レコードの歴史とポピュラー音楽の変遷


「レコードの歴史 エディソンからビートルズまで」

- ローランド・ジェラット Roland Gelatt -
<蓄音機の歴史>
「蓄音機(フォノグラフ)の歴史は、一つの発明、一つの産業、そして同時に一つの楽器の歴史である。それはそのほかではありえない。エディソンの粗雑な錫箔装置からハイ・フィディリティの再生機や今日のレコードに至る歴史的進歩のうちには、科学と商売と美学とが不可分に入り組んでいる」
ローランド・ジョット

 「レコードの歴史」という名著(古典的)を参考に「レコードの歴史」とそれに関わる「レコード会社」、「テープ」、「録音技術」などの歴史をまとめてみました。ここでは、できるだけ時系列的に並べてみましたので、時代と共にどう変化してきたのかがわかると思います。
 今や、レコードどころか、その後継となったMDやCDですら過去の存在となりつつあるだけに、「レコードの歴史」はほとんど考古学的な価値を持ちつつあります。ただし、レコードとして録音されたソフトの多くは現在でもCDやネット配信で聴くことができるので、ある意味現代ともつながっています。そう思って読んでもらえればと思います。そう考えると「音楽」ほど時代を越えて、その価値を保ち続けている文化はないかもしれません。

<レコードの歴史は音楽の歴史>
 蓄音機の歴史は、ある意味、20世紀の音楽の歴史でもあります。録音技術の進化、再生ソフトの進化は、大衆音楽の変化、ヒット曲のジャンルの変化とも連動していました。
 例えば、19世紀の間は、「音楽」ではなく「人の声」が主役でした。それは、録音技術が音楽を聴かせるレベルに達していなかったからです。20世紀に入ると、主役はオペラ歌手になりますが、それも録音技術が「人間の声」しか録音、再生ができなかったからです。録音技術の向上により、1920年代になると、ヨーロッパではオーケストラが主役となり、アメリカではジャズが主役となります。その後、電気録音の技術が開発され、ステレオ録音が可能になり、LP盤が登場し、その都度、そうした技術やソフトに合わせたヒット曲、ヒット・ジャンルが生まれることになります。そのあたりにも注目しながら、レコードの歴史を見直したいと思います。

1877年 
蓄音機誕生>
 発明王エディソンは電報をモールス信号の長短符号で紙テープに転写し、後でその電文を何度でも繰り返す機械を開発していました。そのため、彼はテープにテンションをかけるため鋼鉄のバネを使用。するとテープが動く時にバネを刺激して、それが不思議な雑音を発していることに気づきます。
「軽い音楽的なリズムのあるような音で、かすかに聞こえる人間のしゃべる声に似ている」
 彼はそう感じると同時に、これはもしかすると何かに使えるかもしれないと考えました。こうして電信の伝言を記録する研究から電話の言葉を録音するための研究が始まることになったのでした。当初、彼はその実験のためにパラフィン紙のテープを使っていましたが、それを改良し、錫箔を巻いた円筒を使うようになります。こうして、翌1978年、人間の話し声を録音可能な装置(蓄音機)が作られ、「スピーキング・フォノグラフ」として発売されることになります。
 ところが、この新製品は、画期的な商品として話題になりますが、500台ほど作ったところで生産は中止されます。
 生産中止の理由は、売れ行きが止まり、これ以上は売れないと判断されたからでした。なぜなら、録音時間がわずか1分と短いこと、ノイズがひどく音域が狭かったことなど、欠点がありすぎました。もちろん、性能の向上も可能ではありましたが、当時エディソンは、「電球」の開発に熱中していたため、この発明はそのままお蔵入りになりました。彼にとって、この装置はそれほど価値のあるものには思えなかったようです。エディソン自らが歌った「メリーさんの羊」の歌から始まったものの、それは音楽用として使用するには無理があったのでした。
 こうして「蓄音機の歴史」は、1877年に始まるものの、1879年から1887年までしばしの停滞状況となります。
1887年
<グラフォフォン誕生>
 開発が止まったままのエディソンの蓄音機に興味を持った彼の最強のライバル、アレグザンダー・グラハム・ベルは、いとこのチチェスター・A・ベル、チャールズ・サムナー・ティンターと1887年にその改良品「グラフォフォン」を発表します。
 その特徴は、ワックスをかけた板紙を円筒に巻き付け、そこにゆるく浮かせた針を接触させて、溝をそって動かすというものでした。エディソンの装置が固定された針だったのに対し、スムーズに動く針は、より良い音、より再現性の高い音を実現していました。
