J・D・サリンジャーのヨーロッパ戦記 


- J・D・サリンジャー J.D. Salinger Part 1 -

<サリンジャー究極の伝記本登場>
 2010年、サリンジャーの死は、「え!サリンジャーって、まだ生きてたんだ!?」と世間を騒がせました。しかし、21世紀に入ってからも「キャッチャー・イン・ザ・ライ ライ麦畑でつかまえて」は、世界中で読まれ続けており、村上春樹の新訳版など話題は尽きません。
 ロシア文学の傑作が「過去」の作品にも関わらず新しいファンを獲得し続け、「古典文学」と呼ばれているのとは違う意味でサリンジャー作品は「永遠の青春文学」としての地位を固めつつあるのかもしれません。(村上春樹の作品もサリンジャーの系譜に属することになりそうです)そんなサリンジャーの伝記本の決定版的伝記本が出ました。それは、サリンジャーの死によって発表可能になった情報とまだ存命な証人たちの協力のおかげで誕生したといえます。
 この伝記本は、「文学作品」としての価値よりも、第二次世界大戦の戦場ドキュメント、戦後アメリカ社会の変化を描いた作品として価値があるかもしれません。特に前半部におけるサリンジャーの従軍時代に関する描写は、「プライベート・ライアン」以上のリアリティがあり、なぜサリンジャーが精神を病むことになったのかがやっとわかった気がします。それに比べると、後半の隠遁生活の部分は、ドラマチックとは言い難いのですが、それでも700ページを超える大作にも関わらず一気に読むことができました。(興味本位の一ファンの気持ちになってしまいました)
 このサイトにはすでにサリンジャーのページがあるのですが、ここでは改めてそれを補足するものとして、より詳細に彼の人生に迫ってみます。今まではっきりしていなかったサリンジャーの実像がよりはっきりと見えてきた気がします。
 ちなみに、究極の伝記本「サリンジャー」に書かれている最も重要な発見は、彼が新作を書き続けていたという噂が本当だったということ。そしてその中のいくつかの作品が今後、発表されるらしいということです!それがどんな作品なのか?その出来栄えはいかがなものか?
 「サリンジャーの謎」は、今後また世界を騒がせることになりそうです。

<ユダヤ人であること>
 サリンジャーの人生にとって、自分がユダヤ人であるという事実は重要な意味をもっていました。彼は本名をジェローム・デイヴィッド・サリンジャーといいますが、自分の名前は常に「J・D・Salinger」と書いていました。それは、ユダヤ的な自分の名前を隠したかったからではないかと言われています。

 1940年代には、多くの人々がユダヤ人に対して公然と偏見を振りかざしていた。たとえばアイビーリーグに属する大学は、ユダヤ人の入学者数を制限していた。上流社会に受け入れられるためには、金や教育や人脈だけでなく、非ユダヤ系であることが必要とされた。サリンジャーは大人になるにつれ、金や、ハリウッドからの関心や、アイビーリーグからのお墨付きといった、自分が蔑むべきと主張していたものを頻繁に求めるようになっていった。そもそも初めから、事情は込み入っていたのだ。
デヴィッド・シールズ

 彼は学生時代からユダヤ人であることを強く意識していたようですが、そうした差別問題について彼は作品で取り上げてはいません。しかし、そのことは彼の作品に確実に影響を与えていたはずです。そして、それ以上に彼に大きな影響を与える出来事が後に起きます。彼は、ヨーロッパの戦場でユダヤ人大量虐殺の現場を目にすることになるのでする。自分もまた虐殺されたユダヤ人の一人だという事実は、彼の心に大きな傷跡を残すことになるのです。
 もしかすると、その心の傷こそが、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を産み出す重要な鍵だったのではないか?そう考えられつつあります。

<ヨーロッパでの武者修行にて>
 後に彼が描くことになるホールデン少年の秀才ぶりに比べると、サリンジャー少年は天才とはほど遠いぱっとしない少年だったようです。それでも彼の父親は彼の自分の仕事を継がせようと思っていたらしく、彼に修行をさせるためヨーロッパに向かわせます。食肉加工品の輸入業を営んでいたやり手の商売人だった父親は、彼にヨーロッパの食肉加工の現場を体験させるため、フランス語やドイツ語を学ばせ武者修行をさせています。一年間におよぶこの生活は、直接彼の作家業には役に立たなかったかもしれませんが、語学の習得が彼に戦争中、重要な役割をもたらすことになります。(語学をここで学んでいなければ、戦争で彼は死んでいた可能性が高いはずです)

