- 坂本九 Kyu Sakamoto 、中村八大 Hachidai Nakamura -

<20世紀を代表する名曲>
 20世紀、日本のポップス、歌謡曲を代表する名曲を10曲あげるとすれば、あなたならどんな曲を選びますか?
 僕なら、・・・喜納昌吉の「花」、美空ひばりの「川の流れのように」、「リンゴ追分」、はっぴいえんどの「風をあつめて」、中島みゆきの「時代」、「地上の星」、佐野元春の「サムディ」、ザ・ブームの「島唄」、スマップ&マッキーの「世界にひとつだけの花」、それに井上陽水、山下達郎サザンオールスターズのどれか・・・ときりがない感じです。しかし、客観的に見てやはり坂本九の「上を向いて歩こう」だけはあげないわけにはゆかないでしょう。
 RCサクセションだけでなく、国内、国外多くのアーティストがカバーしているこの曲は、世代を越えて、ジャンルを越え、国境までも越えて愛されている数少ない名曲のひとつです。
 シンプルでありながら忘れられないキャッチーなメロディーを生み出したのは作曲家の中村八大。どれだけの人の心を救ってきたかわからない素晴らしい詞を書いたのは永六輔。そして、その歌詞を独特の節回しによって完成させ、世界に広めた歌手が、坂本九でした。
 実は、「上を向いて歩こう」は発表された当時、大ヒットしたにも関わらずその年のレコード大賞では候補にもならなかったといいます。その理由は、あまりにも曲調がアメリカっぽすぎ、当時大ヒットした映画「シェーン」の曲に似ていると判断されたからだといいます。レコード大賞の審査基準は、「芸術性」、「独創性」、「大衆性」の三つなので、洋モノのカバー曲とみなされたことで、この曲は審査の対象からはずされたといわれています。
 今でも多くの人がこの曲を愛しているように、「上を向いて歩こう」には時代や国境を越える普遍的な魅力があります。その意味でこの曲は、昭和の「歌謡曲」を飛び越えたJ−ポップの原点ともいえる曲だったといえます。
 もし、1985年8月12日、彼があの日航ジャンボ機に乗らなければ、もういちど彼はブレイクすることになっていたのではないか?そんな気がします。後に、平井堅と共演した「見上げてごらん夜の星を」を聞いた時、そう思った方も多いのではないでしょうか。日本人として初めて飛行機に乗って海外ツアーを行った偉大な歌手、坂本九。皮肉なことに飛行機事故で星になってしまった彼の悲劇の人生を振り返ります。

<花街育ちの少年>
 坂本九は、1941年12月10日真珠湾攻撃から2日後に川崎市で生まれています。港町川崎の港湾請負の会社を経営していた彼の父親にとって彼は九番目の子供でした。彼が中学二年生の時、両親は別居。彼は市内の花街で売春婦のための待合を経営し始めた母親のもとで育てられることになりました。花街で育った彼の周りには、三味線や義太夫などの音楽があふれていましたが、時代はすでに50年代の半ば。ハイカラな少年たちの間では、早くもエルヴィス・プレスリーがヒーローになりつつありました。
 教室でほうきを抱えて、エルヴィスのマネをする彼の目標は、早くもミュージシャンにしぼられていました。高校に入学すると彼は知人のつてを使って、当時ウエスタンを演奏する人気バンドだったザ・ドリフターズのバンド・ボーイを勤め始めます。(ちなみに彼の前のバンド・ボーイは、当時ロカビリーの大人気スターだった山下敬二郎でした)
 1958年2月8日、第一回日劇ウェスタン・カーニバルが開催され、1週間で4万5千人を越える観客を集めます。あまりの人気にこのコンサートを企画した渡辺プロは、急遽第二回のウエスタン・カーニバルを開催し、その後、第三回、第四回と開催します。その第三回に彼はロカビリー歌手として出演、華々しくデビューすることになりました。この時、彼が歌ったのはリトル・リチャードの「Send Me Some Lovin'」でした。当時の彼の歌い方は、後の「上を向いて歩こう」とは違いパワフルでワイルドなロックンローラー・スタイルでした。1961年に発売された彼の「GIブルース」は、多くのロカビリー歌手がカバーした中でも最もヒットし、ロカビリー・シンガーとして彼の名は一気に有名になりました。
 ただ、ここでひとつ気になることがあります。1961年という年は、60年安保で日本中が揺れた翌年です。反米の抗議運動が日本中で盛り上がった状況で占領軍の元兵士でもあるプレスリーが歌った曲が違和感なく受け入れられたのはなぜだったのか?ということです。プレスリーの「GIブルース」は彼がドイツに派遣されていた時のことを歌っています。それを第三者的に聞くならまだしも、日本にも米軍がついこの間まで占領軍としていただけに客観的に聞くことはできなかったはずです。まして、坂本九の日本語ヴァージョンでは歌詞からドイツ的な部分は取り除かれているので、それを日本にいるGIの歌と聞くことも可能でした。
 ひとついえるのは、坂本九自身のミュージシャン・デビューは、1958年4月の立川の下士官クラブでエルヴィスの「ハウンド・ドッグ」を歌った時で、ほとんどのロカビリー・シンガーはそうした米軍関連の施設をメインに音楽活動をしていました。そんな彼らにとって、GIブルースを歌うことは観客のニーズに答えることであり、当然の選択でした。その点では、彼はごくごく自然に音楽的なクロスオーバーを果たしていたといえるでしょう。
 ただし、そうした音楽的なクロスオーバーは、政治的に利用される可能性を常に秘めていました。当時のロカビリーの人気アーティストで、後にアニメ・ソングの大物歌手となる佐々木功は当時のアメリカの文化戦略「3S」についてこう語っています。
「スクリーン、ソング、スポーツという3つのSで、日本人を政治的なものから引き離す政策のことといわれています。戦後、、ポップスや映画が急に流行ったのは、その政策のためだったと思いますし、いまだにその流れは続いていると思います。・・・」
佐々木功
 実際、後に「上を向いて歩こう」をヒットさせて以降の坂本九は、日米親善のシンボル的存在として様々な公的行事に関わることになります。

