「理由なき反抗 Rebel without a couse 」 1955年

- ニコラス・レイ Nicholas Ray 、ジェームス・ディーン James Dean -

<永遠の青春像>
 わずか3本の主演作を残してこの世を去った永遠のヒーロー、ジェームス・ディーン2作目の主演作。この映画で描かれた父親と対立する青年像は当時アメリカで問題となっていた世代間対立の主人公である若者たちの姿さそのままでした。そこで描かれていた型にはまり夢のない親たちと彼らに理解されずに苦しむ純粋な若者たちの対立の構図、それはアメリカでこの後起きることになる反体制運動の基本となるものでした。それは「ダーティー・サーティー 30歳を越えた大人は信用できない」という極端な若者中心主義の先駆けともなります。
 この映画の主人公ジェームス・ディーンがその公開を待たずに24歳という若さでこの世を去ったことは、彼の名を伝説的な存在にしただけでなく、「青春時代」というものの美しさを永遠不滅であり絶対的なものにしました。そして、彼が自ら選んだ赤いブルゾンとブルージーンズはその象徴として、世界中で一大ブームを巻き起こすことになります。もともと、若者のファッションとしてジーンズを流行らせたのは、1951年に「欲望という名の電車」で登場したマーロン・ブランドでした。ジェームス・ディーンは演技や着る物など、すべてについてマーロン・ブランドに憧れていましたが、青春のシンボルという面では完全にブランドのお株を奪うことになりました。長生きしたことでブランドは「ゴッド・ファーザー」や「地獄の黙示録」などの映画史に残る傑作に出演することができましたが、年をとるにしたがい「変人俳優」、「台詞を覚えられない怪優として扱われるようになってしまいました。やはり青春スターは若死にしなければならないのでしょうか。
 「理由なき反抗」も元々はそのマーロン・ブランドを主役として撮影される予定で、1946年にはすでに脚本ができていました。ところが、ブランドがこの脚本を気に入らずお蔵入りになったままでした。

<「理由なき反抗」の原作>
 実は、この映画の原作は小説ではなくロバート・リンドナーという医師が書いた心理学の研究書「理由なき反抗 - 犯罪精神病質者の催眠分析」でした。当初は、それを脚色、物語化することで映画化しようと考えられていたのです。しかし、そこから満足できる作品は生まれず、結局そのタイトル「理由なき反抗 Rebel without a cause」だけを生かして、まったく新しいお話しをアーヴィング・シュルマン、スチュワート・スターンが書き上げたものが元になったのです。
 しかし、原作がノンフィクション作品だったことは、その後書き直された脚本にも影響を与えました。特に監督のニコラス・レイは、そのこだわりが強かったようで、この作品には当時の若者たちの非行の様子がリアルに描かれることになりました。これはたぶん監督のニコラス・レイ自身が誰よりも反抗する世代監督であったことの証明でもあるのです。もしかすると、この映画の主役はジェームス・ディーンではなくニコラス・レイだったのかもしれません。

<ニコラス・レイ>
 お蔵入りになっていたその脚本に目をつけたのは、西部劇の傑作「大砂塵」(1954年)を撮ったばかりのニコラス・レイでした。1950年代に入り若者の非行や学校教育現場の崩壊が社会問題化していたこともあり、彼はその題材を映画化しようと思ったのです。しかし、マーロン・ブランドが興味を示さなかったようにその脚本自体は映画的に面白いものではなかったため、彼は大幅な書き直しに着手、何度となく書き直しが行われました。さらに、すでにマーロン・ブランドでは年齢的に合わなくなっていたため、主役を演じる俳優選びが大きなポイントになってきました。

