悪魔に魂を売ったバンドの栄光と悲劇


- ローリング・ストーンズ The Rolling Stones (前編)-

<ロック界裏の英雄>
 60~70年代にかけてのロック黄金時代、その表の顔がビートルズとするなら、裏の顔はローリング・ストーンズでした。ロックファンは、当時、どちらかのファンだったと言われますが、実際はその両方の顔を愛していたと思います。僕自身も初めはビートルズのポップさにひかれてロック好きになったのですが、その後、より深くロックにハマる中でブルースと出会い、その継承者としてのストーンズの大ファンになりました。
 変化を繰り返し、解散後も様々な分野で活躍し続けたビートルズに対し、解散するどころか、そのスタイル(白いブラック・ミュージック)を貫き続けたストーンズは、「転がる石にコケはつかない」という格言そのもののバンドといえます。まさに「Like A Rolling Stone」!
 大好きなストーンズについて、じっくりと振り返ります。

<ブライアンのバンド>
 ストーンズ誕生のきっかけは、1962年ブライアン・ジョーンズが音楽誌に出した「バンド・メンバー求む!」の広告でした。それを見てやった来た最初のメンバーは、イアン・スチュアートでした。その後、ブライアンはロンドンのクラブでブルース・ロックを演奏していたミック・ジャガー、キース・リチャーズと知り合い、二人をメンバーに加えます。
 ただし、この当時、バンドのメンバーは固定されていなかったようで、ギタリストとしてジェフ・ブラッドフォード、ベースにディック・テイラー、ドラムスにトニー・チャップマンらが参加。ブルース・インコーポレイテッドに参加するなどして活動していました。
 この年の終わり頃、ドラムにジャズ好きの広告デザイナーのチャーリー・ワッツが加入し、翌年にベースにビル・ワイマンが加入し、本格的にバンド活動が始まることになります。メンバーは、この時点で、ブライアン・ジョーンズ(Lewis Brian Hopkin Jones 1942年2月28日グロースターシャ―州チェルトナム生まれ)、ミック・ジャガー(Michael Philip Jagger 1943年7月26日ケント州ダートフォード生まれ)、キース・リチャーズ(Keith Richards 1943年12月18日ケント州ダートフォード生まれ)、チャーリー・ワッツ(Charles Robert "Charlie" Watts ロンドン生まれ)、ビル・ワイマン(Bill Wyman 1936年10月24日)、イアン・スチュアート(Ian Andrew Robert Stewart 1938年7月18日スコットランド生まれ)とういう顔ぶれでした。

<ローリング・ストーンズ誕生>
 ロンドン市内のクラブ、クロウダディやマーキーなどで人気バンドとなった彼らに目を付けたのは、ビートルズのA&R担当だったアンドリュー・ルーグオールダムで、彼の相棒だったエリック・イーストンがマネージャーとなり、英国デッカ・レコードとの契約をまとめます。
 デビューが決まった彼らは、この時、バンド名をローリン・ストーンズ Rollin' Stonesからローリング・ストーンズ Rolling Stones に変更。さらにメンバーからイアン・スチュアートを外すという決断を下します。
 この時オールダムは、すでにスターダムを駆けのぼりつつあったビートルズとの差別化を考えていました。ビートルズがスーツをビシッと着たイケメン・お洒落バンドというイメージで行くのに対し、ストーンズは不良のバンドで行こうと考えていたのです。そのため、彼らはビートルズのマッシュルーム・カットではなく、無造作なままのヘアー・スタイル。多くのバンドがお揃いのスーツをびしっと着こなすのに対し、彼らはだらしない着方をしてステージに上がりました。(その後は、革ジャンにTシャツが彼らのトレードマークとなります)ただし、ストーンズのバンド・イメージは、こうしてマネージメント側の「計算」から始まったとしても、その後は本当にバンドの個性として定着することになります。
 こうして、メジャー・デビューすることになったストーンズは、バンド・イメージのための最終的な作戦として、当初から参加していたメンバーのイアン・スチュアートをメンバーからはずします。それは、彼があまりに真面目すぎバンドが打ち出そうとしていた不良イメージに似合わなさすぎたからといわれています。それでも彼は影のメンバーとして、今後ももうひとりのストーンズとしてストーンズの活動に関わって行くことになります。