 それに対し、エディソンはすかさず反撃に出ます。ライバルが設立したアメリカン・グラフォフォン社に対して特許侵害の訴訟を起こしたのです。これはそのままだと長引く訴訟となったはずです。しかし、ここにもう一人ジェシ・H・リピンコットというピッツバーグの実業家が参戦。彼は、アメリカン・グラフォフォン社を買収しただけでなく、エディソンにも製造権を認めることで訴訟問題を終わらせ、蓄音機産業の主役に躍り出ます。
 1887年7月、彼は新会社ノース・アメリカン・フォノグラフ社を設立します。ところが、この会社は蓄音機の使用目的を企業や政府向けの口述録音用装置として利用することに絞り込んだため、大きな需要を掘り起こすことに失敗してしまいます。タイプライターを使う速記者たちに総スカンを食ったこともあり、使用企業は増えず、すぐに事業は行き詰まり、1894年には撤退してしまいます。
 そんな中、唯一、将来への明るい兆しは、ノース・アメリカン・フォノグラフ社の子会社の一つが、5セントで録音済みの音楽を聴けるサービスを行い始め、ドラッグ・ストアや酒場などで人気を獲得。スーザやフォスターの人気曲が、この「元祖ジューク・ボックス」から流れることになりました。(しかし、親会社の失速によりこのサービスはその後、しばし忘れられることになります)
 1894年、アメリカン・グラフォフォン社は、エディソンが電気モーターを使った蓄音機の開発に手間取っている間に、ゼンマイ仕掛けによる1台75ドルの機種を売り出し、音楽の再生を目的とする蓄音機を大衆に広め始めます。
グラモフォン誕生> 
 1870年、19歳でドイツから移民してきたエミール・ベルリーナーは、3年間、様々な職を転々とした後、発明家を目指します。図書館にこもり、独学で様々な学問を学んだ彼は、電話機についての発明をベル研究所に売り込みます。彼の発明を評価した研究所は、彼のアイデアを買いとっただけでなく、彼にその後の研究資金を提供します。
 彼は、その後、「蓄音機」の改良に挑み、ガラスの円盤に油煙膜をはり、そこに針を接触させる「円盤レコード」の原点となるアイデアを生み出しました。彼は油煙膜に刻まれた溝をニスで固め、さらにそれを金属板でに転写することにも成功します。
 1887年9月26日、彼はこの発明を特許として申請。そして、この新製品に円筒を使った「フォノグラフ」と区別するための新しい名前「グラモフォン」を冠しました。この後も、彼はさらにこの装置に改良を加えて行きます。
 1888年、彼は亜鉛盤を薄い脂肪性フィルムで覆い、そこに音を刻み、さらにそれを酸につけて腐食させ、そこに溝を浮き出させることに成功します。これにより、円盤レコードは、より大きな音、よりクリアな音を実現します。 
 ベルリーナーは、同年フィラデルフィアのフランクリン協会会員を前にグラモフォンの実演会を開催。この方法を用いることで、亜鉛の原板を保存しておけば、何枚でも複製を作ることが可能になると説明。この特徴は、1本の円筒から数本しか複製を作れなかった円筒型に対する大きなアドバンテージでした。彼はこの方法により、「優れた歌手や話か家や演奏家はかれらのフォノートグラフの売り上げ印税から収入を得ることができるであろう」と発言。ここで「印税」という概念が、レコードにおいて初めて登場しました。最終的には、こうしたアドバンテージによって、円盤型レコードが勝利をおさめることになるのですが、エディソンはそれまでの実績と財力による大がかりな広告戦略などによって、その後も蓄音機市場での闘いを続けますが、19世紀の終わりにはその勝敗の行方は明らかになります。
1899年 
ニッパ―(ヴィクターのキャラクター)誕生>
 グラモフォン社を画家のフランシス・バーローという人物が訪れます。彼は自分が持っている蓄音機の古いホーンを新しいものに変えて、それを作品に描きたいと説明します。以前、彼が書いた蓄音機と犬(ニッパ―)の絵「His Masters Voice(彼の主人の声)」が好評で、それをもう一度描こうと思っているとのことでした。
 その話を聞いたグラモフォンの専務ウィリアム・バリー・オーエンは、エディソン蓄音機の絵ではなくグラモフォンの絵に変えて描いてくれれば、それを購入したいと申し出ます。こうして出来上がった絵は、当初、グラモフォン本社の壁に飾られるだけでしたが、その後、1900年ごろからは様々な印刷物に使用されるようになります。1909年にはレコードにも印刷されることになり、あの有名な「ビクター」の企業ロゴとなりました。
1900年
テープ・レコーダー誕生> 