<ジェームス・ディーン>
 主役の選定に悩んでいた監督のもとへ、隣にあったエリア・カザンの事務所から「エデンの東」を撮り終えたばかりのジェームス・ディーンが訪ねてきました。それはエリア・カザンの勧めによるものだったのですが、昔からエリア・カザンを敬愛していたレイはさっそくジェームス・ディーンと会い、すぐに主役は彼しかいないと感じました。彼は後にこう語っています。
「彼の人生は、どこかに属したいと願いながらも、そうするのが怖いというドラマだった。ジム・スターク(「理由なき反抗」の主人公)も同じだった。・・・」
 二人はその後、撮影に入るまでの期間中、いっしょに酒を飲み、夜遊びに興じることでお互いを理解し合い良い関係を作り上げてゆきました。当時はまだ、「エデンの東」が公開されていないこともありジェームス・ディーンを一流の俳優と認める人は少なかっただけに、いち早く彼の才能を認めた監督の目は確かだったといえます。しかし、それは監督のニコラス・レイ自身がジェームス・ディーンという人物に非常に近い人間だったということの証明なのかもしれません。こうして素晴らしい人間関係が生まれたことで、この映画は傑作となる条件を獲得することになります。

<ニコラス・レイ>
「俺は世界最高の映画監督だ。そして未だに満足ゆく映画を一本も作ったことがない」ニコラス・レイはこう言ったことがあるそうです。
 1911年8月7日ウィスコンシン州に生まれた彼は、建築家を目指し、世界的な建築家フランク・ロイド・ライトのもとで勉強していたものの、大恐慌の中、労働者のための左翼演劇活動の世界に飛び込みます。その後、太平洋戦争が始まると、OWI(戦時情報局)で働くようになり、ラジオ番組や宣伝映画の制作に関わりました。そして、この頃同じように左翼の演劇活動で活躍していたエリア・カザンらと知り合うようになります。そうして彼は、映画とは「人間の夢や希望を運ぶのに最良の手段である」と考えるようになり、本格的に映画の世界で生きる決心を固めたのでした。
 彼のデビュー作となった「夜の人々」(1949年)は、有名な「ボニーとクライド」の物語の映画化作品でしたが、彼は原作を自ら脚色し、なおかつ現場で撮影を行いながら台詞をどんどん変えてゆく彼ならではの演出方法を早くも実施。若い二人の主人公を生き生きと描き出すことに成功します。こうした、現場でのアドリブを重視する撮影方法は、その後多くの監督たちが取り入れて行くことになりますが、その中の一人ロバート・アルトマンの作品「ボウイ&キーチ」が「夜の人々」のリメイク作品であることは以外に知られていません。

<「大砂塵」>
 彼のアドリブ重視の撮影方法は時に大きな問題を起こすこともありますが、そこから思いがけない作品が誕生する可能性もありました。
 例えば、映画史に残る傑作のひとつ「大砂塵」の場合は、こんなことがありました。大物女優エヴァ・ガードナーのわがままに散々振り回されていた彼が共演の若手女優マーセデス・マッケンブリッジにばかり演技指導していると、それを見たエヴァが機嫌を悪くしてしまい、彼に女同士の決闘をさせろと提案しました。脚本とはまったく異なる展開でしたが、彼はやけくそでその提案を受け入れ、映画史上初の「女の決闘」が実現したのでした。そして、これがこの映画を西部劇の歴史に残る作品にする最大の理由となりました。しかし、こうした臨機応変な撮影がいつもできたわけではありませんでした。
 当初、彼が所属していた映画スタジオRKOは、その後伝説の大金持ちハワード・ヒューズによって買収され、彼の口出しや指示もあって自由に仕事を選ぶことができない状況になってゆきました。その代わり彼はかつて左翼の運動に深く関わっていたものの、ハワード・ヒューズの強大な権力によって守られたために「赤狩り」の追及を免れることができましたが、それは彼にとって屈辱的なことだったかもしれません。
 1950年になって彼はついにフリーの監督となり、その後前述の「大砂塵」や「理由なき反抗」、ハンフリー・ボガート、ローレン・バコールとの協力作品でアドリブを多用した「孤独な場所で」(1950年)などの意欲作を次々に撮ることになります。

