- ロッド・スチュアート Rod Stewart -

<追記>2004年8月31日

<円熟のエンターテナー>
 もしかすると、これまでこのサイトで取り上げてきたアーティストの中で最も「芸能人」的な人物かもしれません。そのせいか、昔からのロック・ファンの多くは、危うく彼の名前を忘れるところでした。しかし、1993年発表のアルバム「Unplugged ... And Seated」あたりから、再び彼のしぶいヴォーカリストとしての面が再評価されるようになり、その後21世紀に入ってなお彼の円熟味を帯びた歌声は新しいファン層を獲得し続けているようです。(CMによく使われているせいもあるでしょう)
 素晴らしい声をもつということは、どんな音楽的才能を与えられるよりも幸福なことなのかもしれません。かつて、偉大なシャンソン歌手エディット・ピアフのことを「彼女なら電話帳を読んでも人を感動させるだろう」と言った人がいましたが、ロッドもまた何を歌っても人を感動させられる数少ないヴォーカリストの一人なのでしょう。

<タータンチェックの似合う男>
 70年代にタータンチェック = ベイシティー・ローラーズという図式ができて以降、ちょっと影が薄くなりましたが、タータンチェックはロッド・スチュアートのトレード・マークでもありました。元々彼の父親はスコットランド人で、ロンドンに移住してから結婚。その後再びスコットランドに戻って生活していたものの、再びロンドンで暮らすようになります。ロッドは、その後この家の5人目の子供として1945年1月10日に生まれました。
 ロッド少年の好きなものは3つ。サッカーと鉄道模型とアル・ジョルスンだったそうです。実にイギリスの少年らしい趣味です。
 成功した後、プロのサッカー・チームを所有してしまったほどサッカーが好きな彼は、高校時代サッカーの一流選手としてプロを目指せるほどの実力だったそうです。しかし、彼はサッカー選手の道ではなく歌手の道を選択しました。それは、子供時代からの彼の憧れだったアル・ジョルスンを目指すためだったのです。

<アル・ジョルスン>
 アル・ジョルスンは、ロシア生まれのユダヤ人(当然白人)で、7歳の時にアメリカに移住。歌や踊りが大好きだった彼は、白人が顔を黒く塗り、歌や踊りのショーを行うミンストレル・ショーやヴォードビルのショーで活躍、一躍人気者になりました。
 その後、1910年代からはニューヨークのブロード・ウエイで活躍するようになり「スワニー」などの大ヒットを飛ばしました。アメリカにおける最初の大物エンターテナーとして伝説的な存在です。(彼の伝記映画「ジョルスン物語」は、映画史に残る傑作のひとつとも言われる作品です)

<プロ歌手としてとしてと厳しい道のり>
 しかし、彼の目指した目標への道のりは、そうたやすいものではありませんでした。1963年にジミー・パウエル&ザ・ファイブ・ディメンションズというバンドでバッキング・ヴォーカルとハーモニカを担当したのを皮切りに、1964年にはフーチー・クーチー・メンに参加。この年10月には、早くも「Good Morning Little School Girl」というシングルでソロ・デビューを果たします。しかし、バンドとしてもソロ・アーティストとしても、成功にはほど遠く、1965年にはスティーム・パケット、1966年にはショット・ガン・エクスプレスを結成するものの、どれも成功には至りませんでした。

<ジェフ・ベックとの出会い>
 もしかすると、白人離れした彼のパワフルでソウルフルなヴォーカルは、それと対等に渡り合えるだけの優れたバック・バンドの存在を必要としていたのかもしれません。その意味では、1966年の年末に参加したジェフ・ベック・グループこそ、彼の力量を発揮するのに最適の場だったのかもしれません。
 1968年のデビュー・アルバム「トゥルース Truth」、続く1969年の「ベック・オラ Cosa Nostra Beck-Ola」は、ともにヒットし、一躍彼は脚光を浴びるようになります。とは言っても、このバンドのリーダーはカリスマ的ギタリスト、ジェフ・ベックであり、彼はまだ本当の主役とは言えませんでした。その後、グループは解散し、ジェフとロッドはヴァニラ・ファッジのティム・ボガート、カーマイン・アピスと新バンドの結成を計画します。ところが、ジェフ・ベックが交通事故にあったため、この計画は中止せざるを得なくなります。

<フェイセスへの参加>
 ちょうどこの頃、天才ヴォーカリストとして大活躍していたスモール・フェイセスのスティーブ・マリオットがバンドを脱退。その抜けた穴を埋めるため、急遽ロッドが加わることになりました。さらにこの時、ジェフ・ベック・グループのベーシストを勤めていたロン・ウッドもともにスモール・フェイセスに加わることになり、バンド名もフェイセスと改め再スタートを切ることになりました。
 フェイセスのメンバーは、ロッドとロンの二人の他、ロニー・レインとイアン・マクレガン、ケニー・ジョーンズの5人で、1970年デビュー・アルバム「ファースト・ステップ The Fast Step」を発表しました。

<ソロ活動の開始>
 さらに彼は、この頃からバンド活動と平行してソロ・アーティストとしての活動も開始します。フェイセスのデビューより先の1969年初のソロ・アルバム「ロッド・スチュアート・アルバム An Old Raincoat Won't Ever Let You Down」を発表しており、その後しばらくはバンドとソロ両方で次々とアルバムを発表して行きます。
ソロ名義 「ガソリン・アレイ Gasoline Alley」(1970年)
フェイセス名義 「ロング・プレイヤー Long Player」(1971年)
ソロ名義 「Every Picture Tells A Story」(1971年)
フェイセス名義 「馬の耳に念仏 A Nod Is As Good As A Wink」(1971年)
ソロ名義 「Never A Dull Moment」(1972年)
フェイセス名義 「ウー・ラ・ラ Ooh La La」(1973年)
ソロ名義 「Smiler」(1974年)
ロッド&フェイセス名義 「Coast To Coast : Overtures & Beginners」(1974年)
 年に二枚のペースでロッドはアルバムを発表していたことになります。これらのアルバムの中からは、シングルとして「マギー・メイ」(1971年)が大ヒット。そして、1973年には早くもソロとしてのベスト・アルバム「Sing It Again Rod」を発表するなど、今ではとても考えられないハイ・ペースで彼は活躍し続けました。しかし、まだまだそれはブレイク前の状態でした。

