「羅生門」

- 永田雅一 Masakazu 、黒澤明 Akira Kurosawa -

<「世界のクロサワ」の世界デビュー作>
 黒澤明が「世界のクロサワ」と呼ばれるようになったのは、1951年のヴェネチア国際映画祭で「羅生門」がグランプリを獲得したのがきっかけでした。しかし、「羅生門」の映画化実現には様々な条件が必要だったことはあまり知られていません。まして、その完成作品が遥かヨーロッパの地で開催された映画祭に出品されたのには、大きな理由がありました。「羅生門」が撮影され、公開され、ヴェネチアでグランプリを受賞するまでの出来事の数々は、まるで一本の映画を見るかのようにドラマチックだったのです。
 この物語は、先ず「東宝争議」での敗北によって職場を失いかけていた黒澤明を、一人の大物映画人が救うところから始まります。その人物とは、当時の大映社長、永田雅一でした。戦後日本の映画史を語る時、ワンマン社長として一世を風靡したこの永田雅一という人物を忘れるわけにはゆきません。ここでは先ず永田雅一という人物のことから始めましょう。

永田雅一
 「東宝争議」の後、黒澤明は山本嘉次郎、成瀬巳喜男らとともに東宝を出て映画芸術協会を設立。俳優たちの一部もまた東宝を離れ「俳優クラブ」を結成していました。そのメンバーは、三船敏郎、志村喬、千石規子、久我良子、中北千枝子などです。彼らは独立した映画人として自由に映画会社を選ぶことが可能になっていました。しかし、争議自体は占領軍と警察による強制執行により終わりましたが東宝内部の混乱は続き、映画の製作現場に仕事がない状態が続いていました。東宝の経営陣は、このままでは大事なスターや監督たちが映画界を去ることにもなりかねないと心配し、他社で仕事を得られるようにライバルに依頼することにしました。その相手が、当時大映の社長だった永田雅一でした。ワンマン社長として、次々に夢を語るだけでなく、それを実行に移す優れた経営手腕は映画界以外からも注目され、彼は時代の寵児ともいえる存在でした。

<裏稼業から社長へ>
 永田雅一は、1906年1月8日(日露戦争終結の翌年)京都で生まれています。生家は染料と友禅の問屋で昔は裕福でしたが、彼が小さい頃に経営が破綻。酒びたりになった父親は47歳でこの世を去りました。
 13歳の時、彼は知人を頼りに東京に出て、東京経済大学に入学するものの社会主義に傾倒していたこともありすぐに退学してしまいます。食べてゆくのに困った彼は、ヤクザ組織千本組の関係者に世話になったことがきっかけで、日活京都撮影所で働くことようになりました。どうやら、所内で起きたトラブルを収めるための用心棒的な役目を与えられていたようです。
 その頃、アメリカの大恐慌の影響が日本にも波及、1932年に日活で197人の解雇と他の従業員の給料一割カットという合理化案が発表されます。それに対し、日活の組合はストライキで対抗。普通ならそこでヤクザが介入しスト破りを行うところですが、その動きを永田は見事に納めてしまいます。それどころか、彼は組合側の中心となって交渉に参加。経営側に退職者への退職金満額支給を約束させました。この時の退職者の多くは、後に東宝とP・C・Lに入社することになりましたが、その中の一人山本嘉次郎は、その時の永田の活躍を忘れず、いつか恩返しをしようと思っていたといいます。

