暗闇を生き抜いた偉大なるソウル


- レイ・チャールズ Ray Charles -
<世界最高の男性ヴォーカリスト>
 ローリングストーン誌が2008年に発表した偉大なヴァーカリスト・ベスト100。その中で第1位に輝いたのはアレサ・フランクリンで、第2位はレイ・チャールズでした。
 文字通り世界最高の男性ヴォーカリストに選ばれたレイ・チャールズの生の声を僕は聞いたことがあります。場所は、日本武道館。柳ジョージとのジョイント・ライブでした。その時、忘れられない場面がありました。
 オープニングでステージ上にレイが登場し歌い出すと、勢いあまってマイク・スタンドを動かしてしまいました。マイクの設置の仕方が悪かったのだと思います。目が見えない彼はマイクを直せず、しばらく生声で歌うことになりました。ところが、マイクが遠くに離れても彼の声は、変わることなく会場全体に響きわったていたのです!マイクがないことに気づいて大声を出していたわけではなく、そのまま歌っていたにも関わらずです。その声量の凄さに会場中が圧倒されました。
 その後、ラストに柳ジョージとのデュエットもありましたが、彼のオーラに圧倒されたのか感極まった柳ジョージが泣き出して歌えなくなったのも当然かもしれません。彼の歌の迫力は本当に凄かった。

<独学のヴォーカル&ライフ・スタイル>
 そんな彼のパワフルなヴォーカルは、彼自身が様々な音楽の要素を盛り込みながら独学で身につけていったものです。
 R&B、ブルース、ゴスペル、カントリー、ラテン、ロックンロール、ジャズ、クラシック、ポップ・・・様々なジャンルの要素が彼の音楽の中にあります。そして、そうした音楽やヴォーカル・スタイルを生み出せたのは、彼が盲目であったこと。そして、並外れた聴力を持っていたおかげでした。

 今日でさえも、私の声はジャンル分けが難しい。テノールと言えるほど高くもなく、低くもないのでバリトンとも言えない。本当のリード・シンガーというのがいるとすれば、それは私だ。
 私はそれほど歌うことに自信をもっていて、ヘ音記号ならAフラットの低音まで、高音はト音記号で高いGまで出せる。もちろん、身体を妙な形にねじれば、もっと高い声も低い声も出せる。


 彼は目が見えないことをハンデと感じるどころか、それを恵まれていると思わせる生き方を見せてくれました。
 偉大なソウルシンガーの力強い生き様は、障害者を勇気づけるどころか、健常者である我々のボーっとした生き方に活を入れるほどパワフルなものでした。

・・・私は持ちたくないものが3つあったことを知っておいてもらおう。犬と杖とギターだ。なぜなら、そのどれもが盲目であることと、役立たずであることを象徴しているように思えたのだ。
 これは、彼だから許される発言ですが、実際に彼は自転車にも乗り、自動車の運転までしたことがあるそうです!

 もしかすると、そうした彼の自立した生き方は、誰にも負けない素晴らしい「耳」を持っていたことで可能になったのかもしれません。

 私の場合、多くのことを聴力に頼っている。歩く時には、自分が向かっている先の音を聞いている。人々を声で知り、声で感じている。私は耳で世界を見ているのだ。

 彼が人並み以上の観察眼ならぬ観察耳を持つことは、時に重荷になることもあったようです。特に対人関係においては、誰とでもつき合えるわけではなかったようです。

 私は人見知りする。部屋に3,4人以上の人間がいるとリラックスできない。しかもその人たちをよく知らなければ本当に居心地が悪くなる。・・・・・
 名前をブロック体で書くことはできるが、サインは絶対にしない。・・・サインする相手を差別することもいっさいしない。ニクソンがまだ大統領だったころにホワイトハウスに行ったことがあったが、その時、ニクソンがサインを求めてきた。お断りした。例外はつくらない。

