
- 貞奴 Sadayakko 、川上音二郎 Otojiro Kawakami
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<マダム貞奴>
マダム貞奴という名前をご存知でしょうか?
1985年にNHKが大河ドラマ「春の波濤」(主演は松坂慶子)で主役として取り上げているので、覚えている人もいるかもしれません。
19世紀の終わりにジャパニズム・ブームが起き、日本の浮世絵や陶器などが一躍脚光を浴びたことは有名です。しかし、1900年に開催されたパリ万国博覧会で大きな話題を集めた日本人アーティスト、貞奴の存在は今ではあまり語られないようです。
彼女は本当にそんなに人気があったのか?それは単なるエキゾチックなものへの憧れが生んだ一時的なブームだったのでは?と正直思っていましたが、現在では多くの人がそう思っているかもしれません。なにせ、その盛り上がりを実際に目撃した日本人はほとんどいなかったし、証拠の映像も残っていないのですから。
しかし、そんな疑問に答える本が、イギリス人作家によって書かれました。その本では、海外でいかに貞奴が高く評価されたかを実に丹念に調査。その証言を並べてくれています。どうやら貞奴は本当に凄いアーティストだったようです。もちろん、未知の国日本の動くアートを見たことがなかった西欧人にとって、初めて見る彼女の姿が衝撃的だったのは確かでしょう。しかし、彼女の人生を追ってみると、その存在感は当時の日本人女性の枠を遥かに越えていたことがわかります。どうやら、彼女は本物のアーティストだったようです。そして長い目で見ると、ここから、西欧人男性の日本人女性への憧れが始まったともいえそうです。
さらに興味深いのは、貞奴の活躍は明治維新以後の日本が西欧に追いつけ追い越せのレースを展開していた時期と見事に重なっていることです。彼女の死が、日本の敗戦後1946年というのも象徴的です。彼女は愛した二人の男、日本の新劇の祖とも言われる川上音二郎と日本初の水力発電所を作った福沢桃介の活躍も、そんな時代を象徴しています。ここでは、彼女と二人の男の人生をざっくりと振り返りますが、彼女の様々なエピソードはどれも「小説より奇なり」の連続です。是非、レズリー・ダウナーの著書「マダム貞奴
- 世界に舞った芸者」をお読み下さい!
「彼女のしゃべり方のように、つまるところすべてが愛くるしい。そこに偶然は存在していない。着物のわずかなひだにさえも、だ。その泣くさまからは、並々ならぬ趣味の高さが伺われる。(わがヨーロッパの舞台で目にする涙の低劣なこと!)彼女がしとねにつく様子にはすっかり心が奪われる。妖精、それとも人間の女性?つまりは現実の妖精なのだろう。・・・」
イタリアでの公演を見たパウル・クレーの感想
<ナンバー1芸者「小奴」誕生!>
後に「貞奴」と呼ばれることになる小山貞は、1871年7月18日、明治維新直後の東京(江戸)日本橋に生まれました。父親は江戸時代から代々続く本屋、両替商をしていましたが、政治体制が変わり「銀行」が誕生すると、両替商の仕事の多くが奪われてしまいます。しだいに家業は危機に追い込まれ、12人兄妹の末っ子だった彼女は芸伎置屋の濱田屋に女中としてあずけられます。どうやら、そこから別の家に嫁がされることになっていたようです。しかし、彼女は結婚相手となるはずの男の子が好きになれず、濱田屋に逃げ帰ってきました。それなりの家に育った彼女は、すでに大人の考え方を持ち、運命に簡単に流されることをよしとしなかったのです。そんな彼女を濱田屋の女将、可免吉(かめきち)は気に入り、彼女なら濱田屋の看板芸者になれると判断。さっそく彼女に「小奴(こやっこ)」という名前を与え、育ててゆくことにしました。(大人になり、その名は「奴」と改められます)美人で頭もよく気が強い彼女は、すぐに他の芸者たちとは一味違う大物芸者になってゆきました。
濱田屋の看板芸者を大人にするのは誰か?業界用語でいう水揚げをする権利は誰になるのか?12歳になった彼女の処女を捧げる相手選びは、一大イベントとなりました。そして、最後にその権利を獲得したのは、当時の総理大臣、伊藤博文でした!この時、小奴の12歳に対し、伊藤博文は40代になっていました。その後も小奴のパトロンとなった彼は総理大臣を辞めた後も、彼女の世話役であり続けます。
<岩崎桃介との出会い>
