- ロジャー・コーマン Roger Corman -

<B級映画の王者>
 ロジャー・コーマン、「B級映画の王者」である彼の自伝のタイトルは「私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか How I made a handred movies in Hollywood and never lost a dime」といいます。「いかに大金を儲けたか」ではなく「いかに損をしなかったか」というところがポイントです。今の映画界を見ればわかるように映画で大金をもうける方法はいくらでもありますが、彼にとっては儲けることよりも、より多く映画を撮ることこそが目的だったのです。こうした彼の生き方が生み出した数多くの作品は、あまりに時代色が強かったため、残念ながら時代と共に消えてしまいました。
 しかし、彼は作品の他にも重要なものを映画界に残しています。例えば、ジャック・ニコルソン、デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ、チャールズ・ブロンソン、シルベスター・スタローン、ウィリアム・シャトナー、ブルース・ダーン、ロバート・ヴォーン、ロバート・デ・ニーロ、タリア・シャイア、トミー・リー・ジョーンズ、バッド・コート、ウォーレン・オーツ、デヴィッド・キャラダイン・・・etc.彼の作品で使われ、その後スターになっていった俳優たちはこんなにいます。さらに彼が製作した作品で監督や脚本、撮影などを担当し、その後映画監督や一流脚本家になった映画人の数もたいへんな数にのぼります。ロバート・タウン(脚本家)、フランシス・フォード・コッポラ、モンテ・ヘルマン、ピーター・ボグダノヴィッチ、マーティン・スコセッシ、スティーブ・カーバー、ジョナサン・デミ、ジェームス・キャメロン、ジョー・ダンテ、ロン・ハワード、ジョン・セイルズ、ジョナサン・キャプランなどなど。実にそうそうたる顔ぶれが彼の元で映画つくりの基礎を学んで行きました。
 改めて振り返ると、ニューウェーブ以降のアメリカ映画界を支えたのは間違いなく彼ら「コーマン映画学校」の卒業生たちでした。それにしても、なぜこうも優れた人材が彼のもとに集まったのでしょうか?その謎に迫ってみたいと思います。

<ロジャー、映画への道>
 ロジャー・コーマンが生まれたのは、1926年4月5日。父親はデトロイトで建築技師として働いていましたが、その後サラリーマンとしての仕事をやめ、カリフォルニアに移住。ビバリーヒルズに住み、コンサルタント業を営み始めました。そんな技術系の父親からの奨めもあり、彼はスタンフォード大学の工学部に入学。エンジニアへの道を歩みつつも、文章を書くことが好きで文芸関係の仕事にもひかれていた彼は、しだいに映画の世界を目標とするようになりました。そして、1947年に大学を卒業した彼に小さなチャンスが巡ってきました。彼は20世紀フォックス社内のメッセンジャーとして働くチャンスをつかんだのです。
 社内を駆けめぐりながら、彼はすぐに次なる行動に出ました。彼は無給を条件に土曜日も出社すると映画の撮影現場に潜り込み、さらに脚本部に入り浸っては脚本を読みあさりました。そこまで意欲をみせる彼に、次なるチャンスが巡ってきました。それはメッセンジャーから脚本部正社員への突然の抜擢でした。さっそく彼は掘り出し物の脚本を見つけだし、その実力を発揮し始めます。しかし、サラリーマンとして働く限り、彼の才能は消費されるばかりで思うような結果は得られないことを彼は知るようになります。

<ヨーロッパへの旅>
 彼は一度人生を見つめ直そうと、会社を辞めてイギリスのオックスフォード大学に短期留学しました。その後、彼はフランスに渡ると実存主義まっさかりのパリにしばらく滞在。この頃得た彼のヨーロッパ経験は、後の映画作りや映画の輸入・配給に大いに役立つことになります。
 アメリカに戻ってきた彼は、今度は作家や俳優の代理業務を行う文芸エージェンシーに就職。小説や脚本を読む毎日を過ごしながら、自ら脚本を執筆し始めます。こうして書かれた脚本「湖中の家」が映画会社に350ドルで売れ、そこから彼の映画人生が本格的に始まることになります。

