1910年代〜1930年

- 西條八十、中山晋平、古賀政男 ・・・ -

<歌謡曲の黎明期>
 歌謡曲の誕生からその発展、そして戦時下の混沌、その歴史を西條八十と中山晋平という伝説的ソングライターコンビの曲を中心に追ってみたいと思います。参考にさせてもらったのは、舞台劇「上海バンスキング」でも有名な演出家、戯曲作家、斉藤憐の「ジャズで踊ってリキュルで更けて」という素晴しい本です。
 斉藤氏によると、アラスカなどに住むイヌイットの人々は同じ歌をいっしょに歌う「合唱」という行為をまったくせず、歌う時はいつもそれぞれバラバラなのだそうです。唯一合唱をするのは共同で鯨漁をする部族だけだと言われています。どうやら生きるための共同作業や社会的な集団行動を必要としない場合、人は合唱よりも、一人で勝手に歌う方を好むということのようです。そんな社会的行為の一つである合唱曲に対して、人が一人で風呂の中などでうなりたくなるような音楽を「唄」と呼ぶのです。
 昭和20年代から太平洋戦争にかけての昭和歌謡の歴史を調べると、そこでは「合唱」と「唄」の対比が際立っていたことに気づかされます。それは究極の合唱ともいえる「軍歌」と究極の「唄」ともいえる「ネェ小唄」や「エロ小唄」などのブームにも表れています。(これらの小唄については、のちほど説明します)
 戦争をはさんで激動の歴史が展開する中、こうした音楽の間で流行が激しく揺れ動いた時代、常にそれらの唄の作者として活躍し続けていたのが、西條八十と中山晋平でした。彼らと、そのライバル数人の曲を並べただけでも、この時代の空気が見えてくるのは流行ならではの力かもしれません。驚くのは、1960年生まれの僕でも、それらの曲の多くを知っていたことです。たぶんそれ以後に生まれた方にも知っている曲が多いと思います。
 そうそう唄以外にも、彼は詩も数多く残していて、有名な作品にはこんな詩があります。

「ぼくの帽子」
母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
谷底へ落としたあの麦藁帽子ですよ。
(映画「人間の証明」で使用されたのでご存知の方も多いでしょう)

<浪曲師・桃中軒雲右衛門>
 1907年、当時の人気浪曲師・桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん・くもえもん)が皇族・有栖川宮妃殿下に招かれ、「赤垣源蔵徳利の別れ」を披露。一躍、皇室に呼ばれたアーティストとして人気者となり「浪花節界の北斗星」と呼ばれるようになります。それをきっかけに浪曲のレコードが大ヒット。彼は広告のモデルになるほどのアイドル的存在となります。アイドル歌手の元祖だったともいえます。

<文部省唱歌>
  1911年、「尋常小学読本唱歌」発行され文部省唱歌が広まり始めます。(「春が来た」「仰げば尊し」など日本オリジナルの歌27曲)歌謡曲とは直接関係ないものの現在まで残る歌も多く日本の音楽に与えた影響は無視できません。