<第一映画の設立>
 その後、日活社内で力をつけた永田は経営にも参加するいうになり、松竹など他社からスター俳優を引き抜く作戦を始めます。その攻勢に困った松竹は永田に資金を提供し日活からの独立を助けます。もちろん、彼を松竹で受け入れるつもりはなく、とにかく永田を独立させてつぶしてしまおうという作戦だったのでしょう。こうして彼は1934年、自らの映画会社「第一映画」を立ち上げます。
 伊藤大輔、山田五十鈴、依田義賢、溝口健二などのメンバーでスタートしたこの会社で彼は毎日社員に訓示を述べ、そのモチベーションを上げようとしましたが、結局「第一映画」が生んだヒット作は溝口健二の「浪速悲歌」(1936年)、「祇園の姉妹」(1936年)ぐらいしかなく、設立から二年しかもたずにその活動は休止してしまいます。しかし、この頃から始まった永田の訓示は、「永田ラッパ」と呼ばれるようになり、その後、「永田ラッパ」は世界に鳴り響くことになります。
 松竹の思惑どおり会社経営に失敗し、多額の借金を抱えた永田は、松竹の子会社だった新興キネマにひろわれ、そこで低予算の娯楽映画の製作を任されることになりました。この時、松竹の大谷社長はこう永田に言ったそうです。
「狸映画を撮れ。お化け映画を撮れ、各社が気取った映画を撮っている間にゲテモノを撮るんだ。中には大チャンバラ映画も入れて・・・。役者を相手にしない映画を撮るんだ」
 この言葉は笑い話ではありません。そして、アメリカの映画界を救ったB級娯楽映画の巨匠、ロジャー・コーマンが言っても不思議ではない言葉でもあります。ここから、永田は和製ロジャー・コーマンともいえる映画作りで、日本の映画界を牽引することになります。

<戦乱の中の映画製作>
 1937年、盧溝橋事件が起き、いよいよ日本は本格的な戦争状態へ突入します。政府は臨戦態勢に備えるため、爆薬製造に必要なニトロセルロースを必要とする映画用フィルムの使用を抑えるため、映画会社の統合を指示します。
 当初は、東宝と松竹をそれぞれ中心とする二系列に統合される計画でしたが、永田はそこでもうひとつ別のグループを作るために動きます。こうして、東宝と松竹とは別に新興キネマ、大都映画、日活が合体したもうひとつの企業、大日本映画製作株式会社が設立されます。(もちろん、これが「大映」となります)しかし、永田はその新設会社の社長には就任せず、小説家の菊地寛をその位置につけ、自らは裏でその権力を掌握します。彼が社長に就任したのは、太平洋戦争が終わった1947年のことになります。その時、彼はまだ40歳でした。
 彼はGHQによって戦争責任を問われ、一時公職追放となり、社長を辞任しますが、すぐに裁判で反論を展開。戦争中、自分が作ったのは狸映画のなど、娯楽ものばかりで戦意高揚作品につながるものは撮っていないと主張。この主張が認められ、彼はわずか70日で追放処分を解かれ、大映のトップに返り咲きました。

<永田時代の始まり>
 彼は1949年に日本の映画人として初めてアメリカに渡り、そこでアメリカ式のプロデューサー・システムを学び、さっそくそのシステムを大映に導入しました。そのシステムのもとでは、先ず、企画会議を社長をトップに開催。そこでOKが出たアイデアをもとに監督とプロデューサーを決定し、主演俳優など主なメンバーが決まるとその後はプロデューサーが中心となって撮影を進める。このシステムは経営陣がOKを出せば、後はプロデューサーが自分の権限で撮影を進めることができるということで、スピーディな映画製作を可能にするシステムでもあります。そして、この新しいシステムのもとで大映は一本の映画を製作します。
 その脚本は難解なもので、ヒットしそうには思えない内容でした。しかし、なぜか永田は撮影開始を許可します。それが東宝から飛び出して仕事を求めていた黒澤明の作品「羅生門」でした。しかし、かつては狸の映画ばかり撮っていた娯楽映画第一主義の彼が、なぜそんな難解な作品に撮影許可を出したのでしょうか?
 当時、永田はほとんど脚本を読まず、新たに導入されたプロデューサー・システムのもとでは、彼のOK=自由な作品作りを許されたのと同義だったからです。こうして、それまでにない斬新なスタイルの映画「羅生門」の撮影にゴー・サインが出されたのでした。

