器を製造し、それによってより強力な抑止力を働かせるよう、従来にました強く主張した。あわせて、「現在の産業センターは地理的に一部に集中しており、新しい産業センターはそこから離れた場所に築かれるべきだ」と強調し、都市と人口を分散させて民間防衛体制を整えるよう提言している。
・・・

(なんとなく理にかなっているようにも思えますが、そこには根本的な誤りも存在していると僕には思えます)

<ハーマン・カーン Herman Kahn>
 ランド研究所を象徴する人物のひとりに軍事評論家で「水爆戦争論」(1960年)の著者ハーマン・カーンがいます。彼は、先制核攻撃を提唱したにも関わらず、「核兵器凍結を訴える講演としてはカーンの講演は最高のものだ」と言わていました。
 映画監督スタンリー・キューブリックは、カーンの著作から多くのフレーズを拝借し、それを自身の映画「博士の異常な愛情」で使用しています。そのことを知ったカーンは、キューブリックに使用料を要求しましたが、キューブリックに逆に「とんでもないことを言うな!」と一括されたそうです。
 カリフォルニア大学で物理学を専攻した彼は、陸軍のIQテストで史上最高点を獲得して入隊したという天才でした。除隊後は、カリフォルニア工科大に入学し、卒業後、1947年から1961年までをランド研究所で過ごしています。
 彼はブロディーの著作やウォルステッターの基地研究から様々なアイデアを拝借しながら、核戦争の予測シナリオを発表します。
「ソ連による核攻撃により、アメリカの人口2億人のうち、最悪3000万人がもし死んだとしても、1億7000万人は生き残ります。さらに、坑道や洞口などに核シェルターを配置することによりって、アメリカの死者は1000万人に減らせるかもしれない。それだけ生き残れば、国の再建は十分可能である。・・・」
 1960年、こうした考え方をまとめた彼の著書「水爆戦争論」は、ベストセラーとなりました。彼が描いた核戦争のリアルな描写と解説は、アメリカがソ連に勝利するという物語となっていましたが、先制攻撃で勝利する自信があった軍内部では不評でした。その逆に、この本を評価したのは意外なことに平和活動家の人々でした。カーンの書いているとおりに核戦争が起きれば、世界は絶滅の危機に追いやられることを見事に描いているのですから。
 天才たちの論理は、それが真面目であればあるほど、現実的であればあるほど、馬鹿げていて、狂気に満ちていて、恐ろしいものになりうる。そんなことを思わせる存在です。

 ランド研究所のほとんどの研究者は、自分たちが知的に優れている信じており、決して芸人のように振る舞うことはなかった。しかし、ハーマン・カーンは進んで芸人になった。彼が好むギャグは死であった。百万人単位、千万人単位、億人単位の死だ。世間一般の人たちにしてみれば、カーンの存在によってランドは想像を絶することを考える場所になった。
 カーンは「自由を守る守るためならば、何百万人の命を失うことになっても、それを進んで受け入れようと思わないのか?」と聞いたものだ。共産主義者に自由を奪われるよりは死んだほうがマシか?人類が仮に核戦争後も生き延びたとしたら、生存者は死者をうらやむだろうか?


<ランドと「心の研究」>
 ランドではアメリカ軍のための新たな兵器の研究をあらゆる分野で行いましたが、当初、重要な分野の専門家が欠けていました。「戦争」を主導し、「兵器」を使用する側の存在である「人間」もしくは「心」の研究者がいなかったのです。
 そこで新たに人文関係の分野である「文化人類学」、「社会学」、「心理学」などの専門家がリクルートされ、メンバーに加わることになりました。彼らは「人間の行動」を予測し、そこからより確実に勝利の戦略を立てる役割を担うことになります。現在でもランド研究所で最高機密とされているケネス・アローによる「合理的選択」についての研究は、人間行動に自由意志など存在せず、それを決定論的に仮定することが可能だとするものです。この理論に、ノイマンらが開発した「ゲーム理論」とコンピューターによる詳細な分析を加えることで、ランドではより具体的で効率的な戦略理論を構築することを計画していました。

「囚人のジレンマ」(ランド研究所が開発したゲーム理論のモデルの代表的な例)
ダイヤモンドを盗み出した容疑で二人の男が逮捕されます。
盗まれたダイヤモンドは見つかっていません。
警察は二人を隔離し、お互いに情報交換できないようにしています。
二人は「ダイヤモンドの隠し場所を話せば、司法取引で罪が軽くなり、6か月の懲役刑で済む」と言われている。
口を割らなければ、すべての罪を負い、10年の懲役刑を受けることになる。
もし、二人が口を割れば、そろって2年の懲役刑となる。
もし、二人とも黙秘を続け、警察がダイヤモンドを発見できなければ二人とも釈放される。
どちらとも相棒がどう決断するのか、実際に相棒が決断するまで知ることができない。
いったん決断すると、取り消しはきかない。