<デビュー!>
 ストーンズのデビュー曲「Come On」(チャック・ベリーのカバー曲)は、1963年6月7日に発売され、いきなり全英チャートの21位に達しました。面白いのは、セカンド・シングル「彼氏になりたい」で、彼らがビートルズ・ナンバーをカバー曲していることです。(もちろん、彼らは自分たちらしいR&B的なアレンジでカバーしています)
 1964年5月、彼らはファースト・アルバム「The Rolling Stones」は、すぐに全英ナンバー1となり、アメリカ盤の「England's Newest Hit Makers - The Rolling Stones」も全米11位まで上昇。6月にはUSAツアーを行い、帰国後発表のシングル「It's All Over Now」(ボビー・ウーマックのカバー)は、初の全英ナンバー1となりました。しかし、オールダムはこのままカバー曲をレパートリーにしていてはバンドの先は長くないと、オリジナル曲を書くようメンバーに進言。こうして、生まれた最初のオリジナル曲「Last Time」は、アメリカでチャートの9位となり、次なるオリジナル曲「サティスファクション I can't Get No Satisfaction」(1965年)は、ついに全米1位となりました。続くシングル「一人ぼっちの世界 Get Off of My Cloud」とアルバム「Out of Our Heads」も全米1位となり、彼らの世界的な人気は決定的となりました。
 1966年、彼らは全曲オリジナルのアルバム「Aftermath」(全英、全米1位)でその実力を証明。ライブアルバム「Got Live If You Want」(全米6位)、シングル「19回目の神経衰弱」(全米1位)、「黒くぬれ!」(全米1位)と連続してヒットを飛ばしました。

<トラブル続出>
 1967年1月13日ストーンズはアメリカの大人気番組「エド・サリバン・ショー」に出演。この日に発売された「夜をぶっとばせ Let's Spend the Night Together」を歌う予定が、道徳上タイトルにある「Let's Spend the Night 」は問題があるので「Let's Spend some time」歌詞を変更されました。それでも、この時のストーンズ・メンバーの素行の悪さは司会者のエド・サリバンにとっては許せないものだったため、番組中に彼は「二度とこのショーで彼らの姿を見ることはないとお約束します」と宣言。自由奔放ではあっても、紳士であり続けたビートルズのメンバーとの違いは歴然でした。(結局、番組では再び彼らを出演させることになるのですが・・・)
 こうした彼らのイメージは、当時の社会風潮である青年たちのドロップアウトした生き方を象徴しており、それに対する風当たりが急速に強まることになります。2月にはイギリスの新聞がストーンズに関するドラッグ使用疑惑の記事を掲載。それに対し、ミックが名誉棄損の訴訟を起こしますが、逆にキースは自宅を家宅捜索せれる事態に発展。実際、彼らは薬物を使用しており、こうした警察や新聞社によるマークに嫌気がさしたキースは早々とイギリスからの脱出をすることになります。

「おれたちは年寄りじゃないんだ。くだらない道徳にこだわっていられないよ」
キース・リチャーズ
(この時期、フランスに移住した彼は、薬物を入手するために自分の子供のためのオモチャの中にヘロインを隠したと言われます。ヤレヤレ最悪の父親ですね)

 さらに彼らに追い打ちをかけたのは、ライバルであるビートルズの大活躍でした。この年、ビートルズはロック史に残る名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド」を発表。ロック界はまったく新しい世界観のアルバムが登場したことに衝撃を受け、ライバルたちは新たな対応に迫られることになりました。(海の向こうでは、もうひとりのブライアン、ビーチボーイズのブライアン・ウィルソンが必死で対抗するアルバムの制作に挑むことになります)
 さらにトラブルは重なります。元々ブライアン・ジョーンズ主導で始まったストーンズ内でミックが急速に発言力を増していったのです。この頃、彼はこのままではバンドは崩壊すると考え、いち早く麻薬やアルコールからの卒業を考え始めていて、当時のロック・ミュージシャンにしては珍しく自分がバンドの中心となる決意を固めていたようです。現在にも続くアスリートのようにストイックな肉体の鍛錬を彼はいち早く始めています。
 そんなミックの決意とは真逆に、キースはバンドのイメージである悪童路線を突っ走ることで人気を獲得。そうしたメンバーの活躍にブライアンはしだいに居場所を失うようになっていったのです。繊細な神経をもつ天才肌のブライアンは、ヒットを出すためのプレッシャーやバンドのリーダー争いに耐えることができず、LSDやバルビツールなどより強い薬物にどっぷり浸かってゆくことになります。ついには精神に変調をきたして精神病院に入院するところにまで悪化することになります。
 こうしてトラブルが続いた1967年を終わりを迎えますが、翌年、彼らをさらなる悲劇が襲うことになります。

