性差別と闘い続けた法曹界のヒーロー

映画「RBG 最強の85才 RBG」
ノンフィクション「ルース・ベイダー・ギンズバーグ I Know This to be True」

- ルース・ベイダー・ギンズバーグ Ruth Bader Ginsburg - 
<世界一有名な最高裁判事>
 2020年の大統領選挙の終盤戦、最高裁判事のルース・ベイダー・ギンズバーグの死は、アメリカ中に大きな衝撃をもたらしました。元々彼女の年齢からすると、その死は驚くことではなかったと言えます。しかし、彼女の死によって生まれた最高裁の空席にトランプ大統領が保守派の女性判事を抜擢したことで、その後の司法のバランスは大きく変わることになりました。もし、大統領選が大接戦になった場合、その裁定が最高裁にまで持ち込まれる可能性もありました。そしてその時、最高裁のバランスは共和党有利になっているなら、トランプはそこで勝利を引き寄せることが可能になるかもしれなかったのです。
 結局、そういう混乱状況は生まれませんでしたが、アメリカの運命を左右しかねないほど、ルース・ベイダー・ギンズバーグの存在は大きなものになっていたと言うことです。改めて、アメリカにおいて、若者たちの間でもヒーロー的存在になっていたルース・ベイダー・ギンズバーグとはいかなる人物だったのか?
 日本では今一つ知られていない彼女のドキュメンタリー映画、伝記本で勉強してみました。

「信念基づいてに行動しなさい。ただし闘いは選び、のっぴきならない状況には追い込まれないように。リーダーシップをとるのを恐れず、自分が何をしたいのか考えて、それをおやりなさい。そのあとは、仲間を呼んで、心がうきうきするようなことを楽しみなさい。そして、ユーモアのセンスをお忘れなく」
ルース・ベイダー・ギンズバーグ

<母親の影響>
 ルース・ベイダー・ギンズバーグ Ruth Bader Ginsburg は、1933年3月15日ニューヨーク、ブルックリンで生まれました。父親はウクライナからの移民でユダヤ系。母親もユダヤ系のオーストラリア移民の子でニューヨークで生まれていました。母親は頭の良い女性でしたが、家族のために勉強するひももなく働き続けける人生だったため、娘には別の人生を歩ませたいと願っていました。そのため、彼女に知識だけは付けさせようと図書館に通っては、毎週5冊は本を借りていたと言います。それらの本をルースは次々と読破し、頭脳明晰な女性に育って行きました。残念なことに、母親はそんな彼女が高校を卒業する直前に癌のため、この世を去ってしまいました。そんな母親について、彼女はこう語っています。

 母が私に望んだ重要なことは、ふたつ。ひとつは、自立すること。もうひとつは、母の言葉を借りれば「レディーになること」。母の言うレディーとは、白い手袋をはめることではありません。エネルギーを奪うだけで役に立たない感情には流されない女性のことです。怒りや嫉妬や後悔といった感情は、己を高めるのではなく、袋小路に追い込むだけです。「レディーになる」とは、怒りに任せて言い返したりせず、何度か深呼吸してから、理解していない人々を教え導くように応える女性になる、という意味です。

<法律の世界へ>
 成績優秀だった彼女はニューヨークの名門コーネル大学に入学し、政治学の学士号を目指して勉強を始めます。そして同時に、学校で運命的な出会いをします。それがその後、死別するまで愛し合うことになる1歳年長のマーティン・D・ギンズバーグでした。
 1954年、学生結婚した彼女は、その翌年、長女のジェーンを出産します。普通なら、そこで学校をやめて主婦になるところです。ところが、彼女は学業をあきらめず、夫がニューヨークで就職したのに合わせて、マサチューセッツ州ケンブリッジにあるハーバード大学のロー・スクールに移籍。そこで法律家を目指すことを決意します。入学時、500人の新入生のうち、女性はわずか9人しかいませんでした。
 彼女は2年後、ニューヨークのコロンビア大のロースクールに移籍すると法学者の学位を取得しただけではなく、見事に主席で卒業しました。ところが、それだけ優秀な頭脳を持ちながら、彼女はニューヨークの法律事務所のどこにも雇ってもらえませんでした。それはなぜか?彼女が「既婚者」であり、「子持ち」であり、「女性」であり、「ユダヤ人」でもあったからです。
 結局、彼女は法律事務所への就職をあきらめ、法律についての教育者として学界で働く道を選択。ニュージャージー州のラトガース大のロースクールで民事訴訟などの授業を担当。その後は名門コロンビア大のロースクールで憲法学などを教えることになりました。しかし、彼女はそれらの学校で生徒たちに法律、憲法について教えながらも、アメリカの現状に不満を持ち、それを正す道を模索していました。