中村八大
 1949年、坂本九がデビューする10年前に高校に在学中だった一人のピアニストが楽団のメンバーとして活動を始めていました。後に坂本九の「上を向いて歩こう」の作曲者となる中村八大です。
 中国の青島にある日本人学校の校長だった彼の父親は、彼を音楽家にしようと10歳の時、彼を単身日本へと旅立たせました。早稲田国民学校に入学した彼は、そこで音楽を学び始めますが、日米開戦後は敵性語を使用できなくなり、ジャズなどの洋楽もご法度となります。ピアノを弾きたくても、夜は照明を消さねばならず、いつの間にか彼は譜面を見ずに目を閉じて演奏する癖がついてしまったといいます。
 終戦後の1952年、アメリカからジャズ界の大物バンド、ジーン・クルーパ・トリオが来日。初めて米軍兵士向けではなく日本人向けのライブが開催されました。それをきっかけに、エラ・フィッツジェラルドオスカー・ピーターソンルイ・アームストロングなどの大物アーティストが次々と来日し、日本はジャズの一大ブームを迎えます。そんな中、中村八大は、横浜の将校クラブで演奏するためにジャズ・バンド、シックス・ジョーズを結成し、活躍を開始します。
 シックス・ジョーズのメンバーは、ピアノが中村八大で、ベースが渡辺晋(後に渡辺プロを設立)、バイヴが安田八郎、ギターが宮川協三、ドラムスが南広、サックスが松本英彦。彼らはバンド解散後もそれぞれの道で活躍することになります。(当時のジャズ・ブームの波に乗った彼らの活躍は、阪本順治監督の映画「この世の外へ クラブ進駐軍」を見ていただければよくわかると思います。必見の映画です)
 ジャズのブームは盛り上がりが凄かった分、5年であっさりと終わりを迎えます。次に来たのが前述のロカビリー・ブームでした。中村は作曲家として、東宝のロカビリー映画「青春を賭けろ」の挿入歌を任されることになります。当然、作詞家も必要になったため、彼は大学の後輩でラジオ番組の台本作家、永六輔に声をかけました。お互いにポップスの世界での仕事は初心者だった二人ですが、たった一晩の猶予しかない状況で10曲を仕上げました。そしてその中の一曲、映画にも出演している水原弘が歌う「黒い花びら」(1958年)は、第一回のレコード大賞を見事に受賞します。初心者であるがゆえに、彼らは新たな流れを歌謡曲にもたらした二人は、一躍時代の寵児となりました。

<「上を向いて歩こう」誕生>
 1961年、彼らはNHKの大人気テレビ番組「夢で逢いましょう」で坂本九が歌う初めてのオリジナル曲を担当することになりました。そこで彼らが用意したのが、「上を向いて歩こう」でした。この曲を中村八大のリサイタルで坂本九が歌うのを聞いた永六輔は、最初その歌い方にびっくりして、ふざけているのではないかと思ったといいます。
「上をむうういて、歩こうおうおうおう・・・」という字数を合わせた不思議な歌い方は、よく考えればおかしく聞こえるかもしれません。しかし、メロディーを重視し、歌詞を自然にそこに乗せた彼の歌い方があったからこそ、後にこの歌は世界的なヒットに結びついたのでしょう。逆に、永六輔が感じた違和感は、もしかするとこの曲が日本で30万の売り上げを記録する決め手となったのかもしれません。ところが、大ヒットしたにも関わらず、前述のようにレコード大賞の候補にもなれなかったこの曲は、そのままだと1960年代を代表するナツメロになる運命だったかもしれません。