<ブライアン死す>
 1968年、彼らはバンドの方向性をブルースよりに修正することで再び勢いを取り戻します。5月には彼らの代表曲となった「Jamping Jack Frash」(全米1位,全英3位)をヒットさせ最高傑作ともいわれるアルバム「ベガーズ・バンケットBeggar's Banquet」(全英3位、全米5位)を発表。しかし、1969年、バンドは危機的状況を迎えることになります。
 6月9日、ブライアン・ジョーンズがストーンズからの脱退を表明。そして、13日には新メンバーのミック・テイラーの加入が発表されます。(マイケル・ケヴィン・テイラー Michael Kevin Mick Taylar 1948年1月17日ハートフォードシャー州生まれ)女性問題、ミック&キースとの対立、ドラッグの乱用により、精神的にボロボロになっていたブライアンは、7月3日サセックス州ハートフィールドの農場のプールで水死体となって発見されます。ストーンズで一番の才能の持ち主と言われ、バンドにブルースとエスニック・サウンドを持ち込み、その基礎を築いたブライアンは、バンドから切り捨てられたことで自ら命を絶ったのかもしれません。
 しかし、ストーンズはブライアンの死を利用するかのように、7月4日にシングル「Honky Tonk Women」を発表し、全英、全米両方で1位を獲得します。さらに5日にはロンドンのハイドパークでブライアンの追悼コンサートを開催し、25万人の観客を集めました。そして、もうひとつの名作アルバム「Let It Bleed」を発表します。(全英1位、全米3位)
 ところが、ブライアンの死の後もさらなる悲劇が続くことになります。

<オルタモントの悲劇>
 この時期、ロック界はフラワー・ムーブメントの影響で変化の時を迎えようとしていました。各地でフリー・コンサートが開催される中、その頂点となったウッドストックにも参加せず、独自の道を歩んでいたストーンズは、若者たちの間から時代遅れと評されることにもなっていました。「ストーンズは金儲けが目的のバンドだ!」として批判されていたわけです。(実際、そのとうりでしたが・・・)このままではまずいと考えたことで、急きょ考えられたのが、カリフォルニア州のオルタモントでのフリー・コンサートでした。
 当初、このフリー・コンサートはサンフランシスコのゴールデンゲート・パークで8万人観客で開催することを予定していましたが、市は想定をこえる観客が集まるのは間違いなく危険すぎるとして使用許可を与えませんでした。その後も、開催場所が二転三転してオルタモントに決まったのは開催日の数日前のことでした。
 当然、様々な準備が遅れに遅れ、ビル・グレアム率いるフィルモア・イーストのスタッフの助けでなんとか間に合ったものの、警備に関しての手配は手つかず状態のままでした。そこで急遽雇われたのが当時アメリカのヒッピームーブメントを象徴する存在のひとつだったバイク集団、ヘルス・エンジェルス。しかし、トラック一台分のビールで雇われたという暴力集団に警備が務まるのか?
 12月6日カリフォルニア州リヴァーモアのオルタモント・レース場でついにフリー・コンサートが始まりました。8月15日~17日にウッドストックで行われたコンサートがラブ&ピースの象徴的存在になったの対し、オルタモントが憎しみと暴力の象徴になるとは誰が予想したでしょうか?(ビル・グレアムは予想していたのですが・・・)
 会場警備にあたることになったヘルスエンジェルスのメンバーは、玉突きのキューやゴルフクラブを持ってステージに近ずく観客を殴りつけ、会場はしだいに険悪なムードとなります。そんな中、ブロンドの白人女性を連れた黒人青年がメンバーに目を付けられます。そこには明らかに人種差別意識がありました。「黒人のクセに生意気な!」危険な状況に追い込まれた黒人青年(メレディス・ハンター)は、銃を取り出しますが、それが火に油を注ぐことになります。彼は集まってきたヘルスエンジェルスのメンバーによって殴る蹴るの暴行を受け惨殺されてしまったのです。当時はあまり指摘されなかったようですが、このコンサートの主催者だったストーンズの責任は明らかでした。何度も中止するよう進言していたビル・グレアムは、イギリスに逃げ帰ったストーンズに対し強烈な批判の言葉を述べています。

「ジャガー殿、あなたはどんな権利があったのかをまず聞きたい・・・いったいあんなふうに会場をあとにするどんな権利がね、あのすばらしいショーと、ヘルスエンジェルスに感謝したいとは大した言い草だ…この国に、こんな神がこんなふうに降りてくるどんな権利があるというんだ?・・・ミック・ジャガーは神の息子ではない・・・しかし、一番悲惨な悲劇を知っているか?あれが偉大なエンターテナーだということだ」 
ビル・グレアム
 
