- ロバート・キャパ Robert Capa -

以下枠内は2013年2月5日追記
<ロバート・キャパの真実>
 このサイトの内容はほとんどが過去の情報、それも自伝や研究本など正式に出版されているものからの情報に基づくものです。(もちろん僕の主観もかなり含まれてはいるのですが・・・)そんなわけで、細かな情報の間違いの訂正はあっても、大幅な内容の変更はあまりないと思います。
 しかし、2013年2月3日のNHKスペシャル「沢木耕太郎推理ドキュメント運命の一枚〜戦場写真最大の謎に挑む」を見て、さすがにこれは訂正、もしく大幅な追記を考えなければと思いました。
 その番組のテーマは、「伝説の一枚と言われながら、それが本当に死の瞬間をとらえたものか疑われていた伝説的写真「崩れ落ちる兵士」の隠された真実を同じ日に撮られた写真とその場所の背景、歴史的事実をもとに解き明かし、キャパの心の中に迫る」というものでした。
 この手の番組は、結局は真実を明らかにできないまま終わってしまいがちですが、そうではありませんでした。さすがはNHKスペシャルです!そして、そこで明かされた真実とは!

<真実その一>
「この写真の兵士は死んではいないし、撃たれてもいない」
 なぜなら、この写真が撮影されたその日、その場所となったアンダルシア地方の小さな丘では、戦闘は起きていなかったからです。(その場所が戦場となったのは、それからまだ後のことでした)したがって、それは兵士たちの戦闘訓練を撮影したものだったことになります。兵士が崩れたのは、足を引っ掛けるかなにかで偶然倒れたただけと考えら、それを偶然キャパがカメラに収めたということになります。さすがに、それがわざと倒れたところを撮った「やらせ写真」ではないことは、前後に撮られた写真との動きのつながり具合から間違いないようです。
 要するに、この写真のタイトルは「崩れ落ちる兵士」というよりも「足をもつれさせた兵士」とするべきだったということです。

<真実その二>
「この写真を撮ったのはキャパではなかった!」

 わずかに異なるアングルから1秒弱のタイミングで撮られたもう一枚の写真が確認され、2枚が異なるカメラで撮られたことが明らかになりました。(当時のカメラではコンマ何秒での連写は不可能でした)そして、その二枚の写真のどちらかがキャパで、どちらかは彼の恋人だったゲルダ・ボホリレスのものであることがわかったのです。
 残念ながら、ネガが残っていないことから100%の確立ではありませんが、被写体との距離とカメラのフレームの形などから、「崩れ落ちる兵士」を撮れるカメラは限定されます。すると、その写真を撮ったのは、キャパが持っていたライカではなく、ゲルダが持っていたローライフレックスである可能性が高いことが明らかになりました。
 ではなぜその写真の撮影者はキャパということになっているのでしょうか?
 残念なことに、ゲルダはこの写真が「ライフ誌」に掲載され、世界的にブレイクする直前に戦場での事故で、この世を去ってしまいました。しかし、もともと架空の戦場カメラマンとして「ロバート・キャパ」という人物を創造し、二人の写真で彼を英雄にしようというアイデアを出したのはゲルダでした。ということは、彼女もまた「ロバート・キャパ」の一部だったのです。そう考えれば、彼女自身は自分の写真によって恋人でもあるキャパがブレイクすることになんの抵抗もなかったかもしれません。しかし、当のキャパにとっては、それは大きな重荷になっていたはずです。
 だからこそ、彼は世界的なカメラマンとなってからも戦場カメラマンとして自ら危機に赴く道を選択し続け、第二次世界大戦におけるノルマンディー上陸作戦において、最も多くの死者を出した上陸部隊の第一陣に志願するという自殺行為に及んだのでしょう。しかし、この時彼は無事に生き残っただけでなく、そこで究極の戦場写真ともいえる銃撃戦真っ只中での写真を撮影。8年越しで、彼はそれまでの借りを返し、キャパが本物の戦場カメラマンであることを証明することができました。
 ではそれで彼は満足することができたのか?たぶんそうではなかったのでしょう。彼はベトナムで地雷によって命を落とすまで、その秘密を忘れられなかったからこそ、戦場という最も危険な場所へ自ら飛び込むことをやめられなかったのかもしれません。
 死を賭けた大きな仕事を成し遂げた偉大な人物の心には、もしかすると彼に大いなる覚悟を与えることになった「誰にもいえない苦悩」があったのかもしれません。臆病者の僕としては、どうしてもそう思いたくなるのですが、・・・。