<映画製作開始>
 ある日、彼は新聞でひとり乗り潜水艇のテスト潜水が行われたという記事を読みました。すかさず彼はその潜水艇を開発した会社に連絡をとると映画に使用するなら無料で貸し出すという了解を得ます。すぐに彼は自ら脚本を書き、3500ドルの持ち金をもとにして映画化を計画します。あちこちから金を借りて10000ドルを準備した彼は、最後に不足していた2000ドルを監督をやらせてやるという条件で友人に出させ、映画を見事作り上げました。これが彼にとって最初のプロデュース作品「海底からのモンスター The Monster from the Ocean Floor」(1954年)です。たったひとつのアイデアから生まれた超低予算の映画ではありましたが、この作品は配給会社に認められて一般公開されることになり、見事次回作の資金までも稼ぎ出すことに成功しました。 小さな新聞記事から始まった彼の「ハリウッド版わらしべ長者物語」がこうして始まり、2作目にはいっきに5万ドルの予算が使われることになります。この作品「速き者、激しき者 The Fast and the Furious」(1954年)の監督は主演俳優のジョン・アイアランド。監督をやらせるという条件で彼は主役を受けてくれました。彼は作品を完成させるためなら、あらゆる作戦を用いました。

<映画界を巡る状況の変化>
 実は、彼の映画作りが上手く行ったのには、映画界の変化の影響がありました。1948年、アメリカの最高裁がパラマウント映画に対して配給権の独占を禁止する裁定を下します。そのため大手の映画会社は、それまで直接経営していた数多くの映画館を手放すことになりました。こうして、独立採算でやって行くことになった各映画館(もしくは映画館チェーン)は、生き残りのため独自の戦略に基づいて地域の特色に見合った作品を探すようになります。こうして、時代の流行をとらえた映画が、より求められるようになり、そんなニーズに素早く対応できる小さな映画製作会社にも割り込む余地ができたのです。
 ただし、この頃アメリカではテレビが急激に普及し始め、映画館から観客を奪い始めていました。そのうえ、小規模な作品をテレビ局がソフト不足を補うために買い占めていたため、映画館にとってはテレビに負けないだけのより旬な作品が必要とされていました。
 逆に考えると、その時観客が見たがっているテーマの作品を早く安く作って上映できれば、小さな映画会社にも十分勝ち目がある時代、それが当時の状況だったのです。
 彼は時を同じくして映画の配給を始めようとしていたジム・ニコルスンとサミュエル・Z・アーコフの二人人物と協力関係を結びます。こうして、彼らが設立したAIP(アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ)が配給を担当するというかたちができ、ロジャー自身は今まで以上に映画作りに専念できるようになります。

<バラエティーに富む映画群>
 こうして、彼が作り始めた映画の数々は、実にバラエティーに富んでいて、あえてジャンル分けをしてみると、当時どんなことが人々の関心を集めていたのかがよくわかります。
「あらくれ五人拳銃」「荒野の待ち伏せ」(1955年)「早撃ち女拳銃」「オクラホマの女」(1956年)はもちろん西部劇。(西部劇は手堅いジャンルでしたが、その後彼はほとんど手を出さなくなります。王道すぎて差別化が難しかったのかもしれません)
「原子怪獣と裸女」(1955年)は核戦争後の世界を描いたSF映画。
「地球への来訪者」「金星人地球を征服」(1956年)はエイリアンによる地球侵略を描いたSF映画。(SF映画はこの頃から着実にヒットするジャンルになり始めています)
「巨大蟹の襲撃」(1957年)は核実験によって巨大化した蟹のお話。(ゴジラのパクリ?)
「鮫の呪い」「ハワイの雷鳴」(1957年)は南の海を舞台にした海洋冒険アドベンチャーもの。
「ごろつき酒場」「ソロリティー・ガール」「カーニヴァル・ロック」「ティーンエイジ・ドール」(1957年)は映画「暴力教室」のヒットとロックン・ロールのブームに乗っかった青春音楽映画。
「女バイキングと大怪獣」(1957年)は伝説冒険ファンタジーもの。
「悪魔と魔女の世界」(1957年)はもちろんオカルトもののはしりです。
「女囚大脱走」(1955年)は未だに人気のある?女囚ものと脱走ものの合体。
 驚くべき事に、たった3年の間に彼はこれだけの作品を作り上げています。そして、B級映画の定番的なジャンルがこの時ほとんど撮られていることにも驚かされます。しかし、この頃の作品は、まだアイデア勝負のブーム便乗型デッチ上げ映画の域を出ていなかったようです。

