日本における大衆音楽の原点

<目次>
雅楽 お経 能楽 三味線 「筝」
日本最古の音楽家集団 お経だって音楽だ! 武士が育てたエンターテイメント 龍馬も愛した弾き語り楽器 「筝」って何?「琴」って何?
尺八 人形浄瑠璃 歌舞伎 民謡 宮城道雄
尺八といえば、なぜ虚無僧? 大衆向けエンターテイメントの原点
近松門左衛門&竹本義太夫
日本を代表する芸能 わらべうたから民謡へ 現代邦楽の父


<ポピュラー音楽のルーツへ>
 日本におけるポピュラー音楽のルーツとは何だろう?
 70年代に誕生した和製ロックを調べているうちにロックと融合した歌謡曲のルーツに至り、そこからさらに戦中戦後の流行歌へと調べて行くと、そこには様々なジャンルの音楽があることがわかりました。たとえば、「軍歌」もまた1940年代のヒット・ジャンルのひとつでした。さらにそれ以前だと「八木節」や「安木節」などの「民謡」がヒット曲だった時代もありました。しかし、そこからさらに時代を遡ると、そこにはレコードのような音楽を記録する媒体も存在しなくなるため、その音楽を知ることも困難になります。そうなると、もう「流行歌」というものも存在しえないのでしょうか?
 そこで、そうしたポピュラー音楽の歴史にさらに深く迫るため、ここでは日本の音楽のルーツにまで一度遡り、そこから未来へと戻ってみようと思います。そのために必要なガイドブックとして、釣谷真弓さんの「おもしろ日本音楽史」が大いに役立ちました。というわけで、日本における音楽のルーツへの旅を始めようと思います。

<日本のルーツ・ミュージック>
 現代にまでつながる日本の古典音楽のルーツは、シルクロードをたどって挑戦半島経由もしくは沖縄経由でやってきたアジアの音楽にある。この定説は基本的に間違ってはいないようです。ただし、さらにそれより以前に日本に定住もしくは移民してきた日本人のルーツにあたる人々もまた彼らならではの音楽文化をもっていたはずです。(縄文系の文化が残した音楽といわれる琉球やアイヌ民族の音楽の魅力についても今後調べたいと思います)
 よく言われるのは、農耕民族である日本人のリズムは「歩く」行為から生まれた「二拍子」なのに対し、大陸(朝鮮)の騎馬民族にルーツをもつ人々のリズムは「三拍子」だというのがあります。(馬のギャロップが3拍子だからだそうです)
 たとえば、この大陸文化の影響のもと日本で3拍子の曲を流行させた古賀政男は朝鮮育ちの作曲家でした。その他にも、歌詞における5・7・5へのこだわりや「ヨナ抜き音階」へのこだわりにも民族的な遺伝子が関わっているのでしょう。
 確かに雅楽などの日本の古典音楽に使用される楽器のルーツはアジアですが、それを使う日本人のルーツはさらに古いし、謎に満ちています。とはいえ、かつてシルクロードの終着点である日本にたどり着いた文化は、日本でその原型をとどめ続けることになりました。なぜなら、日本は奈良時代以降、他国他民族によって占領されることなく現代に至っているため文化的な侵略をほとんど受けずにきたからです。(少なくとも、1945年アメリカ軍に占領されるまでは・・・)

<邦楽全般に共通する特徴>
 ワーグナーの音楽を油絵にたとえるなら、日本の音楽は墨絵かもしれない。墨の濃淡にすべての色彩の変化を見出すような凝縮の芸術、それが日本の音楽です。

 日本の音楽の作曲においては、昔からある定型化した旋律型、慣用的な音型を応用し、新規のものは用いない。したがって、作曲者の個性、オリジナリティは求められない。そのため、「作曲」という言葉は存在せず、声楽の場合は「節付(ふしづけ)」といい、その伴奏や器楽曲では「手付(てづけ)」という言葉を用いてきました。「作曲」というよりも「編曲」、「補曲」、サンプリング編集といえます。ある有名な旋律型を用いることは、その旋律型のもつイメージを曲に加えることでもあります。従って、「節付」、「手付」には、そうした多くの型を知っていることが求められます。そして、そうした能力を、それぞれの楽器や音楽ジャンルにおいて受け継いでゆくのが、日本の音楽における家元制、世襲制でした。