 あなたなら、この問題でどう決断しますか?
 この問題は拡大解釈すると国家間の戦争、軍拡の問題にあてはめることも可能になります。
 ちなみに、この問題には正解はないようです。

 こうしてシステム分析の手法によって、ランド研究所はソ連に対する爆撃計画を作成し、空軍に提案します。しかし、空軍はその提案をまったく信用しませんでした。なぜなら、実際に戦闘行為を行う人間の意思(心)をランドの理論では無視していたからです。合理的に人間が行動するとは限りません。
 それでもランドの研究は核兵器の開発など、人間の心の問題が関わらない分野なら有効かもしれないと空軍は考え、それを利用しようと考えます。

<「フェイルセーフの父」アルバート・ウォルステッター>
 核戦略家であり、「フェイルセーフの父」と呼ばれるアルバート・ウォルステッターは、学生時代はバリバリの左翼活動家でした。画家、音楽家、ダンサーを目指していた彼は、大学では数学を専攻し、数理論理学の分野で17歳で論文を書き上げました。その論文「命題と事実の構造」は、雑誌「フィロソフィー・オブ・サイエンス」に掲載され、それを読んだアルバート・アインシュタインから「私がこれまで読んだものとしては、数理論理学の最も明解な外挿法である」と書かれた手紙が送られてきたといいます。その後、彼は前述のように左翼思想にのめり込むことになりました。
 彼はその後コロンビア大学を卒業し、住宅関連の企業に就職し、西海岸のサンタモニカに住み始めます。すると、サンタモニカのランド研究所本部で働く友人数人と再会。その友人たちが彼を研究所の上司に推薦してくれたことからランドへの就職が決まりました。彼に与えられたのは、戦略空軍司令部のための作戦を立案することでした。
 彼は太平洋戦争における日本軍の奇襲攻撃について詳細に分析した名著「真珠湾 - 警告と決定」(彼の妻が著者)など、過去の戦争を詳細に分析。それらの分析結果から、1950年代米ソの関係は、真珠湾攻撃直前の日米関係に近い状況にあると指摘。ということは、ソ連が先制攻撃を仕掛けてくる可能性も十分にあるので、アメリカ軍はその攻撃に耐えることができるよう軍事基地の見直しが必要であると提言します。
 当時、アメリカ軍は核兵器を装備した空軍機をソ連周辺の同盟国に配備していましたが、その守りはほとんどないに等しいレベルでした。それではソ連の先制攻撃によって基地が一気に壊滅し反撃できなくなる。そのためには、基地をソ連から離れたところに作り、基地の守りも固める必要があるということです。
 ところが、彼の提言に対し空軍は猛反発。戦略空軍司令部(SAC)あのルメイ将軍は、先制攻撃を受ける前にこちらから攻撃を仕掛け、一気にソ連をせん滅すればいいだけと主張します。
 1959年、彼は当時の大統領アイゼンハワーが核兵器が持つ抑止力によって平和は保たれると考え、その使用に後ろ向きであることを批判。いつでも核兵器を使えるようにシステムを整えるべきと提言します。それは、ソ連が核兵器を先に使う可能性が高いと思われていたせいでもありました。

 第二次世界大戦でロシアの死者数は2000万人以上に達した。しかしながら、ロシアはこの大惨事から見事に立ち直った。ロシアは分別ある戦略的な選択をするのに、我々がしないとすれば、将来、ロシア人が自信を持って『2000万人よりもずっと被害を少なくできる』と考える、もっともらしい状況がいくつか出てこよう。

 ロシア政府にとって2000万人の人民の死よりも、アメリカに勝利することの方が文句なしに重要なのです。だからこそ、ロシアが先制攻撃をかけてくる可能性も考えるべきと可能性が高いと考えられたわけです。

<フェイルセーフ>
 ウォルステッターのアイデアで、世界を救った重要なシステムとして「フェイルセーフ(多重安全装置)」をあげることができます。

 真に受けるべき警報が発せられていても、任務続行を求める具体的な指示がない限り、爆撃機は基地へ帰還する。警報が不正確なものであったら、たとえ無線通信が途絶えたとしても、やはり爆撃機は基地へ帰還する。・・・

 このシステムは、実際に何度か世界を滅亡の危機から救ったようです。
 1979年、電話交換手のミスによって、アメリカが攻撃を受けているという誤報が流れ、三つの空軍基地から戦闘機が10機緊急発進しました。
 1980年、コンピューター内部の半導体の不具合から誤動作が起き、ソ連がアメリカへの攻撃を開始したという情報が流されました。
 これらの間違いも、「フェイルセーフ」のシステムにより、大ごとになる前にストップがかかり、世界を救うことになりました。