 18歳から19歳の1年をヨーロッパ、主にウィーンで過ごした。・・・私はポーランドのハム・ビジネスを学ぶことになっていた。・・・結局、ポーランドでブィドゴシュチュに連れて行かれて数か月過ごし、そこでブタの食肉処理をして、体の大きな食肉処理名人と一緒に雪の中を運搬した。・・・
J・D・サリンジャー

<ニューヨークにて>
 ヨーロッパから帰国すると、彼は父親の後を継ぐことを拒否し、作家になることを決意。コロンビア大学で文学を学び、執筆活動を開始。新聞部の活動をしながら短編小説を文芸誌に送り始めます。
 まだ無名とはいえ作家志望の野心に燃えた青年サリンジャーは、ニューヨーク在住のアーティストたちが集まる人気スポット、ストーク・クラブに顔を出すようになります。そして、そこで最初の恋をすることになります。それも、当時、セレブの間で話題となっていた美少女、ウーナ・オニール。ノーベル文学賞を受賞したアメリカを代表する戯曲作家ジーン・オニールの娘です。

 16才から18才のあいだにかけて、ウーナはピーター・アーノ(人気お笑い芸人)、オーソン・ウェルズ、それからJ・D・サリンジャーとデートをしていた。16才の少女がこうしたそうそうたる面々に情熱を傾けるっていうのはかなり変わったことよ。ただし忘れてならないのは、いま話題にしているのは、鋭い知性をもっていく、美しくて、愛情にあふれている、内気な若い女性だってことなの。彼女はこうした特別な男たちにも多くのものを提供できる、極めて並外れた少女だった。
ジェーン・スコヴェル(ウーナの伝記「ウーナ: 影の中に生きて」著者)

 サリンジャーは傷を抱えた女性に惹かれるのだと思う。彼にはそうした女性を察知する第六感があった。ウーナ・オニールも傷を抱えていた。
(父親ジーン・オニールは家族を捨てて家を出てしまい、それが彼女の心の大きな傷になっていました)
ジェラルディン・マクゴーワン(ボストン在住のライター)

 当時、保守的な権威に反発する小説を書き始めていたサリンジャー青年にとって、ストーク・クラブのスノッブな雰囲気はけっして居心地が良かったはずはなく、セレブを象徴する存在だったウーナのお嬢様的な生き方にも、反発は感じていたはずですが、それと「恋」の感情は別物だったのかもしれません。彼の抱えるこの矛盾は生涯続くことになります。

 彼女は美しく、サリンジャーはそんな彼女を愛し、崇めていた。同時に醜悪で浅はかだとも思っていた。浅はかさにすごく腹を立てていた。典型的作家って感じだよ。
アラム・サローヤン(作家)

 しかし、そんなサリンジャーの恋ごころがどこまでウーナの心に響いていたのか?
 1942年、ウーナの母親は彼女を映画スターにしようと決め、ハリウッドの演劇学校に入学させます。そして、これが彼女をチャーリー・チャップリンに出会うことになるきっかけとなりました。54才のチャップリンと18才のウーナの結婚は、サリンジャーにとって衝撃でした。彼自身がその後、チャップリンと同じように遥か年下の女性との恋を死ぬまでに何度も繰り返すことになったのは、この時のトラウマだったのでしょうか?なんとも不思議な因縁です。
 当初、多くの人が親子のような年齢差の結婚が長続きするはずはないと予想しましたが、ウーナとチャップリンの愛情は永遠ともいえるものとなりました。ウーナはチャップリンがこの世を去るまで40年間、彼のそばに寄り添い、8人の子どもを育て上げました。
 世界的喜劇役者として大衆と関わり続けながらも、赤狩りによってアメリカを追われヨーロッパに移住したチャップリンは、政治によって映画界を引退させられたといえます。それに対し、自らの意志でアメリカ社会から隠遁してしまったサリンジャー。似ているようでまったく異なる二人の人生は、不思議な対称をなしています。

