
<エクソダス Exodus>
旧約聖書の「出エジプト記」にある物語。エジプトに捕らえられ奴隷となっていたユダヤ人を神からの使命を受けたモーゼが救出し、理想の地、「乳と蜜の流れる土地」カナンへと向かう脱出の旅。あの海が二つに割れるシーンで有名な映画「十戒」は、その映画化。
<ドレッド・ロック Dreadlock>
直訳すると「恐怖のヘアースタイル」ということになるのでしょうか?魔女ゴーゴンのヘビの髪の毛から来たのかもしれません?
元々は髪をとかさず髭もそらない自然志向から来たもの。ラスタの考え方では、特に頭は重要な部分であり、剃刀をあててはいけない部分とされていました。(元は旧約聖書から来ているらしい)ラスタファリニズムの信者にとって、それは見せびらかさずに帽子の中に隠すのが良しとされていました。
<バビロン Babylon>
チグリス、ユーフラテス川の流域、ペルシアの地。ペルシアのキュロス王は、ユダヤ人の国イスラエルを征服し、ユダヤ人をペルシアに連れ帰りました。それが有名な「バビロンの捕囚」です。旧約聖書の「歴代誌 下」の最後に記され、その後そこからの帰還の物語となります。ラスタの用語では、文明に毒された大都会、西欧社会のことを「バビロン」に例えています。
ボブの二枚目のライブ・アルバム「バビロン・バイ・バス Babylon
By Bus」は、まさにバビロンと呼ぶべき土地、アメリカのバス・ツアーの記録です。
<マーカス・ガーヴェイ>
1888年8月17日ジャマイカのセント・アンに生まれた黒人運動家。(本名はマーカス・モサイア・ガーヴェイ)
マーカスは、キングストンで印刷工として働いた後、そこでストライキを指揮する活動家になり、その後海外へと旅にでます。コスタリカからヨーロッパへと渡り、イギリスを中心にヨーロッパを旅しながらアフリカの歴史を学ぶうちに、人種問題に積極的に関わるようになります。
その後、ジャマイカに戻り、全黒人地位改善協会UNIAを設立。1910年には、ニューヨークにその事務所を移転させ、機関誌「ニグロ・ワールド」を発刊し始めます。その後、船会社ブラック・スター・ライナーを興し、企業家としての活動を開始、自ら活動資金を生み出して行きます。
1919年には、UNIAの世界大会を開催。さらに1922年には「デイリー・ニグロ・タイムス」の発刊を開始しますが、アメリカ政府は彼の活動に脅威を感じ始め、郵便詐欺罪で彼を投獄、その後ジャマイカへと強制送還してしまいました。
この頃彼は、「今に黒人が王の座につくであろう。その時こそ、黒人たちの解放に向けた第一歩となるのだ」という有名な言葉を残しています。
そして、その3年後アフリカにおいて、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエT世
Haile Selassieが誕生します。(後にこのハイレ・セラシエはジャマイカを訪問しており、この時いっきにラスタファリニズムがジャマイカ中に広まってゆきます)
その後、彼は再びイギリスに渡り、ロンドンを活動の拠点としてゆきますが、1940年53歳でこの世を去ります。
ジャマイカ、イギリス、アメリカを駆けめぐり活動を続けたという点では、マーカス・ガーヴェイとボブ・マーリーには共通点があります。(元々ジャマイカ移民がイギリスに多いこと、アメリカが実質的な宗主国であったことを思えば当然かもしれませんが)そして、彼の予言や著作が元になりラスタファリニズムという新しい宗教が生まれ、それがボブ・マーリーというラスタマンのヒーローを生んだわけです。
<ラスタカラー>
エチオピアをはじめアフリカを中心とする多くの黒人国家の旗に用いられているラスタカラー(赤、黄、緑)は、ラスタファリニズムを象徴する色とされ、赤が血、黄色は太陽、緑は豊かな大地を表しています。
<ラスタファリニズムRastafarinismとは?>
1920年代にジャマイカからアメリカに渡り、アフロ・アメリカンの人々にアフリカ回帰を呼びかけた黒人運動家マーカス・ガーヴェイが提示した思想が元となった宗教。
彼はアフリカで最初に誕生する国王こそ、黒人全体の王(ジャーJAH)として崇めるべき存在であると予言しました。そして、それはエチオピアの国王ハイレ・セラシエによって現実のものとなり(1930年国王に即位)、彼がラスタファリニズムにおける絶対的な神となったのです。さらに、この宗教においては、すべての黒人は自らの故郷であるアフリカの大地(Zion
ザイオンまたはシオン)に帰るべきであると考えられ、マリファナ(ハーブまたはガンジャ)は、「聖なる草」として使用することを認められていました。
ジャマイカや近隣のカリブ諸国において、ラスタファリニズムはあくまで小数派でした。そのため、危険思想として弾圧され続けていましたが、ボブ・マーリーらの登場によってジャマイカ国内でもしだいに認められるようになりました。
<ワン・ラブ・ピース・コンサート>
ボブが狙撃事件の後にジャマイカを去った後も、国内は相変わらず混乱を極めていました。しかし、そんな状況を打開し「平和」を取り戻そうとする動きが生まれつつありました。
JNPの党員クローディアス・マソップとPNPの党員バッキー・マーシャルの二人は、ピース・コミッティーという平和運動組織を作り、キングストンを中心に活動を開始します。彼らは、その活動の目標として、国民の平和への願いを象徴する巨大なイベントを企画します。
彼らは、このコンサートに二人の相対立する党のトップを呼び上げ、仲直りさせようと考えたのです。しかし、そのためには、二人の党首を出席させるだけの力をもつ人物が必要でした。そして、それはボブ・マーリー意外にはありえなかったのです。二人はすぐにイギリスに飛びボブ・マーリーの説得に当たります。こうして、「ワン・ラブ・ピース・コンサート」が開催されることになったのです。
こうして、1978年4月22日キングストンのナショナル・スタジアムに3万人の観客を集め歴史的なイベント「ワン・ラブ・ピース・コンサート」が開催されました。
<ワン・ラブ・ピース・コンサート後日談>
1979年ワン・ラブ・ピース・コンサートを企画したJNP側の代表クローディアス・マソップが射殺されます。そして、翌1980年には反対側の陣営の代表者バッキー・マーシャルも射殺され、再びジャマイカでは、政治抗争が激化します。
総選挙では野党のJNPが勝利をおさめ、エドワード・シーガー首相が誕生することになり、その後は彼を中心とするJNPがジャマイカの政治をになって行くことになります。それにしても、あの伝説のライブを主催した二人が、その後すぐに射殺されていたとは、・・・。
平和の道が、長い年月と不断の努力を必要とする困難な道のりであるにも関わらず、それを破壊することは、なんと簡単なことでしょうか。改めてそのことを思い知らされる事実です。
ボブ・マーリー