<ランド、宇宙開発へ向かう>
 ソ連によるスプートニク打ち上げの成功によって、ランドは1959年から1961年にかけて総額400万ドルの予算が上乗せされました。ランドは1946年に「地球を回る実験用宇宙船の初歩的デザイン」という報告書を発表し、宇宙時代の到来を予見していました。

<ランドと軍産複合体>
 一つ不思議なことがあった。想像を絶する考えを求められる場所であるにもかかわらず、ランドの内部ではソ連の本質について討論したり、アメリカのソ連封じ込め政策の妥当性について意見交換したりする人は実質的にいなかったのだ。ランダイト(ランドのメンバー)は軍上層部の考えをそのまま受け入れていた。すなわち、アメリカは常に正しいという、一枚岩的な信条だ。この信条は、物事に懐疑的な新世代が登場し、より複雑なベトナム戦争が始まるまで揺らぐことはないのだった。

 ランドはケネディ政権の誕生により大きく変化することになります。ランドの経営陣、フランク・ボルコムらは、空軍とアイゼンハワー政権との関係を重視していましたが、大統領選挙中ウォルステッター、アラン・エントーベン、ダニエル・エルズバーグらのメンバーはケネディ陣営から協力依頼を受けます。
 ウォルステッターは、リチャード・ニクソン(共和党の候補)が大嫌いだったこともあり、彼はランド内でハリー・ラウエン、チャールズ・ヒッチなどの仲間に秘かに協力を求めようとします。

<軍産複合体の誕生(ゲイサー委員会)>
 1956年、ランドの理事長ローアン・ゲイサーを委員長とする「安全保障資源委員会」が国防問題を分析する委員会として立ち上げられます。その構成員は「軍」「産」「学」からなる「軍産複合体」の原点となる顔ぶれでした。
 ランドのアドバイザーである、アルバート・ウォルステッター、ハーマン・カーン、アンドリュー・マーシャル、CIAのリチャード・ビッセル、CBS放送の会長、フランク・スタントン、マサチューセツ工科大学のジェームズ・キリアン、東京大空襲で空軍を指揮したジェームズ・H・ドゥーリトル将軍、カリフォルニア大学放射線研究所のアーネスト・O・ローレンス博士、チェース・マンハッタン銀行のジョン・マクロイ(後の世界銀行総裁)、ウェスティングハウス・エレクトリックの軍人ロバート・B・カーニー提督・・・
 この委員会は、こう現状を分析しています。
「スプートニクの打ち上げに成功したソ連は、より拡張主義路線を強め、少なくとも1500発の核爆弾を製造するだけの原料物質を所有。このままでは近い将来アメリカを上回るICBMを製造する可能性が高い。そうなれば、抑止力としての核兵器だけではアメリカは生き残れない。常に報復攻撃できる準備をするべきである。・・・」

 1961年1月17日、アイゼンハワーは大統領選挙に破れ、ホワイトハウスを去るにあたり最後のメッセージを発しました。「ゲイサー委員会」が核兵器(巡行ミサイル)の保有数でアメリカはソ連を上回るべきとする報告をもらしたことを敗因と考えていた彼は、委員会を構成する「軍産複合体」の危険性を指摘しました。

 政府の委員会において、意識的であろうがなかろうが、軍産複合体が正当とは認められない影響力をますます強めている。我々は軍産複合体の台頭を防がなければならない。そうしなければ、見当違いの権力が不幸にも誕生する可能性は消えないだろう。・・・注意深く、聡明な一般市民だけが頼りになる。彼らの力を借りれば、巨大な産業組織と軍事機構を我々の平和的な手段と目標にうまく融合させることができる。そのようにすれば安全と自由が共に保障されるかもしれない。

 当初、アイゼンハワーは「軍産複合体」ではなく「軍産議複合体」と書いていましたが、「議会」への配慮から取除いたそうです。こうして、彼はその恐ろしさを指摘しましたが、彼に代わって大統領に就任したジョン・F・ケネディは、その軍産複合体によって動かされることになります。
 その軍産複合体の中心となったのが、彼が国防長官に指名したロバート・マクナマラです。彼をケネディに推薦したジョン・K・ガルブレイスは、その他にもランドの研究者チャールズ・ヒッチを紹介。他にも、アラン・トーベンがシステム分析局入りするなど、14人が国防総省に入り防衛関連予算の洗い直し作業を行うことになります。そして、この時のメンバーの中に後に「エルズバーグ事件」を起こすことになるダニエル・エルズバーグもいました。
 こうして国防総省入りした「マクナマラの神童」と呼ばれたマクナマラとランドのグループは、軍の予算を徹底的にチェックし始めますが、それにより、軍部とは敵対関係となります。ランド設立時からの盟友ルメイ将軍のプロジェクトも多くが打ち切られることになり、軍はランドに対抗して独自のシンクタンクを設立します。さらに軍部は「ライフ」、「サタデー・イブニング・ポスト」などのマスコミを利用して、彼ら外様のエリートたちのことを「国防知識人」と呼び、彼らの仕事ぶりを無責任な外部からの国防介入と批判させました。そして、空軍はランドが関わるプロジェクトを全体の2割までに抑えるように提案します。しかし、それに対して当時のランドの所長コルボムは、こうタンカを切ったといいます。
「ランドは空軍との契約をすべてキャンセルし、店じまいすることも辞さない」
 この反撃に空軍も引き下がらざるを得ませんでした。