(大統領からサインをしてくれって言われて断った人は、アメリカの歴史上彼ぐらいでは?まあ、トランプ大統領なら断った人は多いでしょうが・・・)

<生い立ち>
 私は音楽を体内に持ってこの世に生まれてきたのだ。そうとしか言いようがない。なぜなら親類には誰一人として歌ったり、楽器を演奏できる者がいないからだ。音楽は私の肉体の一部だ。

 後にレイ・チャールズ Ray Charles と名乗ることになるベイリー・ロビンソンは、1930年9月23日ジョージア州オルバニーに生まれています。生まれてすぐ、フロリダ州北部のグリーンズヴィルに引っ越していますが、父親はほぼ不在で、母親と先妻と弟の4人で暮らす極貧生活でした。
 彼が5歳の時、彼の目の前で4歳だった弟ジョージが溺死。彼は弟を救うことができず、大泣きしましたが、その二年後、その涙はベトベトしたものになり、目が見えなくなり始めます。(緑内障だったようです)母親は貧しいながらも彼を治そうとしますが、当時は治療法がなく、失明することは避けられませんでした。
 1937年9月、彼は母親の決断により、故郷から離れ、州立の盲学校に入学します。彼は盲学校で点字と共にピアノを学び、日曜日には教会のゴスペル・コーラス隊で歌について学ぶことになります。

<音楽との出会い>
 彼が最初に音楽と出会ったのは、家の近所に会った雑貨屋兼カフェ「トッド・ウィング・カフェ」ででした。その店にあったピアノとジュークボックスこそ、彼の音楽の原点となった存在です。3歳の頃、彼はその店の店主の膝に乗せてもらい、ピアノを弾き、それからいつしか一人でそのピアノを弾くようになります。
 もう一つ彼と音楽の出会いの場となったのはラジオでした。特に彼が気にいっていたのは、カントリー&ウエスタンの生ライブ番組「グランド・オール・オプリー」。毎週土曜日に放送されるその番組で多くのカントリー音楽を聴いた彼は、後にカントリー&ウエスタンという白人の音楽をレパートリーにし、それが彼の人気を支えることにもなります。
 そもそも盲目の彼にとって、好きな音楽に白人の曲も黒人の曲もなかったのです。当時のお気に入りは、ジミー・ロジャース、ロイ・エイカフ、ハンク・スノウ、ハンク・ウィリアムズなどでした。
 その他、ラジオでよくかかる音楽としては、白人のバンド・リーダーが率いるビッグ・バンドもまた彼のお気に入りでした。トミー・ドーシー、グレン・ミラー、ベニー・グッドマン、ジーン・クルーパ、アーティ―・ショーなどは特に好きなアーティストでした。
 ビッグ・バンドを率いるアーティストの中には黒人もいました。その中では、ジェイ・マクシャン、ジミー・ランスフォード、バディー・ジョンソン、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ビリー・エクスタインは彼のお気に入りでした。さらにそれらのバンドで活動する歌手のお気に入りとしては、アル・ヒブラー、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、白人女性ではジョー・スタッフォードがいました。
 ただし、当時はラジオではかからず、レコードでしか聞けないアーティストたちもいました。それはレイス・ミュージック(後のR&Bやブルース)と呼ばれるジャンルで、ルイ・ジョーダン、ビッグ・ジョー・ターナー、アースキン・ホーキンス、ティニー・ブラッドショー、マディ・ウォーターズ、ラッキー・ミリンダ―、アール・ハインズ、ソニー・ボーイ・ウィリアムソンなどが人気でした。
 そんな中で最も彼が好きでそのマネをすることになったのは、ピアノではジャズ・ピアニストのアート・テイタム。そして、ジャズ・ピアニストからヴォーカリストへと転身したナット・キング・コールの歌とピアノ、それにチャールズ・ブラウンの歌でした。

 私にとって、模倣というのは言ってみれば科学的なアプローチだった。研究して楽しみ、誇りに思いながら喜んでやっていたのだ。彼は誰もが崇拝する人で、音楽的、ビジネス的観点からその技術を研究することは大いに意味があった。

