- サリフ・ケイタ Salif Keita -

<サリフ・ケイタの生い立ち>
 西アフリカが生んだ世界的ポップ・ヴォーカリスト、ユッスー・ンドゥールキング・サニー・アデは、ともにグリオというアフリカ独特の歌う吟遊詩人の血筋を受け継ぐ者としてこの世に生まれ、その伝統を活かしながら、それぞれの音楽を築き上げました。
 しかし、同じ西アフリカのマリが生んだ世界的ポップ・ヴォーカリスト、サリフ・ケイタの生い立ちは、彼らとは大きく違っています。彼の血筋はグリオどころか王家の血筋だったのです。それも13世紀に西アフリカ一帯を征服した古代マリ帝国の始祖スンジャータ・ケイタの直系の子孫だったということです。

<アルビノとして生まれた宿命>
 そんな名門の家系に彼はアルビノとして生まれました。アルビノとは、遺伝的にメラニン色素が生まれつき欠乏しており皮膚が白く、視力も弱いことが知られています。しかし、それがかえって彼のカリスマ性を強める原因になったとも言われています。
 しかし、問題はそれだけではありませんでした。名門の家系だったからこそ、彼のような特殊な人間の存在は許されないという差別の構図が存在したのです。そのため、彼は一族から追放同然の扱いを受けることになり、学生時代もバーなどで、ギターを弾きながら歌うことで日銭を稼いでいたといいます。

<アーテイストとしてのスタート>
 しかし、そんな彼の歌の素晴らしさを理解してくれる者も現れました。それが、彼がデビューする時に在籍していたバンド、オルケストラ・レイル・バンド・ドゥ・バマコのリーダー、ティジアニ・コネでした。(彼もまたグリオの家系に属するミュージシャンでした)彼は、このバンドのヴォーカルとして採用され、1970年レコード・デビューを飾ります。そして3年間このバンドで歌った後、1973年にアンバサデュールというバンドに移籍し、いよいよ自分の才能を発揮し始めました。

<世界的アーテイストへのスタート>
 1978年、サリフ・ケイタが作ったアンバサデュールの曲「マンジュー」が西アフリカ全体でヒットし、彼の名はアフリカ以外の国々にまで広がって行きました。そのおかげで、彼らは1980年、アメリカでの公演とアルバム録音のチャンスを手にしました。しかし、そのツアーにおいて、ゴタゴタが発生、バンド自体、空中分解してしまいました。彼は、その後しばらくバンド活動を休止せざるを得なくなりました。
 1980年の半ばを過ぎ、再び彼にチャンスが巡ってきました。1987年パリで録音したソロ・アルバム「SORO」が発表されると、それが世界的に注目を集めます。おりしも、同じマリ出身の映画監督スレイマン・シセの作品「ひかり」がカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞。その主題歌を歌っていたサリフ・ケイタは、さらに世界の注目を浴びることになりました。

<サリフ・ケイタの魅力>
 彼の音楽の魅力は、なんと言っても、そのしなやかで強靱なヴォーカルにあります。キング・サニー・アデやユッスー・ンドゥールも、もちろんそのヴォーカルは力強く、しなやかですが、サリフのヴォーカルはさらにその上を言っていると言えるでしょう。彼のヴォーカルは、高いテンションを保ちながらも、そこには常に余裕が感じられます。そして、そこにはアフリカ的なおおらかさとカリスマ的、呪術的な響きが見事に同居しているのです。1989年、彼のライブを見ましたが、その貫禄といいそのカリスマ性といい、かつて見たボブ・マーリーのライブを思い出させるものがありました。(カリスマ性といえば、その時の来日公演では、前座として日本が生んだカリスマ・アフロNo.1ヴォーカリスト、江戸アケミ率いるJAGATARAが登場した。彼もまた素晴らしかった。ご冥福をお祈りします)
 さらに、アフリカ音楽=ダンス音楽という図式が多い中、彼の歌にはじっくりと聞かせる曲が多く、その点も他のミュージシャンたちとは、大きく違う点だと言えるでしょう。

<世界進出にかける意欲>
 彼はアルバムをつくる際、50%アフリカ、50%ヨーロッパを常に意識しているといいます。(来日時1989年のミュージック・マガジン中村とうよう氏のインタビューより)
 サニ・アデが、ジュジュというナイジェリア独特の音楽スタイルを捨ててまで世界進出を望まなかったのとは対照的に、サリフは世界市場を意識した曲作りに最初から積極的でした。さらに、そんな彼の意志を繁栄してか、彼のバンドのメンバーは実に国際色豊かな構成になっています。
 例えば、1989年来日時のメンバーは、以下のようになっていました。
先ず、サリフと同じマリ出身は、パーカッションの担当とバラフォン担当の二人、それに女性コーラスのうちの一人(もう一人はギネア人)、ベースとドラムスはカメルーン人、ギター、キーボード、サックスがフランス人、トロンボーンとトランペットがアメリカ人(うち一人は黒人)となっていました。

<脱アフリカとアフリカの血>
 1990年"Amen"、1995年"Folon"と、彼は着実に好アルバムを発表しながら、積極的に世界市場を目指し音づくりを進めてきましたが、不思議なことに彼のサウンドはけっしてアフリカらしさを失うことはありませんでした。もちろん、それは彼の驚異的なヴォーカルのパワーによるところが大きいのですが、けっしてそれだけではないでしょう。
 自分がアルビノであるためにはみ出さざるを得なかったアフリカの伝統的社会構造、そんな古いアフリカの価値観に対する反発の心が、彼のサウンドをアフリカの伝統音楽にこだわらない自由な音楽へと羽ばたかせたのかもしれません。しかし、それでもなお、彼の体内に流れる古代マリ帝国の王家の血は、彼のサウンドをアフリカの大地へしっかりと結びつけているに違いないでしょう。だからこそ、彼の歌には、繊細で高貴な美しさとアフリカの大地がもつ力強さが、見事に両立しているのではないでしょうか?

<締めのお言葉>
「声は語られるたびに、スピリットを再生する」
 ダグ・ボイド著「ローリング・サンダー」より

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