堺利彦と大正デモクラシー


- 堺利彦 Toshihiko Sakai -
<大正デモクラシー>
 2019年夏の選挙での「れいわ新選組」の活躍に象徴されているように、ここのところ、時代の流れが再び左へ、左へと向かいつつあるように思えます。
 映画の世界でも、左派の過激な映画を作り続けた1960年代末の映画人たちを描いた映画「止められるか俺たちを」や大正時代の過激なアナキストたちを描いた映画「菊とギロチン」が生き生きと時代を再現しました。さらに同じ大正時代から昭和にかけてのスポーツマンや女性たちの活躍を描いた宮藤官九郎の大河ドラマ「いだてん」もありました。
 そんなわけで、先日は大正時代を象徴するモダンガールたちにスポットを当てた森まゆみさんの「断髪のモダンガール」を読み、「大正フェミニズム前史」というページを作ってみました。しかし、肝心の「大正デモクラシー」については、今まで調べたことはありませんでした。この時代に活躍した左翼の二人の有名人、大杉栄と堺利彦については特に知りたくなり、面白そうな本を探してみました。
 「パンとペン 社会主義者・堺利彦と売文社の闘い」という本を見つけました。表紙には堺と妻、そして「断髪のモダンガール」にも登場していた娘の堺真柄が写っています。その中の、堺のポッチャリした人の好さそうな顔とカメラを睨むような娘の厳しい表情が実に印象深い写真です。
 大杉栄と並ぶ堺利彦という人物を中心に、「大逆事件」、「大正デモクラシー」、「関東大震災」の時代と社会主義運動について学ぼうと思います。

 黒岩比佐子というノンフィクション作家が遺作として残したその本は、著者が自らの死を意識しながら書いていただけあって、命がけの人生を送った人々の生き様が実にリアルに熱く時にユーモアも交えて描かれています。
 特に著者がこだわったのは、堺が社会主義運動の創始者の一人でありながら、大逆事件により多くの仲間を失い、そこからの「冬の時代」を生き抜くために立ち上げた「売文社」とその関係者のドラマです。政府から常にスパイされていた彼が、忠臣蔵の大石蔵之介のように政治的に大人しく生きたのは何のためだったのか?
 いつか政府を倒そうと革命の機会を待っていたのか?
 家族を食べさせて行くために必要だったからなのか?
 生きのびた仲間たちを守るためだったのか?
 表に出ないように「革命」の下地を作るためだったのか?

 2015年に映画化され再び脚光を浴びることになったダルトン・トランボは、同じように左翼のアーティストとして、自分の名前を隠して、家族を守るために脚本を書き続けました。
 彼と同じように堺は、様々な分野でその能力を発揮し、時代を生き延び、後継者を育てることになります。
 社会主義運動の中心人物として活動。
 プロレタリア文学を生み出すことになる文学界での編集・出版活動。
 社会主義運動に関わることで仕事を失った人々の救済活動。
 欧米文学の紹介者としての翻訳・出版活動。
 フェミニズムの思想を体現した家庭人としての活動。
 様々な「売文」活動で稼いだアイデアに溢れた起業家として活動。
 こうした多彩な顔をもつスマートで、ストイックで、スマイルに溢れたスーパーヒーローでした。