<ミュージシャンの道へ>
 1945年5月、彼の母親がこの世を去ります。彼を愛し育ててくれた母親の死は、彼にとって大きなショックとなり、彼は自らの今後について悩み始めます。そして、彼が選んだ道は、盲学校を辞め、本格的にミュージシャンとして生きていくことでした。彼は、もう一人の母親メリー・ジェーンのアドバイスもあり、フロリダ州の都市ジャクソンヴィルに一人で向かいます。この時、レイ少年はまだ15歳でした。
 都市での生活により、彼は生でスウィング・ジャズ、ブギウギ・ピアノ、カントリーなどを聞くことになり、より深い影響を受けることになります。

 私の心の中で、何かが弾けたのが感じられた。とても強く、しっかりとしたリズム、ビート、鼓動の響きが聞えてきた。ママの死によってもたらされたひどい痛みと大きな恐怖もあったが、私は新たな感動を覚えていた。私は自分自身の中に、小さな信念をもち始めたのだ。

 プロのエンターテナーとして彼が意識していたのは、オリジナルは黒人アーティストの曲だが白人アーティストがカバーしヒットさせた曲を歌うことでした。それらの曲を彼がカバーすることで、その曲にブラック・ミュージックとしての魅力を取り戻させることができると考えていたのです。

 その後、彼はフロリダ州中部の街オーランドに引っ越します。新たな街で、当初彼はまったく仕事がなく餓死寸前にまで追い込まれました。幸い彼は、ジョー・アンダーソンというテナーサックス奏者兼バンド・リーダーと出会い、彼のバンドに入れてもらうことになりました。さらに彼はそのバンドで、アレンジャーも任されることになります。彼は頭の中で組み上げた音符のつらなりを口述筆記で楽譜に書き起こすことが可能だと知ります。それまで彼がマスターしてきた歌、ピアノ、クラリネットに加え、彼は新たな能力として編曲を武器として獲得することになりました。

<シアトルへ>
 18歳になった彼は仕事も安定してきて、恋人までできました。ところが、常に挑戦しなければ気が済まない彼は、ここで再び新たな挑戦の旅に出ます。彼が選んだのは、自分が住む町からアメリカで最も遠いところにある土地への引っ越しでした。こうして、彼は知人もいないまったくの未知の街、ワシントン州のシアトルへと旅立ちます。
 1948年3月、彼はバスで5日かけてシアトルに着きました。幸にも、彼はその街でもすぐに地元のミュージシャンたちと知り合うことが出来、ゴサディー・マギー(ギター)、ミルト・ギャレット(ベース)と3人でマクソン・トリオ McSon Trio を結成します。この時、彼は当時ボクサーのシュガー・レイ・ロビンソンが大人気だったことから、本名のレイ・ロビンソンの名前を使わず、レイ・チャールズと名乗るようになります。さらにこの頃から、彼はカバーではなくオリジナルの曲を演奏するようになります。
 さらにシアトルで知り合ったレコード会社のオーナー、ジャック・ローデールに誘われ、ロサンゼルスでの録音も実現します。この時、録音された「Baby Let Me Hold Your Hand」は、彼にとっての初ヒットとなり、3年かけて10万枚を売り上げることになりました。ただし、この時代、ミュージシャンには録音の時に支払われるギャラだけが収入となり、その後どんなに売れても何の恩恵もありませんでした。
 それでも彼はフロリダに置いてきた恋人ルイーズを呼び寄せますが、生活は安定せず、そのうえこの時期に彼はマリファナやヘロインと出会い、それを常用するようになります。結局、恋人とは別れ、彼女を故郷へと帰郷させると、彼はロサンゼルスに向かい本格的にミュージシャンとして勝負に出ます。この時、別れた彼女のお腹な中には、彼の最初の子供がいたことを彼は知らなかったようです。

