<追記>2003年12月8日
<追記>2014年 5月3日
<初期のRCサクセション>
RCサクセションは1969年に結成され、1970年に「宝くじは買わない」でデビューしているのですが、デビュー当時は、忌野清志郎(Vo,Gui)、小林和生(Bas)、破廉ケンチ(Gui)という構成のフォーク・トリオでした。1972年に「僕の好きな先生」がヒットし、ファースト・アルバム「初期のRCサクセション」を発表。しかし、フォーク全盛時代だった当時、彼らのブルースやロック主体のサウンドはまったく受け入れられず、名曲「スロー・バラード」を収録したアルバム「シングルマン」(1976年)の発表後、バンドは解散状態におちいります。(この不遇の時代、清志郎が食べていけたのは、当時大ヒットした井上陽水の「氷の世界」に収録された清志郎作曲の素晴らしいバラード「帰れないふたり」の印税のおかげでした)
<復活したRCサクセション>
1978年、変化の時が訪れました。破廉ケンチに代わり、ギターに仲井戸麗市(「さなえちゃん」のヒットで有名なフォーク・デュオ古井戸の片割れ)が入り、80年には新井田耕造(Drs)、ゴンタ2号こと柴田義也(Key)の二人が加わって、新生RCサクセションが完成します。そして、名曲「雨上がりの夜空に」が大ヒットし、ライブ・アルバム「ラプソディー」の発表で、いっきに彼らは日本のロック・シーンのトップに立ったのです。
<復活のきっかけとなったメイク>
彼らがブレイクしたきっかけのひとつに、清志郎のメイクがあります。今やビジュアル系ロック・バンドという名前ができ、珍しくもない存在となりましたが、あのメイクの日本における先駆けは清志郎だったと言えるでしょう。(サディスティック・ミカ・バンドもしていたかもしれませんが・・・)それはもとはと言えば、女の子のファンからのメイクセットの差し入れが始まりだったということです。その当時、メイクアップの大御所、キッスが大ブームだったこともあり、ヒットに恵まれずに厳しい状況が続いていた清志郎は半分ヤケクソでメイクをして舞台に上がったのだそうです。ところが、それが大受けし、いよいよ彼らの人気が高まっていったのです。
<絶好調の時期からあの大事件へ>
清志郎は、その後YMOの坂本龍一と組んで、メイクアップによるデュエット曲「い・け・ないルージュ・マジック」をヒットさせ、仲井戸麗市もソロ・アルバムを発表するなど、いよいよ最高潮の時期を迎えようとしていました。そして、1988年ついに日本のロック史における歴史的な大事件に巻き込まれることになります。
<「カヴァーズ」の発売中止問題>
1988年、RCサクセションはそれまでのアルバムとは、まったく違うスタイルの作品を制作していました。アルバム・タイトルは「カヴァーズ」。その名のとうりロック史に残る名曲に清志郎が新たに歌詞をつけて録音し直すという企画でした。ところがこのアルバムが、発売の直前になって発売中止になってしまったのです。その理由についてのレコード会社からの正式発表は、新聞発表の短いコメントだけでした。
「「カヴァーズ」 上記の作品は素晴らしすぎて発売できません」
しかし、すぐにその発売禁止の理由は明らかになりました。原因は、シングル発売も予定されていた「カヴァーズ」の収録曲「サマータイム・ブルース」の歌詞にありました。この曲は、エディー・コクランがヒットさせたロックン・ロールの名曲なのですが、その曲に清志郎は原子力発電所に対する批判のメッセージを込めた歌詞をつけて歌っていました。ところが、このアルバムを発売する予定だった東芝EMIの親会社、東芝はその当時全国で稼働していた原子力発電所11基のうちの7基を担当した原子力産業の中心とも言える企業でした。そのため、グループの一部門にすぎない東芝EMIに圧力がかかり、自主的に発売中止に踏み切ったというのが真相でした。
<「カヴァーズ」を生んだきっかけ>(2014年5月追記)
先日(2014年5月2日)清志郎の5年目の命日にNHKで「ラストデイズ」が放送され、そこで清志郎がなぜ急に社会問題を扱うようになったのかを爆笑問題の太田が調べました。直接のきっかけははっきりしなかったのですが、彼自身が歌うべき歌に悩んでいたこと。そんな中、ソロアルバムを録音するために刺激を求めてイギリスに渡った彼がイアン・デューリーと出会い衝撃を受けたことが明かされていました。
当時、清志郎とイギリスで共演したブロックヘッズはイアン・デューリーのバックバンドでした。ファンクなパンク・ロック・アーティストとして一時代を築いたイアン・デューリーは、自身が障害者だったことから、社会問題について歌っていたと思われがちですが、逆に彼は常に健常者の目線でロックを歌っていたアーティストでした。