<生い立ち>
 堺利彦は、1871年(明治3年)1月15日福岡県小笠原藩藩士だった父親の三男として誕生しました。小笠原藩は佐幕派の武家だったため、中央政府での出世は当初から困難でした。
(「佐幕派」は、明治維新の際、幕府の側で戦った藩のことです。明治新政府において、上位の官職を薩摩、長州、土佐、肥前の武士が独占したのに対し、佐幕派の武士たちは、軍と政界以外の分野で活躍する道を選択する必要に迫られていたようです)
 1887年、豊津中学を首席で卒業し、上京して第一高等中学に入学。彼はこの後、独学で知識を身につけてゆきます。彼にとっての教師は「本」だったのです。
 1888年、寄宿舎を出て友人たちと「英学雑誌」を発行し始めます。しかし、稼いだお金を遊びに使い込んでしまい、月謝の滞納により退学させられます。
 1889年、実家の長男が急死したため、実家の九州に戻ります。父母を養うため、働きながら初の小説「悪魔」を執筆し、「福岡日日新聞」に連載されます。
 1893年、大坂に出て高等小学校で英語を教えていましたが、大坂毎朝新聞の記者に転職した後、新興の編集社「新浪華」に入社。そこで編集の仕事をしながら外国小説の翻訳で稼ぎ、その金を酒と女に使う放蕩三昧の生活を続けます。ところが、そんな日々は突如終わりを迎えます。
 1895年に母親、翌1896年には父親が相次いで死去。葬儀のために帰郷した彼は、それまでの人生を反省し、生き方を変える決意を固めます。この時、堺は26歳になっていました。
 父の死から一か月余りが過ぎた4月4日、堺は美和子と婚礼を挙げました。自伝には「私は、こつ然として、生まれかはった様な幸福の人となった」と心境が記されています。

 1899年、彼は黒岩涙香が始めた新聞社「萬新報」に入社します。黒岩は内村鑑三、幸徳秋水らを作家陣に迎え、1892年に誕生した新興ながらトップクラスの新聞社にのし上がって行きます。堺にはこの時、「報知新聞」に入社する選択肢もありましたが、もしそうしていれば、彼hじゃ国木田独歩と同期入社となっていました。
 もしそうなっていれば、彼はその後国木田を通じて、田山花袋や島崎藤村らとも知り合いになっていたはずです。そうなると、彼は社会主義運動ではなく自然主義文学の活動へと向かっていた可能性もあります。

<社会主義運動へ>
 1903年、堺と幸徳秋水は、「平民社」を創立。堺が発行人兼編集人を務めることになります。社屋は東京市麹町区有楽町3丁目1番地(現在の有楽町マリオン近く)
 11月15日、「平民新聞」創刊号を発行。その1面トップにはこう「宣言」がありました。
一 自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義也
一 吾人は人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を捧持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。
一 吾人は人類をして平等の福利を享けしめんが為に社会主義を主張す、故に社会をして生産、分配、交通の機関を共有せしめ、其の経営処理一に社会全体の為めにせんことを要す。
一 吾人は人類をして博愛の道を尽くせしめんが為めに平和主義を唱道す、故に人種の区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。
一 吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす、故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の与論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴えて袂を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を否認す。

 1904年、日露戦争が始まります。この戦争について、メディアはいっせいに国民の愛国心を煽る記事を書くことで部数を伸ばして行きました。それは逆に戦争を批判する立場をとる新聞にとっては厳しい状況になっていったということでもあります。そして平民新聞は、まさにその非戦の立場を貫くことになります。2月14日のトップには幸徳秋水の論説が載せられています。
「戦争来」では、「戦争既に来るの今日以後といえども、吾人の口有り、吾人の筆あり、紙有る限りは、戦争反対を絶叫すべし」
「兵士を送る」では、兵士たちに「諸君今や人を殺さんが為めに行く」と呼びかけ、「然れども兵士との諸君は、単に一個の自動機械也」と憐れむ。
「戦争の結果」では、戦争がもたらすのは増税であり、軍国主義のばっこであり、物価の騰貴であり、風俗の堕落だ、と鋭く指摘する。
 日本がロシアと戦っている最中に、こうした反戦のメッセージを述べることがどれほど大胆なことか、昭和期の日本の新聞の報道を思い出してみれば明らかだろう。
 発行部数は、34000部だったとはいえ、当初は言論の自由が認められていたことにも驚かされます。政府が平民社を黙認していたのは、日本は人権や言論の自由が認められた文明国であることを国際社会に示すためだったようです。