<ロサンゼルスにて>
 1950年、彼はロサンゼルスに引っ越しました。
 当時、ウエスト・コーストで人気のミュージシャンは、R&BではT・ボーン・ウォーカー、ビッグ・ジョー・ターナー、ルイ・ジョーダンなど。ジャズでは、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、マックス・ローチなどのビバップのミュージシャン。そんな中でも最も彼に大きな影響を与えたのは、ジャズ・ピアニストのアート・テイタムでした。

 アート・テイタムは私を導く光明だった。私が20歳の時、ピアノだけを学んでいたとしたら、将来到達したい目標の例がまさにテイタムだったのだ。彼は、チャーリー・パーカーがサックスでその魅力を見せてくれたように、88の鍵盤で何ができうるかを見せつけてくれた。
 私は、テイタムを聴くたびに、自分ができることの小ささを感じる。彼は常に私を謙虚にしてくれるのだ。


 彼ほどの天才アーティストでも、やはり上には上があり、そのことを謙虚に受け入れていたことは重要なことです。彼はその後、T・ボーン・ウォーカーやビッグ・ジョー・ターナーのバックでピアノを弾く経験もすることになり、様々なジャンルの天才たちからその影響を受けることで才能の幅を広げることになります。(なんとマイルス・デイヴィスと一晩かけてジャム・セッションをしたこともあるそうです。聴きたかった!)
 
 この年、彼はR&Bミュージシャン、ローウェル・フルソンのツアーに同行することなります。そして、その旅が彼にとって終わることのない長い長いツアー生活の始まりとなります。

<独自のスタイルを確立>
 1951年、彼は「The Snow Is Falling」などのヒット曲を発表し、いよいよ独自のスタイルを確立し始め、翌1952年にジェリー・ウェクスラーらが率いるアトランティック・レーベルに移籍。アーティストのオリジナリティーを重視し、自由にやらせてくれるレコード会社でいよいよ彼の個性が発揮されるようになります。
 さらに、彼はそれまで会場ごとに集められていたバック・バンドにも不満があったので、自分の取り分を減らしてでもオリジナルのバンドを持つことを目指します。彼にとって、ライブ活動は最も重要な生活の一部であり、生きる喜びでもあったのです。

 私の社会生活は、すべてライブ中心だった。それ以外で誰かと一緒に遊びに行ったりはしなかった。クラブに行けば何か仕事にありつけるかもしれない。私の行動には常に目的と動機があった。騒々しいパーティー、たくさんの人々、ギャングたちとの交流、そうしたものに私はまったく興味がなかった。それは今でも同じである。私は今でも一匹狼であり、孤独だ。わが人生で出会った中で、友達と呼べる人物を5人見つけ出すのは難しい。

 1954年、彼は自分の音を表現するための優秀なメンバーを集め、7人編成のバンドを結成します。ただし、一人ではまだバンドを維持するほど稼げていなかったので、当時人気の女性R&Bシンガー、ルース・ブラウンと行動を共にすることになります。

 私の基本方針はこうだ。ジャズをプレイできる男を見つけたら、少し彼らの音楽的方向性を修正し、私の他のジャンル、たとえばリズム&ブルースをプレイできるようにする。つまり、ジャズがプレイできるということはいいミュージシャンの証だった。

 1953年から1955年にかけて、彼は自分のバンドの成長と共に自らのスタイルである、ゴスペルとR&Bの融合を実現することになります。
「You Better Leave That Woman Alone」 「Lonely Avenue」(1956年)などは、そうしたスタイルの代表的ヒット曲です。ただし当時、ゴスペルとR&Bの融合は、聖なる音楽である讃美歌を冒涜するものとの批判もありました。しかし、彼にとっては教会もキリスト教も、そもそもそこまで「聖」なる存在ではありませんでした。
 そのうえ彼は常にプロデュースを自分ひとりで行っていて、誰からの支持も受け付けませんでした。そしてそのことが彼の音楽のオリジナリティーを支えていました。

