1917年

- ロシア革命と二人のカリスマ -

<20世紀を変えたロシア革命>
 20世紀に起きた数多くの事件の中でも「ロシア革命」ほどその後の世界史に影響を与えた事件は他にないかもしれません。振り返ってみると、20世紀に起きた事件のほとんどは、アメリカとソ連を中心とする二つの陣営が繰り広げた勢力争いの歴史だったといえます。そして、そのきっかけとなったのが1917年に起きたロシア革命とそこから誕生したソビエト社会主義共和国連邦だったのです。
 では、「ロシア革命」とは何だったのでしょうか?
 労働者が横暴な国王を倒し「働く人々のための国」を設立した。確かに目標はそうでした。しかし、現実はどうなったのか?ソ連は労働者たちが幸福に過ごせる国になったのでしょうか?残念ながら、そうはならなかったからこそ、1991年ソ連は内部から崩壊してしまったのです。実は、この時の「ソ連の崩壊」は、1917年の「ロシア革命」と非常によく似た構造をもつ事件でした。それは74年という時を越えて起きた瓜二つの事件だったのです。
 それはどちらも「時が満ちて」起きた必然的な変革の流れに数名のカリスマ的な英雄が乗ることで起きたあっという間の出来事でした。それは、あまりに急激な出来事だったため、周囲の国々だけでなく当事者の国民ですら先行きを予測できず、そのために数々の問題点を残すことになりました。そのため、「民主化運動」だったはずの改革がいつの間にか「全体主義」さらには恐るべき「独裁政治」へと転換してしまうという事態を生み出すことになります。
 「歴史は繰り返す」とはよくいったものです。それぞれの国には、それぞれの国独特の国民性というものがあり、そう簡単には国の本質を変えることはできないものなのです。改めて1917年の「ロシア革命」と1991年の「ソ連崩壊」の歴史を考えてみると、そのことがよく見えてきます。

<ロシア革命>
 1917年、ロシアでなぜ社会主義革命が起きたのか?もちろん、そこに至るまでには、いくつもの事件や社会変化によるお膳立てがありました。ドイツのカール・マルクスが主張した社会主義の思想を実現するためロシア社会主義労働党が創設されたのが1898年のことでした。この頃、1894年に即位した国王ニコライ2世を頂点とするロシアは、国王と貴族、地主、軍隊に富が集中し、彼らが奴隷同然の農奴と呼ばれる小作農を支配するヨーロッパでも最も遅れた体制をもつ国の一つでした。そのうえ、この国は不毛な土地が多いわりに国土が広いため、常に隣国とのトラブルが絶えず、軍隊にかける予算は他国より高くならざるを得ませんでした。そんな中、1904年から1905年にかけて起きた日露戦争ではロシアの誇る海軍が、アジアの小国日本の海軍に敗れるという屈辱にみまわれます。
 1905年、「軍事費にまわせる金があるならパンをよこせ!」と起きたペトログラード(現在のサンクト・ペテロブルグ)での平和的なデモに対し軍隊が発砲。多くの死者が出るという歴史的な惨劇「血の日曜日事件」が起きます。ロシア国内では、この時すでに崩壊への序章が始まっていたのです。その事件の後、さらなるデモやストライキがロシア全土で起きたため、ニコライ2世は民主的な国会の改革を約束し、その沈静化をはかります。これにより、一度は労働運動は収まりかけましたが、1914年、第一次世界大戦が勃発。事態の向かう先が決定的なものになります。

