なぜロヒンギャ難民は女神に見捨てられたのか?


- ミャンマーの歴史とロヒンギャの人々-
<女神による虐殺疑惑>
 このサイトですでに紹介しているミャンマー民主化運動の英雄、アウンサン・スー・チー女史。世界中から称賛された彼女の民主化のための活動は、間違いなく素晴らしいものでしたが、その偉業が一気に否定される事件が起きました。ミャンマーにおけるロヒンギャの人々に対するジェノサイド(民族浄化)です。事件は僕も含め、世界中を驚かせがっかりさせました。「民主化の女神」と呼ばれた彼女が、ヒトラーと同じようにホロコーストを行ったとは…誰もが信じられなかったはずです。
 そこには何か理由があったはず。彼女が望んで虐殺に及んだとは思えない。そんな疑問を感じつつ、日本人のミャンマー研究家が書いた本を読んでみました。その著者の中西さんも、事態には、やはり驚いたようです。
 この本が発表された後に起きたミャンマーの軍事クーデターは、彼女にも軍の残虐行為を止めることはできなかったことを、ある程度は理解させてくれました。ただし、彼女の心の中にもロヒンギャの人々に対する差別の思いはあったことも事実のようです。
 ロヒンギャの人々は、なぜそこまでミャンマーで憎まれる存在となったのか?
 そもそも「ロヒンギャ」とはいかなる民族なのか?
 彼らが住む多様な民族国家ミャンマーとはいかなる国なのか?そこからまとめてみようと思います。

<ミャンマー連邦共和国>
 ミャンマー連邦共和国は、7つの管区と州から構成されています。全人口の60%がビルマ人でそのほとんどが仏教徒。そして残りの40%は、100を越える様々な民族によって構成されています。特に人口的に多いのは、カレント人、カチン人、カヤー人、シヤン人、チン人、モン人、ラカイン人で、それぞれが州を持つ民族です。(クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」に主人公の主人公の隣人として登場したがモン人の家族でした)
 ロヒンギャの虐殺事件と大量の難民が生まれることになった場所は、インド洋に面したラカイン人の多いラカイン州です。全人口の約65%がラカイン人ですが、31%はロヒンギャの人々と言われています。ただし、バングラディッシュと国境が面していることから、不法移民など人口の移動が激しいため、正確な数字は把握できていません。事件の前には、おおよそ100万人弱はいたと考えられます。

<ロヒンギャ>
 著者による「ロヒンギャ」の定義は、
「ロヒンギャとは、ラカイン州出身のムスリムで、ロヒンギャであると自覚する人々と、その自覚はなくても、他の民族的なアイデンティティを特に持っていない人々のことである」
 ミャンマー国内には、他にも多くのムスリムが住んでいますが、その多くがミャンマー国籍を持つのに対し、ロヒンギャの人々のほとんどは国籍を持たず、無国籍状態のままです。ミャンマーの国籍法では、両親のどちらかがミャンマー国籍を持たなければ、ミャンマー国籍を持つことはできないため、不法移民は永遠に国籍を取得できない仕組みなっています。こうして、ロヒンギャの人々は、永遠に不法移民として扱われることになったままであることが、彼らに対する差別の基礎にあるのです。

<ミャンマー(ビルマ)の歴史>
 ビルマ(現ミャンマー)は、15~16世紀のムラウー朝時代は、仏教徒だけでなくムスリムにも政治参加する機会が与えられるなど多民族国家としての繁栄を実現していました。しかし、その後に誕生したコンバウン朝は中央集権的国家となり、ラカイン州はその範囲から出ていましたが、インドを支配していた英国との間の戦争に破れたため、マレー半島と共に英国の統治下になりました。(1826年)
 英国の植民地となったことで現在のラカイン州周辺は大きく変わることになります。東インド会社が、そこで米の生産を進めるために多くの移民をインドから連れてきたのです。1885年には第三次英緬戦争により再び英国が勝利し、ビルマ全土が英国の植民地となり、すでに植民地だったインドの一部として併合されることになりました。
 英国の一部となったことでビルマは急速な発展を遂げることになり、そのために必要な資本や労働力が不足したため、多くのインド系、中国系の商人や労働者が流入することになり、金融や流通などの分野で活躍することになります。肉体労働者としてインドから多くのムスリムが流入したのはこの頃でした。