 私には一度も、私の作品を監督するいわゆるプロデューサーという人物がいたことがなかった。私はいつも自分で作品をプロデュースしてきた。アトランティック時代、私がスタジオに入る時には選曲もアレンジもすませていた。プロデューサーがやることは何もなかったのだ。

 1955年、バンドのトランぺッターが書いた曲に彼が歌詞をつけた曲「I Got A Woman」が、彼にとって初の全国的な大ヒットなりました。
 その間、彼はもう一人の母親だったメリー・ジェーンを失いますが、ガールフレンドとついに正式に結婚し、第一子となるレイ・ジュニアを育て始めます。

 「I Fool For You」(1955年)、「Dream In My Own Tears」(1956年)、「Halerja, I Love Her So」(1956年)の3曲が次々にヒット。白人層にも受け入れられるようになります。
 この頃、R&Bのヒット曲は次々に白人ポップシンガーにカバーされヒットするようになります。パット・ブーン、エルヴィス・プレスリー、カール・パーキンスなどが、黒人アーティストのオリジナル曲を次々にカバーヒットさせ、新たな時代が始まりつつありました。
 同じ時期には、黒人アーティストがR&Bではなく「ロックンロール」の世界で活躍するようになり、こちらもまた新たな時代の始まりを告げていました。
 チャック・べリーリトル・リチャード、ボ・ディドリー、ファッツ・ドミノらはそこから登場した黒人の人気アーティストです。ただし、レイはこうしたアーティストたちとは異なる路線を歩み続け、ロックンロールのブームが過ぎてもその人気を保ち続けることになります。

<レイレッツ誕生!>
 1957年、フィラデルフィアでライオネル・ハンプトンのライブを見に行った彼は、同じ日に出演していたチャック・ウィリスのパフォーマンスに魅了されました。特に彼のバックで力強く歌う女性コーラス隊の迫力に感動した彼は、すぐに楽屋に向かい、メンバー3人を自分のバックコーラスにスカウト。その3人に、メリー・アン・フィッシャーを加えた4人によって、彼の音楽の新たな魅力となるコーラス隊「レイレッツ」が誕生しました。

 1959年、中西部のツアー中、予定した曲を演奏し終り時間が12分ほどあまったため、彼は突然、観客を喜ばそうとレイレッツとアドリブによる掛け合いを始めます。頭に浮かぶリフを繰り返すうちに会場はどんどん盛り上がり、会場は熱狂の渦に巻き込まれました。
 ライブ終了後、多くの観客から最後の曲のレコードはどこで買える?と問い合わせが殺到。さっそく彼はアトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーに電話して録音準備を依頼しました。こうして、あの名曲「What'd I Say」が誕生することになります。

<ストリングスの導入>
 当時、ふたつのジャンルで同時に活躍するアーティストはほとんどいなかった。リズム&ブルースの世界がひとつ。そして、もうひとつはスタンダード曲かストリングスをバックにしたラヴソングだ。普通、このふたつを混ぜ合わせることはしない。だが、それこそ私がやろうとしたことなのである。

 こうして、生まれた彼の新たな挑戦となったR&Bとビッグバンドとストリングスを融合させた作品は、アトランティックからアルバム「ジーニアス・オブ・レイ・チャールズ」として発表されました。

<優れた経営手腕>
 彼は、盲目であったためか、他人を信じない傾向があり、ビジネス面での堅実さは有名でした。いつ国税庁に調査され、追徴課税されてもいいようにとレコード会社からの印税には一切手をつけず、ツアーの収入のみで生計を立てていたようです。
 さらに1962年に自分の会社を立ち上げる際も、地価の安いロサンゼルス市内の黒人が多く住む地域に自社ビルを建て、1階はテナントに貸して、2階から上を会社で使っていました。もちろんビルの中には録音用のスタジオも作り、自分以外のアーティストにも使わせていました。彼がそこから発掘したアーティストの中には、後に「4人目のビートルズ」と言われることになるビリー・プレストンもいました。