「アメリカの偉大さは、他の国々よりも開化されていることではなく、過ちを正す能力にある」
アレクシ・ド・トクビル(フランス)

<自由と平等のために>
 そもそも彼女が法曹界で働きたいと考えるようになったのは、1950年代の「赤狩り」により、全米で多くの優秀な人々が犠牲になったことにショックを受けたからのようです。1960年代に入り彼女はアメリカよりも遥かに男女平等が進んでいたスウェーデンの司法制度についての本を執筆。アメリカでも男女の平等を実現するための活動を開始します。彼女がそうした活動を始めた1970年代初めは全米で大きな意識改革が広がっていた時期で、そうした運動にとっては追い風が吹いていたと言えます。
「女性は、以前ならば怖気づいたり、どうせ訴えても無駄だと諦めていたりしていた苦情を、申し立てるようになりました。1970年代のアメリカには、これまでの常識は間違っていて変えるべきだという理解が進みつつあり、その気運のおかげで女性たちは勝訴することができたのです」

 1970年、女性の権利向上のための雑誌「女性の権利法リポーター」を共同で創刊。
 1972年、アメリカ自由人権協会(ACLU)の女性権利プロジェクトを立ち上げます。
 1973年、「フロンティエロ対リチャードソン」裁判は彼女にとって最初の最高裁への挑戦でした。
 それは、空軍の女性兵士フロンティエロが男性にだけ支払われている住宅手当を女性に対する不当な差別であるとして起こした裁判です。当初、地方裁判所では敗北したものの、最高裁では見事に勝訴しました。
 この裁判で彼女は1837年に女性活動家のサラ・グリムケが残した言葉を引用しました。
「特別扱いは求めません。男性の皆さん。お願いです。私たちを踏みつけているその足をどけて下さい」
 ただし、この裁判で勝訴はしたものの、性差別について、人種差別同様に他の分野でも厳格に適用することを求めながら、そこは却下されてしまいました。したがって、同様な裁判が起きた際、また裁判で戦う必要が生じることになったのでした。それは女性への差別が個別には許されうるということでもありました。

 1975年、「ワインバーガー対ワイゼンフェルド」裁判は、妻を亡くし、残された子を養育するための一人親手当を巡る裁判でした。
 女性には一人親手当があるのに、男性が残された場合には手当が出ないのは明らかに性別についての差別であるという主張です。これは、元々は女性を守るための法律だったのかもしれませんが、そのお情けこそ差別の現れであり、女性の地位を低くするものであるというのが彼女の主張でした。

 1975年「エドワーズ対ヒーリー」裁判は、女性が陪審になることを免除するというルイジアナ州法が男女を差別しているという訴えでした。これもまた、元はと言えば女性を煩わせないようにという、心配りだったのかもしれませんが、明らかに女性に対する差別でした。

 1977年、「カリファノ対ゴールドファーグ」は、遺族として財産を残された場合の贈与の分配比率が男女によって差別されていることへの訴訟でした。


 こうして彼女は女性に対する差別を無くすため、様々な種類の重要な裁判に関わって行き、最高裁では6件の案件にに関わり、そのうち5件で勝訴しました。

「70年代に性差別裁判の弁護をしたときは、小学校の先生になったつもりで臨みました・・・・・要は、教育ですね。
 私が訴えかけている相手は、自分とは違う立場の人間の暮らしがどのようなものか理解していないのだから、理解できるように手助けしよう、というとらえ方です」