<ノルマンディー上陸作戦にて>
 チャップリンに恋人を奪われたショックと日本軍による真珠湾攻撃。二つの事件により、彼は迷わず国の為に軍に入隊する道を選択します。ところが、当初兵役検査を受けた彼は、障害者や同性愛者と同じ「Bランク」判定をされ、入隊できませんでした。生まれつき睾丸が一つしかなかったのが、その理由ではないかといわれています。しかし、その基準は戦争が長引いたことで、変わったようで、彼は陸軍所属の兵士としてヨーロッパに向かうことになります。
 ただし、ヨーロッパでの生活経験と語学力が認められた彼は、一般の兵士とは異なる任務を与えられます。

 サリンジャーはきわめて重要な役割を担っていた。第二次世界大戦で防諜に関わる人間は誰であれ重要な役割を担っていたのだ。1.5Kmほど先の村に攻撃を仕掛けることになった分隊にいる若い兵士たちは、その村について知り得ることであればどんな些細なことでも知りたがった。武器庫はどこか、路地はどこか、銃撃の場所はどこかと。サリンジャーたちの仕事は、そんな兵士たちをより多く生き残らせるための情報を提供することだった。・・・
アレックス・カーショウ(第二次世界大戦関連の研究者・ライター)

 しかし、そんな特殊な任務とはいえ、彼が戦地に向かうためには命がけの作戦に参加する必要がありました。あの有名なノルマンディー上陸作戦です。

 Dデーの前の晩、軍の高官が我々を集めて作戦の確認を行った。そこで高官が言った最後の言葉はいつまでも忘れられない。
「我々の第一陣が全員殺されたとしても、怯むんじゃない。より多くの部隊でもって、屍を越えてゆくまでだ」

ケン・オークリー(Dデーの第一波として上陸した上等水兵)

 1944年6月6日、サリンジャーが所属する第12歩兵連隊はDデーの際、第2陣として上陸作戦に参加。総勢3100名弱が海岸から上陸しますが、この月の終わりまでに2000名以上の兵を失うことになりました。映画「プライベート・ライアン」で描かれているようにこの作戦は悲惨極まるものでしたが、実はそこから先にもさらなる危険地帯が兵士たちを待ち受けていました。特に北フランス平野部の農村地帯には、ほとんど隠れる場所がなかったためにドイツ側スナイパーの標的となり、多くの兵士が畑などの行軍中に殺されて行きました。ドイツ兵たちは、様々な場所で待ち伏せをしていたのです。小さな村一つを占領するにも、部隊は100人単位の兵士をゲリラ的な攻撃によって失い、部隊が全滅することもあったようです。
 単純な歩兵ではなかったとはいえ、彼も戦場で命を落とす可能性は十分にありましたが、そんな中でも彼は作品の執筆を続けていたようです。彼は、この時「キャチャー・イン・ザ・ライ」の6章分の原稿を持ち運んでいたといいます。そのうえ、彼は戦場に取材も兼ねて来ていたアーネスト・ヘミングウェイとも何度か会っており、彼から様々な影響を受けることになります。

 ヘミングウェイはロシアにおけるトルストイのように、戦争年代記編者、作家、兵士、冒険家であり、撃たれても死なないと思われていた。不死身の男だと。戦争を、あらゆる厳しい時代を生き抜いていくんだと。マレーネ・ディートリッヒ、イングリッド・バーグマン、エヴァ・ガードナーといった絶世の美女たちが彼を取り囲んだ。そういう様々な要素から、アメリカ社会はヘミングウェイのイメージを作りあげていったんだ。・・・
A・E・ホッチナー(サリンジャーの友人・作家)