「音楽」という概念の不在
 西欧の音楽においては、楽器はオーケストラで使用されるものが基本でそれ以外の楽器はほとんど登場しません。それに比べ邦楽においては、それぞれのジャンルによって使われる楽器の種類が異なることが多い。これもまた特徴的なことです。
 ひちりきや笙のように雅楽でしか使用されない楽器や鈴や木魚、鐘のようにお寺でしか使用されないもの、それに歌舞伎や相撲、文楽で使われる「拍子木」など、それぞれのジャンルに独自の楽器が存在しています。
 さらには、それぞれの音楽において用いられるリズムや音階もまた独自のものがあるといえます。
 こうした日本における音楽文化の傾向は、新しい音楽が誕生しても、前のジャンルもまたそれなりに生き残るという、日本ならではの伝統文化重視のせいだったともいえます。雅楽のような古い音楽がそのまま残っているのは日本ぐらいともいわれます。そして、その原因には、日本が明治維新まで日本の伝統文化を守り続けてきたことがあります。今まで他の国に占領されずに生き延びてきたからこそ可能だったともいえます。(太平洋戦争後アメリカの占領下で大きく変わりましたが・・・・)
 こうして様々なジャンルの音楽が共存していた日本には、明治時代になるまで、それぞれのジャンルの音楽は存在していてもそれらの総体としての「音楽」という概念は存在しなかったともいわれます。

<日本人の音楽的美意識>
(1)音色尊重(日本人は音のもつ音色を愉しむ傾向がある)
(2)噪音愛好(尺八の音のような濁りを含んだ音を好むのも日本人の特徴)
 日本人は自然音を、まるで音楽を積極的に聴く。自然愛好だから、噪音愛好でもある。自然に満ちあふれた多様な音色を聞き分ける感性が音色尊重主義を生み出した。豊かな音が存在するからこそ、一つの音の美しさを求めた。その逆がキリスト教という砂漠の宗教が生み出したハーモニー重視の音楽であるクラシックを生み出した。
 日本音楽では澄んだ声を単純で深みのない素人声として嫌う。サビのある渋い声、つまり噪音を多く含んだ声を、深みのある声として好む。
(3)単音愛好(メロディーではなく、一音ごとの響きや美しさを愛する傾向がある)
(4)余韻愛好(音そのものではなく、音と音の間を愉しむのが日本人)
 日本の弦楽器では、音が鳴り続けることよりも、消えゆく余韻を味わうことに重点がある。

<ヨナ抜き音階>
 なぜ、明治以降、急に日本独特の「ヨナ抜き音階」が登場したのか?
 明治政府が欧米化政策を進めるために、音楽に関しても西欧の7音音階(ドレミファソラシド)を導入しました。しかし、当時の日本人はそれまでの5音階の影響で「ファ」と「シ」の音程がとれませんでした。そのため、仕方なく「ファ」と「シ」をのぞいた「ヨナ抜き」の「ドレミソラ」が用いられるようになったようです。

雅楽の歴史(紀元700年ごろ)
 奈良の正倉院に保存されている8世紀に使われていた楽器のコレクションには、世界中を探してもどこにもない貴重なものが多数あるといいます。なぜなら、そうしたルーツ的な楽器はもうどの国でも使用されておらず、まるで生きた化石シーラカンスのような存在だからです。
 日本最古の法律と言われる大宝令(701年)には、雅楽寮という役所についての規定が書かれています。そして、そこに所属する公務員楽団の担当ジャンル内訳によると、和楽(日本本来の神道系)が10人、唐楽(中国からの音楽)が12人、三韓楽(新羅、百済、高句麗からの音楽)が12人、伎楽が3人となっています。
 貴族のもとで演奏を行う公式の楽団が当時すでに存在し、弟子も抱えていたことがわかります。これらの楽士は、その後世襲制となり「楽家」として現在にまで続き、その中にはあの東儀秀樹さんなんかもいるわけです。
 もちろん、当時彼らの音楽は貴族もしくは皇室のためにしか演奏されなかったので「大衆音楽」のバンドだったとはいえません。(現在では「雅楽」はかなりポップな存在になっていますが、それはつい最近のこと)
 しかし、彼らの演奏する音楽は、歴史が進むとともに貴族個人のための宴会などでも演奏されるようになり、貴族たちの中には自分で演奏に挑戦する者も現れます。そして、雅楽の基本的なバンドスタイルもしだいに固まってきました。その基本的な編成は、こんな感じです。

