1931年〜1945年

- 西條八十、中山晋平、古賀政男 ・・・ -

<1930年代、「渡世もの」ブーム>
 1931年の満州事変以降、日本国内のムードは急激に変りました。以前のような軟弱な恋愛歌謡曲を人前で歌える状況ではなくなりつつありました。しかし、それでも人々には「唄」が必要でした。そこで登場したのが、ヤクザな渡世人の世界を歌う男向けの歌謡曲です。こうして、「渡世ものブーム」が始まることになりました。

「涙の渡り鳥」 1932年 (曲)佐々木俊一(詞)西條八十(歌)小林千代子
雨の日も風の日も泣いて暮らす
わたしや浮世の渡り鳥

「月形半平太の唄」 1934年 (曲)万城目正(詞)佐藤惣之助(歌)東海林太郎
濡れて行こうか
濡れずに行こうか
花の祇園の灯もゆれる

「赤城の子守唄」 1934年 (曲)竹岡信幸(詞)佐藤惣之助(歌)東海林太郎
泣くなよしよしねんねしな
山の鴉が啼いたとて
泣いちゃいけないねんねしな

<戦地で生まれた唄>
 もちろん戦争の時代は、戦争の唄も生み出し始めます。それは国策的に作られた唄ばかりとは限らず、実際に戦地で戦った人間による愛唱歌も生まれ、それが人々の心をとらえる場合もありました。中でも、関東軍の少佐だった八木沼丈夫が書いた詞に感銘を受けた藤原義江が曲を書き、自ら歌った曲「討匪行」は大きな話題となりました。翌年には、内田吐夢により映画化もされ、藤原義江も出演しています。しかし、後にこの曲は歌詞が戦争を過度に悲劇的に歌っているとして、歌うことを禁じられることになります。

「討匪行」 1932年 (曲)(歌)藤原義江(詞)八木沼丈夫
どこまで続く 泥濘(ぬかるみ)ぞ
三日二夜を食もなく 雨降りしきる 鉄兜
いななく声も 絶え果てて 倒れし馬のたてがみを
かたみと今は別れ来ぬ

<1933年(自殺と盆踊りブーム)>
 小林多喜二の拷問による死、日本の国連脱退など、暗いニュースばかりが続き、時代は確実に暗いトンネルに入り込みつつありましたが、それでもま国民の多くはそうした状況に気づかないフリをしていました。実際、経済的にはまだ日本は困ってはいませんでした。(それはアジアからの収奪おかげだったのですが・・・)
 そんな中、友好国であるドイツから有名なハーゲンベック・サーカスが来日し、大きな話題となりました。そして、そのブームに合わせたヒット曲まで生まれることになります。
「サーカスの唄」 1933年 (曲)古賀政男(詞)西條八十(歌)松平晃
旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の花を見た

 しかし、時代の重苦しい空気を反映したかのような事件も起きています。それは、東京の実践女学校の生徒が大島の三原山に投身自殺したのが始まりでした。その自殺が話題となると、後追い自殺のように類似の自殺事件が多発し始めたのです。ところが、そんな事件をもとにしたヒット曲も生まれているのです。なんとこの年だけで、三原山では男が805人、女が140人が自殺したとのこと。

「燃ゆる御神火」 1933年 (曲)中山晋平(詞)西條八十(歌)藤山一郎
赤き椿の夢のせて ゆきて帰らぬ黒潮や
ほのぼの燃ゆる御神火に 島の乙女の唄哀し。
恋し、なつかし、三原山 山の煙よ、いつまでも。

 そして、もうひとつこの年1933年を象徴する事件のひとつが、日本中で起きた盆踊りのブームでした。この年は関東大震災からちょうど10年目にあたったため、それを記念した行事が数多く行われました。その中でも、盆踊りは各地で盛大に行われることになり、そのために新たな盆踊りのための曲が数多く作られ、その中から現在にまで残る名曲が生まれています。もちろん作ったのは、西條&中山の黄金コンビです。

「東京音頭」 1933年 (曲)中山晋平(詞)西條八十
ハァー踊り踊るなら チョイト東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の真中で サテ
ヤートソレ ヨイヨイヨイ