<最初の入獄>
 1904年3月27日、堺は増税批判の記事を書いたことが問題視され、初の入獄を経験することになりました。(この後、彼は生涯に5回入獄することになります)しかし、彼は入獄前に「告別の辞」を掲載しています。
「花見には少し後れたれど、小生は本日より二箇月の間、面白き『理想郷』に入りて休養致します。・・・」
 幸にして、当時はまだ入獄することはそれほど危険なことではありませんでした。そして、この言葉からは、堺利彦という人物の楽天性、ユーモア精神がうかがえます。

 1905年5月、連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破します。8月にはアメリカのポーツマスで講和会議が開催され、日本はロシアから30~50億の賠償金と領土を得られるらしいとの情報が流れましたが、ポーツマス条約では何も得られませんでした。
 日本の国民はこの結果に怒り、9月5日には日比谷公園で講和に反対する「国民大会」が開催されます。会場には、3万人もの人が集まり、その後警官隊と衝突し、東京の8割の交番が襲撃されることになりました。
 翌9月6日、政府は二つの緊急勅令を発令します。
(1)市内全域は戒厳令下におかれる。
(2)新聞雑誌の取締り令発令。
 皇室の尊厳を冒涜し、政体を変壊し、暴動を教唆し、犯罪を煽動する恐れがある事項を記載した新聞雑誌は、内務大臣が直接その発売を禁止し差し押さえ、以後の発行を停止することができるというものだ。これによって、政府が不都合だとみなせば、ただちに新聞雑誌の発行を止められるようになった。

<平民社分裂の始まり>
 有楽町時代の平民社に出入りし、解散後は『光』の刊行に協力していた吉川守國によれば、このころ路上では同志が顔を合わせても、「君は硬派か、軟派か」と、さながら不良少年の合言葉のような会話が交わされたという。
(ここでいう「硬派」は直接行動派で森近らの『大阪平民新聞』派、それに対して「軟派」は議会政策派で西川らの『社会新聞』派を指していたようです)
・・・幸徳秋水や森近運平、大杉栄、荒畑寒村、山川均らとともに、堺も硬派とみなされていたが、ひと口に硬派といっても、マルキストとアナキストでは考え方が大きく異なる。当時の幸徳秋水はクロポトキンを信奉するアナキストだったといえる。(堺はマルキストとされていいました)

<大逆事件>
 社会主義者への弾圧が最も多くの犠牲者を出したのが、「大逆事件」でした。それは平民社に関わりのある人物が日本の体制を変えるために天皇を暗殺しようと計画したことがきっかけで起きた事件でした。
 愛知で職工として働いていた宮下太吉は、1909年2月13日に巣鴨平民社を訪ね、天皇は神であるという迷信を打ち破るため、爆裂弾を作って暗殺を実行しようとメンバーに提案。この時、幸徳秋水や森下らが反対しますが、新村忠雄、古河力作は賛同。さらに肺病を患って自分の命が短いことを悟っていた管野すがも計画に参加。4人のメンバーは計画を立て始めますが、計画について知った大石誠之助、内山愚童らが他のメンバーに計画のことを漏らしたことから、それら計画について知ったメンバーらが軒並み協力者として逮捕されることになってのです。
 情報を知った警察はすぐに関係者を逮捕。実際に計画に関わった4人を含め30人近くを逮捕します。裁判の結果、24名ものメンバーが死刑宣告を受けることになり、そのうち14名は天皇による特赦という形で無期懲役などに減刑されました。
 1911年1月24日、25日、12名のメンバーが一気に処刑されます。(宮下太吉、新村忠雄、古河力作、管野すが、幸徳秋水、森近運平、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新実卯一郎、内山愚童、奥宮健之)
 この裁判の不当性は明らかでした。しかし、社会情勢はそんな政府の行為に対し、抗議の声はほとんどあがりませんでした。すでに日本の軍国主義体制が強固なものになりつつあったのです。作家の永井荷風は、当時、この事件の真実を知りながら見て見ないふりをした一人でした。

・・・わたしは、これ迄見聞した世上の事件の中で、この折り程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフェス事件について正義を叫んだ為国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。私は自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。
永井荷風