 この年のパリ万国博覧会でグランプリを受賞した発明。それが「テレグラフォン」と呼ばれる磁気テープによる録音・再生装置でした。 テープ・レコーダーの元祖となるその装置を開発したのは、ウラディミール・パウルセンというデンマークの機械技師でした。彼は当時のレコードが摩耗によって長持ちしなかったのに比べ、磁気による録音は2000回以上の再生が可能であることを証明し、人々を驚かせました。
 しかし、当時は磁気テープがまだなく、ワイヤーやリボンを使用。マイクロフォンやアンプもなかったことから明瞭な音を録音・再生することもできませんでした。基本的な原理は証明されたものの、それに用いる材料・素材が登場するまで、この発明は半世紀近くお蔵入りとなります。
1901年
グラモフォン「赤盤」誕生>
 この年、グラモフォンは後に「赤盤」と呼ばれることになる10インチで5ドルの円盤型レコードを発売し始めます。それまでの7インチ盤が、3シリング程度だったのに対し、かなり高額なこのシリーズは音質も向上した高級志向の路線で、人気のオペラ歌手の独唱を売りにヒットすることになります。
 この年、グラモフォン社の音楽顧問としてまだ20代のイギリス人、ランド・ロナルドが雇われます。彼は多くのアーティストの録音に関わり、最初の大物音楽プロデューサーとして知られることになります。ただし、彼の仕事には音楽プロデューサーとしての才能以外にも、我儘なオペラ歌手たちをなだめすかして録音させる能力も必要で、様々な要求に答えることも求められました。彼はいかに優れたアーティストを探し出し、彼らとの契約を行い、良い音で録音するか、すべてを任されていました。
<ライバル登場>
 ベルリンを本社として、インターナショナル・ゾノフォン社が誕生。ヨーロッパ各地で録音を行い、グラモフォンのライバルとして活動し始めます。当時はまだ、アーティストとレコード会社が専属契約を結ぶということはなかったので、この会社は後追いながらグラモフォンに匹敵するリストを揃えて行きます。しかし、1903年、この会社はグラモフォンに吸収されてしまい、グラモフォンの独占状態がその後も続くことになります。
 ベルリーナーとコンビを組み製造側を仕切っていたエルドリッジ・ジョンソンは、自らの手でグラモフォンを改良し、その音質を向上させた後、独立して会社を立ち上げます。その際、社名には「グラモフォン」を使用できなかったため、「ビクター・トーキング・マシーン社」と名付けました。これが後の「ビクター・レコード」となります。
 ビクターは、蓄音機の改良を行うと同時にグラモフォン(英国のグラモフォン・カンパニー、ドイツ・グラモフォンなど)がヨーロッパで行った録音をアメリカでレコード化して発売し、ライバルのコロンビをを圧倒することになります。
1902年
カルーソーのレコード誕生> 
 この年の3月、イタリア、ミラノのホテルで当時30歳の人気テナー歌手エンリコ・カルーソーの録音が行われました。それはグラモフォンの「赤盤」シリーズの目玉としての企画で、レコード史に残る名盤として今でも聞かれています。(それだけ録音もよくなり、原盤も保存されてきたということです)この時、カルーソーは10枚のレコードを録音し、それぞれについて100ドルを受け取ったそうです。
  当時、グラモフォンのドル箱だったのはオペラ歌手の独唱ものでした。それには理由がありました。当時のグラモフォンの録音技術にとっては、オーケストラなどバンド演奏の録音は音域の広さから困難でした。それに対し、人間の声は音域的にも録音に適していて、人件費など録音にかける費用も安くすんだといえます。
1903年 
世界の音のレコード誕生> 
 グラモフォン社は、レコードのリストの内容をより豊富にするためとそのプロモーションも兼ねて世界ツアーを実施します。フレッド・ガイズバーグを中心とする録音チームが、この年海外派遣され、グラモフォンの普及活動と同時にその土地の優れたアーティストたちによる録音を行い、そのリストに様々な音源を加えました。彼らのツアーは、ヨーロッパだけでなく、インドや日本にまでも足を延ばしました。
 ビクター・レコードは、ヨーロッパのアーティストたちと専属契約を結び、多くのオペラ歌手たちがその専属となります。カルーソーもその一人で、年間2000ドルを支払うことで専属契約を交わしています。
「現代最高のテノール、カルーソが録音しているのはビクターだけです」
 この後、多くのオペラ歌手はアメリカのレコード会社と専属契約を結ぶことになります。(メルバ、ゼンブリッヒ、イームズ、ホーマー、アマート、スコッティ・・・)
<電気録音の研究>
