孤高のシネマトグラフ作家


ロベール・ブレッソン Robert Bresson

「抵抗 - 死刑囚の手記 -」、「スリ」、「バルタザールどこへ行く」・・・

<孤高の映像作家>
「この物語は真実だ。私は飾らず、それ自体を提示する」
ロベール・ブレッソン

 これはロベール・ブレッソンの代表作「抵抗 - 死刑囚の手記 -」の冒頭に掲げられている言葉です。そして、この宣言文に彼の作品のほぼすべてが凝縮されています。「リアリズム」と「映画的演出の排除」、この二つへのこだわりによって、彼は孤高の映像作家と呼ばれることになりました。
そんな映画史に残る監督ロベール・ブレッソンとはいかなる人物だったのか?そのほとんどは謎に包まれていますが、彼が自分の作品に出演する人々を俳優」ではなく「モデル」と呼び、自らの映像作品を「映画(シネマ)」ではなく「シネマトグラフ」と呼んでいたことは確かです。
 なぜそう呼んでいたのか?先ずは、彼の簡単な生い立ちから・・・

<ロベール・ブレッソン>
 ロベール・ブレッソン Robert Bresson は、1901年9月25日フランスのプロモン=ラモットに生まれています。元々は画家になることを志していましたが、映画という新しい表現手段を知り、それを自分の表現手段にすることを考え始めます。映画は、当時まだ創成期で、彼はそこに芸術表現の手段として無限の可能性を見出したのかもしれません。ところが、そこで彼は発展する映像技術の進歩に対して、あえて最も原始的な地点に立ち返る手法を用い続けることで孤高の存在となって行くことになります。ただし、初めから、そこまでこだわった映画作りをしていたわけではないようです。
 1934年のデビュー作となった短編映画「公務」はコメディー映画でした。もし、そのまま平穏無事な人生が続けば、彼は普通の映画を撮るようになっていたかもしれません。しかし、運命は彼の人生を大きく変えます。
 第二次世界大戦が始まり、彼は兵士として戦場に向かい、そこでドイツ軍の捕虜となります。幸い命を奪われることはなく、収容所で知り合った司祭から映画の製作を依頼されます。そして、1943年ドイツ占領下のフランスで彼は長編デビュー作「罪の天使」を発表します。(脚本は、詩人のジャン・ジロドゥ)
 1945年「ブローニュの森の貴婦人たち」を公開。第二次世界大戦終結後、彼はこの作品のダイアローグ・ライターも担当したジャン・コクトーが1948年に創立したシネ・クラブ「オブジェクティフ49」に参加します。そこには、彼ら以外にも、ジャン=ルック・ゴダールフランソワ・トリュフォールネ・クレマン、アンドレ・パザンらもいて、彼らはその後、「ヌーヴェルヴァーグ」の原点となる映画評論誌「カイエ・デュ・シネマ」を創刊することになります。
 1950年公開の「田舎司祭の日記」はヴェネチア国際映画祭で撮影賞、国際賞、イタリア批評家賞、国際カトリック映画事務局賞を獲得し、彼は一躍世界的な監督の仲間入りを果たします。

「抵抗 - 死刑囚の手記 -」 1956年(カンヌ国際映画祭監督賞
(監)(脚)ロベール・ブレッソン
(撮)レオンス=アンリ・ヴュレル
(原)アンドレ・ドゥヴィニ
(出)フランソワ・ルテリエ、シャルル・ル・クランシュ、モーリス・ベアブロック、ローラン・モノー
 この作品の原題は、『「死刑囚は逃げた」あるいは「風は己の望む所に吹く」』といいます。実在のフランス軍兵士で、死刑囚として囚われていたアンドレ・ドゥヴィニが書いた脱獄の記録に基づいて、その実行までの日々をドキュメンタリータッチで再現した映像作品です。
 途中、何人もの囚人たちが銃殺されますが、そのほとんどは映像としてではなく銃撃の音として表現されています。その他にも、看守の靴音や定期的に繰り返される「謎の音」など、様々な音が効果的に使われ、観客はそうした音に知らぬ間に意識を集中することになります。音楽をあまり使わないことで、逆に背景音に観客の意識を向かわせるのもブレッソン的演出術のようです。
 さらにこの作品以後、彼はプロの俳優を使うことをやめ、それぞれの作品で素人を使って撮影を行うようになります。