<赤旗事件>
 1908年6月22日、山口孤剣の出獄歓迎会が神田の錦輝館で開催されました。この時、幸徳秋水は、病気療養のため、高知にいたため欠席。会が終わると、調子に乗り過ぎた大杉栄、荒畑寒村らが「無政府」「無政府共産」の文字をぬいつけた赤旗を振り回し外に飛び出し、外にいた警察と衝突。その場に駆け付けた堺は事態を収めようとしますが、大杉らと共に逮捕されてしまいました。堺は結局2か月、刑務所入りすることになり、そのおかげで命を救われることになります。

<一犯一語>
 語学の天才だった大杉栄は、学生時代にフランス語をマスターし、その後は監獄に入る旅に一つの外国語を習得することを自分に課して、それを「一犯一語」と称していた。大杉は吃音だったが、堺利彦によれば、「昔エンゲルスは20カ国の語でドモったといふ話があるが、大杉は、仏、英、エスペラント、スペイン、イタリイ、ロシヤ等、67カ国の語でドモルと云われていた」


<売文社の誕生>
 1910年12月24日、堺利彦は出所してすぐ、自宅の門柱に「売文社」の看板を設置しました。
 1912年5月売文社の顔となる雑誌「売文集」が発刊されます。当時、彼は社の方針について記しています。
一 新聞、雑誌、書籍の原稿製作
一 英、仏、独、露等諸語の翻訳
一 意見書、報告書、趣意書、広告文、書簡文其の他一切文章の立案、代作、及び添削

 「売文社」の誕生には、様々な理由があるようです。しかし、その最大の理由として、彼が迫害を逃れながらも、生活するだけでなく、仲間を助けるために最も有効な作戦だったというものがあります。そのことを著者は、大石内蔵助に例えています。

 1910年に始まった大逆事件に堺利彦が置かれていた立場は、まさに『忠臣蔵』の大石内蔵助を思わせる。・・・・その大石内蔵助と同じように、堺利彦も大逆事件の始末をつけた後に売文社を軌道に乗せ、浪人同然の仲間たちの世話をしながら、運動再興を図っている。それは、堺でなかれば、決してできなかったことである。
 こうして「冬の時代」 - 心まで凍りつく「極寒の時代」が本格的に幕を開けた。その暗闇のなかで、唯一消えずに残った小さな灯火が「売文社」だった。


 発足したばかりの売文社が同志の”情報センター”としての機能を発揮した最初の機会が、大逆事件で処刑された人々の遺体引き取りと葬儀だった、という事実はあまりに悲しい。だが、売文社が存在しなければ、各地にバラバラになっていた同志たちと連絡を取ることもできなかったのである。

 幸徳秋水が獄中で記したキリストの存在を否定する内容の書「基督抹殺論」が出版され、その印税をあづかった堺は遺族に分配し、残ったお金は後に1920年に初めて行われたメーデーの準備資金となりました。そして、彼は各地で活動を続ける同志から今後の方針をきかれこう答えていたといいます。
「兜は脱がず、今しばらく沈黙を守るべし」
 その後、彼は九州、四国、関西、和歌山、三重に住む遺族を訪問しています。彼は自分が生き残ったことへのうしろめたさもあったのか、多くの遺族、関係者を助けることになります。彼は妻に獄中からこう書いた手紙を送っています。
「人を信ずれば友を得、人を疑えば敵を作る」

 その後、売文社には大杉栄、荒畑寒村、岡野辰之助、田島梅子、山川均らが参加。彼らは4百字原稿一枚につき50銭という原稿料を得て生活して行くことになりました。(今なら3000~5000円程度)
 1912年、彼はジャン=ジャック・ルソーの自伝「ルソー自伝」を翻訳し刊行します。そして彼はルソー誕生200年記念会を開催。この会には多くの作家たちが集まっただけでなく、社会主義の活動家たちも再結集することになりました。
 彼はこの当時、自分たちが行っている社会主義活動についてこんなことを言っています。
「われわれの社会主義運動はインテリの道楽だよ、幸徳でも僕でも士族出で本物の社会主義ではない。本当の社会主義運動は労働者や小作人の手で進められるのだよ・・・だからといってインテリの社会主義道楽が無価値で、真摯でないとはいわんがね、道楽で命を落とす人はいくらでもある・・・・・。」

