- 村上龍著 「半島を出よ」 -

<リアルに迫る>
 村上龍の作品を読むと、よく思うことがあります。それは彼の小説の多くが、「それはちょっとないんじゃない?」と思える様な荒唐無稽なストーリー展開だということです。しかし、にもかかわらず、なぜか彼の作品には「リアル」(本物性、真実味)を感じてしまいます。そこにはニュースや新聞記事の中にはない別の「リアル」があるように思えるのです。
 第一、ニュースは元々真実を映し出してはいないのかもしれませんし・・・。この点については、アメリカを代表する思想家ノーム・チョムスキー氏の解説をお読みいただきたいと思います。(飼い慣らされてしまったマスコミの実態について
 彼のマスコミ分析によれば、飼い慣らされてしまったマスコミと比べ、作家村上龍は多くの点で自由に作家活動ができることがわかります。例えば、・・・。
(1)村上龍という作家業者は、巨額の運営資金を必要とする巨大企業ではありません。したがって、広告主や株主など仕事内容に口だしするような存在がありません。
(2)彼は、情報を得るためのヒモつき専門家を必要としていません。毎回その作品に必要な情報を自らの判断力と足で集めるか、インターネットを用いることで入手しています。
(3)彼は、生活して行くために必要な資金をすでに十分得ているので、本をより多く売るために作品内容を流行に乗せたりして変更を加える必要がありません。(まさか株に手を出して借金をつくったなんてことはないと思います)
(4)昔から、ひねくれ者として反抗的な態度で生きてきた彼ですから、マスコミやその他の圧力団体からの非難中傷に負けるような柔な人間ではありません。
 そのうえ、小説というジャンルは最も古いメディアであるぶん表現が狭い範囲にしか伝わらないため、かえって表現内容に対する規制を受けにくい状況にあることも有利に働いています。

<リアルから始まる物語>
 村上龍の作品は、たとえストーリーは荒唐無稽でも、細部についてはあくまでリアルにこだわっています。そのことは、「半島を出よ」の最後にずらりと並んだ参考資料の数からもわかると思います。さらに、この本のために彼は韓国に住む脱北者たちへのインタビューを行ないました。それは彼ら自身の生い立ちから生まれた街の様子など、北朝鮮に住む人それぞれの具体的な細部に迫ろうという狙いからだったようです。このインタビューによって、彼はこの本を北朝鮮生まれの軍人の視点からも描くことが可能になったと言っています。(この作品は、何人かの視点から別々に描かれています。これは一般的には小説を書く際のタブーとされているのですが、逆に多くの視点から描くことは作品に客観性を与えることにもなり、この作品のリアリティーを高めることに成功しています)
 そう考えると、彼の作品は事実をとことん調べ、正確に把握した現在の状況から、その後進展しうる最も荒唐無稽な世界像を小説化したものと言えるのかもしれません。それが「コインロッカー・ベイビーズ」であり「5分後の世界」であり「希望の国のエクソダス」であり、「半島を出よ」なのです。こうした作品のスタイルは、かつてSF作家P・K・ディックが描いていた不気味な世界像とかなり近いものがあります。
「普通の意味で、オリジナルは歴史の産物である。しかし、ディックによって構想されたあの奇妙なオリジナルは、歴史によってその『ほんもの』性を保証されるのではなく、逆に『歴史』を一瞬実在させるのである」
笠井潔「悪夢としてのPKD」より

 また、SF小説の役割について、よく取り上げられる文章として、こんな有名な一文もあります。
「トッドとモイラに
 子供らよ、おまえたちのために
 これが虚構の物語でおわることを願って。」

ハリー・ハリスン「人間がいっぱい」の献辞より

<未来世界の想像>
 彼の小説が荒唐無稽な物語でありながら、もしかすると起こりうるかもしれないという恐怖感や絶望感を抱かざるを得ないのは、こうした優れたSF小説の伝統を受け継ぐものです。
 特に2005年発表の「半島を出よ」を読んで、僕はニュースを見るのが怖くなってしまいました。そうでなくても北朝鮮問題は、どんどん深刻さを増しているのですから・・・。それは、この小説のような事態が起きるとは思えなくても、それに準ずる事件が十分に起こりうるからであり、もっと悪い結末にいたる可能性も十分にあるからです。
 おまけに、落日日本の変わりそうもない未来の情けない姿を見せられて、さらにがっくりと来てしまいました。九州を占領されてしまっても、まだ「リアル」(現実)を見つめることから逃げようとする国、日本。いつから日本は、ここまで「リアル」を受け入れることのできないダメ国家になってしまったのでしょうか。

<リアルを受け入れる能力>
 人間が「リアル」を受け入れるための能力は、もしかすると時とともに失われて行きつつあるのかもしれません。
 107名の尊い命が失われたJR西日本福知山線での脱線事故。事故が起きた後、事故現場のけが人の半数は、近隣住民によって病院まで搬送されたのだそうです。しかし、その後救助活動に参加した多くの住民と一部の救助隊員がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされていることがわかったそうです。阪神淡路大震災を乗り越えてきた兵庫の人々の勇気ある行動が、心の病を抱えることにつながってしまったのは、切ない皮肉です。逆にいうと、現代日本の住人は昔よりずっと「リアル」を受け入れる力が低下しているのではないでしょうか?そんなことをふと思いました。それは現代の日本人が「リアル」に接する機会がどんどん失われていることからも予想できそうです。たぶん、それは現代文明がもたらした必然的な結果なのでしょう。