<人種差別問題との関り>
 彼は自身が盲目だったことから、他の黒人たちに比べ、人種差別に曝される機会は少なかったかもしれません。

 私が白人からからまれずに、放っておかれた理由についてはこういう見方もある。南部における黒人白人の問題は、黒人に自分の彼女を寝取られるのではないかという白人たちの心配から起こることが多い。私には何も見えないし、彼らもそれをよくわかっていた。だから私は彼らにとって脅威でも何でもなかったのだ。

 しかし、1950年代末頃、彼がメジャーなアーティストとなり、観客の中に白人も混じり始めると、人種差別問題に関わらざるを得なくなってきます。
 ジョージア州オーガスタのコンサートで、地元のプロモーターが会場の座席を黒人が上階、白人を下階に分けると通告。それに対し、レイは分けるなら黒人を下の階にしろと突っぱね、演奏を拒否。演奏はキャンセルになり、プロモーターが裁判に訴えるとレイは敗訴し、賠償金を支払うことになりました。
 1961年3月には、同じジョージア州アトランタのペイン大学で開催されるはずのコンサートでも、白人、黒人の座席が分けられることを支持されると、彼は演奏を再び拒否。再び彼は訴えられて敗訴。これ以後、彼は生まれ故郷のジョージア州でコンサートを行えなくなりました。
 皮肉なことに、1960年に発表した「我が心のジョージア」は大ヒット。その後、1979年になって、州政府は彼に謝罪し、「我が心のジョージア」は州歌に指定されることになります。

 1959年、アトランティック以上の金額的条件を提示したABCレコードに彼は移籍しました。ABCもまた彼の音楽活動を自由にやらせてくれ、その後も次々にヒットが生まれることになります。特にこの時期の大ヒットしては、「Hit The Road Jack」(1961年)、「Anchained My Heart」(1961年)があります。
 1962年、彼はまたも新たな挑戦を実行します。白人アーティストが得意とし、白人層が聞くカントリー&ウエスタンのアルバム「Modern Sound in Country and Western」を発表したのです。小さな頃からラジオ番組「グランド・オール・オプリー」を聴き、カントリーが大好きだった彼の夢が実現したと言えます。そして、このアルバムからも、彼にとっての代表曲が生まれています。その中でも、「I Can't Stop Lovin' You 」(1962年)は300万枚を売り上げる大ヒットとなり、「Born To Loose」(1962年)、「You are My Sun Shine」(1963年)も大ヒットしています。

<薬物依存>
 彼は、まだ無名の時代にマリファナやヘロインと出会い、そこから長きに渡り薬物とつき合い続けました。当初は、買うためのお金がある分だけしか使用していなかったので、量はそれほど多くなく、健康を害するほどではなかったようです。彼の奥さんであるビートリスがドラッグを嫌っていたことも歯止めになっていたようです。
 そのそも盲目の彼は物欲もなく、音楽こそが命でした。色欲や麻薬の快楽は、その次にあったと言えます。そのため、薬物は彼の仕事に影響を与えることはなかったようです。しかし、その分、彼の薬物との付き合いは長くなったとも言えます。
 1958年、二人目の子供デヴィッドが生まれた後、彼ら家族はロサンゼルスに引っ越します。しかし、その後も彼は薬物への依存を止められませんでした。
 1961年、インディアナポリスのホテルに泊まっていた彼の部屋に警察が強行突入し、ヘロインを押収。彼はその場で逮捕されました。幸いこれは警察による違法捜査であるとして、無罪となります。ここではお金がモノを言い、優秀な弁護士が動いてくれたおかげでした。しかし、罪に問われなかったことで彼はこの後も薬物を使用し続けることになりました。
 1964年、彼は移動のための飛行機内にヘロインとマリファナを満ち込んだところをFBIの捜査官にによって摘発されました。現行犯での逮捕で言い逃れは不可能だったため、彼は素直に罪を認めます。そして保釈後も1年間ライブ活動を行わず、さらに家族のためにも薬物依存から脱却することを決意し、自ら入院治療を始めました。
 専門の精神病院に入院した彼は、自分の意志で薬物を断ち、禁断症状にも耐え、自力で薬物を断つことに成功します。その回復があまりに早かったため、病院側は彼が密かに薬物を持ち込んでいるのではないかと疑ったほどでした。そうした自力での脱却に成功したことを高く評価された彼は1年後の裁判では刑務所入りをせずに済み、保護観察処分となりました。
 その後、彼は二度とヘロインには手を出さなかったようです。(マリファナとアルコールは止められなかったようです)

