「フライデーあるいは太平洋の冥界
Vendrei Ou Les Limbes Du Pacifque」

- ミシェル・トゥルニエ Michel Tournier -

<もうひとつのロビンソン・クルーソー>
 ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」をフランス人作家トゥルニエが新たな感覚で書き直した小説がこの作品です。元々「ロビンソン・クルーソー」という小説は、もし絶海の離れ小島にたった一人で流れ着いたら、人はどうやって生きてゆくのか?という思考実験を物語化したものといえます。そのアイデアは普遍的なものなので、その改変版として様々なものが誕生しています。
 設定を子供に、そして人数を増やすと「十五少年漂流記」もしくは、「蝿の王」となり、懐かしいアニメ「ガボテン島」っていうのもありました。さらには、家族に設定すると「スイスのロビンソン」(日本版は「ふしぎな島のフローネ」)となります。
 では、この小説はどんな設定を用いた小説なのかというと、意外なことに元祖「ロビンソン・クルーソー」とほぼ同じ設定です。登場するのは、ロビンソン・クルーソーとフライデーの二人。ストーリーの基本も、ロビンソンの乗る船が嵐で遭難し、無人島にただ一人漂着。彼は原住民の儀式で殺されかけていたフライデーを助け、二人での生活が始まります。そして、島に船が現われて、救出されることになる・・・。
 ほぼ原作に近いのですが、人物像がそれぞれ異なり、最後に一人原作にはない人物が現われます。
 
<著者生い立ち>
 この小説の著者ミシェル・トゥルニエは、1924年12月9日パリに生まれています。両親ともにソルボンヌ大学を卒業したインテリ一家でしたが、身体が弱く、7歳の頃、スイスの保養施設に預けられ、そこで孤独の中で読書に熱中するようになったといいます。
1941年、夏休みにガシュトン・パシュラールの著作と出会い、大学で哲学を学ぶことを決意し、ソルボンヌ大学でそのパシュラールの講義を聴講。当時の哲学仲間には、ジル・ドゥルーズミシェル・フーコーらがいました。
1948年、人類博物館での講義を聴講し、ここでクロード・レヴィ=ストロースから大きな影響を受けることになりました。
1954年、国営ラジオ放送の宣伝部に就職。
1958年、プロン社の文学部門責任者となり、自らも小説の執筆を始めます。
1967年、43歳となり、この小説を発表します。
 著者の経歴からもわかるように、この小説には文化人類学と哲学の要素が多分に含まれています。とにかく、ひとりぼっちの主人公は悩みまくり、哲学しまくり、頭がおかしくなりかけます。その危機を救ったのは、日記を書くという行為でした。ある意味「日記」はもうひとつの人格として、自分の行動を客観視してくれます。僕も、昔ひとりでトルコやモロッコを旅した時、日記を書くことでずいぶん気持ちを落ち着かせることができました。

・・・紙の上に最初の文字を書きながら、彼は涙がこぼれるほどうれしかった。とつぜん、今まで沈んでいた獣性の深淵から半分引っぱり上げられて、この書くという神聖な行為を果たしながら精神の世界に復帰するような心地だった。

 彼は日記をつけることで、精神的な柱を得て、自分がいる無人島の名前を最初につけた「悲嘆の島」から「スペランザ(希望)島」に改めます。そして、正気をとりもどした彼は、その状況を忘れずにいるためにいくつもの決め事を自らに科し始めます。例えば、島で育てた農作物はできるだけ蓄え、明日に備えるということ。

 わたしはこれから次の規定に従うことにする。すなわち、すべての消費は破壊であり、従って悪である。

 さらに彼は水時計を手作りで完成させると、その絶対的な基準の誕生をきっかけに島=世界にさらなる基準を設定しようとし始めます。

 これからは、起きていようが眠っていようが、わたしの時間は、機械的で、客観的で、反論の余地もなく、正確で、確かめることのできるぽたぽたという音が土台になっている。悪の力に対してこんなに多くの勝利を決定するこれらの形容詞に、わたしはどんなに飢えていたことか!わたしの周囲のすべてのものが、今後は計算され、証明され、確証され、厳密になり、合理的になることを、わたしは欲し、要求する。・・・