<恐るべき作戦計画(単一統合作戦計画SIOP)>
 アイゼンハワー大統領の指示によって作られた全面核戦争計画で、「SIOP62」(発表は1961年)と名付けられたもの。ソ連による西ヨーロッパへの進攻が差し迫った場合、たとえソ連が核兵器を使用しなくても、アメリカが核兵器による攻撃を開始することを想定した攻撃計画。
 報復作戦で使用する核兵器は、合計1459発の核爆弾で、2164メガトンの爆発力に相当します。攻撃目標となるのは、ソ連、中国、東ヨーロッパにある軍事拠点と都市で、合計すると654か所に及んでいました。
 もし、アメリカがソ連の攻撃準備を察知して、先制攻撃を行う場合、アメリカ軍は全核戦力を総動員して攻撃することになっていました。合計7847メガトンの威力に相当する3423発の核弾頭すべてを使用する計画でした。これだけの核兵器が使用された場合の被害の予測では、ロシアと中国で2億8400万人が死亡。もちろん、その他のソ連周辺の国でも被害は大きくなります。東ヨーロッパでは1億人、その他の中立国でも1億人、同盟国であるNATO加盟国でも1億人が死亡すると予測されていました。全世界での死者は6億人です!もちろん、それだけの核兵器が使用されれば地球には回復不能の環境破壊が及ぶことにもなります。
 この計画の存在を知ったマクナマラは大きな衝撃を受けたと言います。さっそく彼はその恐るべき内容をケネディ大統領に報告。二人はこうした核兵器による破壊的先制攻撃は絶対に行わない方向で意見が一致します。
 ランドではそれに対しバーナード・ブロディが「カウンター・フォース(対兵力攻撃)」を主張。敵からの攻撃に対し、無差別総攻撃ではなく軍事施設へのピンポイント攻撃で対抗し限定的な核攻撃で確実に勝利するという内容でした。マクナマラは、この作戦こそが現実的で有効なものであると判断し、作戦の大幅な変更を進めます。ダニエル・エルズバーグが作成した新たな計画では、無差別核攻撃を控え、必要に迫られた時には都市部への攻撃も辞さないという脅しのために兵力を残すことになります。
 1961年5月、マクナマラはこのエルズバーグの案を採用し、この時点で恐るべきアメリカ空軍の暴走に歯止めがかけられました。誰もそんな計画があったとは知らなかったのですが、あとわずかその案の承認が遅れていたら世界は大変なことになっていたかもしれません。それはすぐそこに具体的な危機が迫っていたからです。

<核戦争の危機>
 1961年8月、「ベルリンの壁」が建設され、米ソ間の緊張が急速に高まりました。ハリー・ラウエンはエルズバーグの「カウンター・フォース」構想をもとにソ連のミサイル基地を先制攻撃によって攻撃する作戦を提案します。偵察衛星の登場により、ソ連には大陸間弾道ミサイルは4基しかないことが明らかとなり、核戦争になればアメリカの優位は明らかと判断したからです。それでも最初の攻撃で敵の基地が残れば、アメリカにも大きな被害が出る可能性はあると考えられました。幸いにして、この案を政府は採用しませんでした。(実はソ連は潜水艦に核ミサイルを搭載し始めていたことが後に明らかとなります)
 この時期のアメリカは、ソ連よりも危険な「ならず者国家」だったわけです。

