サリンジャーの不思議な隠遁生活とその終わり


- J・D・サリンジャー J.D. Salinger Part 2 -
<ニューヨークにて>
 アメリカに帰国後、彼はニューヨークの街で暮らしながら作家としての成功を目指します。戦後ニューヨークの街のエネルギーは、彼に大きな刺激となり、音楽、特にジャズが好きだった彼には居心地の良い環境だったはずです。

 サリンジャーはベッシー・スミスという概念に魅了されていたが - 彼女のことを偶像視し、神格化していたが - 、もしも彼女と直接顔を合わせたら五分も耐えられなかっただろう。彼女はきわめて威圧的な大人の女性の態度を取ったはずである。それは、彼が執拗に追い求めるもの、つまり若い女の子たちと正反対のものだった。
デヴィッド・ヤッフェ(ニューヨーク州立大教授、ジャズ研究家)

 しだいに彼は自宅の部屋にこもって短編小説を書き続けるようになりますが、新進作家としての彼の評価はしだいに高まり、憧れの文芸誌「ニューヨーカー誌」に短編小説が掲載され始めます。それらの作品の中には、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原形となる作品や一部になる作品も含まれていました。そして、それらの作品に彼がこだわり続け、書き直し、組み立て直すことで、ついに歴史的名作が誕生することになります。(1945年12月のコリアーズ誌に掲載された「気ちがいの僕 I'm Crazy」はその最初の作品といわれています)
 当初「キャッチャー・・・」のもととなるいくつかの短編は三人称で書かれていましたが、それを彼は自分自身をホールデンと一体化するように一人称に書き直します。これは、非常に重要な転換点となりました。ただし、こうして完成に近づいた「キャッチャー・・・」ですが、その出版への道のりは遠いものでした。彼の作品の多くを出版していたニューヨーカー誌ですら、彼の新作長編の魅力が理解できず、その出版を拒否しているのです。そんな中、ハーコート・ブレイズ社は、編集者が出版に積極的だったために、出版の実現に迫りました。しかし、社内的に理解してもらえなかったため、内容の一部変更を申し入れてしまいます。完璧主義者のサリンジャーは、それに対し自分から出版を断わってしまいました。ちなみにこの後、このハーコート・ブレイズ社はもうひとつ20世紀を代表する作品「オン・ザ・ロード」の出版も断ってしまいます。「逃した魚」はあまりにも大きすぎました!
 サリンジャーは集大成となる作品へのこだわりを最後まで捨てず、けっして出版社からの変更以来を認めませんでした。そのおかげで、6年もの歳月を要したながらも、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は著者の思い通りの作品として世に出ることになります。このことも、この作品が未だに読み継がれている原因のひとつかもしれません。

<ホールデン少年登場>
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が世に出ると、出版社の予想を超えて売れ続けることになります。いったいどんな人々に彼の作品は受け入れられたのでしょうか?

「ホールデン・コーフィールドは、郊外に暮らす白人少年たちにとってのマルコムXなんだ」
ジェイク・ジレンホール(俳優)

 しかし、なぜそこまで多くの若者たちにその本は受け入れられたのでしょうか?そこには、何か理由があったはずです。そのことについての証言があります。

「ホールデン・コールフィールドは疎外されたティーンエイジャーよりも、トラウマを背負った兵士と、より多くの共通点を持っている。若者にふさわしくないホールデンの白髪はからかいと自信喪失の種になっているが、かなり明白にある事実を象徴してもいる。すなわち、ホールデンは若者の肉体のなかにいる老人であるということだ」

「ホールデンの声はサリンジャーの声であり、しかし同時に彼の沈黙でもあり、彼が戦争に関して沈黙していることこそが第二次世界大戦後において彼の声を文学的に最も適切な声にしている。ホールデンを生き返らせることは、戦争について書くためにこそ、サリンジャーがどうしてもやらねばならないことだったのだ」
アンディ・ロジャース(作家)