<ハリウッドを離れて>
 彼はこの後、アルコール依存症や映画会社とのトラブルにより、次々に仕事を失うことになり、「暗黒街の女」を最後にハリウッドを去ってヨーロッパへと渡ることになります。幸い、ヨーロッパでは高い評価を得ていた彼は、その後ヨーロッパでは高い評価を得ていた彼は、その後ヨーロッパ資本による大作映画の監督を任されることになり、イエス・キリストの生涯を描いた作品「キング・オブ・キングス」(1961年)を撮ることになります。しかし、ここでも彼は自分の権限で作品を完成させることは許されず、3時間半以上あったフィルムは一時間以上もカットされ、別の監督の撮ったシーンが追加されて公開されるという屈辱的な仕打ちを受けることになります。その後、中国における実際に起きた有名な事件を描いた戦争大作「北京の55日」の撮影中、ついに彼は心臓発作で倒れてしまいます。彼の心と身体はもうボロボロになっており、もう監督という仕事を続けることはできなくなっていました。監督業を引退した彼は、アメリカに戻ると、ニューヨーク大学で映画作りについて教える教授となり、そこでヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュらの才能ある監督たちを育てることになります。

<「理由なき反抗」の時代>
 こうして波乱に満ちた人生を送ったニコラス・レイにとって、「理由なき反抗」の撮影は短かい充実期にあたっていたといえそうです。
 すでにこの当時ジェームスの異常なわがままぶりは、スタッフの間では有名になっており、そんな彼を高く評価する監督に回りは驚きあきれていたようですが、彼の才能を認めていた監督は撮影中どんどん彼のアイデアを取り入れることで脚本を変えていったといわれています。しかし、その撮影中に「エデンの東」が公開され、大ヒットとなりジェームス・ディーンの名が一躍知れ渡ったことで、まわりの対応も変わってきました。当初は低予算の映画としてモノクロ・フィルムで撮られることになっていた「理由なき反抗」は、急遽予算が増額となりカラーに変更となります。
 しかし、この映画の撮影中、わがまま放題が許されていたジェームス・ディーンでしたが、この作品の後、厳しい現実が待っていました。この映画の撮影中すでに出演が決まっていた「ジャイアンツ」は、アメリカを代表する巨匠ジョン・スタージェスの大作であり、大物女優エリザベス・テイラーとも共演できることもあり、彼自らが出演を望んだ作品でした。ところが、撮影が始まると彼は自分が選択を誤ったことを思い知らされることになります。巨匠ジョン・スタージェスの演出は自分にとって、さらなるレベル・アップにつながると期待していたのは間違いだったのです。エリア・カザンやニコラス・レイのような新世代の監督たちと違い職人気質で頑固者の監督ジョン・スタージェスは、脚本を完璧に映像化することが監督の仕事と考えていました。したがって、ジェームスがどんなに優れた演出上のアイデアを出しても、それを無視して撮影を続けました。
 そんな仕打ちにがっくりきた彼に追い討ちをかけるように、恋人だったイタリア人女優ピア・アンジェリとの恋が破局に終り、彼は撮影をサボるなど次々に問題を起こしました。この時、彼の愚痴を聞き、慰める役目を果たしたのは、すでに大物女優となっていたエリザベス・テイラーでした。後に彼女はあのマイケル・ジャクソンとも親しくなるなど、なぜか問題児の世話が大好きのようです。マイケル・ジャクソンとジェームス・ディーンどちらも冷たい父親に育てられ、優しい母親の存在を求め続けながら子供の心のまま大人になってしまった天才アーティストです。エリザベス・テイラーもまた早くから芸能界入りをした子役出身のアイドル・スターでしたが、彼女の場合は逆にいち早く大人になり、母親になってしまったのかもしれません。何せ彼女は1950年に最初の結婚をして以来、8回も結婚と離婚を繰り返すことになるのです。この映画の時、彼女はまだ23歳という若さだったのですが、すでに人生の大先輩として彼の相談にのることのできる存在になっていたのでしょうか。
 1955年9月30日、ジェームス・ディーンは「ジャイアンツ」の撮影中、愛車のポルシェ550スパイダーに乗って高速道路を走っている最中に事故を起こし、あっさりとこの世を去りました。彼はその車に乗ってサーキットで行われるレースに出場するために慣らし運転もかねてレース会場に向かう途中でした。子供の心のまま大人になった天才俳優は大好きなオモチャとともにこの世を去ったのでした。