<ランドによる海外派兵についての研究(ベトナムにて)>
 1965年、トニー・ルッソーらランド研究員たちがベトナムに派遣され、「ベトコンの士気と動機」について、現地での調査研究を行いました。国防総省からの依頼により、ベトコンの兵士たちが何のために命を賭けて南ベトナム軍と戦っているのか?その動機と士気の高さの理由を調査するのが目的でした。そして、彼らは多くのベトコンの捕虜へのインタビューからある確信を得るに至ります。
「戦争について我々の政府が説明していることは間違っている」
 そして、ベトコンこそ最強のゲリラ戦士であり、米国が勝利することは困難であると指摘するに至ります。しかし、彼らが政府から求められていたのは、ベトコンを無力化するためにどうすればよいかでした。
 この後、第三世界における調査が必要になってきたため、ランド研究所では経済学部よりも社会科学部が重要視されることになります。キューバ、グアテマラ、ベネズエラ、コロンビア、コンゴ、ラオス、ベトナムでランドのメンバーは調査を行いました。そこで彼らが得た結論は、それぞれの国で政治的混乱が起きた場合、アメリカは軍事クーデターを起こした人物を支援するべきというものでした。その首謀者によって宗教色を排除した改革が進められれば、その国は近代化と経済発展へ向かうと考えられ、そこにアメリカが関われば両方にとって利益となる。そう考えたのでした。
 ベトナムでの戦争についてランドが勝利のために必要な方法として提案したのは「金をかけることで勝つ」というものでした。具体的には、情報提供への報酬、内部での裏切りへの報酬、食糧支援などによる大衆の取り込みなどに大金をつぎ込むということです。(ただし、この案については、それでも勝てないというメンバーも多くいました)
 統計マニアで恐ろしいほど楽観的と言われたランドのロバート・W・コーマーは、さっそく「フェニックス作戦」を実行に移します。その作戦は、CIAのスパイである「地方偵察部隊PRU」にベトコンの地方幹部を見つけさせ、毎月3000人を無力化(要するに殺すこと)させ、ベトコンを一気に弱体化させるというものでした。
 ところが、南ベトナムの軍幹部はこの作戦を利用して、金を稼ぎ、尋問もせずに拷問、殺害を繰り返し、下級ゲリラを幹部に仕立てて数字合わせをしていたことが明らかになります。結局、この作戦でベトナム人2万8527人が殺害されました。

<ランドと情報通信>
 ランド研究所のポール・バランは、ヒューズ・エアクラフト社でICBMの設計エンジニアを担当していました。ランドに移籍した後、彼はソ連が核攻撃を仕掛けてきた場合、アメリカが報復攻撃を行うためのシステムについての研究を担当。アメリカ本国のどこが攻撃を受けても、反撃のためのシステムが有効に機能するために指令に必要な情報発信源を分散させる「ニューラルネット」の利用を思いつきます。思考をパターン化して分散処理を実行する人間の脳内神経細胞を基にしたこの「ニューラルネット」の考え方は、その後、さらに進化して「インターネット」の概念を生み出すことになります。
 1950年代半ば、彼はアメリカ各地のAMラジオ放送局の電波を徴発し、それを軍の連絡用に利用するシステムを開発。さらにそれをノイズの影響を受けずらい「デジタル」に変換し、電話線を使って運ぶ方法を考え出します。そして、その情報をより早く、より自動的に行わせるために「パケット通信」のシステムが生まれました。「パケット」とは、受信者、送信者、ネットワークに存在した時間などの情報を含んだデータの塊のことを指します。その中には、送信された後、全体を復元するために必要なパケットの配列順序なども収められています。自動的に最も効率的な経路を選択して移動したメッセージは、移動先で自力で再構築されます。ただし、このアイデアは当時アメリカの通信システムを独占していたAT&Tに採用されませんでした。(このアイデアにより、ライバル企業が現れ、自社の立場が危うくなると判断したようです)
 その後1966年になって、国防総省の高等研究計画局ARPAによって、このアイデアは「ARPANET」として実現されます。(ただし、これはポール・バランのアイデアによるものではなく、イギリス人ドナルド・デイヴィスのアイデアによるものでした)

<ランドとコンピューター>
 空軍の爆撃機設計や爆撃作戦のシュミレーションには、大量の情報を短時間で処理できるコンピューターの開発が不可欠でした。空軍は、IBMにその開発を依頼しますが断られ、ランドに依頼。原爆の爆発をシュミレートしたコンピューターなどを開発したランドのコンサルタント、ジョン・フォン・ノイマンを中心に大型コンピューター「JOHNNIAC ジュニアック」が作られます。パンチカードを用いることで、より簡単に情報を入力できるように開発されたこのコンピューターは、全米ナンバー1のスピードを誇るコンピューターとなりました。
 国防総省は、ジュニアックの情報処理能力を使ったICBMの開発計画をランドに依頼します。もし、ここでランドがその依頼を受けていたら、巨大な軍需企業の仲間入りをしていたかもしれません。しかし、彼らはあえてその申し入れを断ります。あくまでもランドは、ひも付きではなく自由に研究を行える状況を求めていたようです。

 核兵器を米ソ両方が保有し、その威力が地球規模のものになると、新たな兵器が求められることになります。そのことは、1970年代末にソ連のニコライ・V・ガルコフ元帥がすでに予測していました。
「今やどの国も核兵器の使用をためらうようになった。そのような状況下では、技術革新を生かす方法を知る国が戦場で握る。つまり、技術革新を生かす方法を知る国が戦場で圧倒的な優位性を確保するだろう」
 その最先端の技術として1980年代以降浮上してきたのがコンピューター、そしてインターネットを用いた新たな戦争です。
「技術に精通したテロ集団はインターネットを使ってネット戦争を展開し、西側世界の銀行、電力、国防産業の電子部門を破壊する」
 インターネットを用いた様々なテロ犯罪が国境を越えて展開することになった時代となり、ランドはその「ネット戦争」にも参戦し始めます。
「精密誘導兵器PGMは核兵器よりもさらに有用である」
アルバート・ウォルステッター