 1920年代なってやっと実現される電気録音技術の開発をは、この年に始まっていました。基本的なそのためのアイデアが特許申請されたのがこの年です。ただし、アイデアはあってもそれを製品化するために必要な部品や素材がまだ存在していませんでした。具体的には、コンデンサー・マイクや真空管アンプなどが必要だったのです。こうした部品がそろうのは、第一次世界大戦によって、ラジオや無線の技術が急激に発展してからのことになります。
1906年
<オーケストラとの共演盤誕生>
 この年はビクターの絶頂期でした。2月、カルーソが初めてオーケストラをバックに録音を行いました。「トロバトーレ」から「見よ、恐ろしい炎を」、「ラ・ボエーム」から「冷たい手を」など、まだオーケストラの音をそのまま録音することは困難で様々な工夫がなされて、それまでよりは大きく改善されました。それまでカルーソの独唱を録音したレコードは3ドルほどで売られていましたが、他の歌手との二重唱が4ドル、四重唱が6ドルなど。バラエティーに富んだレコードが登場するようになります。ちなみに、1910年頃、1ドルあれば、一流レストランで7品コースの夕食が食べられたといいますから、結構な値段だったことになります。
 1905年までに録音されたレコードは、現在では収集品としての価値しかないのですが、1906年以降のものについては純粋に音楽を聴く目的で使用されているといいます。それだけ、音質が画期的に向上したということです。
1909年
<エディソンの敗北> 
 この年、エディソンはヨーロッパの蓄音機工場を閉鎖しました。当時、レコードは、円盤型がクラシック、オペラを中心とした高級志向のコレクター向けとして売られる商品となり、円筒型は大衆受けの音楽向けに住み分けが起きていました。コレクターにとっては、置き場所に困らない円盤型はかなりありがたかったようです。 そのため、ヨーロッパではいち早く円盤型が主流となり、すでにエディソン社のヨーロッパでの活躍の場は、ほぼ失われていたようです。
 ただし、エディソンの敗北には、他にも理由がありました。どうやら彼が「音楽」についての鑑識眼が不足していたこと自体が大きな問題だったようです。

 しかし、エディソンは自分以外の人を満足させるようなタレントの扱い方ができなかったのである。かれはいつも選曲の邪魔をし、録音ディレクターもアーティスト自身も承認したレコードの発売をかたくなに拒絶した。かれの頭は音楽に関しては生半可な考えでいっぱいだった。かれは「オペラ・タイプ」ものよりも「メロディ」や「ハートソング」の類を好んだ。かれにとっては伴奏は必要ではなかった。「どんな伴走者も歌を駄目にしやすい。伴奏は歌の間で聞こえるだけでいい」とかれは言った。かれの好きな歌は「キャスリーンよ、また家まで送ろう」であった。万事こうした結果、とりとめもなくつくられたカタログでは、ある種の分野は完全に無視されていたし、名歌手たちのミス・キャストは痛ましいことながら明白だった。
1913年 
<ダンス・ミュージック時代始まる> 
 この時期、アメリカではダンスが一大ブームとなり、それに合わせてビクター、コロンビアは、タンゴ、ワン・ステップ、ヘジテイション・ワルツ、ボストン・ターキー・トロットなどのダンス音楽を次々に発売し、ヒットさせます。さらにレコードに関する特許が切れはじめたことから、レコード会社が次々に誕生します。1912年には、まだビクター、コロンビア、エディソンの3社でしたが、1916年には46社まで増えることになります。

「20年このかたダンスをしたことのなかった連中が、この夏の間は昼となくダンスをするようになった。最新式のレストランでは、給仕が料理の皿を取り代える間も、客が時間を無駄にしないように客のためにダンス用のフロアを備えつけている。キャバレーの芸人たちは、客が次の曲を踊るために一息つく間のつなぎを別にすれば、姿を消した。人は踊りたいのか、それとも踊っている連中を見ていたいのか、それとも踊るのを見てあれこれ批評したいのかどちらかだ」
「カレント・オピニオン誌」1913年10月号より

 蓄音機の売り上げも、1914年が2711万6千ドルだったのが、1919年には1億5866万8千ドルと4倍増となっています。 その売れ行きの好調さによって、蓄音機は「音楽を聴く装置」からその家のステータスを示す「高級家具」へと格上げされ、音質以外にも装飾性、その豪華さが重視されるようになって行きます。しかし、これは蓄音機にとって「バブル時代」の始まりだったとも言えます。高級家具のような機種「ヴィクトローラ」などが登場します。
1917年
ジャズ・レコードの誕生>