実は、当時イアン・デューリー自身の音楽活動もまた行き詰まっていて、清志郎に呼ばれてその後来日したことで活動が再会されることになります。そう考えると、彼らの演奏に衝撃を受けて社会問題を歌うことにしたというのは、ちょっと僕には疑問なのですが・・・。
当時のイギリスはサッチャー率いる保守党政権が右寄りの政治を展開するだけでなく弱者の切り捨てを行い、多くの国民が怒りを抱えている時代でした。そのため、エルヴィス・コステロらのアーティストたちが積極的に政治的な曲を歌う時代でもありました。そんな時代の空気を清志郎は強くイギリスで感じてきたのだと思います。反アパルトヘイトの主張を込めた名盤「サンシティ」の発売が1985年ですから、その影響も当然受けているのでしょう。そんな時代の空気からあのアルバムが生まれたことは、それほど違和感はなかったと僕は思います。けっして彼だけが暴走してあのアルバムを作ったのではないのです。ただ日本国内では孤立した存在だったということです。残念ながら、「ラストデイズ」ではそんな時代の空気については語られていませんでしたが、それこそが清志郎に「カヴァーズ」を作らせた原因だったと僕は思います。
<「カヴァーズ」大ヒット>
当然RCサクセション側は猛反発、東芝EMI側も他のレーベルからの発売に異論はないということになり、独立系のキティ・レーベルが発売を行うことになりました。しかし、この時点ですでにこの話題は、全国規模に広がっていて、マスコミはこぞってこの記事を書き立てていました。ラジオもこのアルバムを積極的に取り上げ、その宣伝に大きな協力をするかたちとなったのです。(ただし、この時FM東京とNHKはこのアルバムをいっさいかけませんでした!このことは、お忘れなく!)
もちろん、「カヴァーズ」は大ヒットとなり、東芝は大恥をかくことになりました。この年、スウェーデンでは、原子力発電所の廃止が決定され、1986年のチェルノブイリ原発事故の衝撃的な事実が明らかになってきたのもまさにこの頃であり、世の中の流れはすでに変わり始めていたのですから。(なのに、2003年になっても、日本では原発の建設が進められている。いったい何なんでしょう。この国は!)
<RCからソロ活動へ>
彼らは、この後「カヴァーズ」の続編とも言えるライブ・アルバム「コブラの悩み」(このアルバムはなんと再び東芝EMIから発売されています。馬鹿みたい!)とフォーク調の渋いアルバム「ベイビー・ア・ゴー・ゴー」を発表して活動を休止します。しかし、清志郎の活躍はまだまだこれからでした。
1989年には、覆面バンド、タイマーズを結成。政治やマスコミに対する素朴な怒りをより直接的な歌詞に込めて歌うパンク・ロック的なアルバム「タイマーズ」を発表したかと思えば、2・3's、リトル・スクリーミング・レビュー、ラフィー・タフィーなど次々にバンドを結成しながら素晴らしいアルバムを発表し続けています。
<清志郎、夢の実現>
1992年、清志郎は憧れのバンド、ブッカー・T&ザ・MG’sとの共演を実現させました。場所は、彼のヒーロー、オーティス・レディングやサム&デイブを初めとするサザン・ソウルの聖地、メンフィス。スティーブ・クロッパー、ドナルド・ダック・ダン、ブッカーTなど、リズム&ブルースの歴史を築いたメンバーとともにアルバム「メンフィス」を作り上げました。このアルバムの好評に答え、同じメンバーでのライブまでもが実現、その様子はご機嫌なライブ・アルバム「HAVE Mercy」として発売されています。
<パンク版「君が代」>
最近では、清志郎はリトル・スクリーミング・レビューを率いてアルバム「冬の十字架」を発表。その中には、「君が代」のパンク・ロック・ヴァージョンが収められていて、これまた「通販生活」などからの変則的な発売になりました。
<ロックの基本を忘れない男>
かつて「カヴァーズ」の発売中止事件の発覚直前に清志郎は、雑誌のインタビューでこう語っています。
「僕はね、ロックはメッセージだと思うよ。ロックでメッセージを伝えるのはダサイなんて言ってる奴は、ロックをわかっていないと思うな」
そして、彼がいつもそのメッセージの基本としているのが、「ロックは常に反体制であれ」ということです。
この後、事件が世の中で大きく取り上げられてから、彼はあえてマスコミの取材を拒否し続けました。彼は反原発のヒーローに祭り上げられることと、自分のアルバムの宣伝をしていると思われることを嫌ったのです。やっぱり、かっこいい!