<ランドの変化とエルズバーグ事件>
 1960年代に入ると、ランドと政府の癒着が問題となり始め、電話一本で協力をランドに要請することは困難になります。そのため、ランド内部の実力者の多くがペンタゴンなど政府内部へと仕事場を移すようになります。そんな中、相変わらず空軍との仕事にこだわる所長のコルボは、教育関連の研究プロジェクトを断るなどしたため、ランド内部から批判されついに辞任に追い込まれます。こうして新所長となったハリー・ラウエンは、非軍事関連のプロジェクトに積極的に関わる道を選択します。
 1965年、ワッツで大規模な黒人暴動が起きます。アメリカ国内では人種差別の問題が表面化。民主主義を守る国としてベトナムで戦うアメリカは、そうした国内の問題を放置するわけにはゆきませんでした。こうしてランドは、都市部の社会問題を調査する社会都市研究所設立への助言を求められることになりました。1967年、ジョゼフ・カリファノは「都市研究所UI」を設立させ、所長にはランドの元研究員ウィリアムス・ゴーテムが就任。これはランドのライバルとなります。
 1969年、ランドはニューヨーク市からの依頼を受けて、「ニューヨーク市・ランド研究所」を設立します。警察内部の腐敗を改めるために調査を開始。しかし、この調査により警察と対立。内部の腐敗を明らかにするもののそこからの改革ができないまま終了することになります。続いて行った住宅政策でも失敗。ランドを招いた市長のジョン・リンゼイが3期で市長職を離れ、彼の後任の市長はランドへの200万ドル分の依頼を承認せず、関係は終了します。
 1971年に起きたエルズバーグによる「ペンタゴン・ペーパーズ漏えい事件」は、ランド研究所の政府に対する信頼を大きく揺るがしてしまいます。責任をとって、所長のハリー・ラウエンは辞任に追い込まれます。
 新所長に就任したドナルド・B・ライスはランド崩壊の危機をなんとか回避します。そのために変革したのは、ランドの仕事を軍部以外の民間企業向けに広げることでした。その象徴としては、オランダ政府から依頼を受けた世界最大の人口ダム建設プロジェクトがありました。その後、ランドはヨーロッパ各国のプロジェクトに参加。しかし、その間もアメリカ軍との関係修復に動いていたようで、ロナルド・レーガンが大統領に就任すると一気に軍産複合体の中心としての役割を果たすようになってゆきます。

<ランドとレーガン政権の暴走>
 レーガン政権でランドには再び多くの役割が与えられることになりました。そして、レーガンが主導した「小さな政府」と「大きな国防費」という方針のための政策を作ることになります。
 「フェイル・セーフの父」ウォルステッターの弟子だったリチャード・パールは国防次官補としてソ連を担当。ランドの社会学部トップだったフレッド・イクレは政策担当国防次官。同じくウォルステッターの弟子だったポール・ウォルフォウィッツは、国防省の政策企画室長となり、パパ・ブッシュ政権時代には国防副長官としてイラク戦争を指揮することになります。ポール・ニッツェも軍縮交渉担当となりました。彼は戦略核兵器制限交渉SALTⅡに反対し、交渉を潰すことになります。
 彼らの活躍により、レーガン政権発足後、国防予算は13%増加(440億ドル)、その後も増え続けることになりました。当時、レーガンはある会合で、マイクのスイッチを切り忘れている状態でこう話しているのを聞かれています。
「アメリカの同志のみなさん、いい知らせがあります。今日、ロシアを永久追放する法律に署名しました。五分以内に爆撃を開始します」
 こうしたアメリカの姿勢に対し、1983年秋、ソ連側はアメリカによる先制攻撃の準備が最終段階に入ったと考え、そのための対抗準備に入っていたことが、後に明らかになります。アメリカ国内でもレーガン政権による軍拡路線は批判され始め、たとえ限定的な核戦争によってアメリカがソ連に勝ったとしても、「核の冬」と呼ばれる地球規模の気候変動を誘発することで地球全体が危機を迎えるという研究が世論を動かすことになりました。
 ソ連崩壊の流れは、結局ランドが描いたシナリオ通りではなく、ソ連に現れた一人の英雄によって進められることになりました。
 逆にランドのシナリオ通りになったのは、「レーガノミクス」と呼ばれた経済改革です。「減税、規制緩和、小さな政府こそ国民の利益につながる」という基本理念のもと行われた政策は、弱者の切り捨てと教育環境の悪化となって、アメリカの中間層を一気に減少させることになりました。
 レーガン政権は個人所得税率を70%から28%へ、法人税を40%から31%に変更。独占禁止法の適用基準を緩和することなどにより、大企業優先の社会が生まれました。さらにはストライキに参加した公務員を次々に首にすることで、民間でもストライキができない状況が生まれ、1982年委は失業率が10%を越えることになりました。この時に生まれた状況は21世紀のアメリカの基本的な状況を作ったといえます。

