ロックの伝説として生き続ける男たち


- ローリング・ストーンズ The Rolling Stones (後編)-

<停滞期からに復活>
 「オルタモントの悲劇」からしばらくストーンズの活動は停滞することになりました。その間、ミックは映画の仕事に向かいます。オーストラリアの伝説的ギャング・ヒーローの伝記映画「ネッド・ケリー」(1970年)に主演。さらに、後に「地球に落ちてきた男」などの作品を撮ることになるニコラス・ローグの監督作品「パフォーマンス」にも主演しています。
 1970年、彼らの音楽活動は、前年に行われた全米ツアーを録音したライブ・アルバム「Get Yer Ya-Ya-s Out」(全英1位、全米6位)を発表しただけに終わっています。そして、1971年彼らは高額の税金から逃れるため、イギリスを離れることになります。ちょうどこの時期は、英国病と呼ばれた不況により、高額納税者への税負担が急増。多くのミュージシャンたちが、英国を離れアメリカへと渡っています。(ビートルズ、エルトン・ジョンなど)こうして始まった才能の流出は、ブリティッシュ・ロックの黄金時代を終わらせる一因になったともいえますが、こうして生まれた英国国内のロック界の空洞化は、後にパンク・ロックの登場する舞台を生み出すことになります。
 さらにストーンズは、高額の税金に対する策として、自分たちのレコード会社「ザ・ローリング・ストーンズ・レコード」を設立します。(この時、イギリスのアーティスト、ジョン・パッシュ John Pascheがデザインしたあの有名なロゴマークが誕生しています)この会社の社長には、彼らにとって憧れの存在だった「チェス・レコード」設立者の息子マーシャル・チェスが迎えられました。そして、同レーベルから初のシングルとして「ブラウン・シュガー Brown Sugar」(全英2位、全米1位)、初のアルバムとして「スティッキー・フィンガース Sticky Fingers」(全英、全米1位)を発表しました。ロゴ・マーク同様、アンディ・ウォーホルによるジッパー付デニムのアルバム・デザインは大きな話題となり、彼らにとって初の英米ナンバー1に輝くことになりました。

<旬のミュージシャンから>
 1972年、彼らは「レット・イット・ブリード」録音の時期に行ったセッションをアルバム化。「ジャミング・ウィズ・エドワード Jamming with Edward」として発表します。この録音の参加メンバーは、ミック・ジャガー、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツに加え、ライ・クーダーとニッキ―・ホプキンスでした。このアルバムには「レット・イット・ブリード」に収められているストーンズの代表曲「ミッドナイト・ランブラー」の元になったと思われる部分もあり、非常に興味深い内容になっています。
 ただし、このアルバムに参加したライ・クーダーは、後に自分のギター・フレーズがストーンズに盗用されたと訴えることになります。良い悪いは別にして、このアルバムを聴き、映画「ワン・プラス・ワン」を観ると当時ストーンズがどうやって曲を作っていたのかがわかってくるはずです。
 彼らは、ピアノの名手ニッキ―・ホプキンスやスライド・ギターの名手ライ・クーダーのように時代のトップに立ちミュージシャンとセッションを行うことで、旬の音楽を生み出していたわけです。その後も彼らは、こうした手法により、レゲエやファンク、ディスコなどの要素を少しずつ取り入れながら、ヒット曲を生み出し続けることになります。そのため、人によっては、ストーンズは旬のミュージシャンたちの生き血を吸う吸血鬼的存在とも言われることになります。そう考えると、アンディ・ウォーホルとのコラボもそのひとつだったのかもしれません。
 思えば、彼らが21世紀に入ってもなお、ステージ上で走り回り続けているのは、本当に生き血を吸っていたのかもしれませんが・・・。

<メイン・ストリートのならず者>
 1972年彼らは代表曲となった「ダイスをころがせ」「ハッピー」を収めたアルバム「メイン・ストリートのならず者 Exlie on Main Street」を発表します。このアルバムは2枚組にも関わらず、イギリス、アメリカ両方でヒット・チャートのトップに立つ大ヒットとなりました。このアルバムの録音は、「スティッキー・フィンガーズ」に続き、フランスでキースが購入した城で可動式録音システム「ローリングストーンズ・モビール・ユニット」を使用して行われました。スタジオ以外の場所で録音可能なこのシステムは、この後様々なミュージシャンに利用されることになります。(レッドツェッペリンディープ・パープルフリートウッド・マックボブ・マーリー・・・)また、このアルバムはレコード・ジャケット・デザインの代表的デザイナーであるノーマン・シーフの傑作の一つとしても有名です。ちなみに、ディープ・パープルがスイスの野外で録音を行い、フランク・ザッパのライブの火事を目撃してあの名曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を生み出せたのは、この録音システムのおかげです。
 こうして誕生した「ベガーズ・バンケット」、「スティッキー・フィンガーズ」から「レット・イット・ブリード」、「メイン・ストリートのならず者」と続くこの時期のアルバムは、彼らにとって頂点を極めた作品群だったと言えます。彼らにとって、この時期の様々なトラブルは逆に音楽的なエネルギーを彼らに与えていたのかもしれません。そして、この停滞から復活への波乱の時期に、ストーンズの日本公演の日程が発表されます。