<独立運動の始まり>
 こうして、英国の植民地時代にビルマは急速に多民族化が進みましたが、同時に反英国、反植民地主義のナショナリズム運動が誕生したのもこの頃でした。そして、そのナショナリズム運動が敵と見なした攻撃対象の一つが移民の中でも多かったインド系のムスリムでした。
 1942年、太平洋戦争を始めていた日本軍がビルマに侵攻。ヨーロッパでのドイツとの戦闘に必死だったイギリス軍は本土の防衛で手一杯だったこともあり、日本軍にあっさりと敗北してしまいました。ただしその際、日本軍はその侵攻の前に周到な準備をしていました。ビルマの独立派を密かに集め、ビルマ独立軍BIAを設立し、日本軍と共に侵攻作戦に参加させていたのです。そして、その独立軍BIAの中にスーチー女史の父親アウンサン将軍もいたのです。
 独立軍BIAの中心となったのは仏教徒のビルマ人保守派で、彼らは日本軍の支配下で敵視していたムスリムへの攻撃を始めます。それに対し、日本軍への反撃を計画していた英国軍がそのムスリムを利用し、反日作戦の部隊に参加させます。(ロヒンギャの悲劇の一員には日本も関わっているわけです)
 日本軍の敗色が濃厚になるとインドから英国軍が再び侵攻し、現ラカイン州の地域には多くのムスリムがそのまま住み着くことになりました。こうして植民地戦争に利用されたことで、ビルマでのムスリムの立場はより複雑なものとなりました。
 1945年、敗走する日本軍に対し、アウンサン将軍率いる独立派の軍隊は、日本に対しての独立戦争を開始。わずか5年で彼らはビルマの解放に成功します。
 1947年、日本軍を追い出したのもつかの間、アウンサン将軍は軍内部の別の勢力に暗殺されてしまいます。さらにビルマ国内では共産党による武装蜂起も起き、長い混乱の時代が始まり、軍事政権もそのまま長く続くことになります。
 1959年、ヤンゴン大学の中にロヒンギャ学生団体が誕生。彼らが「ロヒンギャ小史」というブックレットを発表。これが「ロヒンギャ」の名が公けとなった最初の機会だったようです。

<ラカイン州と言う土地>
 その後長く続くことになる軍事政権は、ミャンマーの経済発展を遅らせることになります。首都ヤンゴンから遠く離れたラカイン州は、さらに経済発展から遅れ、貧困から抜け出せずにいました。
 そんな状況下、ラカイン人たちの不満がラカイン民族主義と呼ばれるナショナリズム運動を生み出します。彼らはしだいにその勢力は伸ばし、多数派のビルマ人に対する武装闘争も辞さない姿勢を見せるようになります。こうしてビルマ人、ラカイン人、ロヒンギャによる三つ巴の関係は、危うい状態が続きますが、かろうじて大きな事件は起きずにすんでいました。
 しかし、そのバランスが突然崩れることになります。その始まりは、軍事政権が崩壊し、民主主義政権が誕生した直後のことでした。でもなぜ、民主主義への移項が進む中で事件が起きてしまったのでしょうか?

<なぜ民主化が進む時代に?>
 歴史社会学者マイケル・マンは「民主主義のダークサイド - 民族浄化を説明する」にこう書いています。

 民主主義の根幹は、人々による統治である。しかし、この「人々」には二つの意味がある。ひとつの普通の人々、すなわち大衆である。「人々」が大衆であれば、民族的な多様性は問題にならない。その一方で「人々」が民族を意味することがある。民族とは、共通の文化や伝統を引き継いでいると感じている人の集団だ。民主主義を動かす「人々」が、民族と同じ意味で定義されたとき、民主主義は特定の民族が支配するという「理想」の実現を目指す運動になることがある。また、民主主義の原則である多数決主義は、主要民族を代表する人々に国家権力を握る機会を与えやすい。そうして最悪の場合、少数民族の排除、すなわち民族浄化が起きるのである。
 