竜笛(りゅうてき:横笛の一種)、ひちりき(縦笛)は、メロディー担当の楽器。
(しょう:東儀さんが吹いている和楽器)は、ハーモニーを加えることで音を厚くする役割。
琵琶(びわ)と(そう:一般的に言う「こと」のこと)は、メロディー楽器ではなく主にリズム楽器として使われます。
鞨鼓(かっこ:つづみの一種ですが横置きにしてバチで叩きます)は、リズムをキープする役割。
太鼓(たいこ)と鉦鼓(しょうこ)が、打楽器としてリズムを作ります。

 これらの楽器が揃えば、管、弦、打楽器が揃ったことになり、それは古代のオーケストラだったといえます。このスタイルを日本では1200年保ってきたのですから、すごい伝統です。クラシックよりもクラシックと呼ぶに相応しいと言えます。(クラシックの歴史は、たかだか数百年にすぎません)
 ちなみに上記の雅楽の編成に尺八は入っていませんが、尺八自体は紀元600年ごろにはすでに唐から伝わってきていました。しかし、雅楽の枠からははずれており、こちらは単独の楽器として広がって行きました。

<平安のポップスター、後白河法皇>(12世紀ごろ)
 平安時代の終わりごろ(1100年代)、後白河法皇という遊び好き、流行もの好きのお偉いさんがいました。(「法王」とは出家した天皇のこと、まあ当時の一番偉い人)
彼が編纂した「梁塵秘抄」は、ある意味日本最古の本格的ポップス楽譜集とも呼べるものです。そこに収められているのは、当時、市中で流行していた曲の歌詞などで、それを後白河天皇はお抱えの楽士たちをバックに歌いまくっていたようです。平安のポップ・スターとして、多くのファンを抱えていたのかもしれませんが、もしかするとジャイアンのように迷惑がられる存在だったのかもしれません。当時の記録によると彼は15日連続して「今様あわせ」というライブを行ったとか。観客も大変です。
 それでも、彼が偉かったのは、優れた芸を持つ者なら、遊女だろうがアーティストとして対応し、御所に呼び寄せて、それを聞き、記録し、学んだということです。これぞ、ロック魂って感じです。
 彼はさらに楽士たちの有力なパトロンとして、多くの優れたアーティストを育てたことでも知られています。中でも藤原師長は特に有名な人物です。彼は、琵琶や声明(歌)の名手であるだけでなく、現在まで残る貴重な琵琶の楽譜集「三五要録」や筝の楽譜集「仁智要録」の編纂を行うことで、雅楽の世界に大きな役割を果たしました。

<雅楽虎の巻「教訓抄」>(13世紀ごろ)
 1233年に雅楽師、狛近真(こまのちかざね)が編纂した「教訓抄」もまた重要な作品集・教則本です。こちらは偉大なバンド・マスターだった近真が自分の息子たちに後を継がせることができず、仕方なく後継者のためにと自らの頭の中に保存されている楽譜や音楽的ノウハウをすべて書き写したものです。
 ある意味、忍術や剣術のように門外不出のノウハウとして、秘密裏に伝えられてきた雅楽は、それまでまったく「記録」として残されてはいなかったので、これは実に貴重な資料といえます。(あのビーチボーイズの伝説的名盤「ペット・サウンズ」の制作過程の録音がすべて記録されていて、それが後に世に出たようなものです。・・・)
 駄目息子たちのおかげで、こうして幻の雅楽が今に甦ることになったわけです。そこには、それぞれの曲についての解説や由来、演奏の記録、楽器の説明などが書かれていて、まさに「雅楽の教科書」になっていました。
 大昔から文字を用いることで、多くの情報や文化を記録してきた文学好きでマニアアックな日本人の性格は、音楽の分野でも早くから発揮されていたわけです。(まあ、このサイトもそのDNAを受け継いでいるのですが・・・)