 1912年10月、大杉栄と荒畑寒村による「近代思想」が創刊されます。このシリーズは、1914年までに23冊出版されます。そして、二人は売文社を出て、社会主義運動の再開を目指すことになります。その後、誕生する「プロレタリア文学」発祥の母胎となったと言われます。堺は、そんな大杉のために無報酬で寄稿を続けることになります。
「大杉君と僕」より
 日本の社会主義運動は今正に一頓挫の場合である。従って総ての社会主義者はここ暫く猫をかぶるの必要に迫られている。但しその猫のかぶり方には色々の別がある。只沈黙して手も足も出さぬのも一種の猫かぶりである。少し保護色を取って何かやって見るのも固より猫かぶりである。所が僕自身として考へて見るに、僕が若し保護色を取るとすれば、一歩右隣に退却して国家社会主義に行くより外はない。然し退却はイヤである。そこで止むを得ず沈黙している次第である。然らば大杉君の立場はどうかというに、是は一歩左隣に前進して個人的無政府主義に行けばよい。そこに文芸の中立地がある。それならば同じ猫かぶりしても、形式が退却でなくて前進である。大杉君が『近代思想』をやり得たのは、一つはそういう理由からであると思う。
堺利彦


 1914年1月、売文社は機関紙「へちまの花」を発行します。主筆は、堺で編集長は貝塚渋六(堺自身のペンネーム)で、1915年8月までに19号まで発行した後、月刊誌「新社会」へと変更されます。この時の序文に堺はこんなことを書いています。
 文芸雑誌というものは殆ど数えきれぬほどある。その上に又一つ増やすのかと思えばウンザリするが、然し百あるものが百一つになったからとて、重荷に小付、大した邪魔にもなるまい。
 近来、カフェとかバアとかいうものが馬鹿に流行するが、然しそれが皆大なり小なり常連のお客など拵へて、それぞれ面白げな倶楽部になっている。我が『へちまの花』も矢張りそんな意味で、文界の一小倶楽部になりたいと望んでいる。


 1915年に変更された「新社会」は、タイトルだけでなくそれまでの「へちまの花」が文芸誌だったのに対し、政府に保証金を払う正式な新聞法による雑誌となりました。そのため、政府からの検閲が常に行われ、発禁処分になる可能性が常にありました。同じように大杉の「近代思想」もかつての「平民新聞」と同じようなスタイルになってきたことから何度も発禁処分となり、ついには廃刊に追い込まれてしまいます。
 堺は、「新社会」において自分名義では社会主義思想に関する記事を書きますが、貝塚渋六名義ではユーモラスなエッセイを書くことでバランスをとろうとしています。しかし、警察による締め付けはどんどん厳しくなってきたため、彼は「新社会」と「売文社」を分離させることを決断します。
 売文社だけはいざという時のために利益を上げ続ける企業でいるようにしたのです。そえは仲間からの批判を受けることにもなりましたが、それでも彼はそこにこだわり続けます。彼にとっては、それこそが生き延びたものの務めだという考えがあったのでしょう。

<政治活動へ>
 1917年総選挙に堺は自ら東京市の衆院議員に立候補します。もちろん彼は「社会党」のメンバーとして立候補し、3項目の目標を掲げました。
(1)予備政策
 普通選挙、言論集会の自由、結社の自由(労働者団結の自由)、婦人運動の自由
(2)応急政策
 労働保険。養老年金。8時間労働。最低賃金。小児労働禁止。婦人労働の制限。夜業の禁止。小農及小作人保護。労働紛議仲裁機関の設置。職業紹介機関の設置。無料教育。無料診察。無料裁判。陪審制度。死刑廃止。間接税及び関税の廃止。土地及所得に対する累進税。累進相続税。都市政策。軍備縮小。秘密外交の廃止。国際仲裁裁判の設置。
(3)最後の大理想
 土地及資本の公有