 こうして戦争の悲劇を抱え込んで書かれた小説は、ホールデン少年の生き方に影響を与えることになり、現在進行形の若者たちの心をも捉えることになったのです。サリンジャーは戦場で抱え込んだ社会への疎外感を、戦争小説ではなく青春小説という形で描いたことで、若者たちが抱える普遍的な問題意識に訴えることに成功したのかもしれません。
 改めて振り返ると、彼はなぜ戦争が終わってもなおヨーロッパに残ったのでしょうか?同胞であるユダヤ人のための復讐のため?改めて振り返ると、彼は当時「人間のもつ暗黒面」にとりつかれていたのかもしれません。そして、その「暗黒面」がホールデン少年の心にも深く静かに刻みこまれていたと考えられます。

「サリンジャーの心的外傷後ストレス障害(PTSD)がどの程度「キャッチャー・・・」の中に浸透しているか、この小説の読者は知りたいと思わないだろうが、この小説の出版が世界的現象にまでなったのは、彼が自身のトラウマをホールデンのなかに埋めこんだからだった。私たちの誰もが壊れている。ある点においては誰しもが、とりわけ青年期には、修復できないほどに壊れていると感じていて、みな癒しを必要としている。「キャッチャー・・・」その癒しを与えてくれているのだ。ただし、かすかに、である。どのようにして与えられたかにさえ気づかない - 」
デヴィッド・シールズ

 こうしてこの小説は、深く静かに若者たちの心に影響を与え続けることになります。それも、無意識の部分に深く影響を与え続け、そのことが後に、「ジョン・レノンの死」のような大きな不幸をも生み出すことになります。

<幻となった映画化>
 「キャッチャー・・・」のヒットにより、彼は一躍時の人となりましたが、当然この小説を映画化したいというオファーもあったようです。しかし、サリンジャーは映画化の話をまったく受け付けませんでした。もともと彼は映画は大好きだったので、自作の映画化を最初から認めていなかったわけではありませんでした。それを拒否したのには、やはりそれなりの理由がありました。彼の小説の映画化は、すでに一度行われていて、その出来に彼は納得できなかったのです。
 映画化されたのは「コネティカットのひょこひょこおじさん Uncle Wiggily in Connecticut」(1948年)という短編小説で、映画化版のタイトルは「愚かなり我が心 My Foolish Heart」(1950年)でした。脚本を担当したのは、ジュリアス&フィリプス・エプスタインのコンビ。あの映画史に残る名作「カサブランカ」(1943年)でアカデミー脚色賞を受賞したコンビですから、映画化への期待はかなり髙かったはずです。
 しかし、できあがった作品は、可もなく不可もないハリウッド映画に書き直されていて、原作者のサリンジャーは完成作品を見て激怒したようです。脚本担当が、大物だっただけに期待が裏切られた衝撃は大きく、その後、彼は二度と自作の映画化を認めなくなりました。
 皮肉なことに、この映画のテーマ曲「マイ・フーリッシュハート」はアカデミー賞の候補にもなり、その後、ジャズ・スタンダードの代表曲となります。1950年、ビリー・エクスタインによるヴォーカル・ナンバーが大ヒットし、ビル・エヴァンスオスカー・ピーターソン、マンハッタン・トランスファーなど多くのアーティストたちによってカバーされることになります。

「アメリカ、それにひょっとすると世界中が、僕の父と叔父、ジュリア&フィリップ・エプスタインに大きな恩義がある - なかでも、「カサブランカ」と並ぶと言ってもいい彼らの最大の功績は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の映像化を阻んだことだ。サリンジャーは「コネティカットのひょこひょこおじさん」の映像化を嫌悪したからこそ、それ以降自分の作品を誰にも触れさせないようにしたんだからね。ありがたいことだよ。」
レスリー・エプスタイン(ボストン大教授でエプスタインの甥っ子)

 ちなみに、後にもう一度だけ短編小説「エズメ」映画化計画が浮上したことがありました。サリンジャーの原作を変えず、サリンジャーの指示に従うことを条件に始まった企画でした。しかし、主演女優をサリンジャーが自分で連れてきてしまうなど、あまりに口出しが多すぎてついに企画者が降りてしまうことになりました。

 しだいに彼は他人を信用しなくなり、部屋にこもりっきりとなりニューヨーカー誌の編集者以外の人物と話をしなくなります。そして、二人目の妻クレアと共に、ニューヨークを離れ、ニューハンプシャー州の田舎の街に移住するのでした。こうして、サリンジャーの隠遁生活が始まることになります。