<幻の来日公演>
 当初発表されたストーンズ来日公演の日程は、1973年1月28から2月1日までの毎日5回。すべてのコンサートは日本武道館で開催される予定でした。前売り開始の12月1日には、真冬にも関わらず前日からの徹夜組も含め4000人が行列を作り大騒動となりました。
 ところが、翌年の1月8日、外務省がミックの麻薬不法所持の前科を問題視。彼のビザ申請を却下。そのため、19日になって、ストーンズの来日公演は中止となってしまいました。この事件の衝撃は大きく、邦画の伝説的名作「太陽を盗んだ男」(監督は長谷川和彦)の中で犯人の教師(沢田研二)が、原爆を入手して政府を爆破テロ予告によって脅迫する際、その交換要求として指示したのがストーンズの来日公演実現でした。
 日本を除く、ハワイ、香港、ニュージーランド、オーストラリアで公演を行ったストーンズは、麻薬問題で活動が困難になっていた英国ではなくジャマイカで新作アルバムの録音を行います。この時期、海外、それも第三世界のスタジオで録音を行うことは、彼らに良い刺激をもたらすことになったともいえます。こうして、8月にはそのアルバム「山羊の頭のスープ Goats Head Soup」が発表され、シングルカットされた「悲しみのアンジー Angie」が大ヒット(全英5位、全米1位)。そのおかげもあり、アルバムもまた全英、全米1位となりました。

<ロン・ウッド加入>
 1974年、ストーンズはアルバム「It's Only Rock'n Roll」を発表。このアルバムも、全英2位、全米1位の大ヒットとなり、ビートルズ解散後、人気はさらに高まることになりました。しかし、この年の12月13日、ギタリストのミック・テイラーが突如脱退してしまいます。ミック&キースのコンビが曲作りの中心となり、自分が活躍する場がないと感じたことが最大の理由だったようです。
 1975年は、ミック・テイラーに代わるギタリスト探しがバンドのテーマとなりました。オランダで行われたレコーディング形式のオーディションには、ストーンズでなければ考えられないような大物ギタリストが集まりました。(ピーター・フランプトン、ジェフ・ベック、ロリー・ギャラガー、ウェイン・パーキンス、ハーヴィ・マンデル・・・)
 しかし、結局誰を選ぶか決めきれずにいたところ、当時、フェイセズのメンバーだったロン・ウッドが遊びに来たついでにセッションに参加。テクニックだけでなく、性格的にストーンズに合っていたため、他のメンバーに気に入られたことから、急きょストーンズの全米ツアーにゲストとしてお試し参加することになりました。(キースとは特に仲が良かったようです)その後、彼はフェイセズから正式に脱退し、ストーンズのメンバーとなります。(こうしてストーンズは、他のバンドからギタリストまで略奪してしまったわけです)
 1976年4月に発表されたアルバム「ブラック&ブルー Black and Blue」には、そのロン・ウッドがギタリストとして早くも参加していますが、候補に上がっていたウェイン・パーキンスとハーヴェイ・マンデル(元キャンド・ヒート)の演奏も使用されています。このあたりも、ある意味ストーンズの抜け目の無さなのかもしれません。ちなみに、このアルバムには、1971年にジャマイカ・ソング・フェスティバルで優勝したレゲエ・ナンバー「チェリー・オー・ベイビー Cherry Oh Baby」のカバーが収められています。このアルバムはストーンズ初のプラチナ・アルバム(100万枚突破)となりました。(このアルバムには「ホット・スタッフ」のようなファンク・ナンバーもあり、賛否両論の評価となりましたが、エスニック・テイストを取り入れたこのアルバムが僕は好きです)

<世界一の稼げるバンド>
 1977年、ストーンズはアメリカ、カナダでの販売に関してはアトランティック、その他の国に関してはEMIと販売契約を結びます。この時の契約金額は1億ドルを越え、文句なしに世界一の稼げるバンドとなりました。しかし、バンドはこの大型契約のために時間を費やしてしまい、バンドとしての活動はカナダのトロントの小さなクラブ「エル・モカンボ」で行われた小規模ライブぐらいでした。その時のブルース色の濃いライブ演奏は、2枚組のライブ・アルバム「Love You Live」に収められています。彼らのライブ・アルバムはどれも素晴らしいのですが、特にこのアルバムはお薦めです。
 1978年、ディスコ・ブームに乗ったと批判もあった「Miss You」(全英3位、全米1位)をヒットさせた彼らは、アルバム「女たち Some Girl」を発表。(全英2位全米1位)このアルバムと共に全米ツアーを敢行しました。
 1979年はベスト・アルバム「Time Wait for No One」の発表と新作の録音を行い、翌1980年に新作アルバム「エモーショナル・レスキュー Emotional Rescue」を発表。
 1981年、彼らは中期の傑作と評価の高いアルバム「刺青の男 Tatoo You」を発表。ストーンズっぽいブルース色が戻ったこのアルバムはアメリカで9週連続のナンバー1となります。さらにこのアルバムの発表に合わせて行った大規模な全米ツアーでは、47か所の公演会場で265万人を動員。大成功を収めました。巨大なステージ上で行われた大掛かりなコンサート・パフォーマンスは、映画監督ハル・アシュビーによってカメラに収められ、ライブ映画「Let's Spend the Night Together」として公開されました。素晴らしい空撮から始まるこのドキュメンタリー映画は、エンターテイメントとしてのコンサートを収めた作品として最高水準ものです。是非、ご覧ください!
(このライブをアルバム化したのが、「Still Life」です)
 1982年、彼らはヨーロッパで35回のライブを行いますが、このライブを最後に7年間コンサート・ツアーから離れることになります。