<中山晋平>
 作曲家、中山晋平は、1887年(明治20年)長野県日野村(現在の中野市)の農家に四男として生まれました。県庁に勤めていた父親が死んだため、一家は厳しい生活を強いられることになりました。高等小学校を辞めることになった晋平少年は、呉服屋に丁稚奉公するものの、寂しさに耐え切れず逃げ帰ってしまいます。その後、なんとか高等小学校を卒業した彼は16歳になると代用教員として働き始めました。もしかすると、彼はそのまま田舎の教員として一生を終えていたかもしれません。しかし、運命は彼にチャンスを与えます。
 1905年(明治38年)、早稲田大教授島村抱月の実弟夫人から、抱月氏が書生を求めているという連絡をもらい、彼はまよわず東京へと旅立ちました。牛込原町の抱月宅に住み込み、書生となった彼はそこで原稿の浄書や家事手伝いをし始めますが、同時に東京音楽学校(現東京芸術大学)にも通い始めます。その学校で、小学校の音楽教師になるためピアノ科に進んだ彼は借金をして中古のオルガンを買い、島村家の玄関脇で練習開始。ところが、あまりに不器用でピアノを弾くよりも、作曲家になる方が良いと教師に薦められたといいます。
 同じ頃、恩師の島村抱月は自らが主催してイプセンの「人形の家」を上演し、その主演女優松井須磨子と恋におちます。妻のいる身だった彼はそのスキャンダルにより早稲田大学にはいられなくなります。そこで彼は松井や沢田正二郎(後に彼は劇団、新国劇を創設することになります)らとともに芸術座を結成。トルストイの「復活」の上演を企画します。ただし、そのために音楽が必要となったため、作曲家として弟子の中山晋平に協力を依頼することになったわけです。
 1914年、彼が作曲し、松井須磨子が歌った劇中歌「カチューシャの唄」が評判となり、それに目をつけたレコード会社、東洋蓄音機がレコード化したところ大ヒット。そのヒットを受けて、映画化までされることになりました。この時、晋平は松井須磨子のために曲作りでひとつの工夫をしています。どうやら松井須磨子は、音痴に属していたため、難しい曲を歌いこなすことができませんでした。そこで彼は彼女のために、ヨナ抜き五音階の歌いやすい曲を用意しました。そうなると、その唄を聴いた観衆もまた歌いやすいわけなので、誰もが口ずさむことになりました。こうして、「カチューシャの唄」は口コミでヒットすることになり、後にこの曲は日本におけるポピュラーソングの原点とも言われることになりました。

「カチューシャの唄」 1914年 (曲)中山晋平(詞)相馬御風
カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて淡雪とけぬ間に 神に願いを かけましょか

 ちなみに、この曲の楽譜は7万8千部を売る大ヒットになりましたが、その装丁を担当したのが後にこの時代を代表する画家となる竹久夢二でした。実は、竹久夢二もまた抱月の教え子の一人で、文学者志望だった彼に抱月が絵画の道に進むことを薦めたと言われています。
 1915年(大正2年)、芸術座はツルゲーネフの「その夜」を上演します。そして、この芝居からヒットしたのが「ゴンドラの唄」でした。
「ゴンドラの唄」 1915年 (曲)中山晋平(詞)吉井勇
いのち短し 恋せよ乙女
紅と唇 あせぬまに
熱き血潮の冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

 当時、「ゴンドラの唄」と「カチューシャの唄」が大ヒットしたのは、それまでにない恋の唄だったからです。大正デモクラシーにより、若者たちはやっと恋の唄を歌うことができるようになったのです。(まだまだプラトニックな唄ばかりですが・・・)

 1917年、晋平はトルストイ原作の「生きる屍」の主題歌「さすらいの唄」(作詞は北原白秋)を作曲。その舞台で主役を演じた松井須磨子の歌ったレコードは大ヒットし、当時としては異例の27万枚を売り上げました。
 1918年、晋平の恩師、島村抱月がスペイン風邪で突然この世を去ります。そのショックにより、翌年には松井須磨子が後追い自殺を遂げてしまいます。二人の死は、晋平にとって、大きな痛手となりました。

