ニューディール政策から第二次世界大戦まで


- フランクリン・デラノ・ルーズベルト Franklin Delano Roosevelt -

1930年~1940年
<世界恐慌>
 1930年に始まった世界恐慌はアメリカ経済を崩壊させました。1930年から1932年までの間に、アメリカの銀行は5分の1が破綻します。しかし、それらの銀行が破綻することを知りながらも株式投資をあおり、大衆から資金を巻き上げていたことが明らかになると、アメリカ国内でのウォール街への批判が急速に強まりました。
「25ドルを盗んだ人は泥棒だ。25万ドルを盗んだ人は横領犯だ。250万ドルを盗んだ人は銀行家だ」
ネーション誌

 そして、この状況の中、1933年3月4日、フランクリン・デラノ・ルーズベルト Franklin Delano Roosevelt が大統領に就任。世界恐慌から立ち直れずにいたアメリカの国民に向かって彼は、こう宣言します。

「あこぎな両替商はわれわれの文明という神殿の権力の座から逃げ出した。いまこそ、その神殿に古来の真理を取り戻そう。取り戻せるかどうかは、われわれが単なる金銭的利益よりも高邁な社会的価値を、どれだけ求めていくかにかかっている」
「あらゆる銀行業務、信用取引、および投資を厳しく監督すること」
「他人の資金による投機を終わらせること」

 ここから、アメリカが最も左派よりに傾いた時代が始まることになります。

<ルーズベルトの挑戦>
 ルーズベルトが「アメリカ議会によって制定された最も重要で遠大な法律」と見なす全国産業復興法(NIRA)によって設立されたNRAは、第一次世界大戦中にバーナード・バルークが監督していた戦時産業局(WIB)を一部モデルにしている。NRAは独占禁止法を一時停止させ、自由放任の資本主義を事実上終わらせた。代わりに中央集権的計画で、疲弊した経済を活性化しようというのだ。NRAのもと、各産業は、賃金、価格、生産量、そして労働条件を網羅する。独自の規準を策定した。

 ルーズベルトは、ケインズの経済理論を初めて実際の政策に用いました。ただし、それを実行するために戦時下の緊急統制を利用することで企業のわがままを許さない体制を作ります。こうした状況がなければ、その実行は経済界や政界の批判によってすぐに潰されていたはずです。

「彼の政網に一種のアメリカ・ファシズムに向かう動きを見る人もいる。実際、大統領の手に膨大な権力が集中しているなか、全国産業復興法による競争を規制する新しい規準、最低賃金と業界の最大労働時間の決定、そして経済計画と生産量調整の一般的政策、すべてがイタリア・ファシスト党綱領の基本的特徴を強く示唆している」

 ルーズベルトの「ニューディール政策」は、限りなく共産主義に近い政策だったと言われていますが、実は当初はムッソリーニ率いるイタリア・ファシスト党の方が近いともみられていました。ただ当時はまだファシズムの人気は高かったので、それほど否定的な見方ではありませんでした。

 ルーズベルトにとっては、ファシズムも共産主義もなく、とにかくアメリカ経済の活性化とアメリカ人の雇用回復に効果があれば何でもやるという姿勢でした。(何かトランプに似ていなくもない気がしますが・・・)
 「内向き」の政治姿勢は、国際連盟への参加を否定し、兵士を14万人削減、金本位制経済の拒否などを発表することになります。そのため彼は、ウォール街だけでなく軍部をも敵に回します。なぜ、そんなことが可能だったのかというと、それは彼の支持率が圧倒的に高かったからです。
 それと、この時代、ソ連が大恐慌の影響を受けずに着々と経済政策を成功させ、社会主義経済体制が資本主義経済体制よりすぐれているのかもしれない、と思われていた影響もあるでしょう。経済さえ改善されれば、左派だろうが右派だろうが文句はない、そんな大衆の見方もあったのです。
 多くの記者や知識人がソ連を訪れ、その発展ぶりを報告し、アメリカ国内もソ連経済を評価しつつあったのも事実のようです。その証拠に、当時ソ連が6000人のアメリカ人を労働者として受け入れる発表するとなんと10万人もの労働者が応募したといいます。ソ連はこの時期、世界中から「理想郷」的存在にみられていました。特に知識人にとっては、アメリカの不況もウォール街への天罰とみる人が多く、その逆の政治体制のソ連は正しいと考えられていたのです。