<女性問題>
 彼は一度は結婚し、そこから長い結婚生活を続けましたが、常に他に恋人がいたようで、全米各地で別の女性との関係を作っていました。妻以外の女性との間の子供も数多くいたようで、2回認知訴訟を起こされ、6人の子供を認知しています。基本的にはそんな夫の行動を許していた妻も長年にわたる女性問題に疲れ果て、後に彼との離婚を決意するに至ります。

 ある日、飛行機の中で彼は隣に座る女性から話しかけられ、彼の曲の素晴らしさについて延々と話しを聞かされました。1時間以上にわたって話を聞かされた彼が、失礼ですがどちら様ですか?と聴いたところ。彼女は自分はジュディ・ガーランドだと名乗りました。友人の少ないレイでしたが、彼女とは信じ合える中になり、その後も何度も彼女はレイの家を訪れ、彼に自分の悩みを打ち明けていったといいます。

<最期の時>
 2003年、彼は癌に冒されました。治療により一時は、症状は抑えられましたが、回復するまでには至らりませんでした。そこで彼は残された最後の日々を、病院を出て自分のビルにあるスタジオにこもり、残された時間でいつものように録音作業を続けるために使いました。
 2004年4月、彼が建てた自社ビルが歴史的記念物に指定されることになり、その記念式典が行われました。彼はそこに車椅子で現れると、弱った身体ではあったものの、最期の力強くこう言ってスピーチを終えたそうです。
「私の身体は弱ってしまいました。しかし、私のソウルは強くなっています」

 2004年6月10日彼は静かにこの世を去りました。

最後に残されたインタビューで彼はこう語っています。
「私はそつなく何でもこなす男なんだ。たくさんの小技がきくんだ。でもそれは全部、他人から学んだものだ。ピアノはナット・コールから。歌はナットとチャールズ・ブラウンから。コピーしたんだよ」
「そして革新したんですよ」
「あの革新はコピーだったんだ。いいコピーだ。・・・だが、私は自分をバードやディズと同等には語れないよ」
「じゃあ、ソウルミュージックを作ったと言われるのに反論するんですか?」
「たしかに、今まで誰も一緒にしなかったふたつのものをひとつにまとめたかもしれない。でも、それなら教会のゴスペルシンガーたちを賞賛しないと。・・・・・」


「他に書きたいことは?」
「ミュージシャンたちを傷つけた、ってことだな」
「どいういうこと」
「急ぎ過ぎたということだ。忍耐力はなさすぎた。すべてに完璧を求めすぎた。感情的になりすぎた。言うべきではない連中にずいぶん暴言を吐いたものだ。・・・・・私はいつもドラマーに厳しい。私のリズムがわからない時には、罵ったりした。失礼なことをしたと思う。・・・」
 彼は泣き始めた。あんな泣き方をするレイを私はいまだかつて見たことがなかった。
 
<伝記本のためのインタビューについて>
 普通、自伝には自分が明かしたくない部分(例えば、女性問題、セックス・スキャンダル、薬物依存問題、金銭トラブルなど)を書かれない傾向があります。しかし、彼のこの本にはかなり正直に自分のすべてをさらけ出しているように思えます。一年に渡り、彼に密着し、インタビューを続けた著者の努力のたまものかもしれません。