 投票が行われたのは、4月20日、当時はまだ普通選挙ではなかったこともあり、有権者数は3万7203人で、トップ当選となったのは鳩山一郎の2676票でした。堺はといえばわずか25票で落選。同じように出版界からの立候補者だった宮武骸骨の3票よりはましでしたが・・・。
 しかし、堺は政界への進出をあきらめてはいませんでした。

<翻訳・翻案など様々な仕事>
 売文社の最初の仕事は週刊「サンデー」からの依頼によるものでした。
 1908年創刊の週刊サンデーは、当初は泉鏡花、与謝野鉄幹らの作家による作品を掲載していましたが、しだいに経営が悪化。ゴシップネタなどに頼るようになっていました。そんな中、堺は西洋文学作品の翻訳掲載を依頼されます。そこで彼は、「馬岳隠士」というペンネームを用いてモーリス、・ルブランのアルセーヌ・ルパン・シリーズの翻訳を行います。さらに「寸馬豆人」というペンネームで、コラムも連載し始めました。
 「都新聞」には、貝塚渋六というペンネームでバーナード・ショーの原作を元に「喜劇 谷川の水」という小説を連載。(1910年)
 同じ都新聞に、細香生のペンネームでチャールズ・ディケンズの代表作であり、「オリヴァー・ツイスト」を翻案した「小桜新八」を連載。(1911年)
 「生活と芸術」(1915年)には、映画「マイ・フェア・レディ」の原作となるバーナード・ショーの小説「ピグマリオン」の翻訳も行っています。
 その他にも、彼はアレクサンドル・デュマ、ジャック・ロンドン、アプトン・シンクレアなどの作品を翻訳・紹介。西欧文学の紹介者としても大きな仕事をしています。

 ジャック・ロンドンは社会主義の活動家としても知られる存在でした。堺は作家としてよりも、そうした社会活動家としてのジャック・ロンドンを先に知っていたようです。そうした思い入れもあり、彼はジャック・ロンドンの傑作「野生の呼び声」や「白い牙」などの翻訳・出版を行いました。
 彼は、野生の狼を日本の山奥に住む実在した「山窩サンカ」の人々と似ていると考え、できるなら彼らのように生きたいという憧れを感じながら「野生の呼び声」を翻訳していたといいます。その思い入れは強く、堺の死後、棺の中に一緒に収められた本の中にはこの「野生の呼び声」もあったといいます。
 その他、売文社は様々な本を出版しています。
「旅行案内叢書」
「衛生健康地案内」
「内外文豪美辞名句叢書」(トルストイ、森鴎外、夏目漱石、ドストエフスキー、樋口一葉、幸田露伴など)
「印度南洋豪州渡航案内」
「飲料商報」(清涼飲料水協会の機関誌)
「世界道」(ドイツの有名な旅行案内書「ベデカー」を基にした旅行案内書)

 売文社の仕事はこうした本だけではありませんでした。文章に関わる仕事ならなんでも受ける「文章の便利屋」だったようです。
代議士の演説原稿、帝大生の卒業論文、新製品広告のキャッチ・コピー、自殺する人の遺言書・・・・
(かなり危険で不正の香りもする仕事もあったようです)

 1918年には後に「人生劇場」を書くことになる尾崎士郎が売文社に入社。演歌師として一世を風靡していた添田唖蝉坊の息子で作詞家・作曲家として活躍することになる添田知道も玄関番として働いていました。
「売文社」こんなおもしろい社はなかった。ここの玄関番で勤務した16,17歳が、私の生中いちばんたのしかった時期だった。
添田知道