<アメリカへの移住>
 それまで母国スコットランドを愛し、それを衣装やアルバム・ジャケットなどで表していたロッドですが、あまりの税金の高さにアメリカへの移住を決意します。さらにレコード会社もアメリカの大手ワーナーへと移籍し、いよいよ大西洋を渡りアメリカへ上陸します。その記念すべき再スタート作が、彼の代表作ともなった「アトランティック・クロッシング Atlantic Crossing」(1975年)でした。(ジャケットでロッドは大西洋を一またぎしています)
 プロデューサーにはトム・ダウドを迎え、メンフィスのマッスルショールズやハイ・レコードのスタジオ、ニューヨーク、ロス、マイアミのスタジオを使用。バックには、MG’sのメンバーとメンフィス・ホーンズ、ジェシ・エド・デイヴィスなどの豪華を使うなど、ブルーアイド・ソウル・シンガー、ロッドにとっては最高の条件がそろいました。そして、このアルバムからは彼の代表作として今やスタンダード・ナンバーとなった名曲「セイリング」が生まれました。

<異色のカバー曲の数々>
 ところで、ロッドの「セイリング」は、実は彼のオリジナルではありません。サザーランド・ブラザースというバンドのほとんど無名の曲をロッドが見つけだしてきたものでした。こうして、無名に近い隠れた名曲を新たに甦らせるのも、彼の得意分野でした。
 後にポーグスで有名になるイアン・マッコールの「Dirty Old Town」、ボブ・ディランの隠れた名曲「北国の少女」、キャット・スティーブンスの「The First Cut Is The Deepest」、クレイジー・ホースの「I Don't Want To Talk About It」、マンフレッド・マンの「Pretty Flamingo」、ボビー・ウーマックの「It's All Over Now」・・・これらの渋めの曲をまるでオリジナル曲のように歌うことで彼の魅力は倍増してゆきました。

<ブロンド好きのスーパースター誕生>
 1975年、ロン・ウッドがローリング・ストーンズに移籍。すでにバンドとしての活動が停止していたフェイセスは年末に正式解散。いよいよロッドは、ソロ・アーティストとしての道を歩み始めます。そして、1976年「ナイト・オン・ザ・タウン Night On The Town」を発表。このアルバムからは「Tonight The Night」が大ヒット。1977年「明日へのキックオフ Foot Loose & Fancy Free」(このアルバムからは「Hot Regs」が大ヒット)1978年「スーパースターはブロンドがお好き Blondes Have More Fun」(多くのファンのひんしゅくをかったディスコ・ナンバー「アイム・セクシー」が大ヒット)
 この頃のロッドはまさにエンターテナーとして、ピークを迎えようとしており、音楽以外でもヘアー・スタイルやド派手な衣装、そして数々のゴシップ・ネタで話題を提供するロック界一の「芸能人」だったと言えるでしょう。そのぶん作品の売れ線狙いに対して、批判が多くなっていたのもこの頃です。

<時代に忘れられかけた男>
 どんな曲でも歌いこなせる分、時代の変化に左右されやすい彼の歌は、節操のなさが魅力でもあったのですが、パンク・ニューウェーブの時代ともなると、さすがに対応できなくなります。そのため、多くのベテランアーティストと同様に80年代は彼にとって厳しい時期になりました。
 しかし、90年代に入ると再び彼の名前が聞かれるようになります。1991年の「Vagabond Heart」、1993年の「アンプラグド」(このアルバムでは久々にロン・ウッドと共演しています)あたりから、彼本来の歌の魅力が復活。21世紀に入っても、彼の人気は相変わらず衰えてはいないようです。それどころか、枯れた男の魅力を全面に素晴らしいヴォーカル・アルバムを発表し続けています。
 「セイリング」は、今やイギリスの第二国歌になったともいわれるほど、彼の存在はイギリスにとって国民的アイドルの位置にいるようです。その点では、エルトン・ジョンとい良い勝負かもしれません。しかし、エルトンの派手な演出ぶりに比べ、ロッドの場合は年をとったなりにアンティーク家具のような魅力を発することができるような気がします。
 でも、まだまだそうはなるには早すぎるのかもしれません。ブロンド娘がお好きなおじさんスーパースターには、まだまだゴシップ・ネタを提供し続けてくれることを願いたいと思います

<締めのお言葉>
「お楽しみはこれからだ。 You ain't heard nothin' yet」

映画「ジョルスン物語」より(1946年公開、アル・ジョルスンの伝記映画)

<スコットランドといえば、やっぱりこの人ですね>追記2004年8月31日
 先日衛星映画劇場で「永遠の夢 ネス湖伝説」という映画を見ました。だいたいお話は予想されるとおりで、ある博士が長年の夢であるネッシーを発見するものの、湖の回りに住む人々やネッシーのためにその公表を止めてしまうというものでした。おまけにラスト・シーンはその博士がネス湖の湖畔に住む女性のもとに帰り抱き合うというもので、いやはやと思ったのですが、その時にかかった音楽がロッド・スチュアートの「Rhythm of my heart」でした。やるじゃない。ちなみに、その映画の音楽はトレバー・ジョーンズでした。
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