 島に到着した当時は理性を失いかけ、野生に帰りかけましたが、ここにきて彼はその逆ともいえる島の厳格なる独裁者になるべく憲章まで作り始めます。

第一条 ロビンソン・クルーソーをスペランザ島の総督とする
第二条 島民は大きく明瞭な声で話すこと
第三条 決められた場所以外で用を足してはならない
第四条 金曜日は断食日とする
第五条 日曜日は休日とす
第六条 総督のみが喫煙を許される
・・・・・・

 ここまでくると、理性を通り越して、再び異常な精神状態に思えます。この異常さはさらに悪化。いつしか彼はもうひとりの存在を求めて精神を病み始めます。

・・・今、わたしがわかっているのは、わたしの両足が立っているこの土地がぐらつかないために必要なのは、わたし以外のものがこの土地を踏むことである、ということだ。

 不気味なことに彼はもうひとりの人格、それも女性もしくは母なる存在として島を見始めます。洞窟や泥沼などが急にエロティックなものに見えてきます。

 ところが数週間前から、洞窟は彼にとってある新しい意味を帯びといた。彼は第二の人生 - それは、彼が総督、将軍、管理者という属性をとり払って、水時計を停止させたときに始まっていた - においては、スペランザ島はもはや一つの管理すべき領有ではなく、文句なしに女性的な性格を持つ一個の人間となっていて、彼は心と肉の新しい欲求同様、彼の哲学的思索が彼とそのほうへ傾けていた。

 いよいよ頭のネジが緩みかけた頃、フライデーが登場します。この小説では、「フライデー」という名前にも哲学的な意味が込められています。

 まだその値打ちもないのにキリスト教徒の名前をあたえたくはなかった。未開人は完全な人間的存在ではない。さりとて、これがたぶん常識的な解決法だったんだろうが、彼に事物の名を推しつけることもちょっとできなかった。結局、彼を救った日の曜日の名、つまり<金曜日>という名を彼にあたえることによって、このディレンマをかなり手際よく解決したと思っている。これは人名でもなく、普通名詞でもない。この2つの中間物、一時的で、偶然で、エピソードのような彼の性格が強調されている、半ば生きていて、半ば抽象的な実体を表す名前である。

 ちなみに、フライデーが登場するまで、ロビンソンが一人で悩み、正気を失い、哲学し続けている前半は少々ウザイ展開かもしれません。しかし、フライデーが現われたとたん、彼によって次々にドラマが展開させられ面白くなってきます。小説のタイトルが、ロビンソン・クルーソーではなくフライデーなのもそのせいでしょう。
 ひ弱で悩んでばかりのロビンソンが築き上げた島の秩序は、あっという間に破壊されてしまいますが、そこには新たなエネルギーが注入されます。秩序とは、破壊されてこそ価値があるものなのかもしれません。そして、その混乱がロビンソンに再び生命力を与え、やっと彼は島で生きることに悩みを感じなくなります。
 そう悟った頃、島に船が現われます。

 彼にとっては毎朝が世界の歴史の最初の始まり、絶対的な始まりだった。太陽=神の下で、スペランザ島は、過去も未来もなく、永続的な現在の中でふるえていた。彼は完成の絶頂点に安定して腰をおろしている、この永遠の瞬間からわが身を引き剥がして、摩滅と、塵埃と、廃墟の世界に墜落していこうとは思わなかったのである!

 彼はフライデーと共に救助されるのでしょうか?
もちろん、そうはならないのですが・・・
その驚きのラストを是非お楽しみ下さい!

「フライデーあるいは太平洋の冥界 Vendrei Ou Les Limbes Du Pacifque」 1972年
(著) ミシェル・トゥルニエ Michel Tournier
(訳)榊原晃三
河出書房新社

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