<売文社、右に舵を切る>
 当時の売文社は、様々な才能、人材が集まることでスタッフに恵まれた出版社だったようです。ただし、そうしたメンバーの中には、その後、売文社を解散に追い込むことになる危険な人物、遠藤友四郎もいました。その他にも、右翼の内田良平と親しかった北原龍雄、甘粕正彦と親しく後に伝記「甘粕正彦 乱心の曠野」を書くことになる茂木久平も入社し、その影響でいつしか売文社は右寄りに舵を切って行くことになります。

 1918年8月の「米騒動」以降、日本全体で「大正デモクラシー」と呼ばれる民主主義思想のブームが到来します。ただし、「民主主義」とは言っても、当時の「民主主義」は大衆を主役とする「民主主義」ではなく天皇=国家のもとで人々は平等と考える「国家社会主義」が盛り上がっていたので、売文社の内部でも堺の求めていた「社会主義」を追求するグループと新興の「国家社会主義」グループとが対立し始めることになります。「民主主義」という言葉は、反天皇制思わせるため、あえて「民本主義」という呼び名を用いるようになっていました。

 1918年12月吉野作造を中心とする学界・文学界の民本主義グループは、「黎明会」を設立。同じ頃、陸軍中将佐藤鋼次郎らと右翼の活動家、北一輝、大川周明らによる「老荘会」も誕生し、彼らは帝国主義の推進のため、主要産業の国有化を主張します。
 そして、「黎明会」が国との対立をせけるため、社会主義者の入会を断ったのに対し、「老荘会」は入会を受け入れました。結局、「黎明会」は長続きせず、1920年夏に解体。この時、堺は密かに「黎明会」に協力していたようでした。
 しかし、その間、売文社の経営の中心は堺から高畠素之に移っていたため、新たな方向へと向かい始めます。それはそれまでの社会主義路線から右へと舵を切ることでした。 売文社の雑誌「新社会」は遠藤が中心となって、1918年12月号「時めく国家社会主義」の見出しを登場させます。
 さらに原田良八が書いた「挙国一致論」という右寄りの本についての書評を掲載。
 1919年2月号では「君主社会主義の実行を勧む」として、さらに右寄りに舵を切り、読者を驚かせました。高畠は「愛国心」を前面に出し、それによって資本主義体制を崩し、新たな国家が主役の社会主義国家の建設を目指していました。
 そのために彼は「国家社会党」を設立し、機関誌として「国家社会主義」を創刊を計画しますが、党の結成は認められず、機関誌は発禁処分となりました。売文社はいよいよバラバラになり、1919年8月には解散に追い込まれてしまいました。
(高畠はその後、堺とは別行動をとり、日本初の「資本論」全訳を成し遂げることになりますが、1928年に42歳の若さでこの世を去っています)

<共産党誕生と大杉栄虐殺事件>
 売文社での活動を終えた堺ですが、その後、彼には新たな仕事が待っていました。
 1922年7月15日、日本共産党が創立されます。この時、堺は党の国際幹事に選出されています。ところが、共産党の活動はすぐに政府・警察から弾圧の対象となって行きます。そんな中、1923年9月1日、あの関東大震災が起き、東京が焼け野原になっただけでなく、その大災害の混乱に乗じ、共産党員、朝鮮人への恐るべき虐殺事件が起きることになりました。
 そして、この時もまた堺は警察のおかげで命拾いをすることになりました。彼はこの年の6月に50人近い仲間たちと共に警察に逮捕されていて、未決囚として市ヶ谷の刑務所にいたため、虐殺の犠牲にならずにすんだのです。実際、地震後に憲兵隊が市ヶ谷刑務所に行き、堺らの引き渡しを要求したものの、刑務所長がその要求を断ったということです。
(この時の逮捕理由は、共産党が党大会で「天皇制廃止」を計画したという疑いによるものでした。幸いにして、書記の高瀬清がこの方針について議事録に記すことをしなかったため、彼らは大逆罪による死刑を免れたのでした!)
 関東大震災の混沌を利用して共産党員らの虐殺を仕組んだのは、その後、大陸に渡り特務工作員として満州国の設立など様々な陰謀に関わることになる陸軍軍人の甘粕正彦でした。彼は関東大震災の直後、共産党の中心人物である大杉栄の自宅を急襲し、彼と妻伊藤野枝、そして偶然その場にいた大杉の甥っ子を息子と間違えて誘拐。この時、警察庁の警務部長だった正力松太郎は軍からこの情報を入手していましたが、当初は見て見ぬふりをするつもにだったようです。ところが、誘拐された大杉の甥っ子、橘宗一がアメリカ生まれでアメリカの国籍を持っていたことから事件のもみ消しは困難と判断。急遽、捜査を開始し、3人が殺害されていたことを明らかにしました。
 こうして、甘粕が事件の首謀者として逮捕され有罪となり、10年の判決を受けました。ところが、減刑の嘆願書が多数寄せられたことから、その後、わずか2年10か月に短縮され、釈放後は再び日本の暴走を牽引する人物として活動を続けることになります。
 こうして、堺は再び命拾いをすることになり、その後も静かに社会主義運動のために活躍。1929年2月に行われた東京市会議員選挙に牛込区から立候補すると見事にトップ当選を果たすことになります。しかし、議員として政界で活躍する時間はもうほとんど残されてはいませんでした。
 1933年1月23日、堺利彦は64歳でこの世を去ってしまいます。
 彼の死について、妻の為子はこう記しています。