「羅生門」
<チャンバラ抜きの時代劇>
 「羅生門」の物語は実にシンプルです。一人の女をめぐり強姦と殺人が行われる。ただそれだけの事件を異なる視点から描くことで、異なる複数の物語を完成させてみせ、真実とは何なのか?を問いかけ、西洋的な一元論の誤りを描き出しているともいえます。出演者はわずか8人。脚本も芥川龍之介の短編小説「藪の中」がもとになっているだけに非常に短く、そこにかなりのエピソードが追加されることで厚みを増すことになりました。黒澤はそうしたセリフの少なさを逆に利用して、サイレント映画がもっていた様式美を蘇らせようと考えていました。そのうえ、この作品は時代劇とはいっても、その舞台は平安時代です。そのため、当時の時代劇の多くがそうだったようなチャンバラ映画的な様式を取り入れる必要がなかったためにチャンバラ抜きの人間ドラマにすることが可能になりました。
 音楽もあえて日本的な音楽ではなくラベルの「ボレロ」を意識したクラシック的な音楽が作られました。こうして、もとになる物語自体がシンプルで、歴史的背景や登場人物の思想・宗教などを知る必要がないことに加え、音楽が西洋的であったことは、後に海外で公開された際、大きなメリットになりました。

<京マチ子>
 この映画の撮影に向けて、黒澤は出演者を「黒澤組」とも呼ばれていた自らの作品における常連俳優の中から選び、主演女優も当初は大物女優の原節子を当てるつもりだったそうです。しかし、大映側は当時売り出し中だったダンサー出身の肉体派女優、京マキ子を使うよう要求します。もちろん彼はその要求を拒否しようと思っていましたが、彼女が面接の際、自らの眉毛をそり落として、平安時代の女性になりきって現れたことから、考えを変え、主演を任せます。こうして大役に抜擢された彼女の体当たりの演技とそのエロティックな雰囲気は、この映画のもうひとつの魅力となりました。もし、黒澤の計画どおり、原節子が主人公に抜擢されていたとしたら、たぶん彼女にはそうしたエロティックな雰囲気は出せなかったと思います。

<トラブル続出の作品>
 この映画の撮影はスタジオが火事になったり、そのために機材がダメになり、撮影が遅れるなどトラブルが続出して遅れに遅れました。それでもなんとか公開日ギリギリにやっと完成し、永田社長を前に試写会が行われました。しかし、娯楽映画大好き人間の彼は、この映画が気に入らず、映画の企画担当者だった本木荘子郎を首にしてしまったといいます。それでも、この映画は公開されると都市部のインテリ層を中心に高い評価を得て、それなりのヒット作となりました。しかし、戦後、「野良犬」などヒット作を連発し、娯楽アクションが売りだった黒澤作品の中ではいまひとつの興行成績に終わっていました。
 彼は続く作品にロシア文学の最高峰の一つドストエフスキーの「白痴」を選びます。ところが、「白痴」は大長編小説であるために、「羅生門」とは異なり長い映画にならざるをえませんでした。松竹映画での仕事となったこの作品は、当初、前編、後編の二部作として撮影され、そのまま公開される予定でした。しかし、興行的に前編・後編を分けることは大きなリスクを背負うことになります。そのため、この映画は最終的に一本の映画として公開されることになりますが、完成当初、その長さは4時間25分という長いものでした。当然、松竹の経営陣は監督に一本の映画として公開できる長さに編集し直すよう指示。こうして、3時間2分という短縮版が公開されることになりました。しかし、当時は、この長さでも日本映画として最長のものだったこともあり、初回の公開はたったの三日で打ち切りとなりました。その後、この映画は字幕によって物語を補ったさらなる短縮版(2時間46分)が製作されて上映されています。しかし、そこまでして公開されたものの、この映画はそれ以前の彼の作品に比べて、満足のゆくヒットとはならずに終わります。その結果により、黒澤の次回作はお蔵入りとなってしまい、フリーの監督だった彼は収入の道を断たれることになりました。黒澤明は、この時、「世界のクロサワ」になるどころか、日本の映画界ですら生きてゆけない状況に追い込まれていたのです。