<1955年という年>
 彼の登場とその壮絶な死は、この後アメリカ全土に広がる新たな若者たちの時代を象徴するものでしたが、その流れはもちろん彼だけのものではなく、この年にはあの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」をテーマ曲としたリチャード・ブルックス監督の「暴力教室」も公開されていました。ロックン・ロールをテーマ曲とする初めての映画の登場は、アメリカでは「理由なき反抗」に匹敵する反響を呼び、映画館で暴動が起きたりすることで「ロックン・ロール」=「不良の音楽」というイメージを築いてしまうことになります。しかし、そうしたイメージは逆にロックン・ロールの人気を高めることになります。
 同じくこの年には、そんな反抗する若者たちのアイドルとなるもうひとりのアーティスト、エルヴィス・プレスリーが前年に発表した「ザッツ・オール・ライト」の大ヒットにより、一躍世界的大スターへの道を歩み始めています。
 さらにさらに、この年の10月、サンフランシスコの画廊「ギャラリー・シックス」では、もうひとり時代を象徴するカリスマ・ヒーローが誕生しています。書き上げたばかりの詩集「吠える」のポエトリー・リーディングを行ったアレン・ギンズバーグです。彼の登場により、ビートニクと呼ばれる新しいカウンター・カルチャー・ヒーローたちの活躍が本格化することになります。
 北海道が生んだ偉大な小説家、三浦綾子は、生前こんなことを言っていました。
「世の中をいっきに変えることはできないでしょう。でも、後でふりかえると、あの時、世の中はいっきに変わっていた、そう思える時はあるかもしれません」
 1955年という年は、まさにアメリカの反抗的な青春時代が始まった年であり、その後を追うように世界中の若者たちが反体制という名の下に暴れ始めるターニング・ポイントとになった年だったのです。

「理由なき反抗 Revel Without A Cause」 1955年公開
(監)(原案)ニコラスレイ
(製)デヴィッド・ワイスバート
(脚)スチュワート・スターン、アーヴィング・シュルマン
(撮)アーネスト・ホーラー
(音)レナード・ローゼンマン
(出)ジェームス・ディーン、ナタリー・ウッド、サル・ミネオ、ジム・バッカス、デニス・ホッパー


<あらすじ>
 町に越してきたばかりの若者ジム(ジェームス・ディーン)は、両親に反抗的なだけでなく大人たちすべてに対して批判的で常に問題を起こしていました。新しい町でもまた非行少年のグループと喧嘩をしてしまい、カーレースの勝負をすることになってしまいます。レースで彼は勝利をおさめるものの、事故によって相手の少年バズが死んでしまいます。仲間の少年たちに命を狙われることになたジムは恋人のジュディ(ナタリー・ウッド)と友だちのプレートー(サル・ミネオ)とともに空き家に逃げ込みますが、彼らに見つかってしまい喧嘩が始まり、プレートーは隠し持っていたピストルで相手のひとりを撃ってしまいます。その後、三人は警官によってプラネタリウムの中に追い詰められ、プレートーは投降しようと投降しようとしたところを誤って射殺されてしまうのでした。


70mm映画登場(米)