「お経」だって音楽だ!
 間違ってもポップスではないのですが、誰もが聞いたことがあるという点では「大衆音楽」的ではあるのが、日本古来の声楽「お経」です。
 「お経」は、6世紀にインドから中国経由で伝わってきたとされる仏教とともに日本に渡ってきたようです。元々あらゆる宗教音楽というのは、基本的に(1)宗教儀式(2)自己修練(3)伝道と三つの目的のために生まれたと言われています。仏教の場合は、お経以外にも宗派によっては、いろいろな音楽があるようで、それらを総称し、「声明(しょうみょう)」と呼ぶそうです。楽器としては基本的には、木魚と「きん」(小さな鐘)は使いますが、宗派によってはドラなども使います。
 音楽が好きな人なら、仏教のお葬式で「お経」を聞いていて、その意外な音楽性に気づいたことがあるはずです。たとえば、お経にハーモニーはないけれども、ユニゾンではあっても複数のお経が重なることで微妙なうなりのようなものが生じ、それが音楽的に聞こえます。それに、お経が始まる時には、「きん」(お鈴)という小さな鐘を鳴らして、それで声の高さを合わせていること。(「きん」がまた実にいい音なんです)
 どうやら、お経には独特の表記法による楽譜のようなものもあり、最近では五線譜による楽譜化もされているようです。(この時の独特の絵文字のような表記法がまた楽しいのです)とはいえ「お経」は確かに音楽のようではありますが、宗教的であるがゆえに、商業的な存在の大衆音楽とは対極に位置するものだともいえます。とはいえ、その「お経」もしくは「声明」も、後に少しずつ大衆音楽にも影響を与えてゆくことになります。

武士の芸術「能」(15世紀ごろ)
 「能は異界とのコミュニケーションを演劇化したもの」だからこそ、「能」には必ず、亡霊や鬼など超常的な存在が現れます。(「坂本龍一の音楽の学校」より)
 「お経」が宗教的なるがゆえにポップスの対極なら「能」のバックで演奏される音楽は、上流階級のための音楽であるためにポップスの対極にあるといえます。しかし、「能」の影響のもとで生まれた様々な文化もまた大衆芸能に大きな影響を与えています。ということで、ここでは「能」について書くことにします。
 「能」の原点と言われるのは、奈良時代に大陸から渡って来た「散楽(さるがく)」という雑技の一種だったと言われています。それは、歌、ダンス、曲芸、手品などで構成され、演じる人々はサーカス一座のような集団だったようです。(「能」のもとは、元々は大衆向けのエンターテイメントだったわけです)この散楽が平安時代に「猿楽(申楽)」と呼ばれるようになり、神事の余興や寺のイベントで活躍するようになりました。この頃、すでに歌とダンス(舞)を重視する劇が「猿楽の能」、エンターテイメントとしてお笑いを重視する劇が「猿楽の狂言」という区分けが生まれていたようです。
 その後、各地にこの「猿楽」を仕事とする集団である「座」が作られ、その中心的存在として近江猿楽(京都中心)と大和猿楽(奈良中心)が2大主流派となってゆきました。そして、その大和猿楽の座長である「大夫」(だゆう)の中に、あの有名な観阿弥(かんあみ)こと観世清次とその息子の世阿弥(ぜあみ)こと元清が登場します。
 観阿弥は大和猿楽だけでなく近江札額が得意としていた「幽玄」の美しさを取り入れることで、力強さと美しさを併せ持つ新しい「能」を完成させ、鎌倉時代、新たに登場してきた武士たちから高い評価を得たことで一躍武家社会における人気芸能のひとつになりました。しかし、息子の世阿弥はさらにその革新を進めます。
 原作、脚本、作詞、作曲、振り付け、演出、主演、営業・・・すべてを自らが担当することで、現在につながる「能楽」のスタイルを一気に完成させたのです。
 こうして「能楽」は武士が身に着けるべきたしなみのひとつとして発展を続けることになります。(戦国ものの時代劇では必ず織田信長は「能」を舞うことになっています)「型」を重んじるこの芸能は、ある意味実に日本的な文化で、その後は大相撲の原点ともなります。
 もちろん、武士の上流階級の身だしなみのひとつだった「能楽」は大衆芸能とはいえませんが、ここからも、後にポピュラー音楽に影響を与える様々な文化が生まれることになります。
<狂言>(追記2014年2月)
 「能」が超常現象を演劇化したのに対し、まったく無名の庶民を主人公に庶民の日常の出来事を演劇化したのが「狂言」だといえます。ただし、これももとは「猿楽」から発していて、その本質は「猿楽」の方に近かったといえます。「猿楽」に宗教的、儀式的要素が加わることで「能」という究極の芸能が生まれ、大衆芸能的に残ったものが「狂言」だったといえます。