 私はここで是非言っておきたいことがある。堺の発病から死にかけて、脳溢血で倒れるなんか、社会運動家らしくもない贅沢な最後だったといった人がある。然し本来の堺利彦は、昭和6年12月2日に死んだ、と私は思っている。それ以後の彼自身については、堺は責任を持たない。その30年の半生を通じて、彼は自己の運動を忠実に貫いていると、固く信ずるのである。・・・

 1月27日の告別式、答辞を述べようとした娘の真柄は警官によって「注意!」、「中止!」の声をかけられ中止に追い込まれました。彼女は堺が最後に残した言葉を口にしたところで中止命令を受けたのでした。
「帝国主義戦争絶対反対」

<フェミニズムと堺>
 堺はほとんどの男性がまだ男尊女卑の考え方から抜け出ていない時代にすでに現代的なフェミニズムの考えに近い考えの持ち主でした。
 白柳秀湖は自著の「歴史と人間」(1936年)の中でこう書いています。

 若い人達、殊に近頃の娘さん達に会って話してみると、その大部分が、日本の婦人解放運動の起り、平塚明子さんの青鞜であったと信じているようである。この不勉強ぶりには驚かされもするが、又失望もさせられる。
 青鞜社の起る前、堺さんの手でベーベルの婦人論などもすでに一通り紹介されていたし、これは余り知られずにしまったが、アメリカのハーマン翁の自由恋愛論なども堺さんの手で研究され、折々の集まりは話題にも上っていたものである。


 最後にふと思ったのですが、堺利彦と明治維新の陰の立役者の一人である榎本武揚との共通性に気づいてしまいました。
 
 混沌とした時代の変わり目を生きたこと。
 様々な才能をもつ天才だったこと。
 多くの仲間たちに慕われ、彼らの経済的援助にお金を使い、自分はけっして裕福な暮らしをしなかったこと。
 そして混乱期を奇跡的に生き延びたため、英雄たちの仲間入りをするチャンスを逃したこと。

「パンとペン 社会主義者 堺利彦と「売文社」の闘い」 2010年
(著)黒岩比佐子
講談社
 この伝記の「あとがき」に著者自身が膵臓癌であることがカミングアウトされています。もう余命が短い中で完成させられたことに感謝しつつ、そのおかげで人生の終わりを常に感じながら生きていたであろう当時の社会主義たちに共感することが可能になったとのことでした。確かに、そのおかげでこの作品は本当の意味で著者入魂の一冊になったのでしょう。堺利彦と売文社の仲間たちと共に、この作品の著者、黒岩比佐子さんのご冥福もお祈りしたいと思います。

日本史に残る大事件へ   トップページヘ