<二月革命>
 第一次世界大戦が始まると兵器工場など都市部の工業地帯が人手不足となり、そこに農村部から多くの労働者が集められました。当時首都でもあった大都市のペトログラードは、わずか数年の間で人口が二倍近くに増えたといわれています。ところが、急激に人口が増えた都市部で食料が不足するようになります。そうなった原因は、大寒波による冷害もありましたが、農作物はあったにも関わらず農民が政府にそれを出したがらなかったことも一因となりました。さらには、鉄道を主体とする国内流通網が古いままでまったく改善されないままだったことも大きな原因となりました。そのため、都市部に住む労働者たちには食料が届かなくなり、一気に不満がたまり、それがロシア社会主義労働党から分離してできたボリシェビキ党に結集して行くことになりました。そうなるとあとは、その不満が爆発するきっかけがいつになるか、ということになってきます。そして、それは意外なことに普通のおばさんたちによって始められることになりました。
 ロシア革命の始まり「二月革命」のピークとなった事件、ペトログラードでのデモは1917年3月8日に起きました。その日は「国際婦人デー」に当たっていたため、多くのおばさんたちが待ちに出て「パンをよこせ!」と叫びながら街を歩き、それが多くの男たちをも動かすようになります。ただし、この時、後にロシア革命の指導者となるレーニンはペトログラードどころかロシア国内にすらいませんでした。彼はスイスに亡命していて、それらのデモには参加していませんでした。もちろん、彼が夢みていた社会主義国家がその年のうちにも誕生しようとは、彼自身思ってもいませんでした。実際、彼はこの頃、ある演説でこう語っていたそうです。
「われわれ老人たちは、おそらく生きてこの来るべき革命の決戦を見ることはないであろう」
 ところが、彼の知らないうちに革命は、この時「人民」によって始められていたのです。

<帝政の終焉と十月革命>
 この後もデモやストライキは拡大を続けます。ついには軍隊内部にもその動きに同調するものも現れます。こうなると、もう事態を収拾することは誰にも出来ませんでした。このままでは、帝政どころか自らの命も危ないと感じたニコライ2世は、自ら退位することを発表、弟のニコライ大公に後を継がせることで帝政を維持しようと考えます。ところが、ミハイル大公は自分が混乱の矢面に立たされることを恐れ、皇帝の座を拒否。こうして、1613年の初代ミハイルから始まったロマノフ朝は300年を越える歴史をあっさりと終えてしまったのです。
 ロシアは長い歴史の中で初めて共和制を導入することになりましたが、混乱する政界をまとめることは、それまでの官僚たちには到底無理な仕事でした。そんな状況の中、スイスに亡命中だったウラジミール・レーニンがもどり、ボリシェビキ党を率いトロツキーらとともに政府の権力を掌握。これが「十月革命」と後に呼ばれることになります。しかし、「革命」は起きても、それを継続することは「革命」以上に困難なことでした。

<革命の混乱と全体主義>
 「革命」は起きました。しかし、ゼロの状態から社会主義体制を築き上げることは、そう簡単なことではありませんでした。共和制となった政府の実権を共産党が奪ったものの、共産党内部は元々バラバラな主義主張をもつ集団の寄せ集めでした。ボリシェビキ党、エステル党、カデット党など、それぞれが異なる考えをもっていた革命家たちは、それぞれの立場に立ち政権内部で権力闘争を始めます。もちろん、混乱は国会内だけのことではありませんでした。国会における混乱が続く中、右派勢力は再び権力を掌握するために結集し始めます。そして、ウクライナを中心に独立した政府が誕生。エステル党の勢力がサマーラ地域で新政府を樹立するなど、各地で内紛が続きます。それにしても、なぜ高い理想を掲げ、「働く人々」のための国を作ろうとしていた政治家たちはなぜ結束することができなかったのでしょうか?
 レーニンは自著「帝国主義論」の中でこう指摘していました。
「帝国主義は資本主義の最高段階であり、最終段階である。帝国主義は戦争を必須として、その戦争=第一次世界大戦は、社会主義革命へと移行しなければならない」
ところが、ロシアは皇帝の支配する資本主義国以前の王制の段階から突然、社会主義国家へと移行してしまったのです。共和制すら知らない国民に民主主義的な考え方を求めることがそもそも無理な相談だったのかもしれません。識字率が10%にも満たない国の国民が突然、皇帝に代わって政治をまかされてしまったのです。それでもなんとか、ソビエト連邦として国の体裁を保つことができるようになったのは、レーニンというカリスマ的な英雄が存在したからだったといえます。ところが、そのレーニンも革命が起きて5年後、1922年病に倒れてしまいます。病床のレーニンはなんとか政治を落ち着かせようとしますが、その頃すでに、彼が最も嫌っていた人物スターリンが政権掌握に動きつつありました。