<ヨーロッパからの誘い>
 1950年末、日本映画連合会にヴェネチア国際映画祭とカンヌ国際映画祭から日本映画の参加以来がもたらされました。そこで、先ずは春に開催されるカンヌ映画祭に合わせて、長編映画と教育映画を一本づつ送ることが決定されます。そこで、候補作として日本の各映画会社は2本づつ自社のお勧め作品を持ち寄ることになりました。
 その結果、松竹は「長崎の鐘」、東宝は「また逢う日まで」と「愛と憎しみの彼方へ」、大映は「羅生門」と「偽れる盛装」、東横映画は「レ・ミゼラブル 第一部、第二部」と「きけわだつみの声」、新東宝は「暁の脱走」をそれぞれ出品します。さらにこれらの作品の中から関係者による投票が行われ、上位二作品「また逢う日まで」と「羅生門」が候補作として選ばれました。
 ところが「また逢う日まで」は、東宝が「東宝争議」の混乱によって会社経営が危機におちいっていたため、出品のための資金を捻出できないということで参加を辞退。「羅生門」は、音楽があまりにもラベルの「ボレロ」に似ていて著作権問題が起きるかもしれないと疑問の声が上がり、その確認のためにこちらも出品を辞退してしまいました。
 実は、各社ともに国際映画祭なるものがいかなるものなのか、まったく知らなかったため、自社の作品が認められる自信もなく、たとえもしお金をかけて出品して賞をとってもそれが利益につながるのか?疑心暗鬼だったのです。そのために、なんだかんだと理由をつけて出品を辞退したというのが本当のところだったようです。そんな日本映画界の状況の中では、ある一人のイタリア人女性が動かなければ「羅生門」はヴェネチア映画祭に出品されることすらなかったかもしれませんでした。

ジュリアナ・ストラミジョーリ
 その女性ジュリアナ・ストラミジョーリは、1914年8月8日ローマに生まれています。父親を戦争で亡くした彼女は母親によって育てられ、ローマ王立大学で東洋哲学と東洋美術を学びました。1936年に大学を卒業した彼女は、交換留学生として日本に渡り、京都帝国大学の文学部に入学。翌年に日独伊の防共協定が締結されたこともあり、彼女は日本でイタリアの若者代表として引っ張りダコの存在となります。その後、彼女はイタリアに帰国しナポリの東洋学院で日本語の講師となりますが、日本を愛していた彼女は日本に永住することを決意、再び日本へと向かいました。
 ヨーロッパにおいて状況が不穏になり日独伊三国同盟の締結(1940年)が行われると、彼女は日本におけるイタリア国民の代表として扱われる存在となってゆきましたが、イタリアが先に敗戦し、日独から離れると彼女は敵国民として扱われることになりました。それでもなお、彼女は日本を離れず、敗戦後も日本に残り、日本語の通訳や芥川龍之介らの小説を翻訳するなどして、イタリアへの架け橋として活躍しました。そうした功績が認められ、彼女はイタリア文化会館の館長代理にも任命され、それを機会に彼女はイタリア映画を日本に輸入する会社「イタリアフィルム社」を設立します。彼女はこうして日本にイタリアの映画を輸入し始めます。当時、イタリア映画は世界のトップに位置しており、ネオリアリズモの作品群は日本の映画界にも大きな影響を与えることになりました。当時は輸入が許される企業は一国一企業だっただけに、彼女の輸入した質の高いイタリア映画は日本の映画人にとって素晴らしい教科書となりました。
 特にリアリズムの描写はけっしてハリウッド映画からは学ぶことができないもので、黒澤明監督の「野良犬」はまさにそんなネオリアリズモの影響によって生まれた作品だったとえいえます。そして、そんな彼女が注目していたのがその黒澤の作品「羅生門」でした。
 「羅生門」がヴェネチア国際映画祭への出品を検討していることを知った彼女はさっそくその計画を後押ししようと考えます。母国で行われているヴェネチア国際映画祭の意義を十分に理解していた彼女は、なんとか「羅生門」を出品させようと奔走します。彼女は資金を提供するから是非参加するいうにと大映の経営陣を説得します。こうして、「羅生門」のフィルムはヨーロッパに向けての長い旅に出発することになったのでした。