和風ポップの人気楽器、三味線
 三味線は、和楽器の中では今一番人気のある楽器かもしれません。多くの人は、この楽器のルーツは「琵琶」と思っているかもしれませんが、実はそうではありません。雅楽に登場する琵琶は弦楽器ではありますが、三味線とはまったく別の流れに位置しているようです。三味線のルーツは、中国から来た三弦という楽器にあり、それが15世紀ごろ琉球で三線(さんしん)として発展した後、大阪(境港)に輸入されたと言われています。(琵琶よりもずいぶん遅く日本に来たわけです)
 ただし、最初にこの楽器を日本各地に広めたのは類似した楽器である琵琶の演奏者、琵琶法師だったようです。(琵琶法師とは、「平家物語」のような戦争の歴史や記録を弾き語る旅芸人のこと。かつてヨーロッパで活躍したトラッドの元祖、バラッドの歌い手のような存在であり、アメリカにおける盲目のブルース歌手のような存在といった感じでしょうか)
 沖縄における三線は宮廷音楽とともに民謡でも使用されたことで大衆音楽と早くから結びついていました。構造的にも簡単で、演奏しやすいこともあり、三味線も同じように大衆向けの楽器として広まってゆき、様々な芸能のバックで活躍することになりました。その意味では、三味線は早くから和風ポップの中心楽器であり続けました。
 明治以降、クラシック音楽を中心とする洋楽の時代になると、しだいに大衆音楽の世界から三味線は消えてゆきます。それでもかろうじて芸者さんが使うお座敷の定番楽器として使用されてはいたので、昭和初期に芸者さんか歌手として活躍する時代になると、再び大衆音楽の世界に登場することになりました。
 しかし、21世紀にブレイクすることになった三味線は、そうした演歌の世界における弾き語り楽器の延長ではなく、民謡の世界で行き続けていた津軽三味線など演奏主体の楽器として価値を認められてのものでした。今や三味線は、様々な楽器と競演する和楽器最強の存在になった感があります。
<三味線の分類>
 棹が太い方がパワーのあるエレキギター的な音が出ます。そのため、それぞれのジャンルで自然に棹の太さに違いがあるようです。
「太棹」は、義太夫節津軽三味線など(独奏にも適す津軽三味線は若者たちがその音のパワーをお祭りなどで競ったために自然に棹が太くなったともいわれます)
「中棹」は、常磐津、清元、新内、地歌
「細棹」は、長唄、端唄、小唄(時代劇などで粋な芸者さんたちが、弾き語り的に使うのはこのタイプ)
<マメ知識>
(1)三味線は一棹、二棹と数えます。
(2)沖縄の三線(サンシン)は錦へヘビの皮を使用しています。しかし、本州に伝わると、三味線は猫や犬の皮で作られるようになりました。それは本州においては、すでに琵琶などをバチを使って弾くようになっていて、ヘビ皮はひっかかるためむかなかったせいだといわれています。