最近は、彼とまったく正反対の行動をとっているロック?アーティストもいるようですが(権力の側に平気でついてしまうなんて、いったいどういう感覚なんでしょう?)ずいぶんとロックは安っぽい音楽になってしまったようです。まだまだ清志郎さんには、がんばってもらわねば!
<書き忘れ>
最後に、彼がメンフィス市の名誉市民であることと、ロック界唯一のホラ貝奏者であることも記しておきます。
<「奇妙な世界」を聞いて>(2003年12月1日追記)
清志郎のニュー・アルバムに「奇妙な世界」という曲があります。
ある日ごく普通の人がテレビを見ていると、そこにおかしな戦争が行われている奇妙な世界が映し出されていた、という内容です。それは今の日本のテレビに映し出されているイラク戦争に関する映像といっしょかもしれません。しかし、本当に奇妙なのは、その映像を見てもそれを奇妙だと感じない人々がいかに多いかということなのかもしれません。
僕の大好きなSF作家のカート・ヴォネガット・Jrは、こう言っています。
「フィクションはメロディーであり、ジャーナリズムは、その上にニューがつこうがオールドがつこうが、ノイズなのです」
清志郎はけっしてジャーナリストとして歌を歌っているわけではないでしょう。美しいけれども、悲しくて、可笑しい不思議な世界のことを歌っているだけなのだと思います。しかし、だからこそ、その歌は僕らの「心」に響くのかもしれません。
カート・ヴォネガット・Jrは、またこうも言っています。
「いずれにせよ肝心な問題は、・・・真理を語ろうとする当人が相手に正直な人間という印象与えるか否かです」
どんなに奇抜な化粧をしても、どんなにド派手な衣装やアクセサリーを身につけても、彼が嘘っぽく見えることはありません。それは彼がそれなりの年月をかけて築き上げてきた「信用」がしっかりと顔に刻まれているからでしょう。男は40過ぎたら顔に出るとは良くいったものです。皆さん、自分の顔には責任をもちましょう!
<札幌でのライブに行きました>2003年12日8日
12月7日札幌のスピカで行われるライブに行きました。
今回のライブはある意味、忌野清志郎の「キング襲名披露」ライブでした。時にJ・B、時にオーティス、時にミック・ジャガー、時にジョン・レノン、そして最後には坂本九、でもその正体はしっかり「キング忌野」という存在感を見せてくれました。お腹一杯のライブでした。(6時開演で終わったのは9時でした。その後さらに握手会のおまけまでつくサーヴィスぶりは、まさにキング・オブ・エンターテイメントでした)
久々のニュー・アルバム「KING」も良いです!ライブでもほぼ全曲やりましたが、まったく捨て曲のない傑作アルバムです。(「奇妙な世界」は、清志郎版「イマジン」です)
皆さん、これからは、「キヨシロー」ではなく「キング」と呼びましょう!
<締めのお言葉>
「当時も、今も、わたしの問題はそれだ。態度がよくない。早く言えば、わたしは権力が怖いくせに、それに−権力と、そしてわたし自身の恐怖に−腹が立つものだから、つい反抗してしまうのだ。SFを書くのも、一つの反抗のしかたである」
フィリップ・K・ディック
[参考資料]
ミュージック・マガジン1988年9月号
<ご冥福をお祈りします>
2009年5月2日午前0時51分がん性リンパ管症により、ついに忌野清志郎はこの世を去りました。なぜか誰もが清志郎は決して死なない、必ず復活してステージに立つものだ。そう思っていたのではないでしょうか。
本当は生きていて「愛し合ってるかい!」とどこかで叫んでいるのではないか、そんな気がします。
彼に続くロック魂にあふれたアーティストたちが今後も現れて活躍してくれることを願います。