<ワンランク上の作品作りへ>
 彼はこの頃からより質の高い作品作りを目指し、自ら映画の勉強に本格的に取り組み始めます。映画監督として必要な撮影のテクニック、脚本家としての能力、編集の能力、演出家としての演技力や演技指導の方法などを身につけることで、彼の映画の質は着実に向上し始めました。
「機関銃ケリー」(1958年)は、チャールズ・ブロンソンの出世作ともなり、同時にロジャー・コーマンの名前をヨーロッパの映画通にまで広めることになった重要な作品です。
「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」(1959年)は、後にミュージカル化され、さらにはリメイクまでされて世界中でヒットすることになる大ヒット作です。カルト・ムービーのはしりとなったこの作品は、なんと2日間で撮影を行ったギネスものの低予算作品でした。(ちなみにこの映画にはジャック・ニコルソンが出演しています)
「アッシャー家の惨劇」(1960年)は元々エドガー・アラン・ポーの大ファンだったロジャー・コーマンにとっては、最も撮りたかった作品だったようです。彼はこの映画のセットを低予算で作り上げるために、ハリウッド中の映画会社を回って使い古しのセットを買い集めました。しかし、リサイクルの古城は寄せ集めとは思えない出来映えで、僕を含め多くの観客を恐怖に脅えさせることになりました。もちろん、この映画のセットはこの後も数多くの彼の作品で再利用されていることはいうまでもありません。