「琴」ではない「筝」の歴史(17世紀ごろ)
 「琴」と書いて「きん」と読む楽器は一般的に知られている「こと」のことではありません。「馬頭琴」(モンゴルの弦楽器)のように一本または二本の弦を張り、それを指で押さえながら、はじいて音を出す楽器が「琴(きん)」なのです。なかでも一弦琴は「須磨琴(すまごと)」、二弦琴は「八雲琴(やくもごと)」という名前があるそうです。じゃあ「こと」として知られる楽器の名前は何というのかというと「筝(そう)」と言います。(ややこしや!)
 この「筝」の原型(現在の「こと」)を作り、そのための名曲を数多く残した天才アーティストが17世紀に現れています。ロック界におけるエレキギターの元祖レス・ポール的な存在といえる偉大な人物の名は八橋検校(やすはしけんぎょう)といいます。
 なんとあの有名な京都銘菓「八橋」は、この人が完成させた筝の形を真似て作られたお菓子のことだったのです。(もちろん、「生八橋」ではないですよ。生の方が美味しいですけど)元々三味線や胡弓の名手だったという八橋さんは、筝の名手として有名だった九州久留米の僧、賢順の弟子、法水から筝を習い、その魅力に気づきました。彼はより音が大きくなるように楽器本体を大きくしたりして、独奏用の楽器に改良を加えます。さらにこの楽器のために新しい音階「平調子」を考案し「六段の調」など、現在にまで残る数々の名曲を作りました。かつて、若かりしスティービー・ワンダーが市販されたばかりの高価な電子楽器を誰よりも早く購入し、次々とそれを使って名盤を発表したことを思い出させます。この偉大な人物、八橋検校もまた盲目のアーティストでした。
 「検校」というのは、盲人たちの互助会的な組織における最高の位を示しています。彼は多額のお金をその組織に納めたことで、その頂点に達した人物でもあったわけです。ちなみに、同じ組織の中でも最も低い位の名前を「座頭」といいます。あの座頭市は、盲人組織における下っ端だったということです。考えてみると、スティービーだけでなく、盲目のブルースマンやレイ・チャールズ、ホセ・フェリシアーノ、ピアニストの辻井くんなど、音楽の世界では目の見える見えないことは、ハンデとならず逆にアドバンテージになるともいえそうですし、お金も稼げました。
 こうして経済的にも、音楽的にも成功者となった八橋検校が創始した「筝」はいつしか盲人たちが伝統的に奏法を受け継ぐ楽器として現在にまで至るわけです。
<マメ知識>
(1)筝、琵琶は一面、二面と数えます。

尺八と虚無僧
 尺八といえば「虚無僧」。時代劇や忍者ものの定番ともいえるアイテムです。でも、なぜ虚無僧は尺八を吹くのでしょうか?
 実は「虚無僧」とは、禅宗の一派でもある普化宗の僧侶のこと。室町時代に生まれた「普化宗」は、謎に包まれた宗派と言われてきました。彼らはみな武家の出身で、深編笠をかぶり、尺八を吹きながら諸国を托鉢してまわることを修行としていました。ところがなぜか彼らには、いくつもの特権が幕府から与えられていて、関所の通行は自由、渡し舟は料金無料、誰もが托鉢を断ることは許されない・・・となっていました。これはどう考えても、彼らが幕府のスパイ集団だったとしか思えません。
 そしてもうひとつ、尺八についてさらに重要な決め事がありました。それは尺八という楽器は彼ら虚無僧以外の人が使ってはいけないという決まりです。要するに、尺八は「宗教楽器」だったというわけです。なんと、この虚無僧の制度が廃止されたのは明治4年のことだといいます。以外に尺八は新しい楽器なのです。こうして、やっと世に出た尺八は、この後一気に楽器として広がって行くことになります。
<マメ知識>
(1)明治4年に制度が廃止されると同時にその総本山的な存在だった普化宗の普大寺も廃寺となりました。浜松にあったその寺の跡地に建てられた仮工場はその後大きく発展し日本を代表する企業となります。それが当時「山葉風琴製作所」という名前だった現在のヤマハです。