 22連隊所属のヘミングウェイと12連隊所属のサリンジャーは戦場で何度か出会い。その後も作家として、兵士として手紙のやりとりを続けることになります。
 ある時、ヘミングウェイがドイツ製ルガーの優秀さを証明するため、サリンジャーの前でニワトリの頭を撃ちぬいたという逸話があります。
 サリンジャーはヘミングウェイの常軌を逸した行動に驚き、呆れてしまったといいますが、それでも戦場でも文章を書き続けるヘミングウェイの姿勢は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に大きな影響を与えることになりました。「キャッチャー・・・」が戦場が登場しない「戦争小説」と言われることになった原因はここにあるのかもしれません。(後に、ヘミングウェイは銃によって自殺することになります)
 その後も、彼の部隊は何度も危機に追い込まれ、ノルマンディ-以降、最大の危険地帯となった「ヒュルトゲンの森」にさしかかります。

<ヒュルトゲンの森にて>
 ヒュルトゲンの森の戦いが終わったとき、兵卒は小隊長になっていた。第22歩兵連隊のある隊では、11月16日から戦闘ぶ入り12月の初めの週まで生きていたのは少尉ひとりだけだった。第28歩兵連隊と援護部隊は6千人の兵士たちを - 死ぬか、負傷するか、失踪するか、捕虜にとられるかで - およそ2週間のうちに失った。・・・
エドワード・G・ミラー(米軍の元兵士で第二次世界大戦の研究家)

 実情に通じた人々にとって、ヒュルトゲンの恐怖は、自傷行為によって負傷した兵士の数と、未曽有の脱走率の高さのなかに見て取ることができるだろう。脱走を食い止めるために、何度も逃走を繰り返した哀れな脱走兵エディ・スロヴィク兵卒がヨーロッパ作戦戦域で唯一脱走を理由として公式に射殺されたが、これは西部戦線における絶望的な瞬間だった。
ポール・ファッセル(戦争と文学を研究する大学教授)

 上陸し前進するしかなかったノルマンディー上陸作戦とは違い、ヒュルトゲンの森での戦いは兵士を孤立させ、恐怖による精神的危機に追い込みました。サリンジャーもその一人でしたが、彼はここでも無事に生き残りました。ところが、運命は彼にさらなる試練を用意していたのです。

<強制収容所にて>
 いよいよ戦争は終わろうとしていました。残るのは、わずかに残るドイツ軍を降伏させ占領地を開放する仕事でした。ところが、その仕事はけっして楽なものではなかったのです。それは、ある日、突然、彼らの目の前に現れました。

 1945年の春に、ドイツの強制収容所に入ったとき、J・D・サリンジャーはナチス政権の純然たる悪を目撃した最初のアメリカ人の一人となった。想像を絶する恐怖を目にしたことだろう。そこにあったのは、うずたかく積み上げられた焼死体の山だった。真実であるがゆえ陳腐に聞こえるが、その光景は言葉では言い表せないものだ。
アレックス・カーショウ(第2次世界大戦の研究家・ライター)

 そこに入った兵士のだれにとってもそうであったように、収容所の体験はサリンジャーにとっても不意打ちだった。あのにおいと、積み重ねられた裸体の光景 - すべて死体のように見えたが、ときどき音が聞こえてくることがあり、兵士たちは実力はまだ生存者がいることに気付いていた。・・・
デボラ・ダッシュ・ムーア

 サリンジャーが目を向けると、生存者たちは服従するように頭を下げた。まるで打ちのめされた犬のようだった。撃たれたり、殺されたり、打ちのめされたりするのを恐れて、他人の目を見ることができないのだ。そのイメージ- 解放者の目すら見ることのできない者たちの様子- は、多くのアメリカ兵の記憶に一生焼き付くことになった。
アレックス・カーショウ(第2次世界大戦の研究家・ライター)

 収容所に入ったとき、アメリカ兵たちのショックはすさまじく、泣き崩れてしまう者たちもいた。地面に倒れ込む者もいた。何人かは直ちに医者の治療が必要になった。収容者たちではない。解放者たちに治療が必要になったのだ。
 中世の画家たちは想像上の地獄を描いたが、これは本物の地獄だった。死体と半死半生の人間たちの墓場である。
・・・
ロバート・アブズグ(テキサス大・オースチン校教授)

 カウフェリンクの司令官、アイヒェルドルファーの有名な写真がある。死体に囲まれて立っている写真だ。この写真の奇妙なところは、彼の佇まいだ。まるで日常の仕事をこなしているかのように、真面目な顔をしている。そんな風にしてすべては起きたのだ。・・・
ロバート・アブズグ(テキサス大・オースチン校教授)