 1932年、アメリカの作家、批評家のエドマンド・ウィルソンはこう書いています。
「ビッグ・ビジネス時代に育って、その蛮行をつねに不快に思っていた私と同世代の作家や芸術家にとって・・・この数年間は憂うつではなく刺激的だった。愚かな巨大詐欺組織が突然思いがけず破綻するのを見ると、人はつい愉快な気持ちになる。そのおかげで私たちは新たな自由を感じ、銀行家がいつもと違って大損をしているのに、私たちはまだ生き続けているのがわかると、新しいパワーを感じる。・・・」

 後に「赤狩り」の犠牲となるアーティストたちの多くが、この時期共産党に入党したり、関りをもつようになりました。ただし、1930年代も末になるとスターリンによる独裁政治の状況が少しずつアメリカにも伝わり、ソ連へのあこがれは少しずつ下り坂になります。

<軍需産業への批判>
 1934年、ルーズベルト政権下ジェラルド・ナイ上院議員による公聴会が始まります。その公聴会で追求されたのは、アメリカの軍需産業が第一次世界大戦において莫大な利益を上げた事実の暴露とその汚いやり方についてでした。
「委員会が連日話を聞いている人たちは、本人がまさに国際的なたかり屋であることを示す公為を必死に援護し、戦争のために世界を武装させる駆け引きを通じて利益を得ることに夢中になっている」
 この公聴会では、アメリカの企業がドイツ企業の株主となったり共同出資をすることでナチスドイツの再軍備を助けていることも明らかにしてゆきます。1950年代の「赤狩り」でマッカーシーが共産党のシンパを公聴会でいじめぬいたように、ナイ上院議員は、デュポン社などの企業を徹底的に攻撃し、その不正を明らかにしてゆきました。
<非常事態戦時法>
 ナイ上院議員を中心に戦時下の企業活動が得る利益にストップをかける法案準備が始まります。例えば、1万ドルを越える所得すべてに100%の税金をかける。会社役員の軍への徴兵。証券取引、商品投機の中止などが提案されました。

 公聴会ではさらに、J・P・モルガンが第一次世界大戦にアメリカが参戦するように働きかけていたのではないか、という疑惑についても追求がなされました。
 モルガン社がヨーロッパの連合国に融資していた巨額の資金が連合国の敗北によって回収不能になることを恐れ、アメリカ政府に参戦し連合国を勝たせるよう促したというのです。

 1936年、再び大統領選挙に挑んだルーズベルトは、産業界、ウォール街との対立姿勢を強めることで大衆の人気を獲得します。

 われわれは平和の宿敵と闘わなくてはならなかった - それは実業界と金融界による独占、投機、見境のない銀行の階級対立、派閥主義、戦争成金だ。彼らはアメリカ合衆国政府を、自分たちの商売の添えものにすぎないと考えるようになった。いまわれわれは、組織化された金持ちによる政府は、組織化されたギャングによる政府と同じくらい危険であることを知っている。・・・彼らはみな一様に私を憎んでいる - そして私は彼らの憎しみを喜んで受け入れる。

 この年、ギャラップによるアンケート調査で、「私的利益のための軍需物資の製造と販売が禁止されるべきですか?」という問いに、アメリカ人の82%が「はい」と答え、「いいえ」と答えた人はわずか18%でした。

