- RUN-D.M.C. -

<ラッセル・シモンズ>
 ラップ・ミュージックをその中心とするヒップ・ホップという総合的な文化は、今や世界中の至る所で広がりをみせています。まさか、これほどまでに巨大な存在になるとは・・・1980年代の前半時点でいったい誰が予想できたでしょうか?
 たぶん、それを予想通りだと言ってのける数少ない人物のひとりは、ヒップ・ホップ・レーベル「デフ・ジャム」の創設者ラッセル・シモンズでしょう。

<デフ・ジャムとラッシュ・マネージメント>
 1984年に彼が大学時代の友人、ユダヤ系白人のリック・ルービンと共同で立ち上げたデフ・ジャム・レコードは、大学の寮にあった部屋の名前からとられた小さな会社にすぎませんでした。しかし、それが今やCD、ビデオ・クリップの製作、販売だけでなくファッション業界、TV業界、映画業界にまで進出する巨大企業に成長してしまいます。
 彼らが、デフ・ジャムで育てたアーティストは、L・L・クールJ、パブリック・エネミー、ビースティー・ボーイズ、EPMD、レッドマン、ウォーレンG、メソッド・マン(ウータン・クラン)、そしてデフ・ジャム以外のレーベルではあるものの、彼らの別会社ラッシュ・マネージメントがプロデュースしたアーティストとしては、RUN-D.M.C.、ジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ(ウィル・スミス)、カーティス・ブロウらがいます。
 少なくとも、1980年代中頃から1990年代にかけてのデフ・ジャムの歴史は、そのままヒップ・ホップの歴史だったと言って良いでしょう。

<カーティス・ブロウのもとで>
 ラッセル・シモンズが最初に扱ったアーティストは、オールド・スクールの代表的ラッパー、カーティス・ブロウでした。カーティスと同じくヒップ・ホップの中心地ブロンクスではなくクイーンズ(黒人中産階級の多い地域)出身のラッセルは、地元クイーンズを中心にカーティスのプロデュース活動を行い、後のデフ・ジャム設立のチャンスを待つことになります。
 そして、ちょうどこの頃、ラッセルの弟、ジョゼフ・シモンズ(1964年生まれ)は、まだわずか12歳でしたが、彼の兄がプロデュースしていたカーティス・ブロウのもとでDJ活動を始めていました。

<RUN-D.M.C.結成へ>
 ジョゼフは、その後ソロ・アーティストとしてシングル「ストリート・キッド」を発表しますが、まったくものにならず、幼なじみラッパー、D.M.C.ことダリル・マクダニエル(1964年生まれ)とコンビを組み、さらにDJとしてジャム・マスター・ジェイ(本名ジェイソン・ミゼル、1965年生まれ)を加え、RUN-D.M.C.を結成します。
 1983年、彼らが発表したデビュー曲「イッツ・ライク・ザット」は、見事R&Bチャートの11位まで達します。続いて発表されたアルバム「RUN-D.M.C.」は、ヒップ・ホップのアルバムとしては初めて、ゴールド・ディスクを獲得しました。このアルバムは、それまでのヒップ・ホップにはなかった強烈なドラム・ビートを柱にシンプルで力強いラップが展開される明らかにヘヴィー・メタル系ロック、パンク・ロックを意識した新しい挑戦でした。そして、そんな彼らの活躍によってヒップ・ホップの世界は、アルバム・セールスを中心とする新たな段階へと進展したのです。

<リック・ルービン>
 彼らの新しいスタイルの影には、デフ・ジャムの共同経営者リック・ルービンの存在がありました。彼は白人DJの先駆け的存在で、いち早くハード・コア・パンクとラップの融合を目指していました。彼はラッセルの右腕的存在であり、ヒップ・ホップ界のカリスマ・プロデューサーとして、後にビースティー・ボーイズをブレイクさせるなど大活躍を続けますが、その最初の成果がRUN-D.M.C.の3枚目のアルバム「レイジング・ヘル」(1986年)でした。

<「レイジング・ヘル」>
 今やスタンダード・ナンバーであり、懐メロにまでなった感のある大ヒット曲「ウォーク・ディス・ウェイ」では、ヒップ・ホップ史上初めて、ロック・アーティストとの共演を実現。その共演者エアロ・スミス(スティーブン・タイラーとジョー・ペリー)は、この曲のヒットをきっかけにして人気が復活。その後アメリカを代表するロック・バンドへと成長を遂げます。
 もちろん、彼ら自身もこの曲の大ヒットによって、その名を一気に世界中に知られることになりました。