12歳にして日本の最高権力者のお気に入りとなった彼女ですが、それはあくまでも仕事としての付き合いでした。その後も彼女はナンバー1芸者として、馬術やビリヤードが得意なハイカラ女性として活躍を続けます。しかし、そんな彼女が仕事でない本当の恋をすることになります。
きっかけは彼女が馬に乗って散歩をしている時に野犬に襲われ、それを一人の大学生が助けたことでした。その学生は、慶応大学の学生で名前は岩崎桃介といいました。苦学生だったその若者と彼女はすぐに仲が良くなり、恋に落ちますが、ナンバー1芸者と貧乏学生の恋が上手く行くわけはありませんでした。
しかし、奴が惚れただけのことはあり、桃介は優秀な学生で人格的にも優れた人物でした。そのため、在学中に彼は慶応大学の創設者であり学長でもあった福沢諭吉の目にとまり、彼の次女との結婚話がもちあがります。当時、実業家としても日本を代表する存在だった福沢の提案は、貧しい家の出の彼にとっては断りきれないものでした。結局、彼は結婚話を受け入れ、福沢家の養子になることを了承します。もちろん、これにより奴との恋はあきらめなければならず、早速彼は留学のためアメリカへと向かうことになりました。
<川上音二郎>
この後、伊藤博文は奴と年齢的に離れていることもあり、彼女の将来も考えて、彼女を自由の身にします。(公式の妾から解放し結婚することを認めるということ)そのため、彼女は自由に恋をすることができるようになり、相撲界の人気力士、横綱の小錦や歌舞伎界の中村歌右衛門らとつき合ったりします。しかし、本物の恋に発展したのは、新進の俳優、演出家、川上音二郎でした。
川上音二郎は、1864年九州博多の商家に次男として生まれました。次男だったこともあり早くに家を出た彼は大阪で警官として働いた後、板垣退助率いる自由党に入党し、民主主義を求める演説を路上で行っては警察にたびたび逮捕されていました。ある意味、彼は権力に挑む怒れる若者の先駆だったといえます。
1886年、彼は浮世亭と名乗り、監獄での体験を「監獄土産盗賊秘密大演説会」という講談として公演を行い、大きな話題となりました。
1888年、彼は落語の師匠に学んだ後、オリジナルの社会風刺ソング「オッペケペー節」を創案します。するとこれが一大ブームとなり、オッペケペーは社会現象化することになります。
この年、革命的な民主主義思想を志向する角藤定憲が壮士芝居(学師芝居)を始めます。芝居によって自らの思想を広めようとした彼の劇団は、大衆に受け入れられるために、より娯楽的な内容を盛り込むようになります。直接的な思想表現は、当時警察によってすべて検閲されていて、台本の提出やアドリブの禁止が公演条件となっていました。川上もそうした壮士芝居の劇団を自ら立ち上げると、角藤の劇団が失敗した後も大衆の支持を得て大きな人気を獲得しました。ついには、大阪から東京へと進出し、当時の人気劇場、中村座での公演を実現します。すると、彼らの噂を聞いていた伊藤博文は彼らを官邸での催しに招待。そこで音二郎に芝居の一部を見せてほしいと依頼しました。ところが、それに対し怖いもの知らずの音二郎は、自分の芝居が見たいなら劇場で木戸銭を払って見てほしいと返答したといいます。その答えに伊藤博文は怒るどころか、逆に彼のことをいたく気に入ってしまいました。さすが、明治の大物政治家は違います。そして、その顛末をそばで見ていたのが芸者としてその場に来ていた奴でした。総理同様、音二郎に惚れてしまった彼女は、今度は是非自分の茶屋に来てほしいと誘い、ここから二人の関係が始まることになりました。
<川上一座の活躍とともに>
元はといえば、政治主張の場として芝居を選んだ音二郎ですが、芝居の魅力と劇団員を抱えたことで、彼は座長として演劇界を本格的に歩みだすことになります。その目標は歌舞伎とは異なる新たな演劇を日本で確立することでした。幸いなことに彼には、背負うべき伝統も従うべき師匠や先輩もいなかったため、自由に新しい道を選択することが可能でした。ならば、近代化を目指して西欧文化を取り入れている日本は、演劇についても西欧の文化を取り入れるべきであろう。そう考えた彼は、突然劇団を置き去りにしてヨーロッパへと旅立ちます。当時は、まだ海外への渡航は国からの許可が必要で船での長旅と多額の資金が必要でしたから、その彼の行動力の凄さに驚かされます。そして、三ヵ月半に渡りフランスのパリで様々な演劇を見てきた彼は、さっそくフランスから持ち帰った新しい演劇の要素を持ち込みました。その例をいくつか挙げると・・・。
