
「悲しみよこんにちは Bonjour Tristesse」
- フランソワーズ・サガン Fransoise Sagan
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「ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。私はこれまで悲しみというものを知らなかった。けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私におおいかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。
その夏、私は十七だった。そして私はまったく幸福だった。・・・」
なんという美しく悲しい始まりの文章。すべての青春文学、青春映画のオープニングに、ぴたりとはまりそうなこの文章から、小説「悲しみよこんにちは」は始まります。
「悲しみよこんにちは Bonjour Tristesse」 1954年
(著)フランソワーズ・サガン Fransoise Sagan
(訳)朝吹登水子
河出書房新社刊「世界文学全集より
<あらすじ>
主人公のセシルは17歳。彼女はバカロレアの試験を控えているのに勉強もせず、父親のレエモンと南仏の別荘で遊んでいました。その別荘には父親の年下の恋人エルザも滞在していて、彼女は近所に住む大学生のシリルと付き合っていました。
そんな微妙な状況の家庭に、ある日、今は亡き彼女の母親の友人アンヌがやってきます。そして、セシルにとって憧れの対象だったアンヌの大人の女の魅力は、レエモンの心も捉えることになります。いつしか彼はエルザを捨ててしまい、アンヌと結婚すると言い出します。父親に捨てられたエルザは、家を飛び出してゆきますが、セシルもまたショックを受けます。
母親になるべくアンヌはセシルの生活に口を出すようになり、それに耐えられなくなったセシルはアンヌから父親を奪い返すための作戦を開始し始めます。彼女は、エルザとセシルに協力を求め、二人に恋人を演じさせます。父親の嫉妬心に火をつけ、彼の心をもう一度エルザに向けさせようと考えたのです。彼女の悪魔のような計画は見事に成功し、そのことを知ったアンヌはショックを受けて、家を飛び出してしまいます。そして、予想もしなかった悲劇が・・・・・。
「・・・私は特にオスカー・ワイルドの簡潔な表現を好んで心の中で繰り返していた。『罪悪は、近代社会における唯一の鮮明な色彩だ』私はこの句を、実行に移した場合よりも、より牢固な確信をもって、自分のものとした。私は、自分の一生がこの一句を範とし、それからインスピレーションを享け、エピナルの悪徳のイメージのように湧き出ることができるだろうと考えていた。私は意味のない時間や、断絶や、日々の善良な感情を、忘却していた。観念的に、私は低劣な、破廉恥地獄の人生にさし向かっていたのだった。」
悪いこととは知りながらも、生の証、青春の証として、それに手を染めてしまうという、すべての悲劇に共通する主題がそこにはあります。
自由を求めるがゆえに、理性が作り上げた「鋳型」の存在を否定してしまう「青春時代」の原点もまたそこにあります。
男の子にとって、「ライ麦畑でつかまえて」が永遠の青春小説であるように、女の子にとっては、この小説が永遠不滅の青春小説となるのかもしれません。
<なぜ大ブレイクしたのか>
この小説がフランスの若者たちだけでなく世界中の若者たちの共感を得たのは、物語の主人公がそのまますべての若者たちの生き様とかぶってみえるという、そのリアルさにあったのかもしれません。それは決して教訓的な物語ではなく、その逆ともいえる物語でした。それはリアルであるがゆえに当時のヨーロッパの階級制度や慣習を覆す危険性をもっていたことから多くの大人たちを驚かせ怒らせました。だからこそ、この小説は世界中の若者たちを熱狂させたのです。
この小説は、大人たちから否定されることで、若者たちからの指示を得ることになったともいえるのです。