 この年の5月、ビクターが最初のジャズ・レコードといわれるレコードを発売しました。ブルースとワンステップを混ぜた曲を演奏しているのは、オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンドというニューオーリンズからニューヨークにやって来た白人5人組のバンドでした。
1918年 
<オーケストラ音楽の時代> 
 オーケストラのレコードの時代は、第一次世界大戦の終結の時に、イギリスとヨーロッパ大陸においてすでに「到来」していたのである。音響的に、それは批判的l聞き手が少なくともまあまあ満足するのに十分な良さであったし、商売的には、旧式の名歌手のレコードと容易に並ぶものだった。しかし、音楽的となると、まだまだ改善されるべき余地が多かった。ベートーヴェンが12インチ一枚という必要からやむをえず切り詰められる限り、鑑識ある音楽愛好家を喜ばせることはなかったろう。 

 ただし、オーケストラ音楽(クラシック)の録音については、まだ録音できる時間が限られていたことから、まだまだ不十分なものでした。例えば、1922年にコロンビアが発売したベートーヴェンの「英雄」は、録音時間の問題から短縮版だったため、ブーイングを浴びることになりました。多くのファンは、もう中途半端なオーケストラ録音のレコードに納得できなくなっていたのです。
1919年
電気録音技術の開発再開される> 
 1903年に特許申請されながら必要な部品が開発されず実現されていなかった「電気録音」の技術が、この年、ついに動き始めます。その中心となったのは、ロンドンの二人の実験家、ライオネル・ゲストとH・D・メリマンでした。二人が研究した電気録音のシステムは、1920年第一次世界大戦終戦の日、ウエストミンスター寺院で行われた無名戦士の葬儀の録音に使われました。この録音は、レコード化されることはありませんでしたが、実験は成功。ここから電気録音の開発が本格化することになります。
 アメリカでベル研究所がいち早く電気録音によるレコードの製作に成功します。ただし、この時点では、蓄音機による再生はまだ機械的な方法で、電気的な再生はまだできなかったので中途半端なままでした。
1921年 
<ジャズ黄金期の到来>
 この年、アメリカには第一次世界大戦時の好景気の反動で不況が訪れ、高級蓄音機「ヴィクトローラ」(高額なものは1000ドルもした)はまったく売れなくなりました。しかし、レコードの売り上げ枚数は1億枚を突破。1914年の4倍になっていました。その売り上げを支えたのは、クラシックではなくジャズのレコードでした。
「・・・ジャズのために書かれた音楽はまさにみだらなダンスのもとそのものである。歌詞もまたしばしばまったく暗示的で、薄いベールを被った不道徳な観念なのだ」
フェントン・T・ボット(ダンス教師)
 上記のように、ジャズに対し不道徳だという批判はあったものの、「ジャズ・エイジ」と呼ばれる時代。一気にジャズは大衆音楽の主役に躍り出ます。当然、レコード会社も人気ジャズ・バンドとの契約・録音を進めます。
コロンビアがテッド・ルーイス、フレッチャー・ヘンダーソン、オーケーがヴィンセント・ロペス、ブランズウィックがレオ・ライスマンなどと契約。しかし、メジャーが白人アーティストにこだわるのに対し、マイナーなレーベルは積極的に黒人アーティストと契約することで売り上げを伸ばして行くことになります。
 キッド・オーリー、キング・オリヴァー、ルイ・アームストロングジェリー・ロール・モートンなどの初期の曲を我々が今聴けるのは、そうしたマイナーなレコード会社のおかげです。
1922年
ラジオのブーム始まる>
 ラジオ・ブームは1922年からはじまっていた。さして聞くほどのものはなかったし、ラジオセットはピイピイ・ガアガア鳴っていてどうにもならなかった。しかし、アメリカ人は喜んでラジオに取り組んで、数百マイル離れたラジオ「局」を捕えようと夜更けまで楽しく過ごしていた。

 ラジオの登場に対し、蓄音機メーカーはラジオ付蓄音機の発売で対応します。ところが、ラジオから聞こえる音は蓄音機の出す音よりも本物に近いことがすぐに明らかになります。蓄音機と違い電気によって処理されたラジオにノイズがないのは当然でした。当時の蓄音機はまだアコースティックな楽器のようなものだったのです。こうして、蓄音機は、いよいよ電気を用いた装置への転換を払われる必要に迫られることになりました。 
1924年
クラシック音楽時代到来> 
 イギリスでは、この年、いよいよクラシックのレコード化は本格的なものとなりました。