(1)舞台を電気による照明で照らし、観客席や楽団席は暗くする(それまでの芝居は舞台も観客席も同じ明るさでした)
(2)役者は歌舞伎のような大げさなセリフ回しをせず自然に話す
(3)役者のメーキャップは白粉の厚塗りをやめ、より自然な化粧にする
どれも今ではごく当たり前のことですが、リアリズムにこだわる現在の演劇に近い「新劇」の基礎がここから始まることになりました。
この年、川上音二郎と奴は正式に結婚します。奴は芸者を引退し、音二郎の妻として、劇団の世話役として働き始めることになりました。しかし、その仕事は思いのほか大変なものになります。
歌舞伎とは違い川上一座には、これといった十八番もしくは定番の出し物があるわけではないため、観客の入りは毎回その演目がヒットするかどうかにかかります。そのため、毎回新たな話題性のある演目を取り入れたり、反応が悪ければ次の出し物を変えるなどしなければならず、常に自転車操業的な興行が続くことになりました。そのため、ワイドショー的な下世話な話題も取り入れることもあり、芸術性とはほど遠い内容の作品も多々あったようです。たとえば、こんな作品がありました。
「意外」(当時実際に起きたある貴族家庭での謎の毒殺事件を題材にしたスキャンダラスな芝居)
「壮絶快絶日清戦争」(日清戦争における戦闘シーンを舞台上で展開してみせた日本軍の活躍を賛美する内容の芝居)
「川上音二郎戦地見聞録」(彼の原点だった反権力思想とは正反対の内容。しかし、時代の流れに乗り大きな話題となり、皇太子までもが観劇に訪れました)
すっかり初期の目的を忘れたかのような作品が続きますが、それでもなお劇団運営は赤字が続いており、借金の取立て屋が常に奴のもとに来ていました。その原因のひとつは音二郎の派手な遊びのせいでしたが、それ以上に経営を圧迫することになったのが、東京神田に川上一座が建てた川上座でした。
ヨーロッパの劇場を東京に再現したこの劇場は音二郎の夢の実現でしたが、そのためにできた借金はあまりに巨額で劇場の収益だけでは返せるはずのないものでした。そうした厳しい状況の中、彼は最後の手段と考えたのか、国会議員に立候補します。現代なら、当時ほど彼の知名度が高ければ確実に当選したかもしれません。ところが、当時の日本では政治とは政治家がするものでタレント議員などもってのほかという風潮が主流でした。それどころか、彼の場合は、逆にマスコミが公然と彼の敵にまわり落選キャンペーン的な報道を行いました。(これは実に健全なことだったと思います。・・・彼が当選したらどれだけ日本の借金が増えていたことか・・・)
結局彼は選挙に破れ、必然的にさらに借金が増えてしまいます。もう川上座は手放すしかありませんでした。
<新たなる船出>
川上座のサヨナラ公演を行った彼には、まだ多額の借金が残されていました。これからどうするのか?ここで音二郎は、とんでもない行動に出ます。港で小さな船を見つけた彼はその船を購入し、奴とともにその船に乗り込み、海外へと出航したのです。もちろん船室もない小さな船で海外へなど着けるはずはありません。奴自身は、船で沖へ出て心中するつもりだったともいわれています。おまけにその頃太平洋側には台風が接近していたのです。大嵐の中、二人は小さな船で西へと向かい三ヵ月半かけて神戸にたどり着きました。生と死のギリギリを生き抜いた二人は、再び話題の人となり、神戸港には大勢の迎えが待ち受けていたといいます。しかし、航海はもう限界でした。
ところが運命は彼らに、未来へと船出するための新たな船頭を与えます。それはアメリカに住む日本人実業家、櫛引弓人という人物でした。彼は、当時欧米に広がっていたジャパニズム・ブームに乗り、アトランティック・シティーに日本庭園を開き成功させ、そこで曲芸や踊りなどのショーも行っていました。この時代すでにそうした日本人がアメリカで活躍していたというのは驚きです。彼はさらに次の作戦として、日本から本物の劇団を連れてゆこうと考えたのでした。ちなみに1866年にアメリカへの渡航許可を申請した日本人35名のうち多くは旅役者だったそうですが、本格的なプロの劇団の渡航はまだありませんでした。そこで彼は川上一座を連れてアメリカへ渡り、太平洋側からアトランティックシティーまで公演旅行を計画したのでした。
<アメリカ横断ツアーへ>