「足ながおじさん Daddy Long」(監)ジーン・ネグレスコ(音)アルフレッド・ニューマン(出)フレッド・アステア、レスリー・キャロン
「埋れた青春」(監)(脚)ジュリアン・デュヴィヴィエ(原)J・ヴァッセルマン(出)ダニエル・ジェラン、エレオノラ・ロッシ・ドラゴ
「失われた大陸」ドキュメンタリー(製)レオナルド・ポンツィ、エンリコ・グラース他(カンヌ映画祭審査員特別賞
「エデンの東」(監)エリア・カザン(出)ジェームス・ディーン(ジョー・ヴァン・フリートがアカデミー助演男優賞カンヌ映画祭劇的映画賞
「黄金の腕 The Man with the Golden Arm」(監)(製)オットー・プレミンジャー(脚)ウォルター・ニューマン(出)フランク・シナトラ、エリノア・パーカー
「オクラホマ!Oklahoma」(監)フレッド・ジンネマン(音)リチャード・ロジャース、オスカー・ハマースタイン2世(出)ゴードン・マクラー、シャーリー・ジョーンズ
「崖」(監)(脚)フェデリコ・フェリーニ(脚)エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ビネッリ(出)ブロデリック・コロフォード、リチャード・ベースハート
「狩人の夜」(監)チャールズ・ロートン(原)デイヴィス・グラブ(脚)ジェームズ・アギー(出)ロバート・ミッチャム、リリアン・ギッシュ、シェリー・ウィンタース
奇跡(監)カール・テオドール・ドライヤー(出)ヘンリク・マルベルイ(ヴェネチア映画祭金獅子賞のデンマーク映画)
「汚れなき悪戯」(監)ラディスラオ・ヴァホダ(脚)J・M・サンチェス・シルバ、L・ヴァホダ(出)パブリート・カルヴォ
「七年目の浮気 The Seven Year Itch 」(監)ビリー・ワイルダー(出)マリリン・モンロー
「空と海の間に」(監)(脚)クリスチャ=ジャック(脚)アンリ=ジョルジュ・クルーゾー(出)アンドレ・ヴァルミー、ジョルジュ・プージュリー
「大地のうた」(監)(脚)サタジット・レイ(音)ラヴィ・シャンカール(出)サヴィル・バナルジー(インド映画の存在を世界に知らしめた傑作)
「東京暗黒街 竹の家」(監)(脚)サミュエル・フラー(脚)ハリー・クライナー(撮)ジョー・マクドナルド(出)ロバート・スタック、ロバート・ライアン、山口淑子、早川雪舟
「泥棒成金 To Catch A Thief」(監)アルフレッド・ヒッチコック(出)グレース・ケリー
「バラの刺青 The Rose Tattoo」(監)ダニエル・マン(イタリア人のアンナ・マニャーニがアカデミー主演女優賞
「ピクニック」(監)ジョシュア・ローガン(原)ウィリアム・インジ(脚)ダニエル・タラダッシュ(出)ウィリアム・ホールデン、キム・ノヴァク
「必死の逃亡者」(監)(製)ウィリアム・ワイラー(原)(脚)ジョゼフ・ヘイズ(出)フレデリック・マーチ、ハンフリー・ボガート
「暴力教室」(監)リチャード・ブルックス(原)エヴァン・ハンター(脚)バンドロ・S・バーマン(出)グレン・フォード、アン・フランシス
(公開に対して観覧禁止運動が各地で起こる。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がこの映画とともに大ヒット)
「ヘッドライト」(監)(脚)アンリ・ヴェルヌイユ(脚)フランソワ・ボワイエ(出)ジャン・ギャバン、フランソワーズ・アルヌール
「慕情 Love Is Many-Splendored Mind 」(監)ヘンリー・キング(脚)ジョン・パトリック(出)ジェニファー・ジョーンズ、ウィリアム・ホールデン
「マーティ Marty」(監)デルバート・マン(アカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞(アーネスト・ボーグナイン)、カンヌ映画祭グランプリ
「ミスター・ロバーツ Mister Roberts」(監)ジョン・フォード、マーヴィン・ルロイ(ジャック・レモンがアカデミー助演男優賞
「リチャード三世」(監)(脚)ローレンス・オリビエ(脚)アラン・デント(原)ウィリアム・シェークスピア(出)ローレンス・オリビエ、クレア・ブルーム
「理由なき反抗」(監)(原)ニコラス・レイ(脚)スチュアート・スターン他(出)ジェームス・ディーン、ナタリー・ウッド、サル・ミネオ
「旅情 Summertime」(監)(脚)デビッド・リーン(脚)H.E.ベイツ(出)キャサリン・ヘップバーン、ロッサノ・ブラッツィ