「まず人々は、十八か九の若い娘が愛してもいないのに同年輩配の男の子と肉体関係を結び、しかも罰を受けなかったことが許せなかったのです。さらに容認できなかったのは、彼女がその青年を夢中になって愛していなかったことであり、夏の終わりに妊娠もしなかったからなのです。・・・・・」
「私自身のための優しい回想」より
セシル=サガンであり、サガンの行き方はこの小説の後日談のようにとらえることが可能だったからこそ、この小説は単なるベストセラーとは異なる社会現象ともいえるブームを巻き起こすことになりました。そして、その大ブームは著者の生活を大きく変え、人生をも大きく変えることになりました。その重みによって作家サガンは押し潰されかけたのです。しかし、彼女は、あえてセシルとしてその後の人生を生きる決断をすることで生き延びることができ、その後も長く作家生活を続けることになります。しかし、その判断が彼女に幸福をもたらしたのかどうか、それはなんともいえないでしょう。
ここでは、そんな彼女の人生を過去にさかのぼり、改めて見つめ直したいと思います。
「この本は本能的でもあり、ずる賢くもあり、官能と純粋さがバランスよく配されていて、その融合は今日でもまるで起爆剤のようだと思います。・・・この本にはゆとりと自然さが息づいているし、少女時代が終わろうとする時期の意図しない器用さ、思春期にはじめて味わう心の傷によってもたらされる無意識的な器用さがすべてはっきり表現されています。テンポが速く、適切で、よく書かれています」
「足跡をたどって」より
<生い立ち>
フランソワーズ・サガン Fransoise Sagan
は本名をフランソワーズ・クワレーズといい、1935年6月21日フランス南西部のカジャルクという町で生まれています。1940年、父親は電力会社に勤めるエンジニアでしたが、会社から工場の経営と電気自動車の製造を依頼され、そのため家族は工業都市のリヨンに引っ越しました。当時、まだ5歳にも関わらず彼女は父親が作った真っ赤な車を運転させてもらい、その後生涯車の魅力にはまることになります。
1944年、彼女はカトリックの修道院が運営するお堅い女学校クール・ルイーズ・ド・ペチニーに通い始めます。1950年、学校内のモリエールの像にいたずらをしたために退学処分になり、別の学校に転校。この頃、彼女はアンドレ・ジッドの「地の糧」やカミュの「反抗的人間」などにはまったこともあり、信仰を失い、結局退学してしまいます。
1952年17歳の時、彼女はバカロレア試験に合格し、大学入学資格を得ます。ところが翌1953年夏、彼女は大学の教養課程の試験に不合格となりました。それをきっかけに彼女は3年前から書きためていたメモをもとに本作「悲しみよこんにちは」の原稿を書き始めます。年末までに執筆を終えた彼女は、翌年の1月にパリのサンジェルマンにある二つの出版社ジュリアール社とブロン社に完成稿を持ち込みました。
<デビューいきなりのブレイク>
当初、著者名は本名のクワレーズとなっていましたが、スキャンダラスな内容のため父親がペンネームの使用を求めます。そこで彼女は大好きな小説「失われた時を求めて」(プルースト作)の登場人物サガン大公妃の名前をとり、ペンネームを「フランソワーズ・サガン」としました。ジュリアール社はすぐにこの作品「悲しみよこんにちは」を印刷にまわし、3月には出版します。新人ということもあり、宣伝はほとんどありませんでしたが、口コミによりすぐにヒットし始めます。評論家にも好評で、フランスの有力紙フィガロは彼女のことを「小さな可愛い怪物」と呼び一躍彼女は時代の寵児となりました。
「私は商品、品物になってしまいました。サガンという現象、サガンという寓話的伝説に・・・・・」
1955年、世界各国で彼女の本が翻訳され、発売される中、彼女はアメリカへの旅に出発。テネシー・ウィリアムズやカーソン・マッカラーズらの作家たちと親交を結ぶことになります。こうして、セレブの仲間入りをした彼女の暮らしぶりは、いっきに派手なものになってゆきます。
「私は自分の伝説をヴェールのようにかぶるようになりました」
