- ハリウッド・テン(ダルトン・トランボ、エリア・カザンなど) -

<トルーマン宣言>
 1947年3月12日、アメリカの大統領ハリー・トルーマンは、後に「トルーマン宣言(ドクトリン)」と呼ばれることになる演説を行いました。
「内外からの全体主義の圧迫に対抗して、自由、独立、人間の自由を保持しようとしている諸国民は、アメリカの優先的な援助を受けることになろう・・・」
 それは要するに、「ファシズム国家がとりあえず消えた今、次なる敵となるであろう共産主義国家ソ連に対抗し、資本主義国としての体制を守る国にはアメリカが積極的に援助をしようじゃないか」ということです。
 この宣言以降、世界はいっきに共産主義体制とそうでない資本主義体制の二つに別れ、その間には重い鉄のカーテンが引かれることになりました。いわゆる「冷戦」の始まりです。しかし、人の主義主張とは人間の心の中に存在しているものであり、それを国籍や思想で色分けすることなど無理なのは明らかです。そのうえ、当時の世界的な流れは、人類の自由で平等な社会を実現するためには、共産主義の導入もしかたがないというものでした。だからこそ、この時期、ソ連の影響があったとはいえ、共産主義政権が急激に増加したのです。
 当然、資本主義諸国のリーダーを自認するアメリカ国内にも資本主義社会に疑問を持ち、共産主義を信望する勢力が生まれ、その勢力は着実に力をつけつつありました。そのことに不安を抱いたアメリカ政府は公務員200万人に対するテストを行い、共産主義者を見つけ出そうとします。こうして、アメリカ国内における「赤狩り」が始まり、その一環として、さらにはその生贄としてハリウッドでは非米活動調査委員会による聴聞会が行われることになりました。こうして1947年9月23日、19人の映画人に対して委員会への召喚状が送られました。(そのうち、11人が実際に証言台に立つことになります)その具体的な目的は「ハリウッド映画産業における共産主義の浸透度調査」でした。
 さらに政府のそうした動きに合わせて映画界側も自主的に動きます。こうして発表されたのが、映画製作者協会による「ウォルドーフ・アストリア宣言」と呼ばれるもので、その中には「共産主義およびアメリカ政府を暴力または非合法、非立憲的手段で転覆を目論むいかなる党派、グループ・メンバー」を雇用しないと書かれていました。こうして、共産主義に関わった映画人たちは、政府だけでなく映画界の仲間たちからも追われることになるのでした。

<議会に召喚された人々>
 
非米活動調査委員会の聴聞会には共産党に入党している映画人だけでなく、共産党員を友人に持つ者、かつて共産党と関わりをもった者、もしくは共産党のシンパであると名指しされたものなど、疑わしいと思われる人間は、みな次々に呼び出されました。そして、その中で「黒」とされた者、もしくは証言を拒否した者には、ブラックリストに載せられて映画界から追放されるという厳しい罰が待っていました。それは映画人にとって、ある意味、懲役刑よりも重い罰だったと言えます。
 アメリカの憲法は宗教や思想の自由をうたっているのですから、基本的に社会主義者であることも共産主義者であることも法律上は、なんの罪にもなりません。このことは、「思想、信条及び言論の自由、結社の自由」を保障する憲法修正第一条によって明らかなはずでした。それなのに、議会に召喚されることで、仲間を裏切ることになるかもしれないと考えた人々は、あえて証言を拒否し、議会侮辱罪に問われる道を選びました。彼らはその時、裁判を最高裁まで持ち込めば、前述の憲法修正第一条によって勝てるはずと考えていたのです。ところが、その後社会の流れは反共ブーム一色となり、裁判官もみな敵にまわることになります。そのため、彼らは有罪となり、6ヶ月から1年に及ぶ実刑を受け、その後も映画界から長い間追放される運命になりました。こうして、赤狩りの犠牲となった代表的な映画人のことを、人々は「ハリウッド・テン」と呼びました。
 実は、ハリウッド・テンのメンバーは決してアメリカで有名な映画人ではなかったようです。他にも、チャールズ・チャップリンのような共産党のシンパもいたのですが、彼が召喚されることはありませんでした。それには、いくつかの理由があったようです。ひとつには、彼のような大物を敵にまわすと、下手をすると世論を敵にすることになり兼ねないこと。そして、彼のような頭の切れる人間を証言台に立たせることで、逆に質問者がその無能さを暴露されるかもしれないという懸念があったからです。(しかし、チャップリンもまたしだいに世論から攻撃を受けるようになり、映画公開のためイギリスに渡った際、再入国を断られることで実質的な追放処分を受けることになります)その点、ハリウッド・テンのメンバーはほとんどが脚本家ということもあり知名度が低く、スケープ・ゴートにするには実に手ごろな存在だったのです。

