最も愛された大統領と嫌われたその妻


- フランクリン・デラノ・ルーズベルト Franklin Delano Roosevelt &
エレノア・ルーズベルト Anna Eleanor Roosevelt -

<愛される大統領>
「おそらく、民主主義ほど偉大な指導者を必要とする政治形態はないであろう」
ブライス卿

 「自由」を重んじる民主主義のシステムでは、誰がトップに立つのかによって、政治の方向性が大きく変わる可能性があります。そのことは、トランプ大統領が大統領に当選してからのアメリカを見ればよくわかります。では、アメリカ人にとって理想的な大統領は誰だったのでしょう?アンケート調査によると、ベスト3はほぼ変わりなく、リンカーン、ワシントンそしてFDRことルーズベルトだそうです。
 かつて、ルーズベルトに批判的だった人々は、彼を共産主義者と見なしていたようですが、最近では共和党支持者でもルーズベルトの業績を評価しているようです。そんな彼の業績は、大きく二つに分けることができます。

<大恐慌からの脱出>
 1930年代にアメリカ経済を破綻させた大恐慌は、それまでにも20年に一度はアメリカ経済を襲っていました。その原因は、政府が経済活動を市場に任せっきりだったことにあったといいます。当時、唯一経済恐慌を免れたソ連の指導者レーニンが指摘していたとうり、資本主義社会がもつ必然的な落とし穴が、アメリカと欧州の国々を経済破綻へと追い込んだとも考えられます。資本主義経済では、資本家はどこまでも利益を追求し続け、それが経済的なバブルを生み出して、破たんするまでけっしてやめられない。だからこそ、同じような大不況が定期的に訪れることになっていたのです。(経済学者ケインズらの指摘により、そうした資本主義の経済体制はその後修正されることになります)
 大不況のまっただ中、1933年に大統領となったルーズベルトは、強力な指導力によって、いくつもの対応策を実行して行きます。社会保障、失業補償、公共事業、証券取引規制、村落の電化、農産物価格の適正化、最低賃金の設定、労働時間の制限、団体交渉権の保障など、彼が実行した政策の多くは職を失った貧しい労働者を救うことが目的でした。
 当然、彼は企業の経営者たちから批判され、共産主義者と呼ばれることになりました。彼はけっして貧しい階級の出身ではなく、貴族階級の出身と呼べる上流階級の出でしたが、民主主義に対してはっきりとしたポリシーを持つ数少ない政治家の一人でした。
「われわれの進歩は、持てる者の富が増えたかではなく、持たざる者に十分なものを与えられたかどうかで試される」
 これは彼の二期目の選挙に勝利した後の就任演説の一部です。

 ニューディール政策の目玉として設立された雇用促進局(WPA)の働きによって、失業者の数は減少。そこで生み出された労働によって、学校、郵便局、飛行場、公園、橋、トンネル、下水道設備などが、都市部だけでなくアメリカの地方にも作られ、さらには環境保護の取り組みも進み、多くの芸術作品(美術、映画、小説・・・)が生み出されました。

<金融機関への規制>
 労働者を救うという様々な方策と共に重要だったのは、「証券取引規制」のように金融システムの暴走に歯止めをかけるための法律でした。金融機関を放任することは、必ずバブル経済を生み出し、多くの金融機関利用者の資産を危険にさらすことになるからです。そのうえ、金融機関と政治家は、選挙資金の援助により結びついているので、いざとなれば政治家は金融機関を助け、その顧客である大衆は見捨てられることになりました。(現在もなおその関係は続いています)
 では、どうすればそうした不正の連鎖を食い止められるのか?そのためには、政府は金融機関に対する監視・調査を行い、業務内容や巨大化に制限を加える必要がありました。このことは、金融機関などと関係が深い政治家には絶対にできない政策でしたが、当時は、金融機関への批判の声が強く、逆にルーズベルトは英雄扱いされました。
 ただし、そうした規制に対し、現代の企業は、より複雑な金融システムを生み出したり、国境を越えて、資金を動かしたりすることで対応。その資金の流れは、そう簡単に追跡できなくなりました。そして、あのリーマン・ショックがアメリカを再び襲うことになるのです。