日本にいる限り借金取りに追われ続けるし、このままでは劇団の活動も困難と考えた彼らは、櫛引の誘いに乗ることにしました。そしてアメリカに向かうことになったメンバーは総勢19名で、うち女性が2名でした。そのうち9名が役者で、その他に道具係、髪結い、長唄、三味線、衣装などの担当がいました。この旅に妻として参加することになった奴は、あくまで世話係としての同行と考えていました。こうして、1899年4月31日、彼ら一行は神戸港を後にします。
一座は、ハワイに寄って公演を行った後、サンフランシスコでの公演の後、いよいよアメリカ横断の旅へと出発します。この2公演での演目は、歌舞伎を下敷きにしたストーリーと新劇の融合に時代劇の要素を盛り込んだもので、日本で行っていたものと大差ありませんでした。それでも観客のほとんどが日系人だったこともあり、充分観客を、満足させることができました。しかし、そこから先、ほとんどの観客は日本のことなどまったく知らない人々ばかりになります。そこで彼らは、アメリカ人にも受ける内容へと演目を変えてゆくことにします。当初はまる一日かけていた公演は、大幅に縮められ、受けのいいチャンバラシーンも大幅に増やされました。しかし、集客を危惧するプロモーターからさらなる変更を求められます。それは川上を中心とする時代劇中心の公演を、奴を中心とする歌舞伎や踊り中心の内容に大幅変更してほしいというものでした。ジャパニズム・ブームにより、アメリカでは「芸者
Geisya」の存在が注目されるようになり、誰もが本物の芸者ガールを見たがっていました。したがって、そうした大衆の欲求に答えれば集客が望めると判断したのです。まして、ショービジネスの本場アメリカではショーの花形は女性たちでした。まして奴の美しさは多くのアメリカ人を魅了すると、彼らは判断したのです。
こうして、奴は一座の花形として女優としてデビューを飾ることになったのです。(日本ではまったく女優として舞台に立ったことはありませんでした)幸い彼女は一流の芸者になるために踊りや歌だけでなく三味線やお茶、華道など日本文化のすべてを学んでいました。それがここに来て役立つことになったのです。
ちなみに、この時、アメリカ人プロモーターが彼女の名前「奴」は短すぎるとしてクレームをつけ、本名の「貞」と「奴」を合わせて「貞奴」としてはどうかと提案。こうして「貞奴」という彼女の芸名が誕生することになったのでした。
<放浪の旅、始まる>
ところが、美しき芸者ガールを売りにした一座の公演ツアーは、スターとからつまづきます。なんとスタートしたばかりにも関わらず、櫛引のプロモーション会社が倒産してしまったのです。それどころか、ずさんな経費の使い方に借金がかさみ、彼は一座の賃金を持ち逃げしてしまいました。知人も誰一人いないアメリカ大陸に、彼らはほとんどお金を持たずにほっぽり出されたのでした。
もちろん帰国するお金もない彼らは、その日食べるものすらないところまで追い込まれ、野宿しながら路上で芸を疲労するなどしてギリギリの生活をしいられました。それでも、先に進むしかなかった彼らはアメリカ横断の旅を続けることにします。途中、様々な人々に助けられるなどした彼らは、シカゴではやっと劇場の舞台に立つことができ、再び話題となりました。そして東海岸に来ると、再び観客にも恵まれるようになり、その人気はピークに達しました。この頃になると、彼らの公演はアメリカ人に受けるように様々な工夫がなされ、訪米当初とはまったく違う内容になっていたようです。特に多くの観客に受けたのは、貞奴の美しい踊り以外では、侍たちによる「切腹」のシーンでした。着物の中に血糊を仕込んで、派手に出血してみせる演出は、アメリカの観客に衝撃を与え、なくてはならない演出の一つになりました。
この「切腹」は、その後ヨーロッパに渡るとさらに話題となり、フランスなどでは「芸者」と並ぶ日本文化の象徴となります。日本といえば、「芸者」「富士山」そして「ハラキリ」というイメージの原点はこの公演で決定づけられたとも言われます。その後、長く音二郎の一座が日本で評価されなくなる理由の一つは、日本文化を誤解させこの公演のせいでもありました。
放浪の旅も終わりに近づき、彼らはボストンに到着。彼らの公演は知識階級の観客に「究極の日本文化」として高く評価されます。
「貞奴は柔らかな錦と絹をまとって光輝く、このうえなく愛らしい象牙の浮き彫りに似ている。それにこの芸者の舞姿といったら!
