サイコ・サスペンスの歴史的名作誕生秘話 


「赤い影 Don't Look Now」

- ニコラス・ローグ Nicolas Roeg -

<原作者ダフネ・デュ・モーリア>
 この映画の原作はダフネ・デュ・モーリアの短編小説「今は見てはだめ Don't Look Now」。当初、製作会社は、映画のタイトルを原作と同じにすることに反対だったようです。それは、もし、この作品が批評家受けしない場合、映画評の見出しが「今は見てはだめ」となってしまうことを恐れたからだといいます。幸いなことに、この映画の評判は悪くなく、それどころか英国の雑誌タイムアウト・ロンドンは英国映画の歴代ベスト100の1位にこの作品を選んでいます!(2013年発表)選んだのは映画監督、評論家、製作者らの業界人たちです。
 原作者のダフネ・デュ・モーリアは、1930年代から活躍している小説家で、この映画の他にもヒッチコックの名作「レベッカ」や「鳥」の原作も彼女の作品です。当時としては珍しい怖くて不思議な小説を書く女流作家である彼女は、写真を見るとジュリー・クリスティに匹敵する美人です。表には滅多に出ることのない謎の多い作家だった彼女は、結婚して3人の子供を育てていますが、どうやらバイセクシュアルだったようです。(ガートルード・スタインとの関係が噂されていました)この映画の原作は、1971年発表なので、かなり後期の作品です。

「水」「赤」へのこだわり>
 原作小説と映画の違いとしては、映画では主人公の娘が溺死しているのに対し、もとの原作では病死と描かれていることです。子供の溺死と雨から始まるこの作品は、1時間47分の上映時間中、ほとんどの時間で「水」を描き続けています。もとが短編小説なため、監督のニコラス・ローグは大胆に自分流を盛り込むことで独自の世界を作ることにこだわったといえます。
 物語の舞台を「水の都ヴェネチア」にしたのもそのため。さらに夏ではなく観光客の少ない冬を選ぶことで、太陽の日差しを見せず、に沈む暗いヴェネチアをイメージさせます。「雨の英国」、「池」、「溺死」、「レインコート」、「ヴェネチア」、「水死体」、「運河」・・・。色が失われた液体である「水」を中心として世界からは部屋や家具、絵画などからも色が消されており、壁にかけられた裸婦像にも目立ちすぎるピンク色を消すため、上から色が塗られたということです。だからこそ、時折現れる「赤」は観客の目をひき、そこに作者の意図を感じさせることになるのです。例えば、主人公に文句を言うイタリア人のバスローブ、運河から引き上げられる水死体を眺める子供たちの赤いニット帽などが、印象深く目に残ります。
 こうして「水」「赤」にこだわったこの映画は、最後に「水」「赤」が一つになった「血」によって終わりを迎えることになります。

<編集へのこだわり>
 この作品の魅力として忘れてならないのは、「編集」へのこだわりです。元々監督のニコラス・ローグは映画界で働き始めた当初、編集を担当していたといいます。それだけに「編集」へのこだわりは強く、彼の要望に応えた編集担当のグレイム・クリフォードの仕事ぶりはこの作品に大きなインパクトを与えています。
(1)歴史的なセックスシーン
 主人公二人がホテルで展開するセックスシーンは、この映画の中でも特に有名な部分です。そこでの映像には、裸で絡み合う二人の姿とセックスを終えた後、二人が出かける準備をする姿が交互に映し出されます。この繰り返しは実に印象的で、この後の二人の関係の変化に驚かされます。
 子供の事故死以来、セックス・レスだったらしい夫婦は、ヴェネチアという外国で、死んだ子供の思いを伝えられたことで、久しぶりに愛し合う喜びを思い出したのです。それは決して観客を喜ばせるためのサービス映像ではなく、二人の生活が戻ったことの証明であり、必然的な行為であることを表現したかったのです。
(2)ラストの追跡シーン
 主人公ドナルド・サザーランドによる謎の赤い女性の追いかけシーンは、この作品のクライマックスです。そして、ここでも主人公の夫が走る姿と彼に追いかけられる赤い服の女性、そしてその二人を追いかける妻、それぞれの姿を交互に映し出すことで、スリルが倍増し、衝撃的なラストまで観客の目を釘付けにします。さらにその途中、一瞬ですが謎の女性が画面の中で笑う姿も映し出されています。実に怖い編集です。