 1980年、民主党のジミー・カーター大統領により、彼女はコロンビア特別区巡回連邦控訴裁判所判事に指名されます。
 1993年、民主党のビル・クリントン大統領により、アメリカ合衆国連邦最高裁判事に指名されます。すでに彼女の存在は法曹界で尊敬される存在になっていたこともあり、上院司法委員会では満場一致で彼女の指名は承認され、上院本会議でも96対3という圧倒的多数で認められました。彼女はこうして史上2番目の最高裁女性判事となったのでした。
 もちろん、彼女が最高裁判事になったのは権力を求めてではなく、名誉を求めてでもありませんでした。彼女の本当の活躍はそこから本格的に始まりました。最高裁判事だからこそできる重要な裁判に彼女は関わることになって行きます。

 1996年、「アメリカ政府対ヴァージニア州」裁判は、ヴァージニア州立軍事学校における女性への入学拒否を問題にした裁判でした。その学校が公立としては最後の男子限定の学校だったようです。
 もちろんそれは女性への差別と言えるもので違憲は明らかでした。ただ僕が思ったのは、そこまでやって、厳しい軍事学校に入る女性はいるのか?という疑問でした。ところがその後、その学校には次々に女性が入学しているようです。そこは逆に驚きでした。そうした彼女の闘いを無駄にしない女性たちが現れて来たからそ、彼女は勝訴できたし、やりがいもあったのでしょう。
 「オルムステッド対ルイス・カーティス」裁判では、精神疾患を身体障害と認定することで、精神の病に苦しむ人々に障害者法を適用することを可能にしました。
 「オーバーグフェル対ホッジス」裁判では、アメリカ全州における同性婚の合法化を決定させましたが、この裁判にも彼女が深く関わったと言われています。
 2010年、最愛の夫マーティンを彼女は癌で失いました。互いに助け合う素晴らしいコンビだっただけに、そのショックは非常に大きかったようです。しかし、彼の死の翌日も彼女は最高裁の法廷に立っていたそうです。
 しかし、彼女一人では法の下の平等を守ることは困難でした。
 2103年、「シェルビー郡対ホルダー」裁判では、投票法の改正によって人種差別が実質的に行われているという訴えが起こされます。しかし、この法改正にストップをかけることはできず、それがその後の共和党有利、トランプ大統領誕生の一因となります。
この問題については、ドキュメンタリー映画「すべてをかけて民主主義のために戦う」をみて下さい!

 トランプ大統領の時代になり、アメリカが分離して行く中、彼女はバッファロー大学名誉学位授与式でこう語っています。
「二十世紀の挑戦は、私たちの地域社会を、公共の利益のために協力しつつ、互いの違いを容認し、称賛さえできるような場所にし、その状態を保ち続けることです。「多くからひとつへ」が最大の目標だと、私は信じています。それこそ、私がアメリカと世界に望むことです」

 さらに彼女は世界の現状についてこうも語っています。
「今、世界でもっとも必要なことは何だと思いますか?」
「一言で表わすとしたら、「他人の声に耳を傾けること」でしょうね。そう、きちんと聞くことです。現代人は、同じ考えの人としか話をしない傾向があります。ソーシャル・メディアも、その傾向を増長していると思います」

<参考>
映画「RBG 最強の85才 RBG」 2018年
(監)(製)ベッツィ・ウエスト、ジュリー・コーエン(米)
(撮)クラウディア・ラシュケ(編)カーラ・グティエーレス(音)ミリアム・カトラー
(主題歌)ジェニファー・ハドソン「I'll Fight」(曲)ダイアン・ウォーレン
(出)ルイス・ベーダ―・ギンズバーグ

ノンフィクション「ルース・ベイダー・ギンズバーグ I Know This to be True」 2020年
(著)ジェフ・ブラックウェル、ルース・ホブディ
(訳)橋本恵
あすなろ書房

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