「生きものの記録」(監)(脚)黒澤明(脚)橋本忍、小国英雄(出)三船敏郎、志村喬、東郷春子
浮雲(監)成瀬巳喜男(原)林芙美子(脚)水木洋子(出る)高峰秀子、森雅之
「浮草日記」(監)山本薩夫(脚)八住利雄(出)津島恵子、菅原謙二、小沢英太郎
「警察日記」(監)久松静児(脚)井出俊郎(撮)姫田真左久(出)森繁久弥、三国連太郎
「ここに泉あり」(監)今井正(脚)水木洋子(出)小林桂樹、岸恵子、岡田英次
「野菊の如き君なりき」(監)(脚)木下恵介(原)伊藤左千夫(出)有田紀子、田村高広
「ひろしま」(監)関川秀雄(撮)宮島義勇(ベルリン映画祭作品賞
夫婦善哉(監)豊田四郎(原)織田作之助(脚)八住利雄(出)森繁久弥、淡島千景


モントゴメリーでバス内の差別に反したローザ・パークスが逮捕される
これをきっかけに大規模なバス・ボイコット運動が起きる
エメット・ティル殺害事件により人種差別の現状が明らかになる
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)29ヶ国の参加で開催
(各国が民族自決を宣言)
東欧11ヶ国によるワルシャワ条約調印
アルゼンチンでクーデター(ペロン大統領失脚)
バグダッド条約成立(後の中東条約機構CENTO)
南ヴェトナムでゴ・ディン・ディエムが大統領に
物理学者アルバート・アインシュタイン死去
<日本>
第一回原爆禁止世界大会開催(広島)
原子力基本法成立

<芸術、文化、商品関連>
「ロリータ Lolita」ウラジミール・ナボコフ著
「寓話」ウィリアム・フォークナー著(全米図書賞)(ピューリツァー賞受賞)
「長いお別れ」レイモンド・チャンドラー著(エドガー賞)
ビート詩人アレン・ギンズバーグが「吠える」を発表
「ペドロ・パラモ」ファン・ルルフォ著(メキシコ)
石原慎太朗「太陽の季節」で文壇デビュー
「旗」 ジャスパー・ジョーンズ
映画「理由なき反抗」のヒットにより、ジェームス・ディーンが着ていたT-シャツとブルージンズが人気ファッションとなる
クリスチャン・ディオールによる「A-ライン」発表
シボレーがクロームメッキの「ベルエア」発表(大型化高級化進む)
「レゴ・ブロック」現在のデザインになる(デンマーク)
ロサンゼルスにディズニーランド開園
ソニーがポータブル・トランジスタ・ラジオ「TR−55」発売
東芝が電気釜を発売
<音楽関連(海外)>
ヘルヴェルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィルの主席指揮者となる
赤狩りの影響で解散していたフォーク・グループ、ウィーバーズ再結成
ケイジャンの名アコーディオン奏者、アイリ・ルジューンが事故死(27歳)
P・クーテフ率いるブルガリア国立歌舞アンサンブル、パリ公演、初のアルバム録音
ヌムール・ジャン・バチストがカリビアン・サウンドの基礎となるコンパを演奏し始める
<音楽関連(国内)>
渡辺プロ設立(クレイジー・キャッツなどジャズ系アーティストのプロダクションとしてスタート)
作曲家の吉田正がブルー・ノートを用いた歌謡曲を作り、「有楽町で逢いましょう」に代表される「都会派歌謡曲」を生み出す
「ジャンケン娘」で江利チエミ、雪村いずみ、美空ひばり共演。三人娘誕生
春日八郎などによる故郷歌謡がブームになる(田舎から都会への移動進む)
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