<1936年>
 1934年、大陸では日本の傀儡政権である満州国が誕生。日本のアジア侵略の流れは、いよいよ加速されることになり、1936年に2・26事件が起きると、そのまま日本はファシズム国家として日独防共協定を成立させ、翌年には日中戦争に突入することになります。この年、ドイツではあのベルリン・オリンピックが開催されています。そして、西條八十はそのオリンピックの取材日記を書くためドイツにまで行っています。(さすがは人気ライターです!)
 そんな西條のいない1936年、古賀政男と佐藤惣之助コンビがヒットを飛ばしています。

「男の純情」 1936年 (曲)古賀政男(詞)佐藤惣之助(歌)藤山一郎
男いのちの純情は 燃えて耀く金の星
夜の都の大空に 曇る涙を誰が知る

「人生の並木路」 1936年 (曲)古賀政男(詞)佐藤惣之助(歌)ディック・ミネ
泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けばおさない二人して
故郷を捨てた 甲斐がない

 この頃、暗い世相を反映するように登場したのがブルース歌手、淡谷のり子です。ダミアのヒット曲をカバーした「暗い日曜日」をヒットさせた彼女は、この後長く活躍することになります。

「暗い日曜日」 1936年 ダミアのカバー(訳詞)脇野元春(歌)淡谷のり子
すぎし幸をしのびつつ 返らぬ昔くりかえし
わがまなこに涙あふるる

 この時期は、時代を反映した暗い唄ばかりがヒットしていたわけではありません。逆にそんな時代だからこそ、人々が求める欲望丸出しの曲もまたブームとなっています。渡辺はま子の「忘れちゃいやよ」は、その代表的なヒット曲です。
 「ねぇ、忘れちゃいやよ」と男に迫る「濡れ場歌謡」とも言われるこの曲は10万枚の大ヒットとなりますが、時局にそぐわないとして発売禁止に指定されます。しかし、こうした曲は「ネェ小唄」と呼ばれ密かなブームとなり、二匹目のドジョウ狙いの曲も作られました。「騙しちゃいやよ」、「アラ恥ずかしい」、「じれったいわね」などの曲が作られましたが、みなすぐに発売禁止となったため、レコード会社もそこまでしてきわどい曲を作ることをやめざるをえなくなります。

「忘れちゃいやよ」 1936年 (曲)細田義勝(詞)最上洋(歌)渡辺はま子
月が鏡であったなら 恋しあなたの面影を
夜毎うつして見ようもの こんな気持ちでいるわたし
ね、忘れちゃいやよ 忘れないでね

 西條八十がいないため、他の作詞家と組んでいた古賀政男は、他にも次々とヒット曲を生み出しています。東京シティーのテーマ曲ともいえるこの曲が生まれたのもこの年です。

「東京ラプソディ」 1936年 (曲)古賀政男(詞)門田ゆたか(歌)藤山一郎
花咲き花散る宵も 銀座の柳の下で
待つは君ひとり 逢えば行くティールーム
楽し都 恋の都 夢のパラダイスよ 花の東京

 西條八十がヨーロッパ取材旅行のため不在の中、この年、彼の弟子だったサトウハチローが活躍し始めます。

「二人は若い」 1936年 (曲)古賀政男(詞)玉川映二(サトウ・ハチロー)
(歌)ディック・ミネ&星玲子(映画「のぞかれた花嫁」挿入歌)
貴方と呼べば 貴方と答える
山のコダマのうれしさよ
「貴方」 「なんだい」

 当時大人気だった星玲子主演の映画「うちの女房にゃ髭がある」からは、50万枚のヒットが誕生しています。
「ああそれなのに」 1936年 (曲)古賀政男(詞)星野貞志(サトウ・ハチロー)(歌)星玲子
空にゃ今日もアドバルン さぞかし会社で今頃は
おいそがしいと思うたに ああそれなのに
ああそれなのに それなのに
ねぇ おこるのは おこるのは あったりまえでしょう。

 さらにこの映画の主題歌もまた話題になりました。ただし、この曲は2・26事件の後、急激に勢力を伸ばした軍部に対する皮肉を「女房」に込めた曲とも言われています。サトウ・ハチローの名前を出していないのはそのためかもしれません。(「髭」が軍人の象徴として使われているということです)