<ハリウッド・テン>
 ハーバート・ビーバーマンは、1953年に「地の塩」という名作を撮って以降、完全に映画界から追放されました。さらには、彼の妻でアカデミー賞助演女優賞受賞俳優のゲイル・ソンダーガードもまた25年という長い期間にわたり映画界から締め出されることになりました。
 ギリシャに逃れることで、赤狩りの直接的被害を免れたジュールス・ダッシンのドキュメンタリー調映画の傑作「裸の街」(1948年)、この映画の脚本を担当していたアルバート・マルツもまた職を失いました。(彼は1953年のシネマスコープ第一作「聖衣」の脚本もクレジットなしで担当しています)
 脚本家であり作家でもあったリング・ラードナーJrもまた、ハリウッド・テンの一人として映画界を追われました。しかし、彼の場合は恵まれていて、インディペンデント映画の先駆けとなった巨匠ロバート・アルトマンと組むことで「マッシュ」(1970年)に参加。いち早く復活を遂げることができました。
 エドワード・ドミトリクもまた1958年に反戦映画「若き獅子たち」を撮ってからは、娯楽西部劇の傑作「ワーロック」を撮るなど順調に復帰できた一人です。
 しかし、その他の映画人たちの人生はそう甘いものではありませんでした。ジョン・ハワード・ローソンは、「サハラ戦車隊」(1943年)などを撮った監督ですが、50年代以降まったく映画を撮れなくなりました。「医者の日記」(1937年)の脚本家サミュエル・オーニッツ、「闘牛の女」(1947年)の脚本家レスター・コール、「戦慄のベルリン地下組織」(1945年)の脚本家アルヴァ・ベッシー、「十字砲火」(1947年)の製作者エイドリアン・スコットらもまた、その後ほとんど映画界から消えてしまっています。(もうひとりドイツ出身の脚本家ベルトルト・ブレヒトもまた召喚されましたが、彼は見事な戦術で委員会の批判をかわしましたが、結局はアメリカを離れ東ドイツへと移住することになります)
 そして、最後の一人、ダルトン・トランボについては、有名なエピソードがあります。

ダルトン・トランボ
 元々優秀な脚本家だったダルトン・トランボは、他の映画人たちに比べるとかなり恵まれていました。なぜなら映画撮影の現場に顔を出す必要のない脚本家という仕事は、偽名を使うことで仕事を続けることが可能だったからです。こうして彼は映画界を追われた後も、彼に協力してくれる人物のおかげで脚本を書き続けることができました。それどころか、ロバート・リッチという名前で書いた一本「黒い牡牛」という作品はなんとアカデミー脚本賞を受賞してしまいます。(もちろん、授賞式にロバート・リッチは欠席しましたが)それだけではありません。後に明らかになったのは、1953年にアカデミー脚本賞を受賞しているあの歴史的名作「ローマの休日」もまた彼の手になるものだったというのです。(この作品の脚本家として賞を受賞した脚本家イーアン・マクレラン・ハンターという人物は実在の人物でしたが、実際に彼が書いたのではなくダルトン・トランボの替え玉だったというのです!)
 その後、彼は映画界に正式復帰を果たし、スティーブ・マックィーンとダスティン・ホフマンの「パピヨン」(1973年)やケネディー大統領暗殺事件を描いた「ダラスの暑い日」」(1973年)の脚本を担当しただけでなく、自らが書いた小説「ジョニーは銃をとった」の映画化では監督も努め反戦映画の歴史的名作「ジョニーは戦場へ行った」(1971年)を世に出しました。