1957年、愛車のアストン・マーチンを運転中に事故を起こし、危うく命を落とすほどの怪我を負います。この時、痛みを抑えるために飲み出したアルコールが彼女の人生を変えてしまうことになります。こうして、その後長く彼女はアルコール依存症に苦しむことになります。さらには、モルヒネの使用など薬物依存も始まり、彼女の肉体は少しずつ痛めつけられてゆくことになります。ただし、彼女のそうしたアルコールや薬物への依存は、単に現実やプレッシャーから逃避するためではなく、より積極的にスリルを求め続けた彼女の生き方のせいだったのかもしれません。それと、お金を持つと必ず現れる「悪い仲間たち」、その存在が彼女を横道へとそれさせることになったともいえそうです。
「両脚はいかにもリラックスしたように伸ばしてはいるが、いつでもクラッチやブレーキへ荒々しい動作を働きかける状態にいるのを感じたことのない人、こうした生存を賭けた姿勢に専念しながらも、間近にせまる死の豪奢で幻惑的な静けさ、この拒否と挑戦の混在を感じたことのない人は・・・かつて人生を愛したこともなく、さらにいえば、おそらくは誰も愛したことがない人にちがいない」
「私自身のための優しい回想」より
同年「悲しみよこんにちは」は、巨匠オットー・プレミンジャーによって映画化されます。映画版の主役に抜擢されたジーン・セバーグは一躍人気スターとなり、映画も世界中で大ヒットしました。
「悲しみよこんにちは」 1957年
(監)(製)オットー・プレミンジャー
(原)フランソワーズ・サガン
(脚)アーサー・ローレンツ
(撮)ジョルジュ・ベリナール
(音)ジョルジュ・オーリック
(タイトル・デザイン)ソウル・バス
(出)ジーン・セバーグ、デヴィッド・ニーブン、デボラ・カー、ミレーヌ・ドモンジョ、ジュリエット・グレコ(主題歌も歌っています)
ヒッチコックの作品や名作「ウエストサイド物語」などのタイトル・デザインで有名なソウル・バスの代表作でもあるお洒落なタイトルとともに、大きな話題となったヒット作。傑作ではなくても、1950年代という時代を見事に映しだした作品として、記憶に残る作品です。ボーイッシュなヘアー・スタイルで一世を風靡したジーン・セバーグの髪型もまた時代の象徴となりました。この時代の若者文化を見事に収めたドキュメント作品ともいえるでしょう。
1958年、彼女はアシュット社の編集長だったギー・シェレールと結婚。同年、小説「一年ののち」発表。
1959年、結婚後わずか10ヶ月で別居生活となる。8月にカジノで大儲けをした彼女は、ノルマンディー地方の田舎に別荘を購入。その土地を生涯愛することになります。 同年、小説「ブラームスはお好き」を発表。この作品も大ヒットとなり、後に映画化もされています。
「さよならをもう一度」 1961年
(監)(製)アナトール・リトヴァク
(原)フランソワーズ・サガン「ブラームスはお好き」
(脚)サミュエル・テイラー
(撮)アルマン・ティラール
(音)ジョルジュ・オーリック
(出)イングリッド・バーグマン、イブ・モンタン、アンソニー・パーキンス、ダイアン・キャロル、ジェシー・ロイス・ランディス
1960年、ボーヴォワールを中心にアルジェリア戦争(アルジェリアで起きたフランスからの独立戦争)に反対する署名活動が行われ、彼女もアンドレ・ブルトン、サルトル、フランンソワ・トリュフォーらとともに署名します。さらに彼女は雑誌などでド・ゴール政権を徹底的に批判し、反政府思想の持ち主として政府からマークされる存在となります。
同年、戯曲「スウェーデンの城」を発表。
1961年、小説「すばらしい雲」発表。
1962年、ロバート・ウェストックとできちゃった結婚。息子ドニを出産します。
映画「ランドリュ」の脚本を執筆。さらに戯曲「時おりヴァイオリンが・・・」発表。
1964年、自らの日記をもとにしたエッセイ集「毒物」発表。同年、戯曲「幸福を奇数に賭けて」発表。
1965年、スペインのバルセロナに転居。小説「熱い恋」発表。
1968年、小説「優しい関係」発表
1969年、小説「冷たい水の中の小さな太陽」
「水の中の小さな太陽」 1971年
(監)(脚)ジャック・ドレー
(脚)ジャン=クロード・カリエール、エンニオ・フライアーノ
(原)フランソワーズ・サガン「冷たい水の中の小さな太陽」
(撮)ジャン・バダル
(音)ミシェル・ルグラン
(出)クロディーヌ・オージェ、マルク・ポレル、ベルナール・フレッソン、バーバラ・バック、ジェラール・ドパルデュー