「うちの女房にゃ髭がある」 1936年 (曲)古賀政男(詞)星野貞志(サトウ・ハチロー)
何か言おうと思っても 女房にゃ何だか言えません
それでついついうそを言う
(女)何ですあなた
(男)いや、別に、僕は、その、あの
パピプペ パピプペ パピプペポ
うちの女房にゃ 髭がある

<1937年>
 1937年ついに日中戦争が始まります。しかし、この時点では日本国内の経済状況はまだ問題なく回っていました。まさか5年後には、自分たちが食べるものにも困ることになろうとは、ほとんどの人は思ってもいなかったでしょう。だからこそ、こんなヒット曲が生まれていました。当時の気分について古賀政男はこう語っていたそうです。
「そろそろ強まってきた戦争の気配を否定したい気持ちも表れていた」
古賀政男
 それはいつかはじけると知りつつバブルに踊っていた90年代の日本人のようでもあります。
「若しも月給が上がったら」 1937年 (曲)北村輝(詞)山野三郎(サトウ・ハチロー)(歌)林伊佐緒&新橋みどり
若しも月給が上がったら わたしはパラソル買いたいわ
僕は帽子と洋服だ 
上がるといいね 上がるとも

「青い背広で」 1937年 (曲)古賀政男(詞)佐藤惣之助(歌)藤山一郎
青い背広で心も軽く
街へあの娘と行こうじゃないか

 この年を代表する曲としては、淡谷のり子の代表曲である「別れのブルース」があります。この曲は発売当初はまったく話題になりませんでしたが、中国大陸に渡った兵士たちの間で口コミでヒット。その人気が国内にも飛び火するかたちで16万枚という当時としては異例の大ヒットになりました。しかし、別れを悲しむ歌詞の内容が軍の指揮を悪くすると判断されたために発売禁止処分を受けることになります。この後、「ブルース」という音楽自体が敵性音楽として否定されることになり、作曲者の服部良一と淡谷のり子は活躍の場を失うことになります。彼らが再び活躍するのは、戦後のことになります。

「別れのブルース」 1937年 (曲)服部良一(詞)藤原洗(歌)淡谷のり子
窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の灯が見える
夜風潮風恋風のせて
今日の出船はどこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの切なさよ

 この時代になると、兵士たちに望郷の念を抱かせたり、「別れ」、「涙」など、士気を低下させるような言葉の使用はいよいよ厳しくなってきます。たとえば、服部良一のこの曲。この曲も淡谷のり子とのコンビですが、やはり出征兵士との別れの唄に聞こえるとされ発売禁止となりました。この曲は、1947年二葉あき子が歌いリバイバル・ヒットしています。

「夜のプラットホーム」 1937年 (曲)服部良一(詞)奥野椰子夫(歌)淡谷のり子
星はまたたき 夜ふかく なりわたるなりわたる
プラットホームの別れのベルよ さよなら さよなら 君いつ帰る

 この当時のことを、作家の永井荷風はこう書いています。
「余 この頃 東京住民の生活を見るに、彼らは其の生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり」
「断腸亭日記」より

 1937年までは、与謝野鉄幹や藤原義江が軍歌を作ろうとも、八十やハチローや佐藤惣之助、古賀政男や服部良一の力業が勝って、大衆は国家よりも恋愛を尊び、勇ましさより女々しさを愛していました。

 そして、いよいよ音楽業界に直接、政府(軍部)の影響が及ぶ時代に突入します。盧溝橋事件の一ヵ月後、内務省がレコード関係業者や作曲家を集めて、時局にともない検閲を強化すると宣告。毎月600種出ていた新曲レコードが急激に減って、十月には280種にまで落込んでいます。

 NHKは「ニュース歌謡」番組を作り、時雨音羽、サトウ・ハチロー、菊田一夫、古関祐而、高木東六らを局内に缶詰にして、大本営から中国での戦果が発表されると作詞作曲して電波にのせました。
・・・10月には「国民唱歌」の放送をはじめ、最初に流したのが「海ゆかば」でした。