<ランドとテロ事件>
 1968年~1974年に起きた国際テロ事件は507件。それらの事件について、当時アメリカ政府にはテロ研究に関する資金がなかったため、ランドは自己資金でテロに関する研究を行い始めます。ランドによる「テロ」の定義とは?
「テロとは、犯罪的暴力を使うことによって、政府に政策変更を強要する行為。・・・強制力を使って何かをやめさせたり、思いとどまらせたりすることを目的にしている。・・・テロは政治的犯罪である」
ブライアン・ジェンキンズ(ランド研究員)
 テロの定義はその後変化し続けています。
「テロとは、その行動の性質であって、テロ集団の政治的目標や正体は重要ではない」
「テロとは、計算し尽された暴力行為、あるいは暴力を振るうと脅す行為であり、敵に恐怖心や警戒心を植えつけるのを目的とする」
「テロ行為は演劇である。何のために演技しているかといえば、それを見ている観衆のためだ。テロ行為の犠牲者はどうでもいいし、テロ行為によって直接影響を受ける人たちもどうでもいい」


<ランドとイラク戦争>
 アメリカにとって久々の勝利となったイラク戦争は、ある意味ランドにとっての勝利でもありました。
「アルバート・ウォルステッターが思い描いていた未来の戦争のビジョンを現実化する方法で遂行された最初の戦争だ。これほど短い時間で圧倒的な勝利を収め、しかもほとんど死傷者は出ず、損害がないのである。ウォルステッターの戦略とビジョンを実行に移した戦争といっていい」
リチャード・パール
 しかし、その勝利と思い上がりが、その後、あの9・11を生むことになります。
「アメリカ人はイラク人をイラク人として見るべきだ。見習い中のアメリカ人と見てはならない」
ムクタダ・サドル(イスラム教指導者)

<ランドとアフガン戦争>
 1980年、アフガニスタンへのソ連軍侵攻の際、当初アメリカはそれを放置していました。しかし、ランドのウォルステッターがアフガン・ゲリラへの武器供給と情報提供により、ソ連を撤退させることは可能という構想を提出。アメリカはアフガン・ゲリラにスティンガー・ミサイルを供与。その後もゲリラへの協力を続け、ベトナム戦争とは逆の状況をつくり、ソ連を撤退させました。(後にアメリカはこの時のゲリラに苦しめられることになります。明らかのこの作戦は失敗でした)

 ランドのアンドリュー・マーシャルとアルバート・ウォルステッターは、ネオコン(新保守主義)の中心となり、「アメリカによる世界支配」を指揮する存在となってゆきました。国防長官のドナルド・ラムズフェルドも、自分のことを「ウォルステッターの門弟」と言い、「聖アンドリュー私立学校の生徒」と自称していたといいます。
 ランドの役割とは何だったのか?それはアメリカの「平和」に対する基本理念から明らかかもしれません。
「平和とは永遠に戦争に備えること」
「いつの時代でもアメリカの文化は全世界共通のひな型」

 ウォルステッターは、一つの大きな運動を生み出した。その運動とは、権力者の行動に大義を与え、世界中の不正行為を糾弾し、人々を消費者として”解放”しようとするものだ。「ウォルステッターのネオコン運動」と呼ぶ歴史家もいる。つまり、スクープ・ジャクソン上院議員やロナルド・レーガン大統領といった人物が主導し、悪の帝国であるソビエト社会主義共和国連邦を現代史から取除いた運動である。しかし、「ネオコン運動がなくともソ連は自壊した」という説もある。
 実のところ、ウォルステッターを筆頭にしたランド組が不必要な冷戦を仕組んだことで、死にゆく帝国だったソ連が30年間も余計に生きながらえた - こんな見方さえあるのだ。一つの確かなことがある。ウォルステッターは「テクノクラート」の典型だ。表向きは客観的・公明正大な方法を駆使して、世界の方向性を決める自称専門家ということだ。

<21世紀のランド研究所>
 21世紀に入り、ランド研究所は、研究助成金の獲得を求めて走り回るシンク・タンクの一つになりつつあるようです。問題点を指摘するような研究者たちは、みなランドを去り、かつてのような反骨の研究者はいなくなってしまったようです。
 だからこそ彼らは、右へ右へと舵を切り続けたレーガン大統領以降、政権内部でその方針を推し進める側として活躍し続け、ほとんど政権と一体化してしまったのかもしれません。
 そのため「ランドの歴史」=「アメリカの軍事史」となってしまったため、あえて「ランドの仕事」として語るべき事はなくなってしまいました。すでにランドには本物の天才はいなくなり、集団として政府の方針を推し進める「頭脳集団」というよりも「官僚集団」のひとつになってしまったようです。