<その他の犠牲者たち>
 「赤狩り」の犠牲になった映画人は、もちろん「ハリウッド・テン」だけではありません。最初に召喚状を受け取った19人の残りのメンバーもまた苦しい立場に追い込まれることになりました。ちなみに、その19人のことを「ハリウッド・ナインティーン」とも呼ぶようですが、前述の11人以外の8人は、脚本家ではリチャード・コリンズ(ドン・シーゲルの出世作「第一号監房の暴動」)、ゴードン・カーン、ウォルド・ソルト(「セルピコ」、「帰郷」、「イナゴの日」)、ハワード・コッチ(「ヨーク軍曹」、「カサブランカ」)監督ではロバート・ロッセン(「ハスラー」、「オール・ザ・キングスメン」)、ルイス・マイルストン(「西部戦線異状なし」、「凱旋門」、「オーシャンと十一人の仲間」)、アーヴィング・ピッシェル(「クレオパトラ」1934年)そして、俳優のラリー・パークスです。
 その中でも、映画史に残る名作のひとつ「ジョルスン物語」の主演俳優ラリー・パークスは、共産主義者との関係を疑われて聴聞会に呼び出され、その後は映画界における仕事を失ってしまったひとりです。
 「ハリウッド・テンの悲劇」から4年後には、再び「赤狩り」が始まり、新たな犠牲者が生まれることになりました。
 名作「欲望という名の電車」で1951年度のアカデミー助演女優賞を受賞したキム・ハンターと「緑園の天使」で1945年度の同賞を受賞したアン・リヴィアもまた共産主義者との関係を疑われてハリウッドから消されました。50年代後半から60年代ほとんどを失ったキム・ハンターは、1968年になってやっと「猿の惑星」で映画界に復帰しました。その最初の役が特殊メイクをほどこした猿(ジーラ)だったというのは、皮肉というかかわいそうな話です。
 こうした中には、積極的に政府の反共活動に協力した人物もいました。多くの映画人の反発をかうことになったエリア・カザンがそうです。もちろん、そうなったのには原因があったのかもしれません。ユダヤ系が圧倒的な力をもつ映画界において、ユダヤ人同士はある程度助け合うことは可能でした。しかし、それ以外の人種の人々、特に少数派の民族出身者は、助けてくれる同胞がいないため、いざと言うときには非常に厳しいことになります。ギリシャ系トルコ移民の映画監督エリア・カザンの場合は、まさにその典型でした。彼は多くの左翼の友人がいましたが、数十人にのぼる友人たちの名前を明かしたといわれてます。当然、彼らもまた議会に召喚されるか、映画界から追放されることになりました。彼の場合、こうした行為を自ら正しい行為だったと主張し続けたため、この後多くの映画人からの信用を失ってしまいます。
 1998年にエリア・カザンがアカデミー名誉賞を受賞し舞台に上った時、普通なら全員がスタンディング・オベイションをするはずが、そうはなりませんでした。未だに、彼の行為に対する反発が根強いということなのです。(俳優のリチャード・ドレイファスは、彼の受賞に抗議して式への出席を止めると宣言文を発表したそうです)
 カザンと同じギリシャ系の映画監督ジュールス・ダッシンもまた、その時に疑われたひとりでしたが、彼はアメリカを離れる道を選び、故国ギリシャで「日曜はダメよ」などの名作を撮り活躍することになります。彼と同じようにアメリカを離れることで活躍を続けることができた映画監督としては、フランス映画界の巨匠、ジョセフ・ロージーやスタンリー・キューブリックなどもいます。
 アメリカ国内に残った監督のひとりサミュエル・フラーは、その後ハリウッドを完全に離れ、B級低予算映画の世界に生きる道を見つけました。彼のような、優れた監督がいたからこそ、1960年代後半になると、B級映画の世界から次々と優れた映画人が登場してくることになるのです。

<赤狩りの影響>
 「赤狩り」という実に理不尽な政策によって運命を狂わされてしまった多くの映画人たち。彼らがハリウッドから追われてしまったことで、映画界は優れた才能をもつ人材を一気に失ってしまうことになりました。そのせいでハリウッドは急激に保守化してゆき、当たり障りのない娯楽映画しか作れない場所になってゆきます。さらに50年代に入る頃には、ロックンロールの登場やテレビの発展により、一気に若者たちの映画離れが進み、ハリウッドの大手映画会社が軒並み経営危機に追い込まれます。そして、「赤狩り」から20年の歳月を経て、再び新しい人材が映画界に登場することになり、「ニューシネマの時代」が始まることになるのです。

<マッカーシズムのもう一つの意味>(2016年追記)
・・・マッカーシズムは、上流階級に対する大衆の反逆なのである。単純に、右が左を追いつめた、というだけでは、とてもあの事態は説明できない。しかも、ドミトリクの「ケイン号の叛乱」がより複雑なのは、その艦長(ハンフリー・ボガート=大衆)が結局は、上流階級に破れてゆく、という構図をとっていることである。
川本三郎「映画の戦後」より

 この指摘は実に鋭い!大衆が抱えていた誰かをスケープゴートにしたいという潜在意識が、ハリウッド左翼のインテリたちを追い込むことになったと考えれば、あれだけ巨大なブームになったこともうなずけます。

 今日では、ヴィクター・ナヴァスキーが指摘するように、当時のハリウッドにはアメリカ政府を転覆させるような共産主義の脅威などなかったこと、転向者が苦痛のなかからその名前をあげていった共産党シンパの名前など非米活動委員会やFBIにとってすでに先刻ご承知のなんら新しい情報ではなかったことが確認されている。
 にもかかわらず非米活動委員会は、有名監督や有名スターを聴聞会に呼び出し、裏切りのドラマを演じさせた。いわば政治家が弱いハリウッド映画人をいたぶった。裏切りのショウを大仰に展開することで、アメリカ国民に共産主義者は非人間的だというイメージを強烈に植え付けようとした。ナヴァスキーが指摘するようにハリウッドの赤狩りは、仕組まれた「モラルを裏切る儀式」だったのである。その点で赤狩りに抵抗した映画人を過剰に英雄視し裏切り者を断罪するのは、逆に彼らの思うツボにはまった危険性もある。

川本三郎「映画の戦後」より

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