- 力道山 (金信洛) -

<プロレス少年時代>
 僕がプロレス・ファンになったのは、、小学校5、6年生の頃、1970年頃のことですから、1963年にこの世を去っていた力道山の勇姿を生で見ることはできませんでした。すでにプロレス界は新たな時代に突入していて、ジャイアント馬場とアントニオ猪木がタッグを組んえ闘う第二期プロレス黄金時代になっていました。
 当時の僕は今同様に凝り性だったため、プロレスの専門誌「ゴング」や「プロレス&ボクシング」などの格闘技系の雑誌やプロレスの本に熱中。クラスでは「プロレス博士」と呼ばれるくらい詳しくなっていました。なかでも「プロレス選手名鑑」が愛読本だった僕は、世界各地の有名レスラーの名前、国籍、得意技、身長、体重、そしてニックネームを覚えたり、それらの得意技を弟の友だちを使ってためしたりしていました。(正直、今とそう変わらなかったということです・・・)
 ちなみに1970年といえば大阪万博があった年でもあります。僕は万博に連れて行ってもらえず、その代わりにそのガイド本に熱中。参加国の首都や特産物などを覚え、部屋に大きな世界地図をはって世界に興味を持ち出した頃でもありました。テレビでは「兼高かおる世界の旅」や「素晴らしき世界旅行」などの海外ドキュメンタリーの先駆的番組も大好きでした。そんな世界につながる窓の一つ、実はその一つが僕にとってのプロレスだった気がします。

<世界のプロレスラー>
 僕にとって、プロレスラーの存在は世界に開かれた窓のような存在でした。
 ミル・マスカラスやエル・ソリタリオなどは、多くのマスクマンを輩出したルチャ・リーブレの故郷、メキシコの出身でした。
 「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチはドイツのゲルマン魂を絵に描いたように生きた伝説でした。
 逆にナチス・ドイツの負の遺産を引き継いだともいえる悪役レスラーとして「殺人鬼」キラー・コワルスキーや「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックがいました。
 地味ながらAWA世界チャンピオンとしてスリーパー・ホールドを武器に活躍したバーン・ガニアや名前が忘れられないジョージ・ゴーディ・エンコはカナダ出身。
 英国紳士をそのままレスラーにした「人間風車」ことビル・ロビンソンは、試合中に相手と握手する姿が格好良かった。
 プロフェッサー田中のような日系人レスラーは、観客から「ジャップ!」と野次を飛ばされる悪役専門。NYのリングが似合っていました。
 こうして語り出すときりがないのですが、プロレスとは当時アメリカにおいては、それぞれの選手が自らのルーツを売りにして、民族の代表として戦うスポーツでした。野球やバスケットボールが地域の代表として活動していたのに対し、プロレスはあくまで個人競技であるだけに、どこへ行ってもその地域に住む同胞たちに応援してもらうことが可能でした。逆にいうと、そんな民族間の代理戦争を請け負っていたというのは、まだ当時は人種差別が一般的に存在していたことの証でもありました。したがって、プロレスの本場アメリカでは日本人は常に悪役にならざるをえませんでした。
 しかし、観客の要求に合わせるのがエンターテイメントなら、当然、その興行を日本で行うことになれば日本人レスラーは善玉になる。まあ、それは当たり前のことですが、その先駆けとしてアメリカ人を相手に大活躍した日本人レスラーが力道山でした。彼は自ら会社を立ち上げただけでなく、自ら興行主として働きながらプロレスラーとして活躍した先駆者でした。しかし、もし彼がごく普通の日本人だったとしたら、間違いなくあそこまで大きな活躍はできなかったでしょう。彼はそうした先駆者となるための資質をもつと同時に、その先に目指すべき壮大なビジョンを持っていました。それは彼が所属していた民族の問題に関わることでした。
 人種間の代理戦争でもあったプロレスを日本に持ち込み、その基礎を築いた伝説の男、力道山は、その存在自体が人種問題、政治問題、戦後の混乱などの象徴だったといえるでしょう。