<反ユダヤ主義のアメリカ企業>
 アメリカがなぜ早くから反ナチスを宣言しなかったのか?
 そこにも、第二次世界大戦にアメリカの参戦が遅れた原因のひとつがあります。
 それは、アメリカ国内にも反ユダヤの勢力が存在し、彼らを中心にナチスに協力するビジネスで利益を上げる企業が数多く存在していたからです。その代表が、ドイツ系アメリカ人ヘンリー・フォードでした。当時、フォード社はドイツの自動車会社ヴェルケの株式を15%所有し、ドイツ軍のためのトラックなどを製造していました。

「当時私が読んだ決定的な反ユダヤ主義の本は、ヘンリー・フォードの『国際ユダヤ人』でした。私はそれを読んで反ユダヤ主義になったのです。この本は・・・私の友人にも私自身にも強い印象を与えました。なぜなら、ヘンリー・フォードのなかに成功の象徴だけでなく、進歩主義的社会政策の象徴を見たからです。貧困にあえぎ惨めだった当時のドイツでは、若者はアメリカを目指し・・・私たちにとってアメリカの象徴がヘンリー・フォードでした。・・・」
ナチス占領下のウィーン総督だったバルドゥール・フォン・シーラッハ

 1940年の開戦当時、250のアメリカ企業が4億5000万ドル相当のドイツ資産を所有していて、その60%は資産規模上位10社の大企業でした。
 スタンダード・オイル、ウールワース、IT&T、シンガー、インターナショナル・ハーベスター、イーストマン・コダック、ジレット、コカコーラ、クラフト、ウェスティングハウス、ユナイテッド・フルーツなどの有名企業がずらりと並んでいました。これらの企業はどれもある意味ナチス・ドイツのシンパだったといえます。
 チャップリンがヒトラーを批判し、映画「独裁者」を公開してもアメリカはそれを熱狂的には受け入れませんでしたが、こうしたアメリカ国内の事情もまた影響していたのでしょう。

<参戦への抵抗感とスペイン戦争>
 第一次世界大戦の戦場における悲惨な状況を知り、軍需産業や大企業の偽善を知り、ヨーロッパでの民族対立を知ったアメリカの大衆はいよいよ参戦に対し批判的になっていました。
「今日、アメリカ人100人のうち99人が、またヨーロッパで戦争が起きた場合にアメリカは参戦すべきだと言う人は愚か者だと考えるだろう」
クリスチャン・センチュリー誌(1935年)
 そしてそんな中、スペイン内戦が始まることになったのでした。その中心となったフランコとヒトラー、ムッソリーニらのファシストたちは、そんな世界の状況を利用するかのようにその勢いをヨーロッパ中に広めて行きます。しかし、その動きを多くの大衆や政治家たちは見て見ぬ振りをしてしまいます。そのため、多くの左派の若者や様々な芸術家たちがフランコ政権と闘うためにスペインに義勇兵として向かうものの、当時の世界情勢を変えることができませんでした。結局スペインの共和国政府は見殺しになり、1938年には、ヒトラー率いるナチス・ドイツがオーストリアを占領することを認め、その後チェコのズデーテン地方もヒトラーの要求通り、引き渡してしまいます。
 こうして、ヨーロッパの弱き国々は見殺しにされてしまいますが、見捨てた側のヨーロッパの人々は、第二次世界大戦によってその代償を支払わされることになります。

 なぜ、ドイツ、イタリア、日本の侵略戦争に対し、フランスは及び腰で戦い、アメリカは参戦をしぶり、東欧諸国が見捨てられることになったのか。こうした第二次世界大戦の状況は、第一次世界大戦までさかのぼり、振り返らなければ理解できないのです。

<参考>
「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史(2) 2つの世界大戦と原爆投下 The Untold History of the United States」
 2012年
(著)オリバー・ストーン Oliver Stone、ピーター・カズニック Peter Kuznick
(訳)大田直子、鍛原多恵子、梶山あゆみ、高橋璃子、吉田三知世
早川書房

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