<「リアル」とは何か?>
 「リアル」とは、人間の感情と肉体両方に強い印象を残すある種の体験。それは「本物性」とも言いますが、・・・。本当のリアルは、もしかすると存在しないかもしれませんが、脳の奥深く感情の奥深くにまで、印象を残すほど「リアル」に近いと考えたいと思います。
 「リアル」は、喜びや悲しみ、痛み、おかしさなど、いろいろな感情を人間にもたらします。そして、人間はその中の嫌な感情である悲しみや痛みを人生から取り除くため、文明社会を築き上げたとも言えると思います。
 ただし、悲しみや痛みを取り除くことは、その対極に位置する喜びや笑いの感情をも失うことにつながらざるを得ません。「リアル」を失った人生は、自ずと感情のこもらない薄っぺらなものへと変わらざるを得ないのです。
 最近では、ITの急激な発達により、かつて「リアル」だったものが、どんどん「仮想現実」に置き換えられつつあります。そして、人生から「リアル」を取り除くためのサービス業は、最も有望な産業として期待されてもいるのです。
  「産業廃棄物処理業者」「介護サービス業」「警備保障会社」「害虫駆除業者」「清掃業者」「通信販売業者」「ネット通販業者」・・・etc.。人々は「リアル」との関わりを避けるためなら、喜んでお金を払うのです。こうして、世の中が便利になればなるほど、「リアル」との関わりが減り、その分人間のもつ能力も退化しているのです。
 自動車のギアがマニュアルからオートマになり、果物からは種がなくなり、辞書を引かなくても簡単にネットで言葉の意味がわかるようになり、計算だって電卓のおかげで頭を使う必要がなくなり、人間は必然的にそれぞれの能力を退化させています。しかし、便利になればなるほど、人間はある種の能力を失いつつあるのです。
 今や人間にとって、「リアル」を体験することは、娯楽のキーワードにすらなっています。「旅」「アウトドア・ブーム」「手作り体験工房」「スポーツ」「ペット・ショップ」など、どれも疑似「リアル」体験を娯楽として提供するニュービジネスと言えます。(もしかすると、ネットによる集団自殺もまた、その延長線上にあるのかもしれません)

「ディック(の小説)の主人公は必ず直接手で何かを作り出すような人たちであって、大量生産に携わるような工業労働者ではない・・・」
ダルコ・スーヴィン著「悪夢としてのPKD」より

<ドラッグ・セックス&ロックン・ロール>
 「ドラッグ・セックス&ロックン・ロール」、村上龍のデビュー時に彼が追求していたテーマは、そうしたリアルな肉体的快楽体験だったように思います。その後20世紀末になって、彼は「経済」というある意味「リアル」とは正反対にある存在を探求。しかし、どんなにそれが虚飾に満ちたバブリーな存在であっても、それは確実に我々の実生活に大きな影響を与えています。「バブル」が「リアル」を駆逐する歴史を確認してもなお、日本を立て直すことは可能なのか?
 そのためには最低限、日本人一人一人が「リアル」を感じることができる生き方をするべきだろう。彼はそう考えたからこそ、将来の日本を担う少年少女たちのために「十三歳のハローワーク」を書いたのではないでしょうか。
 「半島を出よ」は、こうして少しずつ築かれてきた彼の「経済論」「暴力論」「政治論」「青春論」「日本論」の下敷きの上に、新たに「北朝鮮問題」という現代日本の重要テーマを加え、より21世紀的な作品として書き上げられたのです。それは、かつて優れたSF小説が担っていた「未来への警鐘」という役割をより「リアル」に果たすことで、もう一つ上のステップである「神話」の高みへと迫るものとなりました。ただし、この作品が「神話」として存在できるのは、そう長い間ではないかもしれません。なぜなら、世界は常に変化をし続けており、「神話」が時を越えて語り継がれる本物の「神話」になるためには、あまりに時間がなさすぎるのです。
「神話は本質的に行動を引き起こさせ得るものとして、生における想像力の役割の増大を意味する。それに反し、逃避と逃亡の文学は、まさに文学的なままでいる。・・・」
ロジェ・カイヨワ著「神話と人間」より

<二人の村上>
 繊細さと持久力、行間の味わいで勝負する作家、村上春樹。彼はジャズが大好きです。そlれに対し、腕力と瞬発力、そして膨大な情報量で勝負する作家、村上龍。彼がロックとサルサが大好きなのは、実に納得です。二人の村上に共通するのは、どちらもそれぞれの手法で、現代の神話を作り続けている作家だということでしょう。
 そして、僕にとってジャズ、ロック、サルサが甲乙つけがたい存在であるように、二人の村上もまた甲乙つけがたい存在です。
 考えてみると、僕のこのサイトにおいて、文章のわかりやすさ、シンプルさは村上春樹直伝のつもりであり、5年もの長きにわたる長期間にわたり描き続けているという持久力も、村上春樹直伝のつもりなのです。それに対し、ミュージシャンだけでなくあらゆるジャンルに手を広げる雑食性とそこから生まれた膨大な情報量は、村上龍直伝なのだと僕は思っています。(もちろん、そのレベルは二人に比べあまりに低いのですが、・・・)勝手なこじつけかもしれませんが、お二人が僕の心の師匠であることは間違いありませんので、今後ともお二人にはご指導ご鞭撻をよろしくお願いいたしたいと思います。

<追記>
 「半島を出よ」は、2005年度野間文芸賞を受賞しました。おめでとうございます。

<締めのお言葉>
「神話は詩です、隠喩ですよ。神話は究極の真理の一歩手前なのです。究極は言葉を越え、イメージを越えているのですから」

ジョーゼフ・キャンベル著「神話と力」

その他の村上龍作品
「悪魔のパス 天使のゴール」
異色の本会サッカー小説
「コインロッカー・ベイビーズ」
近未来SFの代表作

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