<全体主義国家へ>
 ヨシフ・スターリンは、かつて帝政ロシアの秘密警察出身ではないかと噂される謎の多い人物でした。レーニンは彼を政権内部から遠ざけたかったようですが、軍部、警察に力をもつスターリンはしだいに政権内部で力をつけ、レーニン亡き後、ソ連の指導者となりました。政権が混乱する中、対立関係にあったトロッキーら批判者をモスクワから追い出した後は安定した政権築き、1953年にこの世を去るまで長きに渡る独裁政治を展開してゆくことになります。
 国外に亡命したトロッキーを暗殺したことでも知られるように彼の独裁体制は、病的なほど反政府的な存在の抹殺を行ないました。彼がシベリヤ送りにしたり虐殺したユダヤ人や反体制派の数は、ヒトラーのナチス・ドイツをも上回る数だったと言われています。
 ソ連の人民は、1917年皇帝をその王座から引きずりおろしたものの、結局スターリンという異常なまでの権力欲の塊を自分たちのトップに迎えてしまいました。こうして、ソビエト連邦という巨大な全体主義国家が誕生し、人民はその巨額の軍事費と官僚機構を維持する費用を賄うため、再び苦しい生活を強いられることになったのでした。

「・・・たとえ世にも最高の意図を持っていたにせよ、権力奪取の問題提起ができないばかりか、権力すら持っていないとすれば、そういう人たちに一体何ができるか・・・」

「歴史の豊かな経験は、今日まである階級が他の階級に自発的にその座を譲った事例は一つもないことを教えてくれる。世界史にそんな前例は一つもありません。共産党はこの歴史の教訓を学んだ。・・・だからこそ共産党は最悪の事態に備えたいのであり、労働者階級に対し警戒心を怠らず、戦闘準備をしておけと呼びかけているわけです。・・・」


(S)「・・・世界の変革というのは偉業にして複雑、実に骨の折れるプロセスです。かかる大事業には偉大な階級が必要なのです。大型船ほど長い航海ができるものだ」
(H)「ええ、しかし長い航海には船長と航海士がいなくちゃならない」
(S)「そのとおりです。しかし長い航海に出ようとすれば、第一要件はまず大型船ですよ。船を持たない航海士なんて一体何だろう。暇人にすぎません」
(H)「大型船はいわば人間性であって、階級なんかじゃありません」
(S)「いいですか、ウェルズさん、あなたは明らかにあらゆる人間は善である、そういう前提のもとに話しを始められた。しかしながら、世の中には性悪な人間が大勢いると   いう事実を私は忘れていない。私はブルジョアジーの性善説なんて信じませんよ」

「下からの圧力、つまり人民大衆から受ける圧力のおかげで、ブルジョアジーは時として依存する社会的経済的システムの基盤に踏みとどまったまま、ある程度の部分的な改革を行うことで譲歩するかもしれない。
 かかる行動をとることによって、譲歩は支配階級の支配権を温存するうえで必要だと計算するわけですね。これが改革の本質なんです。しかしながら、革命というのはある階級から他の階級へ権力が移ることを意味する」


H・G・ウェルズによる1934年のインタビューより

<しかし、革命の情熱はあった!>
 ロシア革命の発端となったデモから10月革命に至るまでのロシア国内の社会的変動においてロシアの一般大衆が示した大きなパワーは、世界の労働者たちに勇気を与える素晴らしいものでした。当時のロシア国内の熱気を実際に自分の目で見て参加して報告を送ったアメリカ人ジャーナリスト、ジャック・リードの伝記映画「レッズ」では、そんな熱い時代の空気を感じることができるはずです。
 パティ・スミスの名曲「People Have the Power」にぴったりの時代が、その瞬間確かにそこにあったことを忘れてはいけないと思います。

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