<若き才能の集結>
 1960年代に入ると、彼の映画作りの評判を聞いた映画作家を目指す若者たちが、映画界入りのチャンスを目指して彼の元に集まるようになり始めます。例えば、フランシス・フォード・コッポラは、彼のもとで録音係りなどを勤めた後、22000ドルの資金をもらって1963年「死霊の棲む家」で監督デビューを果たしています。
 同じ年の「古城の亡霊」という作品では、ロケ場所の移動や製作上の都合などにより、次々に監督が交代。彼は自らが監督した以外に、前述のコッポラ、モンテ・ヘルマン、ジャック・ニコルソンらを監督に順番に起用しました。今考えると、なんという贅沢な作品だったのでしょう。(ただし、その出来映えはさっぱりだったそうですが・・・)
 その他、彼のもとで作品作りを学び後に大物になった人々をあげてみると、・・。
 後に「チャイナタウン」の脚本でアカデミー賞をとるロバート・タウンは、「地球最後の女」(1960年)など数多くの作品で脚本を担当しています。
 人気テレビ・シリーズ「ナポレオン・ソロ」(1964年)で一世を風靡したロバート・ヴォーンは、1958年の「恐怖の獣人」での原始人役がデビュー作のようです。
 ニューシネマの伝説的作品「断絶」の監督、モンテ・ヘルマンもコーマン作品に数多く関わり1966年の「射撃」などを監督しています。
 ヒッチコック監督の「ファミリー・プロット」では遂に主役を演じることになった名脇役のブルース・ダーンもまた「ワイルドエンジェル」などのコーマン作品に出演しチャンスをつかんでいます。
 「理由なき反抗」で一躍有名になりながら、その後泣かず飛ばず状態だったデニス・ホッパーも、コーマン作品に出演しながらチャンスをうかがい遂に「イージー・ライダー」でブレイクすることになります。
 すでにデビューはしていましたが、あの名優ロバート・デ・ニーロもコーマン監督の大ヒット作「血まみれギャング・ママ」(1970年)での演技が認められマーティン・スコセッシの「ミーン・ストリート」(1973年)で主役を勤めることになります。そのマーティン・スコセッシもまた、コーマンのもとで作った名作「明日に処刑を」(1974年)が監督デビュー作です。
 「羊たちの沈黙」「フィラデルフィア」「ストップ・メイキング・センス」を監督した僕が大好きなジョナサン・デミもまたコーマンのもと、「女刑務所 白昼の暴動」で監督デビューを果たしています。
 映画「告発の行方」の監督や傑作テレビ・シリーズ「ER(緊急救命室)」制作・演出を担当するジョナサン・キャプランも、コーマン作品「夜勤看護婦」(1972年)が監督デビュー作。
 「ラスト・ショー」や「ペーパー・ムーン」などの名作を作った監督ピーター・ボグダノビッチも「標的」(1968年)が初監督作品です。
 「グレムリン」「インナー・スペース」などの監督ジョー・ダンテは、1976年に「ハリウッド・ブルバード」で監督デビュー。
 「ブラザー・フロム・アナザー・プラネット」「メイトワン1920」など、渋い名作を数多く作っているジョン・セイルズは、「ピラニア」「ハウリング」などの脚本を担当し、その後監督業に進出しています。
 「アポロ13」「バック・ドラフト」など大作映画の名手となったロン・ハワードは、「アメリカン・グラフィッティ」への出演後、コーマンの出資により「バニシング In Turbo」(1977年)を初監督。そのヒットにより大監督への道を歩み始めました。
 あのジェイムス・キャメロンは、「殺人魚フライング・キラー」(1982年)というなんともB級な映画が初監督作品です。その奥さんとなったゲイル・アン・ハードはコーマンのニューワールド社でプロダクション・マネージャーを担当。離婚後もプロデューサーとして活躍しています。
 ついでながら、1971年公開の「レッド・バロン」に参加したスタント飛行士の中に、あの「かもめのジョナサン」の作者リチャード・バックがいたそうです。(この時、彼は「かもめのジョナサン」を執筆中だったそうです)

<海外名作映画の紹介>
 ロジャー・コーマンの仕事として、もうひとつ重要なことがあります。彼の作ったニューワールド社は、映画を製作する以外に、海外の名作映画を輸入し配給することにも力を入れていたのです。それも超一流監督の作品ばかりではあっても、けっしてアメリカでヒットするという保証はない地味な作品を選んでいました。
 例えば、イングマール・ベルイマンのアカデミー外国映画賞受賞作「叫びとささやき」(1974年)フェリーニの代表作「フェリーニのアマルコルド」(1973年)、フォルカー・シュレンドルフ監督のカンヌ映画祭パルムドール受賞作「ブリキの太鼓」(1979年)、フランソワ・トリュフォーの代表作のひとつ「アデルの恋の物語」(1975年)「トリュフォーの思春期」(1976年)、アラン・レネの「アメリカの伯父さん」(カンヌ映画祭グランプリ作品)、黒澤明の隠れた名作でありアカデミー外国語映画賞受賞作「デルス・ウザーラ」(1975年)、そしてジャマイカのレゲエを世界中に広めるきっかけとなった映画「ハーダー・ゼイ・カム」(1972年)、なんという素晴らしい作品群。彼はこれらの作品を輸入するだけでなく見事にヒットもさせています。こうした映画の輸入と公開は、自分の好きな映画を作って自ら配給・公開することと、意外に共通しているのかもしれません。