<ヴェネチアにて>
 ヴェネチアで「羅生門」が上映された時、観客のほとんどは日本映画どころかアジア圏の映画を見ることも初めてでした。しかし、映画上映後、観客たちのスタンディング・オベーションは延々と続き、その後イタリアのテレビ局も「羅生門」の特番を組むなどしました。結局、期間中にこの映画は23回も上映され、あのイギリスの首相チャーチルまでもが上映会にやって来たといいます。しかし、この年の映画祭におけるコンペ候補作品には、いつになく強敵がいました。
 エリア・カザンの「欲望という名の電車」、ヴィンセント・ミネリの「巴里のアメリカ人」(この後アカデミー作品賞を受賞します)、ロベール・ブレッソンの「田舎司祭の日記」、ピエトロ・ジェルミの「街は自衛する」、ジャン・ルノワールの「河」、オーソン・ウェルズの「オセロ」と凄い顔ぶれがいました。この年の審査員長は、フランスの芸術家ジャン・コクトーでした。
 1951年9月10日、日本びいきの審査員長が大いに気に入ったということもあり、最高賞には見事「羅生門」が選ばれることになりました。ところが、「羅生門」はフィルムと衣装が日本から送られてきただけで、主演俳優も監督も関係者すらヴェネチア入りしていませんでした。主催者は、授賞式に誰か関係者を出席させようとあせりますが、当時、ヴェネチアには日本人が一人もいませんでした。ついにはアジア人なら誰でもよいということになり、その日たまたまヴェネチアを訪れていたヴェトナム人留学生に白羽の矢が立ちました。彼は映画祭のスタッフによってタキシードを着せられ、舞台に上がって賞を受け取っただけでなく、挨拶のスピーチまでしたといいます。

<受賞後>
 日本で「羅生門」のグランプリ受賞を新聞記者に知らされた永田は、初め「グランプリって何だ?」とまったく理解できていなかったといいます。しかし、それが世界最高の賞の一つと知り思わず号泣。その後、彼は大映のことを自ら「グランプリの大映」と呼ぶようになり、それまでの娯楽映画路線オンリーから一転。二匹目のドジョウを狙うべく芸術路線の作品作りに積極的になってゆきます。そんな彼の名声を求める見え透いたやり方を批判する人々は、こう言ったそうです。
「黒澤明グランプリ、永田雅一シランプリ」

 「羅生門」のブームは、その後世界中に広がりました。そして、翌1951年にはアメリカのアカデミー賞で最優秀外国語映画賞も受賞し、いよいよ黒澤明は「世界のクロサワ」と呼ばれるようになります。

「羅生門」 1950年
(監)(脚)黒澤明
(原)芥川龍之介
(脚)橋本忍
(撮)宮川一夫
(音)早坂文雄
(配)大映
(出)三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬、千秋実、上田吉二郎、本間文子、加東大介
<あらすじ>
 盗賊(三船敏郎)が旅の侍夫婦(京マチ子、森雅之)を襲い、妻を強姦し侍を殺害してしまいます。しかし、彼はその後つかまって裁きの場に引き出されます。しかし、そこで証言を始めた証人たちはそれぞれ異なることを話、裁きの場は混乱させられてしまいます。真実はいったいどこにあるのか?

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