<西條八十>
 作詞家、作家、詩人の西條八十(サイジョウ・ヤソ)は、1892年(明治25年)東京の牛込で生まれています。父親は当時はまだ高級品だった石鹸の製造、輸入商を営む資産家でした。盟友、中山晋平とは正反対の境遇だったといえます。1904年、早稲田中学に入学した彼は早くも文学を志し、「国語漢文辞典」を丸暗記、ロングフェローの「雨の日」を翻訳してしまうという早熟な天才少年でした。しかし、天才ではあっても頭でっかちの少年ではなく、肉体の方も早熟で、17歳の頃には複数の女性と付き合っていたとのこと。
 1909年、彼は早稲田大学の英文科に入学。しかし、この後、彼の運命を変える大きな事件が起きます。
 1912年、8歳年上の兄が実家の全財産を持ち出した末、芸者と駆け落ちしてしまったのです。突如、資産を失った彼は、家族を養うため家庭教師を始めます。(この時、彼が英語を教えていた教え子の中には相馬優子という少女がいました。彼女はその後、日本在住のインド人青年と結婚します。それが、インド独立運動に大きな影響をもつことになる人物、ラース・ビハーリー・ボースでした!)
 1914年、友人に誘われて彼は株式投資を始め巨額の利益を得ることになります。同時に彼は英語雑誌の翻訳や編集の仕事を始めます。
 1916年、彼は小料理屋の娘、晴子と結婚。このしっかりものの奥さんに、彼は大いに助けられることになります。
 彼が作詞家になるきかっけは、「童謡」の作詞でした。夏目漱石の門下生である鈴木三重吉が始めた「赤い鳥」運動において、詩人だった彼は三重吉に高く評価され多くの作品を雑誌「赤い鳥」で発表することになりました。その中から、彼の作品である「かなりや」がレコードとして発売され大ヒット。日本初の童謡のレコードの成功により、彼は作詞家として活動することになったのでした。
「かなりや」 1918年(曲)成田為三(詞)西條八十
唄を忘れたカナリヤは 後の山に棄てましょか

 「赤い鳥」運動について、鈴木三重吉はこう語っています。
「子供の唱歌にしてからが、その大部分は徒に軍国主義を鼓舞したものか、それでなければ教訓の押し売りがその内容で、・・・」
「芸術味豊かな、子供の美しい空想や純な情緒を傷つけないで、それをやさしく育むような歌と曲をかれらにあたえてやりたい。で、私の雑誌ではこうした歌に、<童話>に対して<童謡>という名をつけて載せていくつもりだ。」


 この運動のスターとしては、作曲家の山田耕作と作詞家の北原白秋のコンビが有名です。「待ちぼうけ」、「ペチカ」、「からたちの花」、「アメフリ」などの作品があります。さらに野口雨情もまたこの運動から登場した作詞家です。「赤い靴」、「十五夜お月さん」、「七つのの子」、「青い眼の人形」、「あの町、この町」 「雨降りお月さん」、「証城寺の狸囃子」など、数多くの作品があります。こうして登場した北原白秋、西條八十、野口雨情らは、こうして作詞家としてのデビューを飾り、その後は「童謡」以外のジャンルの曲へと進出することになります。

 さて、ここから先は、歴史の流れに沿って歌謡曲の歴史をたどってゆきます。先ずは、1920年代の頭から始めましょう。

<大正デモクラシーの終焉>
 1918年は米騒動の年です。さらに1920年には日本初のメーデーが開催され、日本中で労働運動や女性の地位向上の運動が活発化していました。そんな時代を象徴するヒット曲が「籠の鳥」です。
「籠の鳥」 1920年 (曲)鳥取春陽(詞)千野かほる
逢いたさ見たさに恐さを忘れ 暗い夜道をただひとり
いつも呼ぶ声忘れはせぬが 出るに出られぬ籠の鳥

 この曲のヒットに合わせて映画「籠の鳥」も製作され大ヒット。さらには、この映画の中のもうひとつの曲「ストトン節」も大ヒットしました。
「ストトン節」 1920年 (曲)鳥取春陽(詞)千野かほる
ストトン ストトンと子を生ませ これじゃ子守か留守番か
どこで道草食っている 旦那待つ夜の長いこと
ストトン ストトン

「ストトン」の意味のなんと奥深いことか?ていいうかダイレクトなことか・・・これがヒットしたのも凄いのですが、問題はそれだけではすみませんでした。
大津の製糸工場で女工さんたちがこの「ストトン節」を歌いながらストライキを行うという事件が起きたことから、「籠の鳥」と「ストトン節」は反政府的な曲とされ、「歌唱禁止曲」に指定されてしまいます。