<写真という芸術ジャンル>
 芸術作品と装飾作品、もしくは実用品の違いは何でしょうか?その作品に「心」があるかどうか?あるいは、その作品に思想性があるかどうか?それが重要なポイントのように僕は思います。アンディー・ウォーホルは、「自分の作品に思想性などない」と宣言しましたが、彼の場合は「無思想性」という思想を意識的に持ち込んだという意味で十分に思想性があると言えるはずです。
 同じようにたとえそれが大量生産の工業製品でも、そこに製造者、作者の芸術的意図(心)がこもっていれば、それは芸術作品と呼べるはずです。(CDや本はそれにあたるでしょう)
 そう考えると、あらゆる芸術ジャンルは、誕生当初は単なる装飾品や実用品だったものに誰かが思想性を持ち込み、芸術作品へと高めていった結果生まれたものと考えられます。
 写真というジャンルも、誕生した当初は単に被写体を写し取るだけの映像記録装置に過ぎなかったはずですが、何を撮るか?どうやって撮るか?どう現像するか?などを撮影者が選択して行く中で、しだいに思想性が持ち込まれるようになりました。こうして、写真という技術はいつしか芸術の一ジャンルとなったのです。

<新たな技術による新たな芸術性の獲得>
 こうして、思想性によって生み出される芸術ですが、技術の進歩はそれに新たなジャンルを書き加えることを可能にしました。
 1930年代に入るとカメラは技術的な進歩によって、瞬時に被写体をフィルムに写し取ることを可能にし、さらにフィルムを交換することなく連続して撮影をすることが可能にしました。このことは写真家にとってまさに革命的な出来事でした。そのおかげで発展したのが報道写真という写真家にとっての新しい分野でした。それまでは、被写体を延々と立たせて記念撮影のようにしか撮れなかったものが、自らが事件の現場に出かけ好きなアングルでその様子をカメラに収めることが可能になったのです。このことは、単に記録としての写真の技術的可能性を広げただけではなく、現実を人々に見せるという行為によって見る者に撮影者の「心」を伝えることを可能にしたのです。こうして、写真というメディアは20世紀を代表する重要なメディアの仲間入りをすることになりました。その力は、テレビという新メディアが登場するまでは、最強だったと言えるでしょう。
 ロバート・キャパは、そんな報道写真の夜明けにおける代表的カメラマンであると同時に、自らの手で時代を切り開いた仕掛け人としても大きな活躍をした人物です。
 彼のおかげで「戦場カメラマン」という仕事が、一つの仕事として成り立つようになり、なおかつ多くの若者たちの憧れの職業の一つにまでなったのです。

<ロバート・キャパというブランド名>
 ロバート・キャパという名は、もともと本名ではありませんでした。それはペンネームならぬカメラ・ネームであり、ブランド名とでも呼ぶべきものでした。彼がアメリカに帰化する際、正式にロバート・キャパと登録されるまで、彼の名はエンドレ・フリーマンといいました。
 エンドレが生まれたのは1913年10月22日、当時の強国オーストリアの属国的存在だったオーストリア・ハンガリー帝国のブタペスト。商店街で服飾サロンを経営するユダヤ人夫婦の次男として何不自由なく育てられました。
 1918年第一次世界大戦においてオーストラリアが敗北したことでハンガリーは闘わずして独立を手にします。しかし、戦後の経済的な厳しさもあり、すぐに政治的社会的混乱状態となってしまいました。そんな中、エンドレ青年は反体制派の運動に参加し、逮捕されてしまいます。そのおかげで彼は祖国ハンガリーを追放されることになり、ドイツのベルリンに移住し、そこでドイツ政治高等専門学校に通い始めます。
 経済状況の悪化により実家からの仕送りが途絶えてしまったため、彼は働くことになりますが、まだドイツ語を上手く話せなかったため、彼にできる仕事は限られていました。そこで彼が選んだ仕事が写真通信社の暗室助手という仕事でした。彼はそこで、現像・焼き付けの仕事だけではなく、配達や電話の応対など、なんでもこなすようになり、いつしかカメラマンとしての仕事も与えられるようになりました。