和風エンターテイメントの原点、人形浄瑠璃(17世紀ごろ)
 三味線による弾き語り曲をポピュラー音楽へと広めた音楽芸能として重要なのが人形浄瑠璃です。もともと「浄瑠璃」とは室町時代に大ヒットした牛若丸(義経)と浄瑠璃姫の恋物語が琵琶などをバックにした音楽劇として大ヒットしたところから、同様のスタイルの音楽劇を「浄瑠璃」と呼ぶようになったと言われています。
 16世紀後半に三味線が登場すると、さっそくそれを取り入れ、江戸時代(17世紀以後)には、それが人形劇と結びついて人形浄瑠璃となりました。「人形浄瑠璃」は、こうして様々なジャンルの芸能を取り込むことで発展し続けた芸能だったと言えます。
 17世紀の終わり頃、あの有名な近松門左衛門(劇作家)と竹本義太夫(演奏家、語り手)のコンビが、人形浄瑠璃の世界に登場します。この二人によって人形浄瑠璃は時代を代表する芸能として大ブレイクすることになりました。竹本義太夫率いる竹本座の近松作の代表作「曽根崎心中」が発表されたのは1703年のことです。この公演が大ヒットし、「世話もの」という庶民を主人公とした「現代もの」のブームが訪れることになりました。ある意味、この作品はエンターテイメントとしての浄瑠璃が本格的にポピュラー化した原点だったと言えます。
 この後も竹本座は名作を発表し続けます。「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」(1746年)、「義経千本桜」(1747年)、「仮名手本忠臣蔵」(1748年)は、その後歌舞伎の重要な演目となり、さらには映画や芝居の原作として現代にまで残る傑作となりました。

歌舞伎の音楽(17世紀ごろ)
 この後、人形浄瑠璃の人気はしだいに衰えてゆき、それと入れ替わるように歌舞伎が大衆の間で人気を獲得してゆきます。さらに、そのバックで演奏されている歌と演奏は、「劇」から離れ、単独で発展を続け、そこから常磐津節(ときわずぶし)、清元節(きよもとぶし)、長唄義太夫節などが生まれてゆきました。
 これらの弾き語りは、江戸、、明治、大正、昭和にまで続くエンターテイメント歌謡の中心スタイルとなります。坂本龍馬も、三味線の弾き語りを得意にしていたように三味線は芸者さんだけのものではない大衆的な弾き語り楽器となりました。
 「歌舞伎」の語源は「傾く(かぶく)」からきていて、「異様な身なりをして自由奔放に振舞うこと」。まあ「ヒップでファンキーでパンクなビジュアル系」といった感じでしょうか。江戸幕府が誕生した1603年に出雲の阿国が京都で「かぶき踊り」の興行を始めたのが、その原点と言われています。
 女性の阿国が男装して恋の踊りを踊って一大ブームとなったものを、その人気にあやかって遊女たちが真似して「遊女歌舞伎」が大流行。しかし、風紀上よろしくないと、幕府はこれを禁止処分にしました。すると、今度は美少年たちによる「若衆歌舞伎」がブームとなります。しかし、これも男色ブームが起きてしまい再び禁止処分となってしまいました。
 結局、美少年ではなく、ちゃんとした大人の男が演じる「野郎歌舞伎」に落ち着き、それが現代にまで続いています。
 その後、歌舞伎の伝統は、20世紀に日本で映画が作られ始めてもなお続いていたため、台詞を必要としないサイレント映画の時代の女優はみな男性が女形として演じ続けていました。その後日本映画が世界でも特異なセンスをもつと高く評価されることになったのには、日本独自の歌舞伎文化の影響があったからなのは間違いありません。(演技、化粧、演出、舞台美術、撮影方法、色彩感覚など)
 歌舞伎は、映画だけでなく美術や大衆演芸全体に今でも影響を与え続けている日本が誇る文化といえます。