<ニコラス・ローグ>
 この映画の監督ニコラス・ローグは、監督デビューする前、カメラマンとして活躍していました。巨匠デヴィッド・リーンの「アラビアのロレンス」、フランソワ・トリュフォーの「華氏451」、ジョン・シュレシンジャーの「遥か群集を離れて」などの名作を撮っています。
 彼のこだわりは、撮影と編集だけではなく、スタッフ選びにも現れています。彼の代表作の一つ「地球に落ちて来た男」の主演俳優にまったく演技未経験のデヴィッド・ボウイを抜擢。地球人離れした男なら彼しかいないと選択したことに製作者は当初猛反対したようです。しかし、その後、デヴィッド・ボウイは「戦場のメリー・クリスマス」などの作品で俳優として大活躍することになります。この作品でも、主演の二人をいち早く選んでいます。ジュリー・クリスティは、彼がカメラマンを担当していた「華氏451」と「遥か群集を離れて」で主演していた女優。僕が思うに、この時代イギリス出身で彼女ほど美しい女優はいなかったはずです。
 ところが、製作者はこの二人の俳優の出演に反対していました。その理由は、ドナルド・サザーランドは別の映画の撮影が始まるところで、ジュリー・クリスティはアメリカ大統領選挙で民主党のジョージ・マクガヴァンを応援中で仕事どころではなかったのです。しかし、二人以外に主演俳優は考えられないと主張する監督は、代役を考えずに待ち続けたため、撮影が延期される可能性もありました。幸いなことに、サザーランドが関わっていた映画はトラブルで中止となり、ジュリー・クリスティが応援するマクガヴァンも早々と選挙戦から脱落。そのおかげで、映画の撮影は二人を主役に迎えて、無事開始され、あの歴史的なラブ・シーンが誕生することになったのです。

<ピノ・ドナッジオ>
 もうひとり監督の意見で大抜擢されたイタリア人作曲家ピノ・ドナッジオもまたこの映画に大きな貢献をしています。偶然、ヴェネチアでの食事の席で同席した音楽学校の教師だった彼は、映画の仕事をしたことはありませんでした。しかし、彼のことを気に入った監督は、これまた製作者の反対を押し切って彼に音楽を依頼することにしました。
 実は彼は、1965年、自らが作曲した「この胸のときめきを」を歌ってイタリアで大ヒットさせた歌手でもあります。その曲が、ダスティ・スプリングフィールドによってカバーされて世界的な大ヒットとなり、さらにはエルヴィス・プレスリーの代表曲のひとつにもなりました。そうしたポップ・ヒットとは別にイタリアの伝統的な歌謡曲カンツォーネの作者としてもヒット作を生み出していたことから、彼が抜擢されたようです。とはいえ、映画音楽は初めてだった彼ですが、出来上がった音楽は、恐いだけでなく美しさも兼ね備えていて、その後のオカルト・サスペンス映画の音楽に大きな影響を与えることになります。アメリカが生んだヒッチコックの後継者ブライアン・デ・パルマは、彼の初期代表作である「キャリー」や「殺しのドレス」の音楽に彼を起用しています。

<悲劇に立ち向かう姿>
 元々この映画の原作小説は、著者があるレストランで見たカップルの喧嘩がインスピレーションとなって生まれたといいます。見た目は、幸福そうで素敵で何の問題もなさそうなカップルが、なぜ喧嘩をしているのか?著者の疑問から、運命のいたずらにより悲劇に巻き込まれた夫婦の物語が誕生したわけです。
 そんな悲劇の物語を映画化するにあたり、監督は主人公がそこからなお立ち直ろうとする姿を描くことにこだわりました。それが表現されているのが、ラストに妻が見せる笑顔です。この笑顔は、監督の指示によるものでした。
 さらに彼女の言葉として印象深いのは、夫が謎の女性に襲われる場面での叫び声です。彼女は、その時、夫に向かって叫んだにもかかわらず「ダーリンズ!」と叫んでいるのです。「ダーリンズ Darlin's」?どうやらその意味は、夫への呼びかけと同時に死んだ娘への呼び掛けも含んでいたようです。なんという意味深な・・・。
 監督のニコラス・ローグは、映画における演技については、「演技」させることよりも、その場における俳優の「雰囲気」の方を重視していると発言しています。まだ3作品目でありがなら、彼の映画へのこだわりは、最近のハリウッド映画では困難な細部にまでゆき渡っていたようです。60年代末から世界中に広まったニューシネマ、ヌーヴェルバーグの考え方は、イギリスで誕生したこの作品にも生かされていたようです。この作品が、未だに高い評価を得ている理由は、時代を経て、その製作手法のこだわりの凄さが明らかにされ、その意味が明らかになり、再現が困難なレベルに達していることが明らかになってきたからなのでしょう。
 沈みゆく冬のヴェネチアの風景、美しすぎるジュリー・クリスティ、悲しく恐ろしい音楽、統一された配色、不思議で魅力的な原作・・・この映画は、こだわりと偶然によって生み出された素晴らしい条件によって、時代を越える名作になったのです。なんだか船の上で前を見すえながら笑みを浮かべる主人公の姿は、時代の荒波に耐えてなお、名作として高い評価を受け続けるこの映画の監督ニコラス・ローグの立ち姿のように見えてきました。


「赤い影 Don't Look Now」 1973年
(監)ニコラス・ローグ Nicolas Roeg
(製総)アンソニー・B・アンガー
(製)ピーター・カーツ
(原)ダフネ・デュ・モーリア「今は見てはだめ」
(脚)アラン・スコット、クリス・ブライアント
(撮)アンソニー・B・リッチモンド
(編)グレイム・クリフォード
(音)ピノ・ドナッジオ
(出)ドナルド・サザーランド、ジュリー・クリスティ

<参考>
 DVDの監督自身によるオーディオ・コメンタリーを参考にしました。

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