<金信洛>
 今では有名な話ですが、力道山は北朝鮮生まれの在日朝鮮人でした。本名は、金信洛。しかし、このことはほとんど日本では知られていませんでした。
 彼が生まれたのは、1925年11月14日、朝鮮半島北東部新豊里という村です。(現在は北朝鮮国内)当時、日本の植民地だった朝鮮には朝鮮相撲と呼ばれる格闘技があり、彼は子供の頃からその世界で活躍していました。そんな彼に二所ノ関部屋の後援会長だった百田巳之助という後に彼の義理の父親になる人物が注目。朝鮮相撲大会で3位となった彼をスカウトし、日本に連れて帰りました。
 二所ノ関部屋の力士として、彼が日本にやって来たのは、1940年のこと。太平洋戦争が始まる直前のことでした。翌年、彼は正式に百田家の養子となり、名前も百田光浩と日本人名を与えられることになりました。そしてこの時、彼の本籍は長崎に移され、戸籍上彼は完全な日本人となりました。しかし、彼が朝鮮人であることは周りの人々にとっては常に周知のことであり、彼自身も朝鮮人であることにこだわり続けました。

<相撲界からプロレス界へ>
 彼の相撲界での活躍は期待以上のものがありました。新入幕を果たした後、彼は関脇にまで昇進。その後は大関や横綱も狙えるのではというところまで行きました。ところが、彼は突然自らマゲを切り落として相撲界を去ってしまいます。
 なぜ、彼は自ら引退の道を選んだのか?その理由は明らかではありません。しかし、朝鮮人であるために、当時は絶対に横綱にはなれないとわかったからだった可能性は高そうです。
 現在でも、八百長疑惑が問題になる相撲界ですから、朝鮮人である彼に「負けるように」という指示があった可能性もありえます。
 どんなに活躍しても、将来的に相撲部屋を持つことはできないと、わかったからという可能性もあるでしょう。
 どちらにしても、そこには朝鮮人に対する人種差別があったのは確かだと思われます。しかし、彼はあえて日本を去ろうとはしませんでした。すでにその時、彼には内縁の女性との間に子供もいて、日本で一旗上げることしか頭にはなかたようです。
 1951年、彼はアメリカですでにプロレスラーとして活躍していたハロルド坂田から、プロレスの実技指導を受けます。プロレスに将来性を感じた彼は、プロレスラーとして生きてゆく決意を固めると、彼は翌1952年単身アメリカへと武者修行の旅に出かけました。

<日本プロレス協会設立>
 アメリカでの一年以上に渡る武者修行を終えた彼は、帰国するとすぐに動き始め、1955年日本プロレス協会を設立します。彼は渡米中、プロレスラーとしての修行と平行して、語学はもちろん興行師としてのノウハウや業界関係者との人間関係を築いて来ていました。彼はそれを利用しながら自らアメリカ側との交渉を行い、日本にNWA世界タッグ・チャンピオンのシャープ兄弟を招くことに成功、世界タイトルマッチの実現にこぎつけます。
 彼は、柔道出身のレスラーであり、その後力道山の宿命のライバルともなるレスラー木村政彦とのコンビで、その世界タイトルマッチにのぞみました。1954年に行われたこの試合は、なんと民放の日本テレビだけでなくNHKでも放映されることになり、まさに日本中を巻き込む大イベントとなりました。考えてみると、NHKが放映したということは、当時プロレスというスポーツは完全にガチンコのスポーツとして認められていたということでもありました。その試合を街頭テレビで見る人だかりは、1950年代の日本を象徴する場面として様々な映画やテレビで今でも見ることができます。
 そして、もうひとつ時代を象徴する試合として大きな話題となったのは、12月に行われた同僚でもあった木村政彦との日本ヘビー級チャンピオン決定戦です。相撲界と柔道界、日本を代表する二大格闘技を代表する二人の対決は、当然、大きな話題となり、現代版「巌流島の決闘」とまで呼ばれました。そして、この試合で勝利を収めたことで力道山は、いよいよ黄金時代を築き出すことになります。