 ということは、国が貧しかったり、政権が不安定だったりすると、民族対立を利用することでより過激な姿勢をアピールして政権をねらう者が現れやすくなるわけです。

<コミュナル紛争始まる>
 2012年5月、ラカイン州中部のラムリーでラカイン人女性がロヒンギャ男性による集団暴行を受けた後、殺されるという事件が発生します。
 6月3日、ロヒンギャの人々が乗るバスを300人の仏教徒グループが襲い11名を殺害する事件が起きます。(うち1名は仏教徒でした)
 混乱を恐れた政府はすぐに調査に乗り出しますが、衝突はどんどん広がりを見せます。ささいなケンカから殺人事件や暴動に発展するなどして、事件が次々に起きました。なぜ、ここまで紛争が拡大したのか?
(1)民主化が進んだことで集団での運動や動員が可能になった。(軍事政権下では、勝手な集会は許されなかった)
(2)SNSなどによる反イスラム感情の拡散
(3)治安維持に必要な政府の中立性が担保されていない。(政府は、ロヒンギャにもラカイン人にも信頼されていない)
 さらに民主化により政治活動が活発になったため、反イスラム・グループが勢いを増していて、そんな中、ムスリムの殺害を肯定する説法を行うカリスマ的な仏教指導者ウィラトゥ師が現れ火に油を注ぐことになりました。
 そうした差別の動きに対抗するように登場したのがロヒンギャの民族組織、アラカン・ロヒンギャ救世軍でした。
 アラカン・ロヒンギャ救世軍 Arakan Rohingya Salvation Army ARSAが誕生したのは、2013年。そのリーダーは、アタウッラー・アブ・ジュヌニ。彼は、パキスタンのカラチで生まれた後、難民としてバングラディッシュに逃れた一族に生まれ、ロヒンギャとの関りはありませんでした。
 彼はミャンマーで起きた2012年のコミュナル紛争のことを知ると、パキスタンに向かいそこでイスラム系武装組織によるゲリラ戦の訓練を受けた後、バングラディッシュに密入国。ミャンマーからの難民たちであふれた難民キャンプでARSAを立ち上げました。すでに存在していたロヒンギャ連帯機構RSDとは異なり、より攻撃的で過激な組織として積極的にテロ活動を展開し始めます。そんな彼らの活動が大きな悲劇を生み出すことになります。

<ロヒンギャ虐殺事件>
 2016年10月9日、10名ほどの武装集団が国境警察の駐在施設を襲撃。わずか4時間の間に複数の施設を襲い、警察官9人が死亡。その後、ARSAがジハード(聖戦)を行ったと声明を発表。被害はそう大きなものではなかったものの組織化されたテロ活動が展開されたことで政府は大きな衝撃を受けることになりました。
 2017年8月25日~28日、23の国境近くの警察、軍の施設が襲撃され、銃火器などが奪われました。最終的には55箇所が5000人近い集団によって攻撃される事態となります。ただし、その参加者のほとんどはARSAによって襲撃への参加を脅迫された一般のムスリムで、銃などで武装していたのはごく一部に過ぎなかったようです。しかし、それに対し、政府軍と警察は武力を持って徹底した掃討作戦を展開します。(一部には軍によるやらせもあったとも言われています)
 9月まで続いた軍による攻撃により、最終的な死者は、少なくても2000人、およそ7000人から9000人が殺害されたと考えられています。当然、この軍による攻撃は、アウンサン・スーチー女史も知っていたはずですが彼女はそれを止めませんでした。

 2019年12月10日に行われた国際司法裁判所において、彼女はこう証言しています。
「国軍兵士が国際人道法をいくらか無視して行き過ぎた武力行使に及んだことを否定するものではない。また、彼らがARSAの戦闘員と民間人を十分に区別しなかったことも否定はしない。戦闘のあとで人がいなくなった村で、民間人が村に残された財産を略奪したり、破壊したりする行為を阻止できなかったこともあったかもしれない」

 スーチー女史が軍と国民と海外世論の間で板挟みになっていることは明らかです。ただし、彼女は過去に「ロヒンギャはミャンマーにとって不法移民である」という発言をしていたことも事実のようです。

<軍事政権の復活>
 2020年11月、民主的な選挙の実施により、スーチー女史が率いる与党は大勝利をおさめました。選挙結果とは別に、民主化に歯止めがかけられるよう軍の影響力はそのまま残されていますが、それでも軍部は選挙結果に衝撃を受けたようです。このままでは軍の政治生命は失われることになる。そう判断したのでしょう。
 2011年、追い詰められた軍は軍事クーデターを実施。再びミャンマーは軍事政権に戻ることになりました。ミャンマー国民は、闘いを続けていますが、このままだと国が崩壊しかねない情況に陥りそうです。さらに混沌とした状況の中、各地で少数民族の独立運動組織が武装闘争を行うことで混乱に拍車がかかりつつあります。
 今や「人権」を云々する状況ではないのかもしれません。「国」なくして「人権」など無意味なことは明らかです。

 人権の概念は・・・、人間が国家によって保証された権利を失い現実に人権にしか頼れなくなったその瞬間に崩れてしまった。他のすべての社会的および政治的資格を失ってしまったとき、単に人間であるという抽象的な赤裸な存在に対して世界は何ら畏敬の念を示さなかった。
ハンナ・アーレント「全体主義の起源」より

 不安定な政治、不安定な経済、不安定な国境、すべてが不安定な国に住む人々にとって、民主主義は多数決による弱者の排除に結びつく。ミャンマーにおけるロヒンギャの悲劇はその典型的な例ですが、それは世界中どの国でも起こりうるということでもあります。

「ロヒンギャ危機 民族浄化の真相」 2020年
(著)中西嘉宏
中公新書

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