 1920年、第一次世界大戦後、荒廃したヨーロッパへ穀物などを輸出することで大きな利益を得ていた日本経済のバブルが突然はじけます。そのおかげで、それまで億単位にまで上昇していた西條八十の株式資産はすべて失われてしまいます。日本中が不況になってしまったこの時代にヒットしたのが、日本の「演歌」の原点とも呼ばれる「船頭小唄」でした。

船頭小唄 1921年 (曲)中山晋平(詞)野口雨情
おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき
どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき

 ヨナ抜きの都節(ドドイツ)系短音階(マイナー)歌謡のこの曲は、1922年には全国的なヒットなり、多くの歌手、多くのレコード会社がレコード化します。(当時は著作権というものが存在せずカバーしほうだいでした)
 松竹映画は、粟島すみ子と岩田祐吉のコンビで映画化。これもまた大ヒットとなりました。
 こうした全国的なヒットはどうやって生まれたのか?テレビなど存在せず、ラジオもレコードもまだ普及していなかった時代に、そうしたヒット曲を生み出したのは、東京だけで100人はいたと言われる演歌師と呼ばれる人々の存在でした。彼らが、巷で流行の曲を歌い歩くことで、ヒット曲を世に広まることになっていたわけです。「ストトン節」の作曲者、鳥取春陽もそのひとり、まあ流しの歌手みたいな感じでしょうか。著作権という概念が存在しなかった当時は、ヒット曲の歌手はいくらでもいてオリジナルが誰かはどうでも良かったともいえます。
 さらに、こうしたヒット曲は映画界からも注目され、その唄をもとにした映画が生まれることにもなります。当時はまだサイレント映画の時代だったため、スクリーン横に待つ陰歌歌手がクライマックスになって楽団をバックに、この唄を歌うと映画はいっきに盛り上がったのでした。現代ならヒット・アニメが映画にとって最大のネタ元ですが、当時はヒット曲もまた重要なネタの供給源だったわけです。(セリフがつけずらいサイレントの場合、まだ文芸作品の映画化は難しかったのです)レコードも蓄音機もまだ一般家庭に普及していなかっただけに、演歌師と映画の存在は、曲がヒットするための重要な存在だったわけです。

<金子みすづ>
 1920年代の初め、西條八十は様々な文芸雑誌における詩のコーナーで選者を担当していました。そこで彼は後に大きな意味をもつことになる仕事をしています。それは山口県在住の主婦が作った詩を高く評価し、積極的に掲載したことです。その主婦の名は金子みすづ。彼女の詩は当時はまったく評価されませんでしたが、その後有名になり、今では多くの人が知るところとなりました。

「こだまでせうか」
「遊ぼう」つていふと 「遊ぼう」つていふ。
「馬鹿」つていふと 「馬鹿」つていふ。
「もう遊ばない」つていふと 「遊ばない」つていふ。
さうして、あとで さみしくなつて、
「ごめんね」つていふと 「ごめんね」つていふ。
こだまでせうか、いいえ、誰でも。


 「大正デモクラシー」と呼ばれる民主化の流れは、大正時代を象徴する言葉として有名ですが、それは昭和を前にした大正12年(1923年)突然終わりを迎えることになります。そのきっかけは前述の第一次世界大戦後のバブル崩壊でしたが、それ以上に大きかったのは、その年に起きた関東大震災でした。
 震災後、経済の低迷が政治的混迷が続いたことで、日本はそれまでの民主化にストップをかけてしまいます。さらに海外からの巨額の借金を返済するために、アジア地域への侵略をさらに推し進める必要に迫られることになります。太平洋戦争への道は、ここからスタートしたともいえます。
 しかし、多くの日本人にとっては、そうした未来の危機よりも当面どうやって生きてゆくかの方が重要でした。八十にとっても、この震災の衝撃は大きく、兄の家が倒壊しただけでなく、その混乱の中で妻の晴子が双子を流産、さらには次女までもが病でこの世を去ってしまいます。そして、もうひとつ彼を苦しめていることがありました。