<トロッキーを激写!>
 彼の名(まだフリードマン)が最初に知られることになった写真は、1932年スターリンによってソ連を追放されたトロッキーがデンマークで行った演説をとらえたものでした。迫力あるトロッキーの表情を収めた彼の写真は高い評価を得ました。しかし、これでカメラマンとして食べて行けると思ったのも束の間でした。ドイツでヒトラーが政権をとると、すぐにユダヤ人に対する迫害を始めます。ユダヤ人であるだけでなく反体制運動で逮捕されたこともある彼はいつ逮捕され収容所送りになってもおかしくないため、再び次なる国へと旅立たねばなりませんでした。
 こうして、彼は1933年パリに移り住み、再びカメラマンとしてゼロからスタートを切ることになりました。そしてこの頃、彼は同じようにドイツから亡命してきたユダヤ人女性ゲルダ・ポホリレスと出会い、いっしょに仕事をするようになります。彼女は秘書兼営業を担当。フリードマンが暗室で現像・焼き付けを担当する事務所を開設。アメリカからやって来た有名カメラマンの「ロバート・キャパ」という人物を表看板として活動を始めました。もちろん、このロバート・キャパというのは架空の存在で、こうすることで写真の価値を上げようという作戦だったのです。このアイデアは、彼の恋人でもあったゲルダが考えたようです。このことはすぐにバレてしまったのですが、彼はロバート・キャパという名前にこだわり続け、ついに本名としてしまうことになります。

<スペイン内乱の地へ>
 1936年、スペインでは政権をとったばかりの左翼政権に対し、ファシスト党が反乱を起こし、「スペイン内乱」として、世界中の注目を集めるようになります。キャパとゲルダはさっそく取材のためにバルセロナに向かいました。二人はファシストから民主主義を守ろうとしていた共和国軍を取材活動で応援したいと考えたのです。
 その後二人は南部へ移動。途中、セロ・ムリアーノという小さな村で反乱軍と共和国軍の衝突に遭遇します。そして、この時あの有名な写真「崩れ落ちる兵士」が撮られることになりました。今や戦争の真実をとらえた歴史的一枚となったこの作品は、ヨーロッパだけでなくアメリカの「ライフ誌」など世界中のメディアで取りあげられ、ロバート・キャパの名を不動のものとしました。
 しかし、キャパにとって最も幸福だった時期は長くは続きませんでした。恋人だったはずのゲルダはカメラマンとして一本立ちすることを目指すようになり、彼からの結婚の申し込みを断り、別行動をとるようになります。そして、1937年7月彼女はスペインからパリへと帰る途中、交通事故(戦車に轢かれた)により命を落としてしまったのです。
 傷心のキャパは母と弟が移住したニューヨークへ向かい、そこで彼にとって初めて写真集「生み出される死」の出版準備作業にとりかかりました。

<第二次世界大戦>
 1938年、彼は中国で日中戦争を取材後、再びパリへと戻りますが、1939年ついに第二次世界大戦が始まります。ところが、フランス政府はキャパが共産主義者であるという理由から報道記者登録を認めませんでした。しかたなく彼はアメリカへの移住を決意しますが、アメリカは大戦中にも関わらず平和そのものだったため、すぐに彼はロンドンへととんぼ返りします。ある日彼はフランスから帰ってきた爆撃機の写真を撮っている時、そこから降りてきた負傷兵に「不幸を待つハイエナ」呼ばわりされ、大きなショックを受けます。この出来事以後、彼は自ら仕事に疑問を感じるようになり、そこから一つの決断をします。
 それは戦場カメラマンとして活動するからには、自分は兵士とともに前線に立ち、同じ危険に身をさらそうという決断でした。そして、その決断なくしては不可能な仕事が彼にまわってくることになります。
 この気持ちは、すべてのカメラマンにとっても言えることだと僕は思います。僕は旅に出ても、撮りたい人に気軽に声をかけられるようになるまで、人間は撮らない(撮れない)ことにしています。そうじゃないと、自分にとっても相手にとっても良い写真は撮れないからです。キャパはこうした人間としてごく当たり前の気持ちを死と隣り合わせの極限状態でも保つことができたのです。だから偉大なのだと思います。