細い柳の枝のようにしなやかで、そのほっそりした体に掛かる緋と白の着物が、動くたびに災いの舌のように彼女を包み込む。彼女が見せるかぎりなく優美な姿勢は、飾り立てた選り抜きの展示品や骨董品が持つ優雅な形態を想起させる。・・・」
1899年12月13日ボストン・ヘラルド紙
(日本の文化を知らなかったとはいえ、ここまでの賛辞は社交辞令などで書けるものではないでしょう。彼らにとって、確かに日本の優美な舞踏は衝撃的なものだったのです)
ちょうどこの頃、ロンドンから、当時のイギリスを代表する俳優サー・ヘンリー・アーヴィングとエレン・テリーが公演のためアメリカに来ていました。彼らもまた話題の川上一座の公演を見て感動。イギリスにはないの世界観を是非ヨーロッパで披露するべきだと、わざわざロンドンの劇場に推薦状まで書いてくれます。苦難の旅を終えて帰国するつもりだった音二郎は、この誘いに乗る決意を固めます。
ワシントンでは、当時日本公使だった小村寿太郎が彼らの活躍を知りワシントンでの公演に合わせてパーティーを開催。そのパーティーには、当時のアメリカ大統領だったウィリアム・マッキンリーも訪れ、アメリカ中が「貞奴」の話題で持ちきりになったといいます。そして、彼らはいよいよアメリカン・ショービズのメッカ、ニューヨークに到着しました。
当時、ブロードウェイでは、ジャパニズム・ブームの中、「ミカド」、「ブロードウェイから東京へ」がヒットしており、さらに「蝶々夫人」の初演が始まろうとしていました。彼らにとって、公演がヒットする条件は整っていたといえます。そして勢いにのる一座は、そのまま大西洋を横断してイギリスへと向かいます。
<ヨーロッパにて>
サダヤッコの顔を学ぶことは、仮面の静けさに現われるものを見ようとすることだ。ほんのわずかな目の動き、傾げられたまぶたのささやかな、ほとんど不動ともいえる変化によって、私たちはこの女性の魂のうちに生じた悲劇を認識させられる。しかし、それで十分なのだ。それ以上に強調された表現は、真の芸術とはいえないだろう。
ロンドンでの劇評より
演劇の本場イギリスでも大成功をおさめた一座は、その後、ドーバー海峡を渡ってパリ万博開催中のフランスを訪れます。彼らはそこでアメリカを代表するダンサー、ロイ・フラーやルース・セイント・デニス、イサドラ・ダンカンらとも出会いお互いに影響を与え合いました。この時、彼らの公演に感激したロイ・フラーは、次回のヨーロッパ・ツアーを自らプロモートする契約をしており、その講演旅行にイサドラ・ダンカンも同行することに決まりました。
こうして、無事にヨーロッパ・ツアーを終えた一座は、1900年11月9日、神奈川丸に乗船し日本への帰路につきました。
帰国した一座は港で数千人の人々によって盛大に迎えられます。しかし、そのお迎えの中には借金取りも混ざっていました。一座の巨額の借金は、増えてこそいても減ってはいませんでした。帰国後、彼らは自分たちの講演旅行の顛末をドラマ化して公演を行い大ヒットさせますが、その利益も焼け石に水でした。そうなると、彼らは再び世界ツアーに出て稼ぐしかなくなってしまいます。
1901年、彼らは再びヨーロッパへ向かいました。この公演旅行は、イギリスとフランスだけでなく、オーストリア、ドイツ、ロシア、イタリア、スペイン、ポルトガルと広範囲に及び、各地で彼らは歓迎を受けました。大人気の貞奴は、ピカソのモデルになったり、ロダンからモデルの依頼がきたりモテモテで、その人気に乗った関連商品も次々に登場していました。「Kimono
Sada Yacco」はもちろん着物のブランド、さらには彼女の美しい肌をイメージしたスキン・クリームの「Yacco」、オリエンタルな謎の香りをもつ香水の「Yacco」などなど。
1902年8月、無事に6週間の旅を終えた一座は、神戸に帰国しました。
<新たな演劇の追求>