<売文詩人への批判と悲劇>
 1920年代社会は急激に左傾化が進み、大学内で八十は資本家側の人間として批判の対象になっていました。そのうえ、文壇内でも「売文詩人」として批判され孤立していましたため、彼にとって作詞の仕事は気分の良いものではなかったといえます。しかし、彼はそんな自分の仕事に誇りをもっていたようです。
 関東大震災の日の夜、彼は被災した兄を見舞うため都内を歩いていました。瓦礫の山の中、人々は嘆き、悲しみ、叫ぶ人までいました。そんな中、一人の少年がハーモニカを出し、それで聞き覚えのあるメロディーを吹き出しました。すると、それを聞いた人々はなぜか静まりかえり、誰もが心をなごませたといいます。

「俗曲もまたいいもんだ」と、わたしは呟いた。
「こんな安っぽいメロディーで、これだけの人が楽しむ。これだけの人が慰楽と高揚を与えられる。」
 わたしは大衆のための仕事の価値をはじめてしみじみと感じた。・・・

「唄の自叙伝」西條八十

 さらに不幸は重なっていました。彼の母親が白髪染めの薬が眼に入ったことが原因で失明してしまったのです。そこから、この詞が生まれたといわれています。

「肩たたき」 1923年 (曲)中山晋平(詞)西條八十
かあさんお肩をたたきましょう タントンタントンタントントン
かあさん白髪がありますね タントンタントンタントントン

 次々と起きる悲劇に落込む夫を見て、妻の晴子は以前から話があったフランスへの留学話を実現するよう夫になけなしのお金を渡しました。(とにかくこの奥さんできた人だったようです)

<西條、フランスへ、そして帰国>
 彼はフランスへと旅立ち、そこでフランス文学を学ぶと同時に様々な恋のアバンチュールを体験して帰国します。(お相手は日本人だけではもちろんありませんでした)常に恋多き男だった彼は、まさに「恋」を芸の肥やしにしたアーティストでもありました。当時の彼の仲間たちも、ほとんどみな同様だったようです。
 帰国後、彼は早稲田大学の仏文科助教授となりますが、それ以外にも彼はフランスでの体験を自らの作品に生かてゆくことになります。特に大ヒットし有名なのは、映画「巴里の屋根の下」の主題歌でしょう。彼はその映画の公開に合わせて、ラウール・モレッティ作の主題歌に日本語詞を依頼されます。

「巴里の屋根の下」 1931年 (曲)ラウール・モレッティ(詞)西條八十
巴里の屋根の下に住みて、楽しかりしむかし
燃ゆる瞳、愛の言葉、やさしかりし君よ
鐘は鳴る、鐘は鳴る、マロニエの並木路
巴里の空は青く晴れて、遠き夢を揺る

<民謡ブーム>
 当然のことですが、歌謡曲の流行は東京などの都会だけで作られているのではありませんでした。都会的なヒット曲とは異なる唄の流行もまた存在しました。そのひとつは、1913年ごろに始まったといわれる民謡のブームです。その年、東京浅草の空き地で、足利の渡辺源太郎という声の良い馬子引きが、「八木節」を歌い人々から喝采をあび、一躍「八木節」は有名な民謡となりました。この後、東京ではちょっとした民謡ブームが起きました。
 1904年〜1905年に起きた日露戦争において、日本全国から集まった兵士たちの間では、様々な交流があり、そこで人々は地方間の経済格差を知ったり、他の地域の民謡などの文化を知ることにもなりました。そうした中から人気の民謡が、他の地域にまで広がることもあったようです。「安来節」もこの頃人気となり、全国へと広まったようです。このブームに目をつけて地域お越し、観光振興のために、新しく民謡を作って全国的なアピールを狙う自治体や地方の企業が現れます。この流れは「新民謡運動」と呼ばれることになり、この時期に数多くのご当地民謡が誕生することになりました。(新民謡は、その地域の人々がいつまでも歌い、子から孫へと伝えられるためヒットの寿命が長いともいえます)
 こうして、全国各地で「新民謡」を作るために作曲家、作詞家を招く動きが広がり、最も忙しく地方周りをすることになったのが、野口雨情と中山晋平のコンビでした。