 コロンビアからは、ドヴォルザークの「新世界交響曲」の完全版、ベートーヴェンの「第八」、モーツァルトの「変ホ長調交響曲」、「イ長調ヴァイオリン協奏曲」、HMVからは、ベートーヴェンの「第九」、チャイコフスキーの「第五」、ブラームスの「第二」、リストの「変ホ長調協奏曲」などが発売されました。
 翌年は、ドイツやフランスでも同じようにオーケストラの録音が行われるようになります。(ドイツ・グラモフォン、パーロフォンなど)
1925年
電気録音レコード誕生> 
 レコード業界各社は電気録音の技術を開発していながら、なかなかその製品化を行いませんでした。(蓄音機がそれなりに売れていたので、積極的になれなかったようです)しかし、この時期、ラジオの人気によってレコードの売り上げが頭打ちとなり、ビクターは赤字経営となります。そこで、大きな投資を行い、この年の秋、ついに電気録音のレコードを発売し始めます。当初、このレコードの音質の良さは、なかなか理解されませんでしたが、蓄音機の新機種が広がることで、しだいに評価が高まり、売れ行きも上昇、ビクターは経営危機を脱することになりました。

・・・これらのレコードを自分で聞いたことのある人は、わたしが初めて聞いた時と同じように、とうとう音楽家も家にいて演奏会場でと同じ本物の興奮を覚えることができるようになったと感じたであろう。これらのレコードには弱点もあるが、大きな長所に比べればささいなことのようだ。オーケストラは本当にオーケストラのように響くようになった。・・・
アーネスト・ニューマン「サンデータイムス」(ロンドンの新聞)
1928年 
<蓄音機の危機> 
 12月7日、ビクターのオーナー、エルドリッジ・ジョンソンは株式をスパイアー銀行とJ&Wセリグマン銀行に売り、経営権を受け渡しました。この後、新オーナーは有力なラジオ局RCA(ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ)とビクターの合併を実施します。新たな経営陣は蓄音機に未来はないと考え、ラジオに力を入れようとしていました。
 そうした蓄音機への逆風に耐え切れず、翌年の11月にエディソン社はレコードと蓄音機の生産を中止します。そんなエディソン社の撤退に対し、「フォノグラフ・マンスリー・レビュー」は批判の記事を掲載しています。
・・・もちろん、一部は会社幹部の欠陥のためである。しかし、その本質的理由はもっと深いところにあったのだ。つまり、真の音楽的洞察と共感の不足のせいである。そもそもエディソン氏自身が蓄音機を単なる機械としか見なさなかったのである。かれは音楽について何らの理解もなかったのであるから、音楽的事業に成功することなどどうして望むことができたろうか。
1931年
33回転盤の誕生> 
 この年の9月17日、ビクターは1インチ当たりの溝を2倍にして、回転数を331/3(それまでは78回転)回転にすることで、片面14分という長時間化を実現しました。
 価格的にも下げることに成功しますが、素材の硬さが不十分だったため、溝がすぐに減ってしまい長持ちしないことが明らかになりました。そうした不具合は、その後、少しづつ改良されますが、業界はそれとは別の危機に直面していました。
 1930年に始まった「世界恐慌」により、レコードの販売数が激減していたのです。1927年には1億400万枚売れていたレコードが、1932年にはなんと600万枚に激減したのです。蓄音機の生産も、98万7千台から4万台に落ち込んでいました。これで会社も生き残った会社があったのは不思議です。
 この危機をレコード業界が生き延びたのは、ヨーロッパの市場がアメリカほど落ち込まなかったからでした。さらにヨーロッパではアメリカほどラジオがブームとはならず、クラシック音楽を芸術として鑑賞する文化が定着していて、その文化を支える階層が生き続けていたおかげです。こうして1934年までは、レコード業界はヨ-ロッパを中心に動くことになります。
1934年
<デュオ・ジュニア登場> 
 1933年からレコードの売り上げは上昇に転じます。ただし、各家庭の蓄音機はどれも古くなっていて、ラジオだけしかない家が多くなっていました。そんな中、この年、RCAビクターは、新製品「デュオ・ジュニア」を発表。それはラジオ・セットに接続することでレコードを聞ける簡易的なオーディオ・プレイヤーでした。この新製品は価格的にも16ドル50セントと手ごろだったことから、大ヒット。このセットの普及がレコードの売り上げを増やすことにもなりました。