帰国後、貞奴はその人気の高さにも関わらず舞台への出演を拒み続けました。なぜなら、自分の演技は、日本文化についての知識をもたない外国人には評価されても、日本人には認められないと考えていたからです。しかし、音二郎も周囲も彼女の出演をのぞみ、ヨーロッパでの修行を活かさなければもったいないと説得され、やっと彼女は日本初の本格的な女優として活動を開始します。(それまで日本の演劇界では女性の活躍の場はなく、女性の役は男性が演じる女形にまかされていました)
貞奴は自分の演技に自信を持てずにいましたが、彼女が公演旅行で多くのことを学んだのは確かでした。そして、それは演技の技術だけでなく、役者としての「生き方」についてもいえることでした。
私は、アメリカでたくさんのことを学びました。日本では、踊っている最中に、笑顔を見せてはいけません。でも、アメリカでは笑顔で出てきて、踊っているときも嬉しそうにしていなければならないのです。日本の芸術は、女を人形にするものなのです。アメリカの舞台では私たちは生きた女性として自分を見せるのです。
1903年、音二郎はヨーロッパの演劇を日本に持ち込もうと準備を行い、シェークスピアの「オセロ」を上演します。さらに同年、同じシェークスピアの「ハムレット」を日本人を
主人公とする物語に書き換えて上演します。ハムレットは華村年丸という名前となり、流行の先端だった自転車に乗る帝大生という設定でした。こうした芝居は「改良演劇」と呼ばれ、今考えればごく当たり前の脚色ですが、当時は賛否両論だったようです。その他にも、川上一座は演劇界に変化をもたらしました。
(1)上演時間を4時間半に縮めた(それまでは朝から晩までぶっとおしで上演され観客は飲み食いしながら見ることがあたりまえでした)
(2)「おとぎ芝居」という子供向けの児童演劇を行った。
しかし、当時、彼らの挑戦はシェークスピアを冒涜するものと批判されていました。こうした早すぎた手法もまた彼らの存在が批評家から低く見られる原因になったようです。
1904年、日露戦争が始まると川上一座は「戦況報告演劇」を上演し大人気となります。この時期、日本国民は日本軍の勝利を信じており、国内は大きな盛り上がりをみせていました。1905年の旅順港占領と戦争の勝利は、大日本帝国にとって、ひとつのピークとなる時期でした。川上一座はこうした時代の流れにも上手く乗っていました。
1907年、川上夫婦は再びヨーロッパへと向かいました。ただし、その旅は西洋演劇を本格的に勉強するための旅で、帰国後、音二郎はそれまでの経験と得られた知識の集大成として、西洋演劇のための劇場、「帝国劇場」を大阪に建てます。巨費を投じたそのプロジェクトは、渋沢栄一、大倉喜八郎ら実業界の大物とともに金融業界の大物、福沢桃介も参加していました。
さらに貞奴は東京で「帝国女優養成所」を設立します。ここから多くの女優たちが育ち、時代を変えてゆくことになります。こうして、大きな夢を実現した音二郎でしたが、この時、すでに彼の身体はボロボロの状態になっていました。海外巡業中にかかっていた虫垂炎がきっかけで腹部にできた水腫が悪化し、回復の可能性はありませんでした。最後の時を迎えるため、彼は帝国座の舞台袖に運ばれ、そこで静かに息をひきとりました。まさに役者冥利につきる最後でした。
ドラマならここで感動のラストとなるところでしょう。しかし、ショーはまだまだ続きます。
<第三の人生>
一人で一座を抱えることになった彼女は、座員たちとともに公演を続け、帝国座と女優養成学校も運営しなければなりませんでした。しかし、時代は彼女にとって悪い方向へと向かいつつありました。1912年7月29日明治天皇が崩御し時代は大正に移行。着実に日本は軍国主義への道を歩みだしていたのです。
貞奴はすでに41歳になり、かつての美しさも失われつつありました。そのうえ、1911年には、イプセンの「人形の家」で松井須磨子がデビュー。14歳にして女性解放運動の象徴となるカリスマ女優として、話題になった彼女の活躍は、女優が活躍する新しい時代の始まりを象徴するものであり、貞奴を過去の存在に追いやるものでありました。