<ノルマンディー上陸作戦>
 1943年6月6日、第二次世界大戦における最も有名な作戦「ノルマンディー上陸作戦」に彼は同行することになりました。。選ばれたカメラマンはわずか4名。そのうち、兵士とともに上陸作戦に参加できたのは2名のみで、もちろん彼はそのメンバーに選ばれました。
 映画「プライベート・ライアン」を見た人ならわかると思いますが、ノルマンディー上陸作戦は成功に終わったとはいえ、ものすごい数の死者をだす悲劇的な作戦でもありました。この時は、さすがのキャパも死の恐怖のために手が震え、まともにシャッターを押せませんでした。しかし、この時に撮られたピンボケの写真はそれまでに発表されたどんな戦場写真よりも、戦場の恐怖をリアルに伝えていました。彼が目指していた究極の戦場写真は、こうして、死と隣り合わせという条件のもとで生まれました。
 こうして、いよいよ世界一の戦場カメラマンとなった彼は、その後もヨーロッパ戦線に同行し撮影を続けますが、1945年5月7日ドイツの降伏により、その活動の転機を迎えることになります。

<マグナム・フォトスの設立>
 自らの活躍する場を失った彼は、戦場以外の場所に居場所を求めるようになります。ひとつは世界的な映画女優イングリッド・バーグマンとの恋のドラマでした。作家のジョン・スタインベックに同行した共産主義国家ソ連への旅も画期的な試みでしたが、あまりに制約が多く、思うような成果をあげることはできませんでした。
 そんな中彼が最も力を入れて取り組んだのは、カメラマン自身によって運営される写真通信社「マグナム・フォトス Magnum Photos」の設立です。キャパに匹敵する名カメラマンのアンリ・カルティエ=ブレッソンやジョージ・ロジャー、デヴィッド・シーモアらとともに設立した「マグナム・フォトス」は、それまで何の保証もなく一枚いくらで写真を切り売りすることで、生活を成り立たせていたカメラマンたちが、やっと安心して仕事に専念できる環境をつくることを可能にしたのです。(著作権の管理、自主的に仕事を選べる環境作りなど)
 マグナムはその後も報道写真の歴史をつくり続けていくことになります。ベトナム戦争において最高のカメラマンと言われたフィリップ・ジョージ・グリフィスや後に水俣病の取材を行い世界に衝撃を与えることになるユージン・スミス、1990年代最高のカメラマンとも言われたジェームズ・ナクトウェーなど、数多くのカメラマンがマグナムからそのキャリアをスタートさせています。

<半引退生活から突然の復帰>
 1948年、中東での取材中に彼のすぐそばを銃弾がかすめ、それ以降彼は戦場へ行くことを止めてしまいます。それはマグナムの経営という責任ある立場についたことからも、仕方がなかったのでしょう。その時点で彼は戦場へはもう行かないつもりだったようです。しかし、運命はそんな彼の決意を無視して彼を再び戦場へと呼び戻します。
 彼の戦場復帰のきっかけは日本への旅でした。1954年、彼は日本の毎日新聞社から招待され日本を訪れました。ところが、日本でのスケジュールを終える前に、彼に仕事の依頼がもたらされます。それはベトナムで取材中のカメラマンが一時帰国しなければならなくなり、その代わりとしてベトナムに行ってほしいというものでした。戦場を長く離れていた彼は、周囲が引き止めたにも関わらず、ベトナムへと向かいました。それは初めから不吉な旅立ちでした。

<宿命的な死>
 1954年5月25日、彼はベトナムの戦場で地雷を踏み、40歳の若さでこの世を去ってしまいました。彼の日本行きの荷物の中にはなぜか愛用の戦場用ブーツが入っていました。どうやら、彼の心のどこかに再び戦場へ行きたいという思いが潜んでいたのかもしれません。
 美味しいものが好きで、きれいな女性も大好きだった彼は、けっして戦場で散ることを望んではいなかったはずです。しかし、けっこう冒険好きの僕としては「危険」にひかれる彼の気持ちがわかる気がします。そして、そんな気持ちを理解できる人の中から、沢田教一などの優れたカメラマンが現れることになります。

<締めのお言葉>
「人は探求をやめない。そして探求の果てに元の場所に戻り、初めてその地を理解する」

T・S・エリオット
「もし、君の写真が良くないとすれば、それは君が充分に近寄っていないからだよ」
ロバート・キャパ
(この言葉はキャパの口癖だったそうですが、実に奥が深い言葉です。なぜなら、被写体との距離とは、「物理的距離」だけではなく、「心理的距離」でもあるからです)
こちらのページもご覧下さい。「カメラが捕らえた20世紀」(1936年)

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