<ヨーロッパからブレイク>
 「上を向いて歩こう」のブレイクは、先ずヨーロッパから始まりました。この曲を聞いたイギリス人DJがこの曲を気に入り、自分が知っている三つの日本語「フジヤマ」、「ゲイシャ」、「スキヤキ」から、「スキヤキ」を選び、タイトルをつけたといわれています。(ちなみに、ベルギーでは「Unforgettable Geishababy(忘れじのゲイシャ)」として発売されていたそうです)
 イギリスでは、まず先にオーケストラによるインストロメンタル・ヴァージョンが紹介されているので、やはりそのキャッチーなメロディーが人々の心をとらえたのでしょう。その後1963年に入りアメリカの西海岸を中心に坂本九のオリジナル・ヴァージョンがラジオでかかり始め、ついにキャピトル・レコードが「Sukiyaki」というタイトルで発売。すると1963年5月4日に「キャッシュ・ボックス」のチャートにランクインすると、7週間後にトップにたち、その後4週間首位を守り続けました。
 当然、次々にカバー作品も登場し、その人気は世界的なものになりました。同年8月、彼はアメリカに飛行機で渡り、人気番組「スティーブ・アレン・ショー」に出演するなど、各地で大歓迎を受けました。敗戦から18年、日本人がどれだけ彼を誇りに思ったか、スポーツとは異なり、アメリカ発のポピュラー音楽の分野で日本人がヒットチャートのトップに立ったという快挙は、あまりにも大きなことでした。

<追記>(2012年10月)
 「スキヤキ」の命名者には他にも説があり、最新のもので松永良平(著)「20世紀グレーテスト・ヒッツ ポピュラー音楽をめぐる記憶」には以下のような記述がありました。
 イギリスのトランペッター、ケニー・ボールがインスト曲としてこの曲を録音した時、当初「サヨナラ」にするか「スキヤキ」にするか迷っていたそうです。たまたま、そこにいたアイドル歌手ペトラ・クラークが「スキヤキ」がいいわよ!と言って決まったということです。そして彼のこのレコードが全英のトップ10ヒットとなり、そこから「スキヤキ」の大進撃が始まるわけです。

<追記2>(2012年12月)
 ある時、坂本九が実家近くの銭湯に入った。すると、そのことを知った女性客が女風呂で「上を向いた歩こう」を歌い出し、大合唱になったといいます。当時の彼の人気が伺えるエピソードです。

<追記3>(2012年12月)
 九ちゃんの歌唱法は一種独特である。ロック好きの九少年は、プレスリーの大ファンで、日夜ロックンロールを聴いていたらしい。しかしあの独特のこぶしの利いた歌唱法は小唄好きだったお母さんの影響らしい。毎日のように家で小唄を聞いているうちに、自然とこぶしが入るようになったのだろう。
「あの時、マイソングユアソング」都倉俊一

<クロスオーバー・ドリームス>
 大ヒットの後をうけ、彼は海外向けの第二弾シングルとして、渡辺はま子の太平洋戦争中の大ヒット曲「支那の夜 China Nights」を発表します。それは前作とは異なる日本的な情緒を打ち出そうという意図でしたが、それは明らかに古臭すぎました。結局、「支那の夜」はヒットチャートの50位代までしか上昇せず、あっという間に彼は歴史的な一発屋の仲間入りをすることになりました。もちろん、日本国内での彼の人気続き、けっして一発屋ではありませんでしたが、彼は歌手としてよりもバラエティー・アイドル的なものに変わりつつあったのも事実でした。
 日本人アーティストとして、初めてクロスオーバー・ドリームスを実現させた坂本九は、エルヴィス・プレスリーが白人と黒人の間のクロスオーバーを実現して大スターになったのと同じように日米間のクロスオーバーを実現することでスターになりました。そして、それは時代が求めていた結果だったのかもしれません。「時代」と三人の「才能」が融合したことで起きた奇跡の凄さは、その後、誰一人として日本人が全米チャートの1位になれずにいることからも明らかでしょう。

「ディープ・パープルも悪くないけど、やっぱり自分の本質はロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」や坂本九の「上を向いて歩こう」なんだよって。・・・・・」
「・・・今のJ−POPシーンも、あの震災以降、元気を失くしてしまっているというか、無理をして『上を向いて歩こう』なんかをいろんな人が神妙に歌っているのを観ても、あの曲の良さをきちんと理解して・・・というかポップに表現できる歌手が何故かひとりもいないんだよね。みんな、もしかしたら今の子は、日本人のオリジナリティと自然に触れる経験が無いんでしょうかね?それとも否定的なのかな?・・・」
桑田佳祐インタビューより「SWITCH」 

<参考>
「さよならアメリカ、さよならニッポン - 戦後、日本人はどのようにして独自のポピュラー音楽を成立させたか -」 2012年
(著)マイケル・ボーダッシュ
(訳)奥田裕士
白夜書房

「読むJ−POP」 2004年
(著)田家秀樹
朝日文庫

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