<力道山黄金時代>
 1955年、力道山はキング・コング(もちろんプロレスラー)を破り、初代アジア・ヘビー級チャンピオンとなり、その翌月には彼の伝記映画「怒涛の男」が公開されます。
 1957年、世界最強のプロレスラー「鉄人」ルー・テーズが来日。力道山とのNWA世界ヘビー級選手権試合が実現しました。試合は時間切れ引き分けとなりました。
 1959年、さらなるプロレス人気を盛り上げるための企画として、第一回ワールド・リーグ戦が開催されました。世界各地から個性的なレスラーを集めたこのシリーズは大きな話題となり、プロレス人気は再加熱します。
 1960年、力道山の弟子、ジャイアント馬場(馬場正平)とアントニオ猪木(猪木寛至)がデビューします。読売ジャイアンツのピッチャーだったジャイアント馬場とブラジル移民の子だったアントニオ猪木。二人の後継者の登場により、力道山は引退して実業家として生きることを早くも考え始めていたようです。

<実業家への道>
 1961年7月、実業家、力道山の夢のひとつだったリキ・スポーツ・パレスが東京渋谷に完成しました。総工費30億円というその巨大施設には、3000人収容のプロレス会場に加えて近代的な設備を備えたスポーツ・ジムや高級マンションが併設されていました。東京オリンピックの開催がその3年後のことですから、まだまだ日本ではスポーツ・ジムは一般的なものではありませんでした。それだけに、それは時代のかなり先を行く先駆的な挑戦だったといえます。そしてその企画は早すぎたのか、彼の死後、この施設を維持することは経営的に困難となり、最終的には人手に渡ることになりました。
 彼が描いていたアメリカを理想とする新しい社会モデルに基づく施設は他にもありました。そうしたアメリカ型のナイトクラブやステーキハウスの経営など、様々な事業に進出するため、彼はリキ・エンタープライズを設立。彼はそこでワンマン社長として活躍するだけでなく、多くの企業家たちや政界の大物たちとも付き合うように成ってゆきます。その幅の広さは、後に行われることになる彼の葬儀の際の焼香の順番表からもわかります。
<葬儀委員長>大野伴睦(自民党副総裁)
(1)児玉誉士夫(ロッキード事件で有名になる政界のフィクサー、この時は不在だった葬儀委員長代行でした)
(2)河野一郎(衆議院議員、後の河野洋平の父親、自民党の中心的な存在でした)
(3)樽橋渡(衆議院議員、自民党所属)
(4)関義長(三菱電機社長、当時プロレスのスポンサーといえば三菱電機でした)
(5)今里広記(日本精工、後のセイコー社長)
(6)阿部重作(住吉一家元総長、住吉組のトップ)
(7)田岡一雄(三代目山口組組長、山口組のトップ)
(8)岡村吾一(北星会会長、北関東地域のヤクザ組織のトップ)
(9)町井久之(東声会会長、在日韓国人ヤクザ組織のトップ)
(10)新田松江(日本プロレスの初代社長未亡人)
(11)田中勝五郎(力道山の妻、敬子の父親)
(12)永田貞雄(興行プロモーター、大映社長)
 その他にも、正力松太郎、林弘高(吉本興業社長)、松尾国三(日本ドリーム観光社長)、市村清(三愛グループ総帥)、そして芸能界からも、伴淳三郎、美空ひばり、江利チエミ、田宮二郎、清川虹子、スポーツ界からも、金田正一、張本勲など、多くの有名人が出席しました。

<朝鮮と日本の間で>
 彼は現役のプロレスラーと実業家、二つの顔を持つことで、そのパイプを様々な方面に伸ばしながら、さらにもう一つ別の顔をもちつつありました。それは故国である朝鮮に関する政治的な役割です。ここで、当時の日本と朝鮮の関係を説明しておきましょう。