・・・正直にありのままに語ることはまったく問題はなかった。やってしまったことは、やってしまったことなのである。時は戻せない。過去に戻ることもできないし、そうしたいとも思わない。それは私の流儀ではない。つまり、私は自分の人生をここまで生きてきたのだ。そこで、私の記憶の限り、真実を思い出を語ることにした。

 彼が見せる表情はふたつあった。極端に昂揚するか極端に落ち込むかのどちらかだ。彼はこのことを自覚していて、自分の行動がもたらす重大な影響を予測するのではなく、ふたつの気分の中間の状態に戻るまで待つ。

 彼の強烈すぎる個性は、利き手にも影響を与えるようで、彼のカリスマ性に魅入られるとインタビューどころではなくなったようです。彼のスタッフはそのことについて、こうアドバイスしてくれたそうです。
「彼と話したい時、言うことを事前に書いてから話すんです。さもなければ言葉が出なくなってしまいますから。彼に見つめられると私は凍り付いてしまうのです。彼に何もかも見透かされているようでね」

 彼の声は変幻自在で、どんな気分なのかを表現する楽器だった。興奮している時は裏声で吠えた。穏やかで憂鬱な時は低い声となり、声をバリトンへの変えた。話好きな私からすると、彼の魅力ある声は抗し難いものがあった。そのつもりなら、彼は誰でも1分以内に説得することができただろう。彼の熱意や魅力は衝撃的なほどで、クスクス笑いなどされた日には病みつきになってしまう。彼の話し方には不思議な魅力があり、彼自身が神秘的だ。その口から発せられる音をうまく表わせる言葉が見つからないほどだ。私が彼の話を理解できた時に、レイが好んで使ったのはこの言葉だった。
「それ、気に入ったよ。まさにそれが私という男だ」


<ジャズとクラシック>
 彼は、音楽について、特に「ジャズ」と「クラシック」の違いについてこう語っています。
 ゴルファーはクラシックの演奏家のようだ。優雅なクラブを持ち、集中するために観客に静かにするよう要求する。ギャラリーはささやくこともできず、鳥でさえさえずってはならない。ボールをアドレスする時、彼を妨害するものは何もない。
 一方、ジャズ・プレイヤーはバッターボックスに立つバッターのようだ。とんでもないピッチャーは自足00マイル(160Km)剛速球を投げる。それはストレートかカーヴかインサイドかアウトサイドに曲がってくる変化球かもしれない。キャッチャーも、観客も、コーチも彼に向って叫ぶ。怒号の中にいる哀れなバッターは、打つか見逃すかを瞬時に決断しなければならない。集中していなければどうなることか。

(考えてみると、盲目の彼がゴルフや野球をちゃんと理解していることからして凄い!)
 クラシックはすでに書かれた曲だ。つまり、その曲をどう解釈するかということだ。一方ジャズは、演奏しながら作曲しなかればいけない。そのうえ、コードも追っていかなければならないのだ。
 そういうわけで、私はジャズがプレイできることを誇りに思っているのだろう。


<参考>
「わが心のジョージア レイ・チャールズ物語」
 1978年(2005年改訂版)
Brother Ray Ray Charles Own Story
(著)レイ・チャールズ、デヴィッド・リッツ
(訳・監修)吉岡正晴
戒光祥出版

映画「Ray/レイ」 2004年
(監)(製)(原)テイラー・ハックフォード(米)
(脚)(原)ジェームズ・L・ホワイト(撮)バヴェル・エデルマン(音)レイ・チャールズ他
(出)ジェイミー・フォックス、ケリー・ワシントン、クリフトン・パウェル
アカデミー主演男優、音響賞受賞
主演のジェイミー・フォックスはレイが乗り移ったかのような名演。
映画もかなりリアルにレイノ人生を再現しています。
良い面、悪い面も描いた王道の伝記映画。レイ・チャールズのファンに必見の作品。

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