「ローマの休日 Roman Holiday」

- ウィリアム・ワイラー William Wyler -

<映画史に残る名作>
 映画史に残る名作を選ぶと必ずベスト10に入ってくる文句なしの名作「ローマの休日」は、なぜ永遠不滅の人気を保ち続けているのでしょう?もちろん、娯楽映画として、ロマンチック・コメディとしての完成度の高さなしに、そうした評価はありえません。しかし、この映画が撮られた裏側にはいくつもの秘密が存在していたことが明らかになっています。そして、その秘密が映画を成功させる原因でもあったとしたら、・・・。
 その秘密に迫ってみたいと思います。

<タイトルの秘密>
 この映画のタイトルにも秘密がありそうです。この映画の原題はなぜ「Roman Holiday(ローマ人の休日)」であって「Holiday in Rome(ローマでの休日)」ではないのでしょう?
 辞書で調べてみると、「Roman Holiday」という言葉には、「他人の犠牲によって楽しみを得る娯楽」という意味があります。元々は、ローマのコロセアムで行われていた剣闘士たちの戦いをローマ市民が娯楽として楽しんでいたことを、有名な詩人のバイロンが自分の詩の中で「Roman Holiday」と書いたところから慣用的に使われるようになったようです。もちろん、この映画と剣闘士には何の関わりもあるとは思えません。
 では、そのタイトルが意味している「楽しみのために闘わされた人々」とは、いったい誰なのでしょうか?その答えを知るために、先ずはこの映画の監督ウィリアム・ワイラーについて調べて見ましょう。

<ウィリアム・ワイラー>
 この映画の監督ウィリアム・ワイラー William Wyler は、当時ドイツ領だった現在のフランスのミュルーズで、1902年7月1日に生まれました。父親はスイス人で母親はユダヤ系のドイツ人でした。フランスのローザンヌ、パリで教育を受けた後、彼はアメリカに渡り、アメリカの映画会社ユニヴァーサルに入社します。それは母方の従兄弟がユニヴァーサルのトップ、カール・レムリだったおかげで得られた職でした。
 社長の親戚とはいっても、初めはニューヨーク・オフィスのメッセンジャー・ボーイからスタートした彼ですが、真面目な仕事ぶりと頭の良さのおかげで映画の製作現場に回され、ハリウッドのあるカリフォルニアへと移り住みます。
 その後、5年間、彼はユニヴァーサルの製作部門で修行を積んだ後、初の本格長編映画「砂漠の生霊」(1930年)を監督。そのまま、ユニヴァーサルの監督として活躍が始まるかと思われました。しかし、1930年、大恐慌の時代が始まるとユニヴァーサルも経営危機に追い込まれます。そのため、それまでユニヴァーサルのトップにあったレムリ一族は経営権を奪われてしまいます。幸い彼は映画監督としてすでに実績を上げたいたため、そのまま監督業を続けることができ、舞台劇の映画化でその才能を発揮するようになります。
 1936年、彼はサミュエルゴールドウィンと契約し、その年の作品「孔雀夫人」で初めてアカデミー賞の監督賞にノミネートされました。その後、彼はサミュエルゴールドウィンに籍を置いたまま、レンタルでワーナーブラザースの映画を撮り、次々とヒット作を世に送り出します。

<名作の数々>
 ベティ・デイヴィス主演の「黒蘭の女」(1938年)、「月光の女」(1940年)は彼女の悪女としての魅力が生かされたサスペンスもの。その後、彼女を再び使い1941年には悪女ものの歴史的名作と呼ばれる「偽りの花園」を撮ります。(原作、脚本は、この時代を代表する女性作家リリアン・ヘルマンです)
 これ以後彼が撮る作品は、どれもアカデミー賞にからむ名作ばかりになります。、「ミニヴァー夫人」(1942年)、「我等の生涯の最良の年」(1946年)、「ベン・ハー」(1959年)で3度アカデミー監督賞を受賞。これはアカデミー賞の歴史における最多受賞回数です。
 完璧主義者としても知られる彼は、思い通りの映像を得るためにスタジオでの撮影を好んだといいます。さらに彼は、より完成度の高い脚本を望んだため、芝居での上演により完成された舞台劇の映画化を好んだとも言われます。限られた場所、限られた登場人物によって練り上げられた台本をもとに、完璧なセットにおいて作品を撮る。それが彼の求める作品作りでした。

<ランナウェイ映画>
 そんな彼が1953年に撮った映画「ローマの休日」。それは彼の理想とする作品作りとはまったくかけ離れたものでした。スタジオから飛び出しただけでなく、すべてのシーンをイタリアのローマで撮影。当然スタッフのほとんどはイタリア人を採用するので意思疎通も大変です。映画のストーリーもシリアスな作品ばかりの彼としては珍しいラブ・コメディで、もとになっている戯曲や台本も小説もないオリジナルのストーリーというのも異色でした。なぜ、彼はそこまで自分のスタイルとは異なる作品を撮ろうと思ったのでしょうか?実は、このような海外でのオールロケ作品は、この時代に数多く製作されていました。そして、こうした映画には「ランナウェイ映画」という呼び名もありました。
 アメリカ映画は第二次世界大戦後、世界中に輸出されるようになり、特に敗戦国は米軍の進駐のせいもあり、より多くの映画が公開されることになりました。
 しかし、敗戦国は経済的破綻が激しかったこともあり、外貨の流出を食い止める必要がありました。そのため、敗戦国ではドルの流出を厳しく制限していました。そのため、アメリカはその利益をその国の中で使う必要に迫られました。そのドルは時には政治工作の資金になったりもしましたが、多くはその国を舞台に映画を撮るために用いられることになりました。日本でも何本かの映画が撮られましたが、そのほとんどは俳優やスタッフが日本で遊ぶための資金となり、良い作品になることはありませんでした。
 唯一の例外と言えるのは、ナンシー梅木にアカデミー助演女優賞をもたらしたジョシュア・ローガン監督作品「サヨナラ」ぐらいでしょう。ただし、「サヨナラ」も日本人が見るとかなり可笑しい日本人描写があるようで感動できそうもありません。
 こうした映画は、その後「ランナウェイ映画」と呼ばれることになりました。その中には、「戦場にかける橋」、「第三の男」、そしてこの「ローマの休日」もあったわけです。