<この時代のヒット曲>
 大阪警察部特高検閲係が調べた1928年から1938年まで10年間の流行歌売り上げベスト6ががあります。
1位 「露営の歌」 1937年 (曲)古関祐而(詞)薮内喜一郎 56万枚
(ただし、様々なバージョンを含めると100万枚以上らしい)
2位 「ああそれなのに」
「うちの女房にゃひげがある」
1936年 (曲)古賀政男(詞)サトウ・ハチロー 44万枚
3位 「東京音頭」 1933年 (曲)中山晋平(詞)西條八十 44万枚
4位 「島の娘」 1931年 (曲)佐々木俊一(詞)長田幹彦 42万枚
5位 「さくら音頭」 1934年 (曲)中山晋平(詞)佐伯孝夫 41万枚
6位 「赤城の子守唄」 1934年 (曲)竹岡信幸(詞)佐藤惣之助 33万枚

 ベスト6の中には、「音頭もの」が2曲、「渡世もの」が1曲、「エロ艶歌」が1曲、「パロディ歌謡」が1曲、そして1位に「軍歌」の「露営の歌」となっています。この曲は、大阪毎日新聞と東京日日新聞が「大陸席巻」というテーマとして歌詞の懸賞募集を行い、そこから生まれた曲です。

「露営の歌」 1937年 (曲)古関祐而(詞)薮内喜一郎
勝ってくるぞと 勇ましく 誓って国を 出たからは
手柄立てずに 死なれよか 進軍ラッパきくたびに
瞼に浮かぶ旗の波

 1937年、時代は「軍歌」を求めるところまできていたということのようです。さらにこの年、この曲もヒットしています。こうした曲がヒットしてしまうのが、この時代でした。悲しいのは、この曲が国策によってヒットしたのではなく、国民全体が好んで歌っていたということです。

「軍国の母」 1937年 (曲)古賀政男(詞)島田磬也(歌)美ち奴
こころおきなく 祖国のため 名誉の戦死 頼むぞと
泪もみせず 励まして 我が子を送る 朝の駅

<1938年>
 1938年、国家総動員令が発令され、いよいよ日本は戦時体制に突入することになります。そんな状況下で生まれた曲の中、唯一今でも歌われ愛されている曲があります。

「大阪タイガースの歌」(六甲おろし) 1938年 (曲)古関祐而(詞)佐藤惣之助
六甲おろしに 颯爽と 蒼天翔ける 日輪の
青春の覇気 美しく 輝く我が名ぞ 阪神タイガース

 そして、西條八十もまた軍歌ではないヒット曲を生み出しています。それは大ヒット映画「愛染かつら」(川口松太郎原作)から生まれた曲で、120万枚を越えるヒットになったといわれています。軍部からは、歌詞にある「泣く」の部分にクレームがついたそうですが、それに対し彼は泣いているのは「ほろほろ鳥」です、と答えたとか・・・。
 映画「愛染かつら」の監督は野村浩将、主演は田中絹代、上原謙です。

「旅の夜風」 1938年 (曲)万城目正(詞)西條八十(歌)霧島昇&松原操
花もあらしも 踏み越えて 行くが男の生きる道
泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
月の比叡をひとり行く

<「大陸歌謡」のブーム>
 この時期、日本軍はまだ中国軍を圧倒しており、次々と中国国内へと進攻し、上海を占領。さらに内陸部へと向かいつつありました。こうした中、やはり時代は占領国である中国を舞台にしたヒット曲「大陸歌謡」を生み出してゆきます。

「上海ブルース」 1938年 (曲)大久保徳二郎(詞)北村雄三(歌)ディック・ミネ
涙ぐんでる上海の
夢の四馬路(スマロ)の町の灯り

「上海だより」 1938年 (曲)三界稔(詞)佐藤惣之助(歌)上原敏
拝啓 ご無沙汰しましたが
僕もますます元気です

「支那の夜」 1938年 (曲)竹岡信幸(詞)西條八十(歌)渡辺はま子
支那の夜 支那の夜 港の灯り むらさきの夜に
のぼるジャンクの夢の船 ああ 忘れられぬ胡弓の音
支那の夜 夢の夜

 日本国内でも食糧が不足し始め厳しい生活が始まっていた中、そんな時代を忘れ去ろうとするかのような名曲が生まれています。
「一杯のコーヒーから」 1939年「(曲)服部良一(詞)藤浦洗(歌)霧島昇&ミス・コロンビア