1945年、日本の敗戦により、日本による朝鮮支配が終わりました。
1948年、西側と東側、両方によって開放された朝鮮半島に、北側に朝鮮民主主義人民共和国(首相は金日成)、南側に大韓民国(大統領は李承晩)、二つの国が誕生しました。もちろんそれはソ連、アメリカによる植民地支配ともいえるものでした。
1950年、設立当初から対立していた二つの国は、ソ連とアメリカ二つの大国の代理戦争である「朝鮮戦争」を始めます。この戦争が始まると、日本はアメリカ側の中継基地となっただけでなく様々な軍需物資の生産地ともなり、特需による経済効果により急激に景気が上向きになりました。
1955年、日本に住む朝鮮人のうち韓国系の人々が「在日大韓民国民団」、北朝鮮系の人々が「在日朝鮮人総連合会」をそれぞれ結成。
1959年、新潟から北朝鮮へ向かう帰国船が初めて出航。その後、多くの日本人妻や子供たちが北朝鮮へと旅立って行くことになりました。(映画「キューポラのある街」では、この帰国船のエピソードが描かれています)
1963年、力道山が極秘で韓国を訪問。力道山が朝鮮人であることは韓国では有名なことで、彼は韓国、北朝鮮、両方の国交を正常化させるための友好大使になりうると考えられたのでしょう。彼が日本国籍をもち、中立の立場で動ける点も好都合でした。韓国政府もそんな彼の力を借りようと、彼を韓国に招きます。残念ながらこの時、彼が韓国政府の高官やKCIA(韓国中央情報部)のトップなどど、どんな内容の会談を行ったのかは、未だに謎のままです。しかし、もし彼が不慮の死を遂げていなければ、その後、間違いなく北朝鮮を訪れることになっていたはずです。
 北朝鮮出身でアメリカや日本のプロレスラーをやっつけた英雄という点で、彼は金日成主席からも高く評価されていました。それだけにそれは十分可能性がありました。この訪朝の直後に彼が命を落としてしまったことをCIAなどの組織による謀略であるという噂が広がったのは、こうした彼の活動が朝鮮半島の統一を実現してしまうことを恐れたからとも言われています。

<謎の死>
 彼の死はどうやら暗殺でも謀略でもなかったようです。彼をナイトクラブで刺した犯人は日本人のヤクザで、それは意図的な殺人ではなかったと考えられます。というより、刺し傷自体はもともと致命傷ではなく、その後、病院における手術の中で腸閉塞を併発したことが、直接の死因でした。したがって、殺人犯をあえて探すなら、彼を刺したヤクザではなく病院内の医師と考えるべきかもしれません。
 当時、力道山の内臓は試合やアルコールそして薬物によるダメージにより、かなりの損傷を受けていたようです。だまっていても、彼の内臓はいつ限界に達するかわからない状況だったのです。それだけに医師の予想外の状況が手術によって生み出された可能性は多分にありそうです。したがって、医療ミスはあったとしても意図した殺人でなかったことは間違いないのかもしれません。このあたりは、ブルース・リーの謎の多い死を思い起こさせます。
 故国、朝鮮を離れ、日本で人生のスタートを切った力道山にとって、朝鮮半島の統一は、捨ててきた故郷と家族への最大の恩返しとなるはずでした。しかし、それはあまりにも壮大な夢でした。
 プロレスラーという仕事にはこだわらない彼の波乱万丈の生き様を振り返っていると、僕はふと同じような体型で同じように相撲界を離れていった朝青龍を思い出しました。もちろん朝青龍の一攫千金的な企業家ぶりに比べると、力道山の夢と仕事のスケールの大きさは桁違いです。
 残念ながら、僕は彼の試合をちゃんと見ていないので、どこまでガチンコの戦いをしていたのかはわかりません。しかし、こうして彼の生き様を振り返ってみると、彼のレスラーとしての戦いもまたガチンコ勝負の連続だったように思えてきました。
 古き良きプロレス黄金時代の記憶とともに彼の存在は永遠のものになるかもしれません。もし、忘れられることになっても、いつの日か、彼の夢だった朝鮮半島の統一が実現した時、再び彼の名前が思い出されるかもしれません。

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