 サリンジャーは歩兵ではなかったのであり、・・・彼の神経衰弱は戦闘のストレスによるものではなかった。カウフェリンクがサリンジャーを壊したのだ。
エバーハート・アルセン(ニューヨーク州立大英文学教授)

<心的外傷性ストレス障害(PTSD)>
 こうして彼はなんとか戦争を生き延びましたが、なぜか彼はアメリカには帰らず、そのままヨーロッパでひとり戦争を続けます。それは、軍からの依頼による新たな任務で、戦時中ナチスに協力者した人物を探し出すことでした。

 サリンジャーはいわば刑事になったのだ。制服に身を包んだ刑事である。基本的な仕事は悪い奴らを追い回すことだった。彼は一部市民や協力者や闇市場の取引人を装っているナチ党員たちを追いかけた。ナチスドイツの闇の核心を実際に覗きこみ、人類史上最悪の犯罪を行った人々の尋問をすることになった。そうして、彼らを法の裁きにかけていった。
アレックス・カーショウ(第2次世界大戦の研究家・ライター)

 ところが、彼は自分が精神を病んでいることに気づき、自らニュルンベルクの病院に入院します。そして、そこで知り合ったドイツ生まれのフランス人看護師と恋に落ちます。
 1945年10月18日、彼はその看護師シルヴィアと結婚していますが、なぜ彼女だったのか?その女性が彼にとって救いの女神だったのでしょうか?後に、彼女はゲシュタポの密告者だったのではないか、という疑惑が浮上しています。
 彼女との結婚は当初から周りが反対していて、結婚しアメリカに帰国するとすぐに二人は別れることになります。サリンジャーはシルヴィアが身分を詐称していたとして訴え、そのため結婚自体が無効になったようです。彼はシルヴィアとその家族にドイツを脱出するために利用されたのか?その逆に彼女を利用して情報を得ていたのか?二人の間に何があったのかは永遠の謎となりました。
 こうして彼はアメリカに戻り、ひとり作家活動を再開します。しかし、彼はもう戦争前の彼ではありませんでした。彼の作品が戦争をきっかけに大きく変化するのは当然のことでした。後に彼は戦前に書いた作品の出版を認めなくなったのも、自分自身がそれ以前の作品を過去のものと感じていたからだと思われます。
 そして、あの伝説の名作が生まれ、その中に描かれていたように自ら世界から身を引くことになります。

 もし彼がヨーロッパ戦線での体験をそのまま作品にしていたら、それは第二次世界大戦をリアルに描いた「究極の地獄めぐり」として、時代を変える作品になっていたかもしれません。なぜなら、この戦争はナチス・ドイツという究極の悪を退治する「善なる戦争」として美化され続け、戦場の悲惨さはそのための聖なる犠牲とされていたからです。そのため、その当時の戦争の悲惨さや無謀な戦闘の事実は長く描かれることがなく、本当の意味で「ノルマンディー上陸作戦」を追体験できる映画も「プライベート・ライアン」などのリアルな描写で描かれた作品の登場まで待たなければなりませんでした。ただし、サリンジャーに衝撃を与えたユダヤ人大量虐殺の現場を体感させる作品は、たぶん永遠に生まれないでしょう。(日本人がそれに近い体験を広島や長崎の原爆資料館ですることができますが・・・)しかし、彼はそれを文章化することはなかった。このことこそが、ホールデン少年の心の闇のもとになったのではないか?そう考えることができるのかもしれません。こうして、サリンジャーは心の奥に闇を抱えたまま、新たな時代の青春小説「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」の執筆を開始します。

「君たちはこれを見ておかなければならない。いつの日か、人々がこれを現実に起こったことだと信じられなくなる日が来るだろう。そう考えると心底ぞっとするがね」
アイゼンハワー(ダッハウ収容所にて)

<参考>
「サリンジャー SALINGER」
 2013年
デヴィッド・シールズ David Shields、シェーン・サレルノ Shane Salerno (著)
坪野圭介、樋口武志(訳)
角川書店

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