 さらに英国からデッカ・レコードがアメリカに進出し、1枚35セントで人気アーティストのレコードを発売。ビクター、コロンビア、ブランズウィックのビッグ3も、75セントだったレコードの価格を半額にして対抗することになりました。当然、レコードの売り上げ枚数は伸びることになりました。
1939年~1945年
ジュークボックスとレコード> 
 この時期、レコードの売り上げを支えた功労者に「ジュークボックス」があります。ベニ―・グッドマンの「ワン・オクロック・ジャンプ」などスウィング・ジャズの大ブームに乗って、バーやドラッグストアではジュークボックスが必需品となりました。
 この年、その台数は22万5千台となり、その中に入れるために1300万枚のレコードが売れていました。ジュークボックスはレコードの販売促進にも貢献するようになります。そのおかげもあって、ビクターが発売した「ビア樽ポルカ」とデッカの「ア・ティスケット、ア・タスケットは共に30万枚を超す大ヒットとなりました。この年、デッカは1900万枚を売り、レコード業界の第2位に躍進しました。
 さらにこの時期ななると、ラジオも単にレコードの敵ではないことが明らかになります。特にクラシックのファンはラジオでかかる曲を聴いてそのレコードを購入する場合が多く、その傾向を利用すればラジオはレコードの販促に利用できることがわかってきたのです。
 この後、1940年代に入ると世界中が第二次世界大戦に巻き込まれ、音楽産業は休止状態になります。
1947年
<レコード売り上げ復活> 
 1945年に戦争が終わると、レコードの売り上げは急増します。娯楽に飢えていた人々にとって音楽は、手が届く最高の癒しとなりました。1946年には、戦前のピークだった時期の2倍、2億7500万枚となり、この年には一気に4億枚を突破しました。ラジオ付きの蓄音機の販売台数も341万500台となりました。
テープレコーダー登場> 
 1900年にその原理は発見されるていたものの、長い間お蔵入りになっていた磁気テープを用いた録音技術は、戦争中、ドイツで進められていました。終戦により、その開発の主役はアメリカとなり、セロテープのメーカー「スコッチ」で知られるミネソタ鉱工業会社が酸化鉄でコーティングした磁気テープを開発します。
 この年、それが商品化されてラジオ・ショーなどの録音用に使用され始めます。それまで、すべてのラジオ放送は生で行われていましたが、テープの登場によって、番組の収録が可能となり、一度放送した番組の再放送も可能になりました。
 ビング・クロスビーやアルトゥーロ・トスカニーニなど、音楽界の大物たちはすぐにこの新製品に飛びつき、それを自分の番組やショーの録音に使い始めます。それまでと違い、テープでの録音は、長時間録音や編集も可能で、再生もすぐにできたので、高額ながらプロのミュージシャンには最高の贈り物となりました。
 この時点で、多くの音楽関係者はテープはレコードに代わる次世代のソフトになると考えていたようです。
1948年
LPレコードの誕生>
 6月、ニューヨークのウォルドーフ・アストリア・ホテルでコロンビア・レコードが、音楽界にとって革命的な新製品を発表しました。演奏時間が片面23分で、割れにくい素材でできた「マイクログローブ・レコード」は、その後、「LP盤(ロングプレイング・レコード)」と呼ばれることになります。(回転数は33回転と1/3)
 この画期的な新製品を開発したのは、CBSの電気技師ピーター・ゴルドマーク(ハンガリー出身)でした。彼がそのために開発したのは髪の毛ほどの細い溝を刻み込める録音ヘッドと、それを忠実になぞることができるピックアップなどの新技術でした。そして、それを正確に拡大できる電気回路とスピーカー。それらが「LP盤」を生み出しました。
 このCBSのLP盤に対し、RCAレコードは45回転のレコードで対抗します。結局、この二つのシステムは、LP盤とシングル盤として21世紀まで続くことになります。
1955年
<巨大ビジネスへ>
 1950年代に入り、レコード業界は再び黄金時代を迎えます。しかし、この年、その発展はそれまでとは違う異次元のレベルに突入し始めます。この年、エルヴィスの活躍とロックン・ロール・ブームが始まり、レコードは新たな購買層となる若者たちに浸透し始めるのです。アメリカでは戦後の好景気が若者にお金を持たせることになり、彼らが独自の文化を育て始めます。
 1956年に発売されたエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」は、わずか数か月で100万枚を突破し、その後も彼のレコードは100万枚を突破し続けます。
