聖なる山へ向かった旅人が着いた先


小説「霊山」 Lingshan

- 高行健 Gao Xingjian ガオ・シンジェン -
<霊山に向かう人生>

 おまえは曲がりくねった山道をひたすら歩いて行った。おまえの人生にはもともと、決まった目標がない。おまえが決めた目標は、時と場合に応じて様々に変化した。結局のところ、理念がないのだ。よく考えてみれば、人生の究極の目標などどうでもよい。この蜂の巣のようなもので、放っておくのは惜しいが、いざ手に入れようとすれば蜂の襲撃を受けることになる。そのままにして、ただ眺めているのは無難だろう。・・・
「霊山」より

 「霊山」は、中国出身の作家、高行健の代表作であり、彼の人生を元にした半自伝的作品でもあります。さらに「東洋のオデュッセイア」であり「幻の聖なる山を目指す冒険物語」でもあります。

<あらすじ>
 肺がんによる余命は短いと診断された失意の作家、すべてを捨てて最後の旅に出ました。
 中国西南部の長江周辺を取材旅行と称して旅をしていた彼は、聖なる山「霊山」の存在を知ります。
 生きる目的を見失っていた彼は、旅の途中で聞いた民話や伝承、それに女性たちとの愛の遍歴や不思議な人々との出会いなどを書き綴りながら、その山へと向かいます。
 彼は死を前に、その山「霊山」にたどり着けるのか?
 その山で彼は何を体験することになるのか?
 主人公と同じように国内の政変によって居場所を失ってしまった作家が、旅の中で魂の旅を綴った精神の冒険物語です。

<高行健>
 高行健 Gao Xingjian (ガオ・シンジェン)は、1940年1月4日中国江西省に生まれました。
 1962年、北京外国語学院フランス語科を卒業後、中国国際書店で翻訳の仕事につきました。
 文化大革命中は、多くの研究者と同様、仕事を追われることになり、安寧州の山村で5年間を過ごすことになりました。
 1975年、北京に戻った彼は「中国建設」雑誌社でフランス語部門の主任となります。
 1979年、中国作家協会対外連絡委員会で働くことになり、作家、巴金の通訳としてヨーロッパ歴訪に同行。
 作家としての活動は、1970年代に始まり、中編小説「嘴の赤いハト」などで注目されます。そして、モダニズム小説の代表的作家として活躍。
 1981年、北京人民芸術劇院専属の劇作家に就任。
 1982年、「非常信号」は、中国で始めて小劇場で上演された現代演劇でした。そして、この年に彼は「霊山」の執筆を開始しています。
 しかし、その翌年、彼が書いた戯曲による北京人民芸術劇院の「バス停」は、激しい批判を受けることになりました。
 政府による「精神汚染排除キャンペーン」によって批判とされたのがきっかけで、劇は上演禁止となり、彼は政府にマークされる対象となりました。
 作品を発表する場を失った彼は、いつ発表できるかもわからない小説の取材のため、長江の流域を1983年から1984年にかけて1万5千キロの旅を続けることになりました。
 実は当時、彼は病院で肺がんの宣告を受け、余命は限られていると告げられていました。彼は残り少ない人生を、家族も仕事もすべてを捨てた「放浪の旅」で終えようと考えたのです。
 ところが、旅を終えて帰った彼は、病院での検診で癌の影は消えていると告げられます。奇跡なのか誤診なのか、わからないまま彼は、書きかけだった「霊山」の執筆を再開。ついに7年がかりで、作品を完成させたのでした。

<作品内評論まで>
 この作品の複雑で多重的な構造は実に見事です。
 作品中にこんな文章があります。小説の中の架空の評論家がこう批判しています。
「東洋に、こんなでたらめなものはない。旅行記、伝聞、感想、筆記、小品、理論とは言い難い議論、寓言らしくない寓言、民謡の再録、それに、神話とは程遠い粗雑な作り話が入り乱れている。
 これでも小説なのか!」


 この文章こそ、そのままこの作品への正しい評価であり、素晴らしいオマージュかもしれません。

<「霊山」からフランスへ>
 彼はこの作品の執筆中、当時の状況では発表の場がないこともあり、作家とは別の道へと歩み出します。それがこの小説の表紙にもなっている絵画・水墨画作家としての活動です。
 水墨画の画家として彼の作品は高く評価され、フランスの文化省から招待された彼は、1987年フランスに渡り、パリを拠点に活動するようになります。確かに「水墨画」なら思想犯として批判される要素はほぼないかもしれません。フランス語の能力と水墨画が、彼を中国から脱出させてくれたと言えそうです。
「芸は身を助すく」
 1989年6月4日「天安門事件」が起きたことから、彼は中国との訣別を宣言する作品とも言える「逃亡」(1990年)を書きました。
 この作品の発表後、いよいよ彼は中国政府から徹底的に批判されることになり、実質上帰国は不可能となりました。
 1997年、彼はついにフランス国籍を取得。中国から亡命することになりました。
 この作品「霊山」は、この間も中国では出版されないままで、1990年になって台湾で出版されています。
 その後、自由になった彼はヨーロッパ各地で絵画・水墨画の個展を開催し、さらには自作の戯曲を自身で演出して舞台劇として公開。小説家、戯曲作家としても活躍し始めます。
 2000年、中国語で創作活動を行う作家として初めてノーベル文学賞を受賞しました。

「…女の世界は、女にしかわからない」
「通い合うことはないの?」
「角度がちがうからな」
「でも、愛情は通い合うわ」
お前はたずねた。愛情を信じるのか?
信じなかったら愛せないでしょう?彼女は反問した。
つまり、きみはまで信じたいわけだ。
欲望しか残らず、愛情がなくなったら、生きていても意味がないわ。
お前は言った。それは女の哲学だ。

・・・
「霊山」より


「霊山」 Lingshan 1990年
(著)高行健 Gao Xingjian ガオ・シンジェン
(訳)飯塚容
集英社

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