
- レッド・ホット・チリ・ペッパーズ Red Hot
Chili Peppers -
<元祖ミクスチャー・ロック>
グランド・ファンク・レイルロード、キッス、グランドマスター・フラッシュ、ギャング・オブ・フォー、ファンカデリック、これらのバンドに共通点は、ほとんどありません。しかし、これらは、元祖ヘビ・メタ・バンド、元祖メイク系バンド、元祖ヒップ・ホップ、元祖アヴァンギャルド・パンク・バンド、それにP−ファンクの総本山として、それぞれが確固たる地位を築いた存在です。そして、これらの音楽が大好きな若者たちが集まって始めた超ゴッタ煮バンド、それがレッチリことレッド・ホット・チリ・ペッパーズです。
かつて、ブルースとカントリーを組み合わせることで生まれたロックン・ロールは、その後も次々と新しい音楽を取り込みながら成長を続けてきました。ソウル、フォーク、レゲエ、サルサ、クラシック、ジャズ、ダブ、DJ、ヒップ・ホップや世界中の民族音楽など、ロックはその存在を維持するために次々に新しい音楽を取り込んできたといえます。そして、20世紀末にその究極の形ともいえるミクスチャーロックの頂点に立っていたのが、このレッド・ホット・チリ・ペッパーズです。
<レッチリ結成>
レッチリ結成のきっかけは、ミシガン州グランド・ラピッズ出身のアンソニー・キーディス(1962年11月1日生まれ)とオーストラリアはメルボルンから移住してきたマイケル・バルザリー(1962年10月16日生まれ)が、ロスの名門高校フェアファックスで出会ったことから始まりました。(なぜ名門かというと、この学校からはかつては、フィル・スペクター、その後もガンズ&ローゼスのスラッシュやレニー・クラヴィッツらのミュージシャンを輩出しているからです)
グランドファンク・レイルロードやキッスのファンだったという彼らは、すぐに親友になり、卒業後には共同生活を始めます。ある日、知り合いのミュージシャンに前座で演奏してくれないかと頼まれた二人は、急遽高校時代の仲間を集め、バンドを作ります。こうして、ハイレル・スロバクとジャック・アイアンを含む4人によって、レッド・ホット・チリ・ペッパーズが誕生しました。
バンド活動が気に入った彼らは、すぐにデモ・テープを作り売り込みを開始、エニグマ・レーベルと契約を交わします。こうして1982年、正式にレッド・ホット・チリ・ペッパーズが活動を開始しました。
<パンク&ファンク>
1984年彼らはデビュー・アルバム「Red
Hot Chili Peppers」を発表します。プロデューサーに招かれたのは、元ギャング・オブ・フォーのアンディ・ギル。パンクからニューウェーブへの移行期に中国の四人組から名前を取って生まれたこのバンドは、荒っぽいだけのパンクから発展した独自のアバンギャルド・パンクを生み出した人物でした。
続くセカンド・アルバム「フリーキー・スタイリー
Freaky Styley」(1985年)では、彼らはプロデューサーにP−ファンクの総帥ジョージ・クリントンを迎えます。これこそ、彼らが目指していたファンク・ロック、ファンカデリックのスタイルを実現するための最高の出会いでした。こうして、彼らは「白いファンク・バンド」として、少しずつ注目を集めるようになります。
<P−ファンク・スタイル>
とは言え、本家のP−ファンクですら未だにマイナーな存在であるアメリカのポップス市場で白人のファンク・バンドがそう簡単に成功するはずはありませんでした。彼らの名が広まったのは、そのファッション性とパフォーマンスによるところが大きかったようです。そんな彼らのステージ上のスタイルもまたP−ファンク・スタイルのパクリでした。彼らのパンツ一丁パフォーマンスの原点は、明らかにファンカデリックの連中がシーツをかぶったり、オムツ・スタイルでステージに立っていたところにあるのです。
もちろん彼らの場合、パンツ一丁だけでなく靴下一丁までその過激さを増していったのですから、それはそれで大したものかもしれません。(このスタイルであのビートルズの聖地アビー・ロードを歩いてみせたのですから、・・・ジョンも天国で笑っていることでしょう)
<ブレイクに向かって>
サード・アルバム「The Uplift Mofo Party