1971年、「ヌーヴェル・オプセルヴァトール」誌に「343人のあばずれマニフェスト」が掲載される。過去に中絶したことを告白し、中絶の合法化を求める宣言書を発表したこの運動は、フランス国内で大きなスキャンダルを巻き起こしました。彼女もこのマニフェストに、カトリーヌ・ドヌーブ、ボーヴォワールらとともに参加。
この運動をきっかけに、1975年、中絶は合法化されることになります。
1972年、小説「心のあざ」発表。
1974年、小説「失われた横顔」発表。自ら監督し短編映画を撮りました。
1975年、止めていたアルコールを再び飲むようになり、急性膵臓炎で入院。再び禁酒を始めることになります。ブリジッド・バルドーの写真集発表(共作)。
1976年、小説「草の中のピアノ」発表。
1977年、小説「乱れたベッド」、「ボルジア家の黄金の血」発表。
1978年、戯曲「昼も夜も晴れて」発表。
1979年、エッセイ「サルトルへの愛の手紙」発表。サルトルとは、1980年に彼が亡くなるまで毎週のように夕食をともにする仲となります。
1981年、もともと浪費癖があった彼女は、膨大な借金を抱えていました。そのため、彼女は多作を余儀なくされていたとも言われています。
この頃いよいよそんな彼女の財政状態が話題になり出していました。
この年発表された小説「愛は遠い明日」は盗作疑惑をかけられています。同年小説「厚化粧の女」も発表。
この年表に載せきれない作品も多数存在します。ちなみに、借金返済のために多作にならざるをえなかったアーティストとしては、ボブ・ディランもいます。
1983年、彼女はうつ病に悩まされるようになります。アンドレ・マルローの娘で親友のフローランスらの友人たちの支えもあり、彼女は治療のためリヨンの病院に入院。
1984年、まだ49歳にも関わらず早くも回想録「私自身のための優しい回想」を発表。長く生きられないと覚悟したからか、やはりお金が必要だったからか?
「私自身のための優しい回想」 1984年
自身の半生だけでなく彼女がかつて出会った人々、テネシー・ウィリアムズやビリー・ホリデイ、オーソン・ウェルズ、ルドルフ・ヌレエフなど、伝説的なアーティストたちの思い出も描かれていて、大きな話題となり大ヒットすることになりました。
1985年、小説「夏に抱かれて」発表。「私自身のための優しい回想」を自ら朗読し、それに音楽をつけたものを発表。
この年、彼女は麻薬の使用が明らかになり、起訴されています。
1987年、「夏に抱かれて」の続編となる小説「水彩画のような血」さらに「サラ・ベルナール 命を誘惑するひとみ」発表。
1988年、10年間書きためた時事評論をまとめて出版。
1989年、小説「愛の束縛」発表。
この頃、彼女は麻薬常用の影響で骨粗しょう症になtっていることが明らかになります。そのため、腰の骨を手術するもののステッキを使用しなければ歩けない身体となります。さらに兄のジャックが動脈瘤破裂により急死。息子ドニの父親、もと夫のロバートも癌で死去。さらにはアルツハイマーだった母親のマリーもまたこの年亡くなります。度重なる不幸が彼女の心を一気に追い込んでしまいます。
1991年、小説「逃げ道」発表。同居していた親友のペギーが膵臓癌で死去。彼女は自分の墓に彼女を納めた後、薬物自殺を図り未遂に終わります。
1992年、「愛という名の孤独」(インタビュー集)発表。
1993年、「私自身のための優しい回想」の続編を発表。
石油会社エルフとウズベキスタン政府間の採鉱契約交渉に関わり、彼女が親友のミッテラン大統領から莫大な報酬を得たことが明らかになります。
しかし、それが不正なものと検察から起訴されました。
1994年、小説「愛をさがして」発表。
1998年、自作についての思い出や感想をまとめたエッセイ集を発表。再びアルコールに手を出し、病院に戻ることになります。
2003年、糖尿病発症。
2004年9月24日、オルクルール市内の病院で死去。すでに彼女の身体はボロボロの状態でした。
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