<ファシズムとの闘い>
 ルーズベルトの功績としてもう一つ重要なのは、第一次世界大戦に参戦して以降、他国での戦争に参加することを拒否し続け「モンロー主義」に回帰していたアメリカをファシズムとの戦いに参加させたことです。それは、彼の人望と信頼感、人脈の広さと巧みな説得工作によるものでした。
 そんな彼の人望は海外の政治家にも影響し、英国にインドの独立を認めるよう説得したり、フランスのインドシナ再支配をやめさせるなど、その活躍は第二次世界大戦の終わりと彼自身の死まで続くことになりました。そんな彼が最もこだわった理念を示すものとして、彼が一般教書演説で発表した「四つの自由宣言」があります。そこで、彼が主張しているのは、「言論の自由」、「信教の自由」、「欠乏の自由」、「恐怖からの自由」を世界規模で保障するために国際的な連携が重要であるということです。そのために彼は国際連合という組織の重要性を主張。特にアメリカにとっての国連は、「孤立主義に戻ることを防ぐ、唯一の装置」と考えていたようです。(残念ながらアメリカの国連軽視は今も変わりません)
 そんな彼が重視する信条からすれば、ファシズムがヨーロッパを侵略し、様々な自由を奪っている状況は許しがたいことでした。だからこそ、彼はヨーロッパにアメリカから兵士たちを送り込むべきである、と強く主張し、その思いは多くの国民から支持されるようになります。こうして、アメリカは第二次世界大戦後、「自由の守護者」として世界をリードすることになったのです。

 現在のわれわれの世界を見てみよう。明らかにヨシフ・スターリンの世界でもない。あの恐ろしい世界はわれわれの目の前で自己解体した。さらに言えば、ウィンストン・チャーチルの世界でもない。大英帝国とその栄光が歴史の中に消えて久しい。
 われわれが生きている今日の世界は、フランクリン・ルーズベルトの世界である。

アーサー・シュレシンジャー(歴史学者)

<ルーズベルトの生い立ち>
 フランクリン・デラノ・ルーズベルト Franklin Delano Roosevelt は、1882年1月30日ニューヨーク州ハイドパークに生まれています。裕福な家庭に生まれた彼は、その行動的な政治姿勢を親戚でもあるセオドア・ルーズベルトから学んだと言われます。成績優秀だった彼は名門のハーバード大学を卒業後、コロンビア大学のロースクールに入学し、政治家の道を歩み始めます。
 1913年に海軍次官補に指名された彼は第一次世界大戦で活躍し、終戦後は本格的に政界に進出。
 1928年にはニューヨーク州知事に選ばれます。
 1932年、大恐慌によって危機的状況にある中、大統領に当選します。ここから彼の大統領としての活躍が始まります。

<偉大なるパートナー>
 「偉大な指導者は常に孤独であった」という言葉があります。歴史上の偉大なリーダーは、誰にも頼ることなく自らの意思にによって人々を動かしました。ただし、すべてのことに例外はあるし、実はどんな伝説的リーダーにも影で支える助言者がいた可能性はあるものです。(元々マスコミは、リーダーが孤独な存在であることを好み、もうひとりのリーダーの存在は認めあtがらないものです)
 ルーズベルトにも、実は重要な影のパートナーがいました。それは彼の妻、エレノア・ルーズベルトです。彼女ほどアメリカの政治に大きな影響を与えたファースト・レディーはいなかったと言われます。妻として、大統領を支えるだけでなく、時には大統領を問い詰めたり、ファースト・レディーの地位を使ってマスコミを動かしたり、自らの主張を積極的に発表したりすることで政治の方向を変えさせることもありました。(思えば、公民権運動の歴史を描いた映画には、様々なところでエレノアの名前が出てきます)
 偉大なるパートナー、エレノアとはいかなる人物だったのでしょうか。

