<取り上げたいアーティスト>
このサイトを作っていて最も楽しいことは何か?それはズバリ、僕自身がまだよく知らなかったアーティストについて調べ、それを多くの人に紹介できることです。特に音楽の歴史からも、ジャンル分けからも、ヒットチャートからもはみ出してしまった知られざるアーティストを知ってもらえることは最高の喜びです。
当然、読者の方からも、このアーティストをとりあげてというほしいというリクエストが寄せられることがあります。そんなリクエストの中でも、特に多かった一人がローランド・カークでした。
残念ながら、彼についての記事がジャズの歴史本に載っていることはありません。それはジャズ史の中に彼の名を収める場所がないからです。彼が演奏していた音楽は、正統派のジャズとは言えず、フリー・ジャズでも、バップでも、スウィング・ジャズでも、フュージョンでもありませんでした。もしかすると、ジャズというくくり自体も怪しげなくらいです。僕も以前から彼の名前は知っていましたが、ジャケットの写真や時代から考えて、さぞや難解なアバンギャルド・ジャズに違いないと思って敬遠していました。
ところが、名盤とされる「ヴォランティアード・スレイヴリー Volumteered Slavery」(1968〜1969年)を聞いてビックリ。なんとポップなことか!でもフュージョンというわけではなく、かといってR&Bでもないし、ソウルでもない・・・。どうして、こういう音楽が生まれたのか?多くの人が彼について知りたいと思う気持ちがよくわかりました。
<カーク少年の不幸>
1936年8月7日、オハイオ州のコロンバスにローランド・カークは生まれました。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンより、ちょうど10歳若いことになります。まだ物心がつく以前、彼は病院で点眼液を間違えられたことから、両目の視力を失ってしまいました。スティービー・ワンダー、レイ・チャールズ、ブラインド・レモン・ジェファーソンら、多くの盲目の黒人少年たちが生きる糧を得るためミュージシャンになったように、彼もまた自らミュージシャンになる道を選びました。
トランペット、クラリネット、サックスなど、様々な楽器を小さな頃から手にしていたカーク少年は、ある夜不思議な夢を見ました。それは3本のサックスを同時に吹いている自分自身の姿でした。その夢に自分の運命を感じた彼はその後本当に3本のサックスを吹くための特訓に挑むようになります。そして、この3本サックスの同時演奏は彼のトレード・マークとなります。自由自在に3本の管楽器を吹く彼の能力は、一人で立体的な音を生み出すことを可能にしました。しかし、見た目がカッコいいとは到底言えない彼の演奏スタイルをまわりは「グロテスク・ジャズ」と呼ぶようになります。(彼の代表作ともいえるアルバム「溢れ出る涙 The Inflated Tear」(1968年)のジャケット写真を見てください)
[3本サックスの原点?]
シカゴの黒人ミュージシャンでウィルバー・スウェットマンという人がいました。1882年生まれのこの人はジャズ・クラリネット奏者の原点とも言われています。彼のバンドには若かりし頃のデューク・エリントンやコールマン・ホーキンスも在籍していたことがあったといいます。ところがこの人、ステージ上でクラリネットを3本同時にくわえて吹くのを得意にしていたというのです。元祖ジャズ・クラリネット奏者は、すでにエンターテイメントとして、クラリネットを3本くわえていたのです。そう考えると、ローランド・カークの得意技もそんなに異常なものではなかったのかもしれません。
<独自のスタイルを確立>
デビューは彼が20歳となった1956年のことでした。キング・レコードから自らのカルテットを率いて発表したアルバムから、すでに彼はジャズとR&Bの間に位置する独自の世界を作り上げつつありました。しかし、そのスタイルは多くの正統派ジャズ・ファンから無視されることになり、売れ行きはさっぱりでした。その後、彼は1961年にマーキュリーに移籍しますが、そこでもヒット作に恵まれることはありませんでした。それでも1960年代も後半に入るとR&Bが音楽シーンのトップに躍り出るようになり、ジャンルの壁も壊れ始めます。R&B、ロック、ジャズ、ブルース、ラテン、フォーク、カントリー、クラシック・・・あらゆるジャンルの融合が推し進められるようになり、それが「ヒップ!」と呼ばれる時代になりました。
そうした時代を象徴するレーベルのひとつアトランティック・レーベルは、元々ジャズのレーベルとしてスタートした会社ですが、しだいにR&Bの世界へと進出し、60年代にはモータウンとともにアメリカを代表するR&Bレーベルへと成長していました。当然、ジャズとR&Bの中間に位置する音楽についてもアトランティックは積極的に取り上げていました。(これはアトランティックの創設者であるアーティガン兄弟の音楽センスによるものでした)そのおかげで、ローランド・カークはこのレーベルに腰を落ち着けることができ、死ぬまでの10年間アトランティックからアルバムを出し続けることができました。こうしたジャンルのクロスオーバーに対する積極性があったからこそ、アトランティックはその後も変身を続けることで見事に生き残り、70年代以降はロックの最重要レーベルへと成長することができました。ローランド・カークの音楽を未だに僕たちが聴くことができるのも、たぶんこうしたアトランティックの企業姿勢のおかげなのです。こうして、自由に活動することができる場所を得て、彼はいよいよ独自の活動を展開してゆきます。