<ロジャー的映画作法>
 ロジャーはマーティン・スコセッシにこう言ったことがあるそうです。
「マーティン、まずやらなくてはいけないのは、映画の冒頭をとてもうまく撮ることだ。観客は何がはじまるのかを知りたがっているのだからね。それから映画の最後にも力を入れなくてはいけない。観客は、どんなふうにすべてがおさまったのかを知りたがっている。ほんとうはほかのことはどうでもいいんだよ」

また、ジョナサン・デミにはこう言ったことがあるそうです。
「眼だよ、観客動員には眼という器官がもっとも有効な効果を生む。眼を楽しませることができなければ、脳の中に入り込むなんてできない。できるだけたくさんのアングルを使え。同じ構図のクローズアップを繰り返すな。眼に、同じものを前にも見たぞと感じさせてはいけない。悪役を主人公と同じぐらい魅力的にしたてろ。一面性しかない悪役より、性格が複雑で心ひかれる悪者の方がずっと恐い」

こんな言葉もあります。
「もっとはっきりいうなら、古典的な恐怖シーンは性行為に似ている。最後にある強烈でショッキングな出来事、緊張を解放する出来事、それはオルガスムス同じだ。コメディアンはたくみに緊張を高め、クライマックスでおちをつけて笑いを呼び起こす。ホラー映画の監督も同じ事をする。ただし、笑いではなく、悲鳴を呼び起こす。どちらにしても募る緊張と解放の関係は性行為のリズムに似ている」

<インデペンデントへのこだわり>
 その後も彼はインデペンデントにこだわり続けます。やろうと思えば、株式を公開したり、大手と組んだりすることで会社を大きくできたし、より大きな予算の映画を撮ることも可能でした。しかし、彼は何本かの映画で大手映画会社と組んだ時、勝手に作品をいじられたことを忘れられずにいました。彼は「映画界のわらしべ長者」ではあっても、けっしてハリウッドのトップに立とうなどとは思っていなかったのです。小さな映画でも自分の思い通りに作れること、それこそが彼にとって最大の喜びだったのですから。
 ただし、彼の目指していた娯楽映画のスタイルは彼の弟子たちによって受け継がれることになりました。ジェームス・キャメロンの作品などは、まさにコーマン映画そのものです。ただし、彼にはコーマン監督と違い大きな資本の後ろ盾がありました。彼の映画には、コーマン映画の何十倍もの製作費が使われているのです。正直、僕はキャメロン監督の「タイタニック」は巨大なB級映画であり、大ヒットはしてもアカデミー賞を独占するような作品ではないと思っています。コーマン監督ならきっと、「あれだけの資金があったら、俺なら十本はヒット作を作れたな」と言ったのではないかと思います。

<ハリウッドの危機を救った男>
 1960年代末、ハリウッドは崩壊の危機に瀕していました。それを救ったのは、ニューシネマの若手監督たちだったのですが、彼らを育てた人物こそ、ロジャー・コーマンでした。
 こうしてやってきた20世紀末のハリウッド映画黄金時代は、ロジャー・コーマンが生み出したB級娯楽映画の形を、彼の弟子たちが巨額資本によってリメイクすることで生み出されたものだったのかもしれません。その反動が現れたからこそ、最近のハリウッドはオリジナルな傑作を作れなくなったいるのかもしれません。ハリウッドが以下にネタ切れしているかは、リメイク作品の異常な多さでもよくわかると思います。オリジナルな作品は、結局インデペンデント映画からしか生まれてこないのです。
 「だから、俺はインデペンデントにこだわったんだ」と彼が言うかどうかはわかりませんが。

<締めのお言葉>
「映画は妥協した芸術形態だ。映画は、半々のわりあいで芸術であり商品である。アメリカ人が映画作りにすぐれているのは、おそらくこのためだろう。・・・」

ロジャー・コーマン

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