<1940年>
 1940年、日独伊三国軍事同盟が誕生。すでに第二次世界大戦はヨーロッパを中心に始まっており、日本の真珠湾攻撃が迫っていました。こうなると当時は威勢のよい軍歌ばかりが聞かれていたかというと、けっしてそうではなく、そうした軍に関わる歌ではなく、だからといって時局を無視した恋の歌や明るい歌でもない、微妙な世界を描いた曲がヒットし、人々の口にのぼっていました。そうした曲は、音楽家たちによる最後の抵抗ともいえる曲かもしれません。

「誰が故郷を想わざる」 1940年 (曲)古賀政男(詞)西條八十(歌)霧島昇
花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を組みながら
唄をうたった帰り道 幼馴染みのあの友 この友
ああ 誰が故郷を想わざる

「宵待草」 1940年 (曲)多忠亮(詞)西條八十(歌)高峰三枝子(映画「宵待草」主題歌)
待てどくらせど 来ぬひとを
宵待草のやるせなさ
今宵は月もでぬそうな

「蘇州夜曲」 1940年 (曲)服部良一(詞)西條八十(歌)渡辺はま子
君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 恋の唄
水の蘇州の花散る春を 惜しむか柳がすすり泣く

「湖畔の宿」 1940年 (曲)服部良一(詞)佐藤惣之助(歌)高峰三枝子
山の寂しい湖に ひとり来たのも悲しい心
胸の痛みに堪えかねて 昨日の夢と焚きすてる
古い手紙のうす煙

<1941年>
「月月火水木金金」が大ヒット
「朝だ夜明けだ潮の息吹 ぐんと吸い込む銅色の・・・月月火水木金金」
真珠湾攻撃で勝利した海軍の歌が大ヒット。連合艦隊の猛特訓を描いた「月月火水木金金」は流行語にもなった。
同時期「軍艦マーチ」も大ヒット

「銃後を守るこの非常時に次から次へと火事騒ぎ どうしたわけかと尋ねたらケシズミがほしいといいました。へへのんきだね」
「のんき節」石田一松
ヴァイオリン弾き語りのブラックユーモアの歌が下町中心に大ヒット。大衆は戦争賛美とブラックな歌両方を受け入れていたといえます。
まだ戦争に対して楽観的な部分があったのでしょう。

<1942年>
 1941年、日本音楽家協会発足。軍に協力し、兵士の慰問、軍需工場慰問にプロの音楽家たちが動員されるようになります。そして、12月8日、日本はついに真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入します。ここまでくるともう音楽家たちによるささやかな抵抗も不可能となり、多くの作詞家は沈黙するようになります。しかし、西條八十は流行歌の作詞家として休むことなく仕事を続けます。
 なぜそこまで彼は働き続けたのか?酒と女にとにかくお金を使っていたことは確かのようですが・・・それだけが目的だったかどうかはわかりません。

「高原の月」 1942年 (曲)仁木他喜雄(詞)西條八十(歌)霧島昇(国策映画「高原の月」主題歌)
真白に高き雪の峰 浮き世の塵に染まぬ花
清き世界を照らしゆく

「湖畔の乙女」 1942年 (曲)早乙女光(詞)西條八十(歌)菊地章子(映画「湖畔の別れ」主題歌)
濡れた睫毛を閉じるとき 見える故郷 湖水の村よ
なれたあの路 子馬に揺られ 越えて帰るは
いつの日ぞ いつの日ぞ

 しかし、戦局が厳しくなるにつれて戦場で戦う兵士たちのことを思う曲も増え、西條もまたそうした曲の歌詞も書いています。人々が求める曲が流行歌なら、いよいよ軍歌が流行歌となる時期になった。西條八十もまたそう判断したのかもしれません。

「そうだその意気」(国民総意の歌) 1941年 (曲)古賀政男(詞)西條八十(歌)霧島昇
雁鳴きわたる月の空 今夜いまごろ戦地では
弾丸を浴びてるともがある そうだ済まないその気持ち
揃う 揃う気持ちが国護る