<再び停滞期に>
 1983年、彼らはアルバム「Under Cover」を発表します。(全英3位、全米4位)しかし、音楽界での評価は今日ひとつで、1984年、1985年とバンドの活動は休止に近い状態となりました。
 1985年12月12日、ストーンズのもう一人のメンバーと呼ばれたイアン・スチュアートが心臓病でこの世を去り、彼のための追悼コンサートのため久々にメンバーが再結集。そして、3年ぶりの新作アルバム「Dirty Work」を発表します。(全英、全米4位)ソウル系のカバーなど、キースの好みが出たアルバムは、ミックが当時ソロ活動に力を入れていたからともいわれます。(僕は個人的に好きなのですが、あまり評価は高くはなかったようです)
 1987年、1988年とバンドとしての活動はなく、逆にキース・リチャーズもミックに続き、初ソロアルバム「Talk is Cheep」を発表し、高い評価を得ています。それまで、ソロ活動が無かったのが不思議だったともいえます。そんなキースの好調を受けて、ストーンズは久々のアルバム「Steel Wheels」を発表します。久々にストーンズらしいアルバムとなった新作をひっさげて、彼らは世界ツアーに出発。そして、ついに彼らは初来日を果たすことになりました。

<待望の初来日>
 1990年、武道館でのコンサートが中止になってから17年後、彼らは東京ドームのこけら落としに合わせ2月14日から28日までの間に10回のライブを行いました。(僕もこの時は観に行きました!)このツアーの録音は、1991年にライブ・アルバム「Flash Point」として発表されています。
 1992年、これまでギター以外は不動のメンバーだったストーンズからベースのビル・ワイマンが脱退します。(元々彼は他のメンバーより6,7歳年上だったので体力的に厳しくなっていたのでしょう)再び、バンド活動は休止状態となり、ミックはソロ活動やチーフタンズのアルバムへ参加するなどしますが、幸い彼のソロ活動はストーンズの活動を越えることはできずにいました。
 この間、ストーンズは新ベーシストを決めるためのオーディションと行い、ダリル・ジョーンズが準メンバーとして参加することが決まりました。そして、1994年新メンバーによるアルバム「ヴ―ドゥー・ラウンジ Voodoo Lounge」が発表されます。(全英1位、全米2位)この頃、キースは本格的に薬物から足を洗うために、48時間かけて体内の血をすべて入れ替える治療を行ったそうです。(その方法では一時的に薬物が消えるだけで根本的な治療にはならないようですが、それでも彼は薬物中毒から回復することに成功しています。
 1995年には、このアルバムの発表に合わせた世界ツアーが行われ、彼らは2度目の来日を果たしています。この来日の際、彼らはアコースティック・セットのためのリハーサルを日本のスタジオで行い、その録音の出来が良かったことから、彼らのとって唯一のアコースティック・アルバム「Stripped」が発売されることになりました。

<21世紀を生きるレジェンド>
 この文章を書いているのが2015年、彼らは未だ現役バリバリで活躍中。70歳を過ぎてなお「転がり続ける」なんて本人だって考えていなかったでしょう。特にキースは麻薬によって、ボロボロの身体になっていただけによく21世紀まで生きてきたものです。ブライアン・ジョーンズが命を落として頃、同じように危機的状態に陥っていたもう一人のブライアン(ウィルソン)も、現役で活躍しています。
 1960年代の危機の時期を生き延びた男たちは、今や最も元気な世代としてロック界の生きるレジェンドとなりつつあるようです。

<参考>
「ロックのパイオニア(1)」Pioneers Of Rocn And Roll
ハリー・サムラル Harry Sumrall(著)
深津和道訳
1996年 東亜音楽社
「ロック伝説(上、下)」
ティモシー・ホワイト著 石岡公夫、月村澄江(訳)
1990年 音楽之友社

その他、アルバム「ブラック&ブルー」、「ジャミング・ウィズ・エドワード」、「ベガーズ・バンケット」、「レット・イット・ブリード」のライナーノーツなど

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