わらべ歌から民謡へ
「わらべうたは”こどもの歌”というだけではなく”歌のこども”。単純な数音からなる小曲とはいえ、長い歴史の波に洗いぬかれて今に残る日本のわらべうたには、折り鶴の折り目のようななんともいえぬ美しさだある」
藤井凡大(音楽家)
 なるほど、目から鱗です!わらべうたほど、単純で誰もがおぼえやすい音楽はありません。しかし、それはその土地に住む人々の民族文化に強く結びついています。そして、その民族文化から生まれる労働歌や祭りの歌や祝いの歌は、そんな「わらべうた」の延長として生まれた発展形なわけです。こうして生まれた民謡には、二つの様式があるといいます。
(1)八木節様式
 リズムがはっきりしていて楽しくにぎやかにみんなで歌うもの。伴奏には、太鼓や三味線が使われます。(たとえば、沖縄民謡のエイサーなどダンサブルな祝いの音楽)
(2)追分様式
 リズムが不明確でテンポも決まっていない。「メリスマ」とか「自由リズム」と呼ばれる特徴をもつ音楽です。コブシを効かせる歌を中心とするもので、伴奏には力強い音を出す楽器である尺八が適しています。(「越後追分」「江差追分」など歌唱コンクールなどが行われるようなタイプの音楽)

 民謡は土地と強く結びついている分、地域限定で地方中心の大衆音楽でした。しかし、20世紀に入り地方出身者が都会に出てくるようになった大正時代、地方からどんどん民謡も流入し、その中から都会発の大ヒット曲が誕生し、「民謡ブーム」が起きることになりました。
 1913年、浅草で足利出身の馬子引き、渡辺源太郎が「八木節」を歌い大人気となったのが、その火付け役と言われています。

<声楽曲の二つのタイプ>
「歌い物」
 箏曲、地歌、長唄など、言葉の制約よりも音楽的旋律美を優先する
「語り物」
 平家(平曲)、義太夫、常磐津、清元など、言葉の制約を重視。歌よりも朗読に近く、アクセントやイントネーションを重視します。

現代邦楽の父、宮城道雄(20世紀前半)
 21世紀に入り、筝や三味線、尺八など邦楽の楽器には、それぞれスターが登場し、その人気は復活しつつあります。そうした古典楽器の復興における原点ともいえる存在として宮城道雄がいます。お正月の定番曲、筝と尺八による二重奏曲「春の海」の作曲者である彼は病のため8歳で失明してしまいました。
 1894年神戸生まれの彼は、早くから筝を演奏するようになり、11歳で免許皆伝として指導者になったという神童でした。(まさにリトル・スティービーです)少年時代に朝鮮で暮らした彼は、朝鮮の音楽からも影響を受け、その後もオルガンを演奏するようになると、西洋音楽の影響を受けるようになり、独自の音楽を作曲するようになります。
 1909年に彼が発表した「水の変態」は、作曲者の個性を重視したオリジナル曲として邦楽近代化の元祖ともいわれます。1929年に作られた革新的な曲「春の海」は、当初、保守的な邦楽界から批判されてしまいますが、積極的な公演活動やラジオへの出演、レコードへの録音などのおかげでポップスとしての人気を獲得して行きました。(朝鮮の影響を受けた作曲家としては、古賀義男もいます)
 宮城はそれまでは流派ごとに異なる表記法によって、バラバラになっていた曲を統一。共通の五線譜で演奏できるようにしました。さらには、ドレミファソラシドの7音階に合わせた新たな17弦筝の開発なども行いました。(1921年)彼の登場によって消えかかっていた筝は再び楽器として甦ったと言われています。
 1956年6月25日彼は「越天楽変奏曲」を関西交響楽団と共演するため大阪に向かう途中、急行「銀河」から転落して死亡しています。なぜ転落したのかは、不明のままのようです。
<追記>
 驚いたことに、うちの長男は学校で音楽の先生に筝を習ったことがあるそうです。今は中学の授業で邦楽の楽器を勉強することになっているそうですが、その先生は筝をコレクションしていたとか・・・・・。
 筝のポップスターも、もしかするともうそろそろ現れるのかもしれません。

<参考>
「おもしろ日本音楽史」
 2000年
(著)釣谷真弓
東京堂出版
「日本音楽がわかる本」 2005年
(著)千葉優子
音楽之友社

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