<好景気のレコード業界>
 当時、曲を作り、それをレコード化し販売することは、今よりずっと利益のでる美味しい商売でした。ネット配信も、ラジオやテレビ放送も、カセットもMDなどの録音機材もなしのですから、レコード業界はライバルのない状態だったとえいえます。さらに、この頃はすでにNHKがラジオ放送を始めていたものの、国営放送という認識のもと「くだらない流行歌」は流さないという姿勢を変えずに1932年まで「クラシック音楽」ばかりを流していたといいます。そうなると、一般大衆は家で音楽を聴くために、高価ではあっても蓄音機とレコードを買おうという気にもなったわけです。
 こうした状況により、年々レコードの輸入も増えていましたが、関東大震災以後、日本政府は国内のレコード会社を保護するために、輸入盤に関税をかけるようになります。それに対して、海外のレコード会社は関税を逃れるため、日本国内でレコードを生産しようと日本支社の設立を急ぐことになります。こうして設立された外資系レコード会社のひとつ、日本ビクターが第一作として発売したレコードは、後に日本初の歌謡レコードと呼ばれるようになります。それが伊豆大島発のご当地ソング「波浮の港」です。

「波浮の港」 1924年 (曲)中山晋平(詞)野口雨情(歌)佐藤千夜子
磯の鵜の鳥や 日暮れにゃかえる
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は やれほんにさ なぎるやら

 震災からの復興が進む中、東京の発展はより勢いを増してゆきます。(ただし、この復興のための資金を海外から借り入れたことで、日本は巨額の負債を抱えることになり、そのためにアジア各地の植民地からの収奪を迫られることにもなるのでした)

<「東京行進曲」>
 ここで西條、中山の黄金コンビが生み出したのが、本格的な都市型歌謡曲ともいえる名曲「東京行進曲」です。この曲は、当時としては特大のヒットといえる25万枚を売ったといわれます。

「東京行進曲」 1929年 (曲)中山晋平(詞)西條八十(歌)佐藤千夜子
昔恋しや 銀座の柳
仇な年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃ ダンサーの涙雨

 1929年、東京溜池に巨大ダンスホール「フロリダ」が誕生しています。その店には、400人ものダンサーがいた言われていて、彼らがお客のダンスの相手をすることで大きな人気を集めていました。その店では、十枚セットのダンス切符を入店客が2円50銭で購入。一枚で1曲3分踊れることになっていました。まるでバブル時代の「ジュリアナ東京」のような風景が、そこでは見られたのでしょう。
 東京は、まさにバブルの時代を迎えつつありました。しかし、そうした流れに置いて行かれた農村部との格差は広がる一方でした。当然、農村部から都会へと働きに出る若者が急増。その中でも、田舎から出稼ぎに出る女性たちの多くは、増え続ける労働者たちの相手をする飲食・サービス業界で「女給」として働くことになりました。すかさず音楽業界ではそうした女性たちにスポットを当てた曲を作り始めます。それは、「不幸な酒場の女」をテーマとする演歌の重要なジャンルの先駆けとなりました。

「女給の唄」 1928年 (曲)塩尻精八(詞)西條八十(歌)羽衣歌子
わたしゃ夜咲く酒場の花よ 赤い口紅 錦紗の袂
ネオンライトで 浮かれて踊り さめてさみしい涙花

「愛して頂戴」 1929年 (曲)松竹音楽部(中山晋平)(詞)西條八十
ひと目見たとき 好きになったのよ
何が何だかわからないのよ 日暮れになると 涙が出るのよ
知らず知らずに泣けてくるのよ ねえねえ愛して頂戴ね