<ごった煮音楽>
彼の音楽のもつごった煮具合は、ひとつのアルバム(「ヴォランティアード・スレイヴリー」)の中にゴスペル・コーラス、スティービー・ワンダーの「マイ・シェリー・アモール My Cherie Amour」、バート・バカラックの「アイ・セイ・ア・リトルプレヤー I Say A Little Prayer」、ジョン・コルトレーン・メドレー、それにビートルズの「ヘイ・ジュード」が混在していることからも明らかです。しかし、それ以上に彼のステージ上での立ち姿にこそ、彼の音楽がもつ混沌ぶりが表れているように思えます。
多くの楽器を使いたいにも関わらず盲目の彼は、ライブ演奏の際、手の届く範囲に楽器など必要とするものをすべて揃えておかなければなりませんでした。彼が用いる主な楽器は、テナー・サックスともう二本、マンツェロとストリッチという珍しい楽器でしたが、それらは一般的に使用されているサックスの二倍はありそうな巨大なものでした。彼はそれらをみな首からぶら下げて、さらにはフルートやホイッスル、パーカッション、クラリネットなどを身体中にくくりつけていました。そうしてマイクの前に仁王立ちした黒尽くめの彼の姿が「グロテスク」に見えたというのもある意味しかたがなかったのかもしれません。(ホイッスルを鼻の穴に詰め込んだ姿は、笑えちゃったのかもしれませんが・・・・・)
しかし、アドリブ演奏を行いその場のインスピレーションで曲を変えながら楽器も替えてゆく彼にとって、使える楽器をすべて手元に置きたいのは当然のことです。それは盲目の彼にとって、見た目など気にしていられない必然的な選択だったのです。そして、そんな彼の八方破れの気合に多くの観客たちは圧倒されてしまったのでしょう。
もちろん、CDで音楽を聴く人にとっては、そんな見た目など関係はありません。ある日、僕が「ヴォランティアード・スレイヴリー」の中の「マイ・シェリー・アモール」を聞いていた時、曲の頭で吹かれている可笑しなホイッスルの音に我が家の6歳児が大喜び、「今の曲、もう一回聴こうよ!」としつこく迫ってきました。「恐るべし、ローランド・カーク!」ジャズが元来持っていたエンターテイメント性にこだわる彼のことを理解できるのは、もしかすると物事への偏見を持たない音楽初心者の子供たちなのかもしれません。
<コルトレーンへの憧れ>
彼の音楽へのこだわりは、当然精神的な部分にも及んでおり、特に同じサックス奏者であり、アトランティック・レーベルの先輩でもあったジョン・コルトレーンに対しては、多くの面で心酔していたようです。ジョン・コルトレーンが今や「神」のような存在になっているのに対し、彼が見た目も含めて「道化師」的な存在に回ってしまっているのも、彼にとっては本望かもしれません。彼がコルトレーンを尊敬していたのは、演奏家としてもそうですが、ブラック・モスレムに入信し、黒人解放問題にも深く関心をもっていた彼の生き方のせいでもありました。彼自身もまた自らの名前をラサーン・ローランド・カークとイスラム名に改めています。
<フィルモアでの出来事>
フィルモアのオーナー、ビル・グレアムの伝記本「ビル・グレアム ロックを創った男」の中で、かつてフィルモアで働いていた映画監督のジョナサン・キャプラン(ジョディー・フォスターのアカデミー賞主演女優賞受賞作「告発の行先」は彼の作品)はこう書いています。
「これはあくまでも自分の趣味で選んだ場合なんだけど、わたしがフィルモア・イーストで見た最高のショウは、ジェスロ・タルの前座をやったときのローランド・カークだ。
・・・ローランド・カークは「これは誰だ?」と言いながら、ジェスロ・タルの曲を全曲、2分くらいで演奏してしまったんだ。それも彼らよりも上手く。そうしてこう言ったのさ。
『聞いたか!どうして俺が、あいつらの8分の1のギャラで満足してなきゃなんないんだ?』
・・・つまりカークの場合には、2本のサキソフォンと、彼が自分で見つけてきたアフリカの珍しい楽器を持って、バックステージに立っているだけでじゅうぶんだったんだ。ウォーミング・アップを聴くだけで泣けたからね。あの男は体中に詩情をたたえていた。でも外見はすごく荒々しい。すごく並外れた音楽、あそこで聴いた中では、まったく比類のない音楽だった」
フィルモアもまたオーナーのビル・グレアムの狙いの一つがジャンルをクロスオーヴァーさせることだったため、ローランド・カークにとって刺激的な会場だったようです。
<爆発する演奏>