著者アレックス・アベラのあとがきより
「組織的な傲慢とも呼べるランド研究所の致命的な欠陥は、「あらゆる問題は解決可能だから、合理主義に徹していれば問題解決法が必ず見つかる」という信条にある。

 ランド流の合理的選択理論は、間違った前提に基づいている。分り切った事実を否定しているのだ。分り切った事実とは、
「協調、自己犠牲、禁欲は存在する」
「人々は愛し合い、必ずしも自分第一ではない」
「公正な選挙で国の指導者が選ばれれば、立候補者全員は納得する」
「選挙で選ばれた政治家は公益のために尽くす」
「結婚も組織も永続する」などだ。


 ランドの報告書は科学的客観性に照らし合わせていつも「何が最適か」と問う。決して「人々は何を望んでいるのか」とは問わない。合理的選択理論はもっともらしい理論だ。この理論を提唱したのは、数学を愛し、利己主義の思想を吹き込んだ人たちだ。
 鏡を見ると、我々の一人ひとりがランドの住人であることが分かる。問題は、そんな世界に住んでいることについて、我々がこれからどうするかということだ。

<あなたはオメラスを歩み去れるか?>
 「オメラスを歩み去る人々」というファンタジー小説があります。著者は、アーシュラ・K・ル・グィン。何不自由なく幸福に暮らすオメラスの人々。けっして管理されているわけでもなく、他国から富を収奪しているわけでもなく暮らす国民たちは、なぜ自分たちが幸福に暮らせているのかを知っています。それはオメラスの城の奥深くに自由を奪われ牢獄に繋がれたままの一人の犠牲者によって成り立っているのです。しかし、ごくたまにその事実に耐え切れず、黙ってオメラスを歩み去る人がいました。
 オメラスは著者の母国アメリカと見ることも可能だし、日本も含めた先進国全体のことと見ることもできそうです。

<RANDの主な顔ぶれ>
<数学>
ジョン・フォン・ノイマン John Von Neumann
ジョン・ウィリアムス John Williams(5人目のランド職員で初代数学部長)
ジョン・ナッシュ John Nash(ノーベル経済学賞受賞者、映画「ビューティフル・マインド」の主人公)
ジョージ・ダイツィーク George Dantzig(「線形計画法の父」で「シンプレックス法」の発明者)
<経済学>
ポール・サミュエルソン Paul Samuelson(1970年ノーベル経済学賞受賞、1947年「経済分析の基礎」出版)
ケネス・アロー Kenneth Arrow(1972年ノーベル経済学賞受賞、合理的選択理論の基礎を築く)
ジェラール・ドブリュー Gerard Debreu(1983年ノーベル経済学賞受賞、1959年「価値の理論 - 経済的均衡の公理的分析」出版)
トーマス・シェリング Thomas Schelling(2005年ノーベル経済学賞受賞、ウォルステッターの弟子的核戦力専門家、1960年「紛争の戦略」出版)
ゲーリー・スタンリー・ベッカー(1992年ノーベル経済学賞受賞、社会学、犯罪学、人類学にアローの合理的選択論を応用)
<その他>
サミュエル・コーエン Samuel Cohen(中性子爆弾の開発メンバー、マンハッタン計画参加後にランド入り)
ブルーノ・オーゲンスタイン Bruno Augenstein(ICBMの開発に関わった軍事関連の代表メンバー)
ポール・バラン Paul Baran(インターネットの基礎となった技術の考案者。ICBMの設計から分散型ネットワークの構想まだ担当)
バーナード・ブロディー Bernard Brodie(軍事戦略家・歴史家。「核抑止」の概念を生み出しウォルステッターと対立)
ロバータ・ウォルステッター Roberta Wohlstetter(軍事史研究家。アルバート・ウォルステッターの妻で1962年「真珠湾 - 警告と決定」出版)
アルバート・ウォルステッター Albert Wohlstetter(核戦略家。「フェイルセーフ」(多重安全装置)の考案者せあり、ネオコンの始祖的存在)
アンドリュー・マーシャル Andrew Marshall(「軍事革命(RMA)」理論を体系化。国防総省の相対評価局初代局長)
ハーマン・カーン Herman Kahn(軍事評論家、1960年「水爆戦争論」出版、映画「博士の異常な愛情・・・」のモデルとなった人物)

「ランド 世界を支配した研究所 RAND Corporation」 2008年
Soldier of Reason
The RAND Corporation and The Rise of The American Empire
(著)アレックス・アベラ Alex Abella(ちなみにこの本が発表されて以後、彼はランドに出入り禁止になったそうです)
(訳)牧野洋 Yo Makino
文藝春秋

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