 この時期は、テレビの普及とも重なっていて、その影響はかつてレコードのライバルだったラジオ業界を危機に追い込みます。多くのスポンサーが、ラジオからテレビに移ることで、ラジオ局は番組編成に苦心し始めます。大物アーティストによるラジオ・ショーの多くがテレビに移り、それに代わってディスク・ジョッキー(DJ)によるレコード番組が数多く登場します。
 この年、そんなレコードのヒット・チャートをもとにした番組「トップ40ラジオ」がニューオーリンズのラジオ局「ストーツ・チューン」で始まります。ビルボードのヒット・チャートをもとにしたこのランキング番組は、ヒット曲を一日に何度もかけることになり、そこから大ヒット・レコードが次々に生まれることになりました。
 こうして、アメリカのレコード売り上げは30%増の2億7700万ドルとなり、1957年には4億6000万ドルに達しています。
テープ・レコーダー発売>
 この年、アンペックス社が磁気テープに録音したクラシックのステレオ録音作品を発売。それに合わせて、RCAはヴィクトローラ・ステレオ・テープ・プレイヤーを350ドルで発売し、大きな話題となりました。ステレオ録音と長時間録音は、どちらも磁気テープだからこそ可能になったといえます。
1956年
<サントラLPの大ヒット>
 この年に発売されたアルバム「マイ・フェア・レディ」は、600万枚を売り上げるという桁違いのヒットとなりました。これまでシングルでの大ヒットはありましたが、LPでそこまで売れたレコードはなかっただけにこのヒットはレコード業界の常識を覆したといえます。ブロードウェイの大ヒットミュージカルだったこの作品は、1964年には映画化され、今度は映画のサントラ・アルバムが大ヒットすることになります。
 この後も、映画のサントラ・アルバムのメガヒットは、レコード会社に大きな利益をもたらすことになります。特に1965年に発売された映画「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンド・トラック・アルバムは、1500万枚を突破することになります。
1958年
ステレオ・レコード発売開始>
 この年の秋、レコード会社数社がステレオ録音のレコードを発売し始めます。この技術は、レコードの溝に二つの溝を刻み込むことで可能になったのですが、素材的にも技術的にも不十分だったため、最初の評判は悪かったようです。それでもステレオ用のオーディオが普及し始めると、急速に音質が向上。逆にステレオ録音で先行していたオープンリール・テープの売り上げは、1957年の240万ドルから1958年には10万ドルにまで下落しています。 
1963年
カセット・テープ発売開始> 
 この年、ベルリン・ラジオ・ショーにフィリップス社がカセット・テープを出品し、話題となりました。さらに1970年、ドルビー雑音消失装置の登場により音質がさらに向上。当初は、コンパクトで扱いやすいことから、カーステレオに採用され、その後、家庭用のカセット・テープ・レコーダーが発売され一気に普及することになりました。
 カセット・テープの普及には他にも理由がありました。録音が簡単にできたことから、海賊テープの製作が世界中で行われるようになったこともカセット・テープの普及を後押ししました。その売り上げはレコードに匹敵する額に達することになります。
1967年
<コンセプト・アルバムの登場>
 この年、ビートルズが発表したアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツクラブ・バンド」は、すべての曲は架空のバンドによる一つの世界観に基ずくトータル・アルバムとされ「コンセプト・アルバム」と呼ばれることになりました。こうした作品の登場により、レコード・ビジネスはシングル盤だけではなくLP一枚を作品として販売する新たな段階にいたることになりました。
 ちなみに、このアルバムは全世界で3000万枚を超えるメガヒットとなりました。時代の先を行くロック・バンドのアルバムの多くが、この時期からシングルよりもアルバムを作品として重要視することになり、レコードビジネスの方向性も大きく変化することになります。売り上げ枚数よりも、作品の質を追求するという発想も、このロックの黄金時代から始まったといえそうです。


<参考>
「レコードの歴史 エディソンからビートルズまで」
 1977年(初版は1955年)
(著)ローランド・ジェラット Roland Gelatt
(訳)石坂範一郎
音楽之友社

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