「若鷲の歌」 1943年 (曲)古関祐而(詞)西條八十(歌)霧島昇
古関と西條が土浦海軍航空隊に一日入隊し、その体験をもとに書いた曲
若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く

「ラバウル小唄」 1944年(1940年) (曲)島口駒夫
1940年に作られた「南洋航路」をラバウル駐屯の作詞家、若杉雄三郎が替え歌にした。
国内ではなく戦地でヒットしたことで逆輸入され大ヒットとなった。
さらばラバウルよ また来るまでは しばし別れの涙がにじむ
恋しなつかしあの島見れば 椰子の葉かげに十字星

「同期の桜」 1945年 (曲)大村能章(詞)西條八十
貴様と俺とは 同期の桜 おなじ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと散ります 国のため

<1945年以降>
 西條八十という作詞家、作家が昭和の歴史において、その評価が低い最大の原因は、「作詞家」という仕事に対する評価の低さによるよりも、彼が「軍歌」を数多く作った「戦犯」と見なされていたせいとも言われています。実際、彼は終戦後、進駐軍は自分を戦犯として逮捕するだろうと思っていたようです。実際、そうならなかったのは、米軍が彼が作った「軍歌」にそれほどの価値を見出さなかったせいかもしれません。皮肉なことですが・・・
 1945年、終戦の年、八十の先輩、野口雨情がこの世を去りました。彼の死は、終戦とともに流行歌の世界も大きく変化することを暗示するものでもありました。
 それでも、戦後西條八十は古賀政男らとのコンビで多くのヒット曲を生み出します。特に有名なのは、1949年の「青い山脈」、1951年の「トンコ節」、1952年「こんな私じゃなかった」、1955年「この世の花」などがあります。やはり彼は時代が求める唄を理解していました。
 しかし、1952年には盟友、中山晋平もこの世を去り、着実に彼の時代は終わろうとしていました。彼が1961年に書いた「王将」は、そんな彼にとって最後の大ヒット曲となりました。
 この曲は30万枚を売り上げる大ヒットとなりましたが、歌詞にある「将棋の駒」を「流行歌」に入れ替えれば、そのまま彼の作詞家人生を歌った曲にも聞こえてきます。

「王将」 1961年 (曲)船村徹(詞)西條八十(歌)村田英雄
吹けば飛ぶような 将棋の駒に 賭けた命を笑わば笑え
うまれ浪花の八百八橋 月も知ってる 俺らの意気地

 1970年8月12日、西條八十はこの世を去ります。彼の残した曲の多くは、今でも多くの人々の記憶に刻まれています。そして、その数の多さには誰もが驚かされるでしょう。彼が作ったのは、童謡が854曲(うち訳詞が63曲)、流行歌の作詞が3200曲、校歌、社歌700曲以上、これらのうちでレコード化されたものは7000枚になるといいます。それに加えて、詩、訳詩、小説、随筆、少女小説、紀行文なども多数あります。戦後の歌謡界でいうと阿久悠が唯一彼に匹敵する存在かもしれません。
 時代の波に乗って、右にも左にも自由自在にカジを切ったことで、彼は芸術家としての評価を受けられなかったかもしれません。しかし、そのことで彼は後悔してはいなかったように思います。どんな時代にも、人は生き、好きな唄を口ずさんできました。それは「笑い」と同様なくてはならないものです。
 戦場であろうと、瓦礫の中であろうと、お通夜の席であろうと、そこで口ずさまれる唄は人の心を癒してくれます。そんな曲を残せれば、それで本望。おまけに、その印税で、ジャズで踊って、リキュルで更ける、恋多き日々を彼は過ごすことができたのですから・・・。
 最後に、生前彼が残した素晴しい詩をどうぞ!

わたくしは生きている わたしの唄をうたう人の赤い唇に
唄を聴く人々の静かな耳朶に またその唄をはこぶ
街中の青い微風の中に 大ぜいの人の中に 温かくいだかれて
生きているわたくしはしあわせだ わたしは風に

・・・・・・
「おわりの詩」 西條八十

<参考資料>
「ジャズで踊って リキュルで更けて」昭和不良伝・西條八十 2004年
(著)斉藤憐
岩波書店

「愛すべき名歌たち」 1999年
(著)阿久悠
岩波新書」

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