<なぜ?ローマ>
 彼は、いつもの自分のスタイルとは異なる映画の製作を嫌々引き受けたのではありませんでした。逆に、彼はローマでのオールロケを監督を引き受ける条件にしていたといいます。そのために生じる予算の超過をカバーするために、彼はあえてこの映画をカラーではなくモノクロで撮ることを了承したそうです。さらに彼は、映画に出演する俳優と関わるスタッフの人選にも決定権を獲得。そのため、彼は主人公の王女役に決まりかけていたエリザベス・テイラーに賛成せず、オーディションによって当時ほとんど無名に近かったオードリー・ヘップバーンを選びました。さらに彼は現場責任者として、共産主義者としてブラック・リストに載せられていた人物を使うなど、ローマ・ロケでなければ不可能だった人選を行っています。そして、この映画の脚本の作者もまたハリウッドでは決して採用することができない人物でした。赤狩りによって映画界を追われた有名な「ハリウッド・テン」の一人ダルトン・トランボだったのです。
 20世紀の終わりごろまで、この映画の脚本はイアン・マクレラン・ハンターという実在の脚本家とされていました。ところが、2003年に50周年記念デジタル・リマスター版が発売された時から、正式にこの映画の脚本家は、ダルトン・トランボとクレジットされるようになりました。
 彼はこの映画の撮影当時、ハリウッド・テンの一人として裁判に望んでおり、その後、有罪となり10ヶ月間留置場に入れられることになります。ワイラーは、その脚本を書いた人物が誰なのかを知っていたはずです。だからこそ、彼は自由にスタッフを選ぶ権利とハリウッドから離れたイタリア・ローマでの撮影を望んだと考えられるのです。
 彼は共産主義者ではなかったようですが、ハリウッド・テンの含めて、共産主義者たちの多くが自分と同じユダヤ人であり、だからこそ、共産主義者が差別されるようになったことに納得できずにいました。それに自分自身も、長い下済みの後に這い上がってきただけに労働者たちの苦しみを十分理解していました。そのため、彼は「赤狩り」の動きにいち早く反対の声を上げ、いち早く仲間たちと反対運動を起こしてもいます。自分が共産主義者であろうがなかろうが、アメリカという国は宗教も思想も自由に選べるはずなのに、おかしいじゃないか?というのが彼の考えでした。
 ところが、反対運動は、米ソ冷戦の始まりとマッカーシーによる扇動によりかき消されまったく効果を発揮できずにいました。それどころか、時とともに自体はしだいに悪化してゆきました。それは検察の追及を逃れるために次々と仲間を裏切り、密告する者が現れだしたからです。テレビはそうした裁判の中継や情報をまるでバラエティー・ショーのように面白おかしく放送し、視聴率を稼いでいました。当然、彼らハリウッド・テンを守ろうとする運動もまた腰砕けになっていったのです。そんな状況の中、彼はあえてそんな狂気のアメリカを離れて映画を撮りたかった。それも、主義主張に関係なく使いたいスタッフたちで・・・。(ちなみに、主演のグレゴリー・ペックは、やはり人道主義の象徴的な人物でワイラーの活動に最初から協力してくれた仲間でした)

<もうひとりの主役ローマの街>
 こうして、もう一人の主役ともいえる存在となったイタリアの首都ローマは、この映画に様々な名演技を生み出しました。
 例えば、真実の口でのあの有名な場面は、その場所での撮影の際、グレゴリー・ペックがアドリブで考え出したものでした。そして、ハリウッドから遥かに離れた土地だからこそ、その映画はハリウッド映画ならではのハッピーエンドを用いることをせず、「別れ」で終わる悲劇の物語として完成。そのおかげで、この映画は永遠不滅の失恋ドラマとして歴史に名を残すことになったともいえるでしょう。
 「ローマの休日」は、確かに王女というセレブがローマで繰り広げた休日のおとぎ話でした。「妖精」ヘップバーンを誕生させたという点でも、おとぎ話のような作品です。しかし、議会に召還され、その場で仲間を売るように強要されたブラック・リストに載せられた人々は、マッカーシズム熱に浮かされた当時のアメリカ大衆にとって見世物も同様の存在でした。それはまさにローマ人にとっての「剣闘士」でした。
 「ローマの休日」ではなく「ローマ人の休日」というタイトルが本当だとしたら、なんとも皮肉なことです。
 映画とは実に様々な面から見ることができる奥の深いものです。

「ローマの休日」 Roman Holiday 1953年
(監)(製)ウィリアム・ワイラー
(脚)(原)ダルトン・トランボ
(脚)ジョン・ダイトン、イアン・マクレラン・ハンター
(撮)フランク・F・ブラナー、アンリ・アルカン
(音)ジョルジュ・オーリック
(衣装)イディス・ヘッド
(出)オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック、エディ・アルバート

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