<他分野への進出>
 彼らは、その後音楽以外の分野へも進出して行きます。1985年の映画「クラッシュ・グルーブ」では、シーラEとともに主役となりヒップ・ホップ映画の先駆け的存在になりました。
 さらには、ポークパイ・ハットや金のチェーン、そしてアディダスのスニーカーという独自のファッション・リーダーとしての活躍も果たし始めました。
 こうした彼らの活躍は、そのままヒップ・ホップ文化がアメリカの大衆文化全般へと浸透して行く過程であったとも言えるのです。

<アディダスとヒップ・ホップ>
 特にアディダスと彼らの関係は、その後のヒップ・ホップ・ファッションの全世界的拡大にも関わるもので、重要な意味をもっていたと言えるでしょう。
 1985年、彼らがアディダスのスニーカーに捧げた曲「マイ・アディダス」は、世界中でアディダスのブームを巻き起こしました。抜け目のない経営者ラッセルは、さっそくアディダスの経営陣をRUN-D.M.C.のライブに招きました。そこで「マイ・アディダス」のパフォーマンスの際、観客達に履いているアディダスを頭上にかかげさせるという演出を加えてみせると、その場でRUN-D.M.C.独自仕様商品の発売が決定し、ラッセルは150万ドルにのぼるアディダスとのタイアップ契約を獲得したのでした。
 この動きは、その後シューズ・メイカーだけでなくアパレル・メーカー、ラルフ・ローレンやトミー・ヒルフィガー、ラコステなどへと広がり、さらにはブルックリン出身のカール・カナイのようにヒップ・ホップ・ファッションで大企業へとのし上がるデザイナーまで現れました。もちろん、ミュージシャン自身がファッション・ブランドを展開する動きも生まれて行きます。
 こうして、RUN-D.M.C.から始まったファッション・メーカーとの協力関係は、ヒップ・ホップを音楽だけでない総合的文化へと拡大するきっかけとなり、その流れは黒人だけでなく白人の若者たちの間へも広がって行ったのです。(この流れは、かつてロックン・ロールが白人の若者たちへと広がっていった時の状況に似ているかもしれません)

<総合文化としてのヒップ・ホップ>
 こうしたヒップ・ホップを囲む状況の変化は、音楽としてのヒップ・ホップにとって、良いことだったのか、悪いことだったのか、その評価は別れるところです。しかし、このことはヒップ・ホップを語る上でけっして忘れてはいけないことでしょう。
 かつてR&Bは、アトランティックやモータウンのような優れたレーベルによって、アメリカの大衆音楽を代表する存在へと広まって行きました。しかし、それはあくまでブラック・アメリカンのアイデンティティーを証明するものであり、白人も含めたアメリカ国民全体にまで広がったとは言えませんでした。(だからこそ、未だに当時のソウルは輝いているのですが・・・)
 それに対し、ヒップ・ホップはブラック・アメリカンのアイデンティティーを証明するものから、よりグローバルなものへと変化をとげつつあり、まるで20世紀末に急激に進んだ経済のグローバリズムの拡大を思わせます。このことは、もしかすると偶然の一致ではないかもしれません。
 そう考えると、ヒップ・ホップと世界最大の商業音楽ジャンル「ロック」との融合は、まるで巨大企業同志の合併のように見えなくもありません。
 ニューヨークの下町から生まれた経済的負け組たち、ストリート・キッズの文化が、こうしてアメリカが生んだ巨大な勝ち組ビジネスへと発展してゆくことになるとは・・・これこそ20世紀が生んだ大いなる奇蹟のひとつと言えそうです。
 そして、そんなヒップ・ホップ文化の拡大発展の象徴とも言える存在が、RUN-D.M.C.だったと言えるのでしょう。

<追悼>
 2002年10月30日、ジャム・マスター・ジェイ(37歳)が、ニューヨーク市内のスタジオで二人組の暴漢に撃たれ死亡しました。ご冥福をお祈りします。

<締めのお言葉>
「それが歴史のどの時点であれ、黒人の置かれた状態を知るには、その時代の音楽を聴けばいい」 ネルソン・ジョージ著「リズム&ブルースの死」より

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