<エレノア・ルーズベルト>
 エレノア・ルーズベルト Anna Eleanor Roosevelt は、1884年10月11日、ニューヨークの裕福な家庭に生まれました。しかし、経済的には恵まれていたものの、アルコール中毒の父親と娘を愛そうとしない冷たい母親の間で、彼女は不幸な少女時代を送りました。そんな家庭環境が影響したのか、彼女は早くから福祉の道で生きることを選択。ニューヨークの福祉施設で働きながら、そこで生きがいを見出しつつありました。ところが、遠縁にあたる青年フランクリン・ルーズベルトと恋に落ち結婚。そこから彼女の人生は大きく変わることになりました。結婚後、彼女は13年間に6人の子供を生み、子育てに忙しい日々を送ることになり、人生のすべてを家族のために捧げることになりそうでした。
 ところが、ある日、彼女は夫が浮気をしていることに気づいてしまいます。当然、彼女は離婚を考えますが、夫が政治家の道を歩み始めていたこともあり、自分自身が自立し、積極的に政治にも関わることでその危機を乗り越える選択をします。(その後は、彼女自身も愛人を作り、お互いに合意の仮面夫婦を演じていたという話もあります)
 1921年、夫フランクリンが難病のポリオにかかりますが、政治家としての活動を始めたばかりの夫のために、彼を助けることでより深く政治にかかわることになります。危機を脱した二人は強力な政治家コンビとして活動を続けることになります。

<差別問題との闘い>
 こうして彼女は、再び社会問題に関わり始めるようになり、1932年に夫が大統領に選出されてからは、積極的に政治にも関わるようになります。女性の参政権問題、児童労働の廃止、最低賃金の制定、労働者を保護するための法律制定などを目指すフェミニストのサークルに参加した彼女は、しだいにそのグループの中心的存在になります。そうした様々な社会問題の中で、彼女が特に深くかかわったのは黒人に対する人種差別の問題でした。
 例えば、夫が実行したニューディール政策は確かに失業者を減らしましたが、この政策によって仕事を得られたのは、当初、白人労働者ばかりで黒人はその政策の対象外になっていました。その事実を知った彼女は、夫を問い詰め、その改正を迫ります。残念ながら人種差別意識の持ち主だったという大統領も、妻の執拗な追及に根負けし、こうした政策において人種差別が行われないようにという大統領令を発することになります。その後も、彼女はファースト・レディーであるという地位を利用することで、人種差別の不当性を積極的に宣伝する広告塔の役目を担います。
 1938年、アラバマ州バーミンガムでは福祉に関する会議で白人専用座席に座ることを拒否。
 1939年、アメリカ革命婦人会が黒人歌手マリアン・アンダースンを講堂から締め出したことに抗議して、同会から脱会。
 公民権運動が盛り上がりをみせた1950年代ではなく、まだ人種差別が当たり前だった1930年代に、彼女は「わが国の黒人の人生をゆがめ、ねじ曲げる人種隔離政策という基本的事実は、それ自体が差別である」と主張することはかなりの勇気を要することでした。実際、彼女はそのおかげで、大衆から批判、嘲笑の対象になることも多かったようです。
 さらに彼女は女性への差別問題に対しても積極的に関わり、女性の地位向上や社会参加の問題を主張し続けています。しかし、それらの活動もまた男性たちからの反発を買うことになりました。それでも彼女は、様々な方法で問題解決のための活動を続けました。例えば、彼女はあえて女性記者限定の記者会見を300回以上行いました。すると、そのおかげで各報道機関はそのために女性記者を送り込まなくてはならなくなり、女性記者の数が一気に増えたといいます。講演会やコラムでは、戦時中、働き手が不足している工場で女性たちが働くことを奨励。そこで技術を身に着けることは、その後の人生で必ず役に立つと説明。こうして、彼女は女性たちの社会参加に貢献することになりました。

<世界を舞台にした活躍>
 1945年、夫ルーズベルトがこの世を去り、ファーストレディーではなくなった彼女は、すべての社会活動から引退することを宣言します。ところが、後継の大統領トルーマンから戦後第一回目の国連総会にアメリカ代表団のメンバーとして参加してほしいという依頼を受け、彼女の国連とのかかわりが始まることになります。
 それから7年間、彼女は国連の活動にアメリカの代表として出席し、人権委員会の委員長にも就任します。そして1948年には、彼女が中心となって「世界人権宣言」の起草・採択を実現します。
 そこで特筆すべきは、本当の意味で彼女が偉大なのは、多くの政治家が時代の流れや国際的な情勢の変化によって自らの主張を変えるのに対して、けっしたそうはならなかったことです。
 彼女は第二次世界大戦中、日系人を強制的に収容所に送る政策に反対、戦後の「赤狩り」時代にもマッカーシーらのやり方に反対の姿勢を貫きました。彼女はどの時代も弱者の側、迫害される側に立って、その不当性を訴えていたといえます。
 それはある意味、彼女が「女性」だったからこそ可能だったのかもしれません。 

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