<悪魔を憐れむ歌>
 殺人が行われていた時、演奏されていた曲が「悪魔を憐れむ歌」だったというのは偶然だったのか?歌が影響を与えたのか?1960年代の終わりを象徴するターニング・ポイントとなったこの事件は、起きるべくして起きたものだったのでしょうか?ロック史に残る名曲を5曲選ぶなら、僕はこの曲を間違いなく選びます。
 この曲を録音するストーンズのスタジオセッションをカメラに収めたジャン=リュック・ゴダールは、そこに独自の解釈を加えドキュメンタリー映画「ワン・プラス・ワン」(1968年)として発表しています。

自己紹介します
私は財産家で贅沢屋の男です
私は幾世も生きて来ました
多くの人々の魂と信仰を奪いました
キリストが苦しみ 神を疑ったとき 私はそこに居ました
ピラトは手を洗い キリストの宿命を裁いたときも 私はそこに居ました
・・・

初めまして 私の名前はご存知ですね
私の企みに諸君は戸惑ってますね
総ての警官は犯罪者 総ての罪人は聖人
と同じように表裏一体だ
私をルシファー大魔王と呼んで下さい
私には制御が必要だ
もし私に会ったら
手厚く扱ってくれ
さもなくばお前の魂を ぶっ壊すぞ おおイェイ
・・・
私の名前は何だ 言えるかい ベイビー 私の名前をさ
・・・

「悪魔を憐れむ歌 Sympathy for the Devil」(曲・詞)ミック・ジャガー&キース・リチャーズ(訳)Amelia Austin

 この曲の歌詞にあるようにストーンズの歌には、ラブ&ピース的な世界観とは異なるより現実的で危険な社会のとらえ方が描かれていました。それが、ビートルズの世界観とは異なるものとして批判の対象になったともいえます。
 暴徒化する若者たちを煽る曲とされた「ストリート・ファイティングマン」もそんな曲でした。

何処ででも人は行進したり暴走したりしている
夏が来た
路上で騒ぎが起こる時期だ
そう貧乏人の餓鬼が稼げることと言ったら
R&Bバンドで唄うことぐらい
寝ぼけたようなロンドンの街にゃあ暴徒はお呼びじゃない そう

ヘイ 革命の時だ
けど 俺らの周囲の奴らときたら
妥協をしたがっている
・・・

「ストリート・ファイティングマン Street Fighting Man」(曲・詞)ミック・ジャガー&キース・リチャーズ(訳)Amelia Austin

 こうした曲のヒットにより、ストーンズは「悪魔のロックバンド」としてのイメージが定着することになったわけです。しかし、そうした見方は、彼らの音楽の一面、ブルースという音楽が持っていた「悪魔的」な側面のみに着目していて、そうではない曲の存在が忘れられています。「悪魔を憐れむ歌」、「ストリート・ファイティングマン」が収められているアルバム「ベガーズ・バンケット」にも、聖書の逸話から採られた「放蕩むすこ Prodigal Son」や労働者への賛歌とも思える「地の塩 Salt of the Earth」のような曲があり、それは「悪魔的な歌」の対局ともいえる作品なのです。

重労働者諸君に乾杯
下層階級に乾杯
善いことと悪いことのために杯を掲げ
”地の塩”に乾杯
兵隊のために祈ろう
彼らの骨身を削る任務を考えよう
その妻子は家の火を絶やさぬようにし
まだ大地を耕している
彼らの妻子のために祈ろう

「地の塩 Salt of the Earth」(曲・詞)ミック・ジャガー&キース・リチャーズ(訳)Amelia Austin

<レット・イット・ブリード>
 1969年、ストーンズはもうひとつの代表作「レット・イット・ブリード Let It Bleed」を発表します。このアルバムには、「無情の世界 You Can Always Get What You Want」、「ギミ・シェルター Gimme Shelter」、「ラブ・イン・べイン Love In Vain」(ロバート・ジョンソンのカバー)、「ミッドナイト・ランブラー Midniht Rambler」などの曲が収められていますが、どれもヒット曲ではないにも関わらず、彼らのライブでは欠かせない代表曲です。ここに来て、ストーンズは音楽的にブルースロックの最高のものを生み出していました。
 こうして、彼らに対するイメージが「悪魔に魂の売ったバンド」として定着したまま、呪われた1960年代は終わりを迎えることになりました。

ローリング・ストーンズ(後編)へ   アーティスト名索引へ   ジャンル別索引へ   トップページへ