彼女の苦労に追い討ちをかけるように、更なる不幸が彼女を襲います。彼女の息子、雷吉が失踪し、自殺したともいわれました。さらに劇団の後継者となるはずだった養子の浅二郎が、当時のどうらんに含まれていた鉛の中毒により命を落としてしまいます。(当時は多くの女形俳優がこの鉛中毒で命を落としていました)
いよいよ経営的にも将来的にも展望を失ったことで、彼女は帝国座を手放し、女優養成学校も閉校、演劇界から引退します。しかし、運命はまだ彼女のドラマを終わらせようとはしませんでした。失意の彼女を助ける人物が現われたのです。それはかつて彼女と恋仲にあった桃介です。
株式市場でカリスマ的な投資家として巨額の富を得ていた彼は、当時工業化の進む日本にとって必要不可欠だった電力業界への参入を目指し、日本初の水力発電所を作ろうとしていました。(ソフトバンクの孫社長を思い起こさせます)まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった彼は、一説では死を覚悟した音二郎に貞奴の今後を頼まれたともいわれています。そのため、彼は妻(福沢諭吉の娘)がいたにも関わらず、彼女と愛知の別宅(発電所の近く)で生活を共にするようになりました。社会的には、この不倫は批判の対象となりますが、貞奴も桃介を助けることに生きがいを見出してゆきます。
こうして始まった彼女の第三の人生は、桃介の死により、再び区切りを迎えます。
<最後の時間>
1938年に桃介がこの世を去ると、彼女は完全に表舞台から姿を消してしまいます。しかし、時代はすでに戦時下であり、女優に復帰しようにももう仕事はなかったでしょう。日本が世界に向けて西欧に追いつけ追い越せと挑んだ時代は終わりを迎え、彼女の人生も終わりを迎えようとしていました。それはまるで時代の動きに合わせるような最後でした。彼女は、1946年12月7日、太平洋戦争の終わりを見届けると、すぐにこの世を去ってしまいました。75歳の生涯でした。
彼女の存在は、彼女がこの世を去った時、すでに伝説となっていました。ヨーロッパとアメリカの人々を魅了した彼女の映像や証言者も少ない今、その存在はさらに忘れられつつあります。しかし、彼女が当時世界のパフォーマーたちに与えた影響は着実に時代を変えてきたはずです。
もし、タイムマシンがあれば、是非、1900年のパリ万博を訪れ、彼女のパフォーマンスを見てみたいものです。
今回参考にさせてもらった本「マダム貞奴」には、彼女の写真が何枚も掲載されています。若き日の彼女の顔は日本人的な顔というよりも目鼻立ちのはっきりした西洋人的な王道美人に近いといえます。彼女はその容姿についても、西欧で受け入れられやすいものを持っていたともいえます。
天は彼女に様々な才能を与えただけでなく、活躍のために最適な「時と場所」も与えましたが、それに匹敵するだけの苦労も与えたといえるでしょう。「波乱万丈の人生」という言葉がこれほどぴったりの人生は、21世紀の平穏な今、ちょっと考えられないと思います。(少なくとも日本では)
苦難の旅を続けながら自らのキャリアを積み上げていった世界的なアイドル貞奴。彼女のブレイクから100年以上がたち、21世紀の初めにまたジャパニズム・ブームが来ています。なんとも不思議なことです。
そして、世界的なアイドルが日本から生まれつつあります。今度は、世界をつなぐインターネットの世界やマンガの中が活躍の舞台です。再び歴史を変えることになるのは、アニメ・アイドルか、それとも同じインターネットによって、世界的なアイドルになったキャリー・パミュパミュか、それとも・・・。
「マダム貞奴 世界に舞った芸者 MADAME SADAYAKKO
The Gheisha Who Seduced the West」 2003年
(著)レズリー・ダウナー Lesley Downer
(訳)木村英明
集英社
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