「スリ」 1960年
(監)(脚)ロベール・ブレッソン
(製)アニエス・ドゥラアイ
(撮)レオンス=アンリ・ビュレル
(音)ジャン・バティスト・リュリ
(出)ピエール・レマリ、マルタン・ラ・サール、マリカ・グリーン、ピエール・エテックス
 「抵抗・・」では脱獄の手口をリアルに描いたブレッソンが、この作品ではスリの手口をリアルに再現。主人公も含め、スリたちは、まったく罪悪感など感じている様子もなく実に無表情に淡々と反抗を繰り返します。演技することを求めない監督は、モデルたちの表情を撮る代わりに、彼らの手先、指先にカメラを向けています。それは、彼らの感情表現は顔ではなく指先に現れているかのようです。こうした、彼らの取り方は、他の作品にも共通しているようです。映画の表現は、俳優たちの顔の演技を中心に考えられていますが、それだけで良いのか?顔だけでなく手や足、背中、肩、持ち物によっても表現することは可能ではないか?そう感じさせてくれる作品です。

1962年「ジャンヌ・ダルク裁判」カンヌ国際映画祭審査員特別賞、国際カトリック事務局賞

「バルタザールどこへ行く」 1964年(ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞、イタリア批評家賞、国際カトリック事務局賞
(監)(脚)ロベール・ブレッソン
(製)アナトール・ドーマン、マグ・ボダール
(撮)ギスラン・クロケ
(音)ジャン・ウィエネル
(出)アンヌ・ヴィアゼムスキー、フィリップ・アスラン、ナタリー・ショワイヤー、ヴァルテル・グレーン
 「抵抗・・・」が実録脱獄映画ということでサスペンス映画としてもわかりやすく楽しめたのに対し、この作品はかなりわかりにくい作品になっています。そのうえ、登場人物の誰もが悪人で実に後味の悪い作品です。
 主人公であるロバを中心に展開する人間たちの物語ですが、ロバと同様に登場人物があまりに無表情で感情の起伏がわかりにくいことに驚かされます。登場人物たちが行う悪事の数々も、彼らの表情がわかりにくいためその意図が見えてこないのです。しかし、そうした演出も監督が意図して事でした。
 出演者に俳優を使わないのは、素人ならではの新鮮な演技に期待しているのではなく、プロの俳優だとどうしても演技をしてしまうからです。彼が作品に出演する演技者を「俳優」と呼ばず「モデル」と呼ぶのは、彼らが演技の際、感情移入することを求めないからです。こうした演出の仕方は、かつて小津安二郎が「演技」をしようとする俳優たちにあえて何度も何度も演技をさせ、くたびれ果てて表情を失うまでやらせ続けたことと共通しています。小津安二郎は、そうした監督の意図を理解する俳優たちを繰り返し使うことで数多くの作品を完成させましたが、ブレッソンはそれ以上に俳優たちの演技を拒否し、同じ「モデル」は二度と使わないことにもこだわりました。
 考えてみると、この映画の主人公のロバのバルタザールは、飼い主が変わったり、いじめられたりしても顔色ひとつ変えません。(当たり前ですが・・・)そんなロバを主人公にしたこと自体がある意味、映画のパロディーのようにも思えてきます。

<映画祭に愛された監督>
 この後の彼の作品リストを見ると明らかなように、とにかく彼は映画祭の審査員たちに愛された監督でした。これほど毎回毎回、何かの賞を獲った映画監督は他にいないと思います。
1967年「少女ムシェット」カンヌ国際映画祭カトリック映画事務局賞、ヴェネチア国際映画祭イタリア批評家賞
1969年「やさしい女」(ドミニク・サンダのデビュー作!)
1972年「白夜」カンヌ国際映画祭カトリック映画事務局賞
1974年「湖のランスロ」カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞
1977年「たぶん悪魔」ベルリン国際映画祭審査員特別賞・銀熊賞
1983年「ラルジャン」カンヌ国際映画祭監督賞、全米批評家協会監督賞
 彼は生涯に二度結婚し、その他にも恋の噂はあったようです。しかし、そうした恋についても、ほとんど明らかになっていないようです。
1999年12月18日、パリでその生涯を閉じました。(享年98歳)

 ロベール・ブレッソンの作品は、とにかくあまりに素朴すぎるため、逆に「映画」について、「命」について、「愛」について考えさせられてしまいます。観客に思い悩む暇も与えずに2時間楽しませてくれるハリウッド映画とはまさに対極的存在といえます。当然ですが、ブレッソンの影響は様々な監督の作品に見られます。
 タル・ベーラ、アキ・カウリスマキ、ジム・ジャームッシュ、北野武、フランソワ・トリュフォー・・・
 すべての映画が「ロベッソン的」である必要はないし、「抵抗」よりも「大脱走」の方が面白いのも確かです。ただし、「映画の原点」を思い出したいと思った時、多くの映画人が思い出すのがロベール・ブレッソンの作品なのだと思います。

 映画が誕生した20世紀の初めに誕生し、20世紀と共にこの世を去った作品は、今もアフリカ沖の海の中を泳いでいるシーラカンスのように生き続けており、その魅力は失われていません。(TUTAYAさんにも、けっこうあるはずです)
 是非あなたも映画の原点にかえり、その魅力について考えてみてください!

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