Plan」(1988年)発表後、ハイレル・スロバグがドラッグの過剰摂取で死亡します。そのショックでジャック・アイアンが脱退し、バンドは一時活動停止状態となりました。(後にジャックは、パール・ジャムに加わります)
しかし、新メンバーとして、当時17歳だったジョン・フルシャンテ(Gui)とチャッド・スミス(Dr)を加え、再び活動を開始します。
こうして、4枚目のアルバム「マザーズ・ミルク
Mothers Milk」(1989年)を発表、このアルバムからスティービー・ワンダーのカヴァー曲「ハイヤー・グラウンド」がヒットし、いよいよ彼らの名前は全米に知られるようになります。
<チン事件の数々>
彼らが全米にその名を知られることになったのは、実のところヒット曲よりも彼らが巻き起こしたチン事件のせいだったのかもしれません。彼らは自分たちが起こした数々の「チン事件」に悪びれたようすはまったくありません。東のビースティー、西のレッチリは、かつてのストーンズのようにハチャメチャな行動でその名を知られたわけですが、どこか喜劇的で憎めないところが、また彼らならではの魅力なのかもしれません。
<先輩リック・ルービンとともに>
度重なる不祥事にEMIレコードは、彼らとの契約を解消します。こうして、派手な争奪戦が行われ、彼らはワーナーと契約し、アルバム「Blood
Sugar Sex Magic」を発表します。このアルバムでは、ヒップ・ホップ界の大物プロデューサー、リック・ルービンにプロデュースを依頼します。リック・ルービンと言えば、彼らと同じく白人でありながら、黒人中心のヒップ・ホップ界に飛び込んだ異端派の先輩であり、彼らのプロデュースにはピッタリの人物でした。このアルバムは彼のおかげで、よりバラエティーに富んだ内容に仕上がり、"Give
It Away","Under the Bridge","Breaking
Girl"などのシングル・ヒットを生み、アルバム・チャートも全米3位にまで上昇する大ヒットとなりました。彼らにすると、EMIに対して「ざまーみろ!」といったところだったのでしょう。
<21世紀も走り続ける男たち>
その後、ジョン・フルシャンテが脱退し、チャッドがドラッグ中毒のリハビリを行うなど、一時活動が停滞するものの、新ギタリストにジェーンズ・アディクションに在籍していたデイブ・ナヴァロを加え"One
Hot Minute"(1995年)を発表。その後すぐにジョンが復帰し、かつてのパワフルなサウンドに、よりソウルフルな大人の味わいが加わります。こうして、アルバム"Californication"
(1999年)、"By The Way" (2002年)とその後発売したアルバムどれもが大ヒットとなり、押しも押されもせぬアメリカン・ロックの代表選手となっていったのです。麻薬という危険な罠にはまり、崩壊の危機にあった彼らはなんとかその危機を乗り越え、一回り大きなバンドに生まれ変わったのかもしれません。
<20年かけて大御所へ>
気がついてみると、すっかりロック界の重鎮(重チン?)になりつつあるレッチリ。ロック界のはみ出し者だったはずの彼らも、もう20年のベテラン選手です。
初期の頃のヘヴィ・メタ・パンクが苦手な僕も、彼らの4枚目のアルバム「マザーズ・ミルク
Mother's Milk」を聴いて、「確かに良いわ・・・」と納得したのが1990年のことですから、それからすでに10年以上がたっているわけです。その間ロック界の状況も大きく変わり、ミクスチャー・ロックの元祖とも言える彼らは、いつの間にかロックの王道となった感があります。それは、彼ら自身のサウンドもよりポップなものに変わってきたせいもあるのですが、けっして彼らのミクスチャー感覚が衰えてきたわけではないでしょう。なにせ彼らも40代です、音楽的にすっきりしてくるのは当然でしょうから。それよりも、彼らが未だにライブではパンツ一丁になって走り回っていることのほうが、よほど彼らの変わらぬアナーキーさを表現しているのかもしれません。(60過ぎてもやってたら、ちょっと怖いかも・・・)
<締めのお言葉>
「こいつは俺にそっくりだ。抜き身だ。こいつも俺も鞘に入ってねえ刀さ。でもな、本当に良い刀は鞘に入ってる」
映画「椿三十郎」より(黒沢明監督作品)
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