彼はステージ上でサックスを口にくわえた瞬間、パワー全開で心の中からわいてくるインスピレーションを放出し始め、そのテンションの高さが下がることはなかったといいます。その上彼は循環呼吸(サーキュラー・ブリージング)の達人としても有名で、息継ぎせずに一曲吹き通してしまうこともできたといいます。それだけに集中してエネルギーを注入する演奏をしていて身体に良いはずはありません。ついに彼は脳溢血で倒れてしまいました。ところが、右半身不随の状態でありながら、すぐに現役に復帰。再び演奏活動を開始しました。目が不自由でも、半身が不随でも彼にとっては演奏することは、生きることと同義だったのでしょう。しかし、その人生も残りはわずかしかありませんでした。彼は1977年12月5日、41歳という若さでこの世を去ってしまいました。しかし、ステージ上で生命のエネルギーを放出し続けた彼の生き方は、けっして不満の残るものではなかったように思います。
もちろん自分より才能もテクニックも劣るアーティストたちがレコードも売れ、高いギャラをもらっていたことに不満を持っていたでしょう。黒人であること、盲目であることからくる差別に対する怒りもあったでしょう。しかし、彼がステージに立ち、3本の楽器に息を吹き込み出した瞬間、そんな怒りや不満は、音楽となって世に解き放たれ、聞く者を脅えさせ、感動させ、笑わせ、泣かせ、怒らせることで、「至上の愛」へと変容、昇華されていったのです。
未だにローランド・カークのファンは増え続けています。CDも何度も再発され、そのたびに新しい世代のファンが生まれています。もしかすると彼は、いつしかジャズ界の大物の仲間入りをしてしまうかもしれません。
見た目はともかく、天上のジョン・コルトレーンに最も近づいた男は、ラサーン・ローランド・カークだった。そう言われるようになれば彼も本望かもしれません。
<代表作>
「Introducing」(1960年)
実質的なデビュー作となったアルバム。とはいえ、すでにサックスの3本吹きを行なうなどその本領を発揮しています。ただし、演奏しているのは、ある意味正統派ハード・バップ・ジャズのナンバーです。この後、彼はヨーロッパでのライブに出発し、高い評価を得ることになります。
「Kirk In Copenhagen」(1963年)
彼にとって初のライブ・アルバム。エンターテイメントにこだわっていた彼にとって、ライブ・アルバムこそ、その本領発揮の場だったともいえます。このライブには、ブルース界の大物サニー・ボーイ・ウィリアムソンがブルース・ハープで参加。はやくもジャンルの壁を越える音楽性を打ち出し始めていました。
「溢れ出る涙 The Inflated Tear」(1967年)
タイトルの「溢れ出る涙」とは、失明の後遺症により、時々涙が止まらなくなってしまう彼の症状から取られたといわれています。このアルバムは、そうした自らの苦しい思いを音楽化した作品であると同時に、最後の本格ジャズ・アルバムとなりました。なおこの作品は、アトランティックからのデビュー作であり、この後、彼はジャンルの枠組みを越える作品作りへと向かうことになります。
「Volunteered Slavery」(1968年)
このアルバムは、前半がゴスペル・コーラスが参加したスタジオ録音、後半はニューポート・ジャズ・フェスティバルでのライブ録音になっています。ポップス界の大御所バート・バカラックの「I Say A Little Prayer」やスティービー・ワンダーの「My Cherie Amour」にビートルズの「ヘイ・ジュード」を織り交ぜるなど、ジャンル分け不能でアバンギャルドかつポップな演奏を聴くことができます。そうかと思えば、彼が敬愛するジョン・コルトレーンへのトリビュート曲もありという文句なしの代表作。
「The Return of the 5000 Lb Man」(1975年)
ブラック・モスリムへの改宗によりラサーン・ローランド・カークと改名後、脳卒中で倒れる直前に録音された作品。すでに自らの死を意識していたのか、それまでの多彩な内容が嘘のようにテナー・サックス中心の内容。自由奔放にやりつくした後に到達した静かな世界観を聴くことができます。
<参考資料>
「ダウンビート・アンソロジー」(文)ラルフ・グリーソン(編)フランク・アルカイヤー(株)シンコー・ミュージック・エンターテイメント
「ジャズ・サックス」(監)原田和典(株)シンコー・ミュージック・エンターテイメント
「ビル・グレアム ロックを創った男」(大栄出版)(著)ビル・グレアム他
「溢れ出る涙 The Inflated Tear」「Volunteered Slavery」アルバム・ライナー・ノーツ
<締めのお言葉>
「ある芸術作品がほんとうに不滅であるためには、人間の限界を完全に脱け出ていなければならない。良識も論理も、そこには欠けているだろう。そのようにして芸術作品は、夢や幼児心性に近づくであろう」
ジョルジオ・デ・キリコ
パトリック・ワルドベルグ編・著「シュルレアリスム」より
<追記>2012年4月
「・・・カークはまさに黒人音楽の生き字引ともいうべき男だった。彼はそのすべての知識を頭の中にではなく、身体に蓄えていた。彼は思考をおおむね捨て去り、感覚を闊達な知性のレベルにまで引き上げていた。彼は夢の中から導きを得ていた。自分の三本のホーンを同時に吹いている光景を、彼が最初に目にしたのも夢の中だった。・・・」
ジェフ・ダイヤー(著)「バット・ビューティフル」より