 この曲のヒットにより、1931年「女給の唄」は映画化されます。監督は曽根純三。その主題歌になったのが、「愛して頂戴」でした。ただし、そのあまりにやすっぽい歌詞に作曲担当の中山晋平は自分の名前を出すのが恥ずかしくなり、「松竹音楽部」という偽名を使用しています。
 都市部のバブルは、当然なことに破裂する運命にありました。そのきっかけは、日本同様第一次世界大戦の後に好景気を迎えていたアメリカにおける株価の大暴落から始まった世界恐慌です。
 いよいよ時代は1930年代に突入します。1931年、日本の歌謡界に新たな大物新人が登場します。大学生でありながら、「影を慕いて」の大ヒットを生み出した古賀政男です。

<古賀政男>
「影を慕いて」 1931年 (曲)(詞)古賀政男(歌)藤山一郎
まぼろしの 影を慕いて雨に日に 月にやるせぬわが想い

 福岡県の田舎の村に生まれた彼は7歳で父親を亡くし、一家は食べていくために朝鮮に移住します。7歳の時、従兄弟から大正琴をもらい、15歳の時には、兄からマンドリンを譲り受け、それらをマスター。17歳で日本に戻った彼は、名古屋の商店に住み込み奉公を始めますが、そこを飛び出し、東京に出てしまいます。そして苦学しながら明治大学に入学しました。中山晋平以上の苦学生だったといえます。
 彼が得意としていたのは、日本にはほとんどなかった三拍子の曲、ワルツのリズムです。「人生の並木路」、「悲しい酒」、「人生劇場」、「男の純情」、「ゲイシャ・ワルツ」などもワルツのリズムなのは、彼が朝鮮で韓国民謡独特のワルツのリズムを身につけてきたからだとも言われています。

<恋の唄、エロ艶歌の時代>
 1930年前後の時期は「恋の唄」がヒットした時代でもありました。それも大正時代のような「純愛ソング」(「いのち短し恋せよ乙女・・・」)ではなく、より具体的でエロチックな唄、俗にいう「エロ艶歌」が受けていた時代でした。たとえば、こんな曲です。
「わたしこのごろ変なのよ」 1930年 (曲)町田嘉章(詞)西條八十(歌)藤野豊子(四谷文子)
いつも出ているお月さま まるく大きなお月さま
ひとりじっと見ていると いつか泣いてるわたしなの
わたしこのごろ変なのよ なんだかなんだか変なのよ

 同じ1930年にはそのほかにも、西條、中山、藤野トリオによる「アラ、その瞬間よ」という曲まで発表されています。この曲の場合は、全員が変名の曲として発表されていて、いかに背徳的で怪しい曲だったかがわかります。当時は、前述のようにラジオがこうした歌謡曲を放送していなかったため、逆にギリギリの曲を作ることが可能だったともいえます。
 こうした都会発の「エロ艶歌」のブームに対し、やはり地方からもそうした傾向の唄が登場します。
「大島おけさ」 1932年 (曲)中山晋平(詞)西條八十
ハァー 色も香りも おぼこ育ちの島椿
無理に咲かせて あとで泣かせる旅の風

 女性蔑視、地方蔑視のひどい曲ですが、こうした地方発の「エロ艶歌」は「ハァ小唄」とも呼ばれちょっとしたブームになりました。しかし、こうした「エロもの」のブームはそう長くは続きませんでした。
 1931年に満州事変が起きると、時代は右へ右へと舵を切り始め、不謹慎きわまりない「エロもの」歌謡のブームは一気に衰退へと向かうことになるのです。いよいよ時代は戦争の時代へと移行し始め、歌謡曲の世界も大きく変化の時を迎えることになります。

<参考資料>
「ジャズで踊って リキュルで更けて」昭和不良伝・西條八十 2004年
(著)斉藤憐
岩波書店

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