<不思議な隠遁生活>
 サリンジャーはこの後、ニューハンプシャー州のコーニッシュに購入した家の離れにある貯蔵庫に一人こもって作品を書き続けるようになります。(家族とも離れて)そんな状況でもなお彼が出版社との関係を保つことができたのは、ニューヨーカー誌の編集者ウィリアム・ショーンという変わり者の編集者との出会いがあったからのようです。この人物もまた、仕事以外のことに興味をもたないサリンジャーに匹敵するオタク的編集者だったようです。

 1940年代後半以降、サリンジャーは東洋思想と宗教、特にヴェーダーンタ哲学の法規における人生の第2ステージとは、家長になること - 結婚し、家族を築き、支えることである。サリンジャーは彼の物語「フラニーとゾーイ」のモデルであるクレア・ダグラスと結婚する。こうして、彼は三つの家族の一員となった。まず彼自身の家族、次に架空のグラス一家、そして三番目に編集者ウィリアム・ショーンを中心とするニューヨーカーである - ショーンはサリンジャーの強迫観念、特に純粋さと静寂なる純粋さへの彼の執着を助長する存在だった。
デヴィッド・シールズ

 彼にとって、コーニッシュでの田舎暮らしは夢にまでみた理想の暮らしだったのかもしれません。しかし、それは彼以外の同居者にとってもそうだったとはいえませんでした。彼の異常なまでのこだわりに付き合わされる身になれば、誰でもわかったでしょう。

 サリンジャーの最も強固な矛盾のひとつは、完璧に矛盾に満ちた偽善的とさえいえるようなこの男が、他人の矛盾はどれほど些細なものでも容認できないということである。
デヴィッド・シールズ

1966年9月9日、クレアは離婚申請をします。離婚後、彼女は心理学を学び、ユング派の心理学者として成功することになります。

 最終的にクレアはこれ以上耐えられないというところまで追い込まれた - 孤独も、奇妙な食事の習慣も、孤独によって引き起こされる感情的虐待も、何もかもが耐えられなくなった。彼女は近隣のクレアモントで医者にかかり、不安感、不眠、体重の減少などを訴えた。どれもうつ病の典型的な兆候だ。
ポール・アレクサンダー(サリンジャーの伝記作家)

 3人目の妻となった35歳年下のジョイス・メイナードは25年間サリンジャーと生活した後、離婚。その後、実質的なサリンジャーの暴露本ともいえる自伝「ライ麦畑の迷路を抜けて」を発表し、元夫とは完全に決別することになります。
 長女のマーガレットもまた父親と決別し、「ドリーム・キャッチャー」という自伝を発表しています。それは完全に父親に対して批判的な内容だったため、その後彼女は父親との関係を絶つことになります。唯一長男のマシューだけが父親の望む道を歩むことになり、アイビーリーグの大学に進学し、スポーツマンとして活躍、その後は俳優として活躍することになりました。

 生涯を通じてサリンジャーは、女性になる直前の少女たちと、際限なく同じパターンを繰り返した。永遠にウーナ - チャップリン - ジュリーの三角関係を反復していた。自分と、二人目の妻クレアと、彼女の当時の夫コールマン・モックラー。自分と、メイナードと、サリンジャーが言うところの彼女が愛し、彼が愛さなかった世界。こうした女性=少女の多くは、ユダヤ人かユダヤ人のハーフ、あるいは「ユダヤ人っぽい」見た目をしていて、イノセンスを失う瀬戸際に立つイノセントな相手だった。関係を成就するやいなや、彼女たちは即座に魅力を失ってしまうどころか嫌悪感を催させるようになり、即座に彼の人生から排除されるのだった。
デヴィッド・シールズ

 「キャッチャー・・・」以降、サリンジャーの作品はどんどん宗教性を強め、自らの宗教理念、人生理念をいかに伝えるかが作品の中心テーマとなってゆきます。しかし、物語と宗教の両立はどんどん困難になってゆき、自作に対する自信が揺らぎ始めます。それこそが、彼が自作の出版を望まなくなる最大の理由だったのかもしれません。

 サリンジャーの身体的奇形からの解放、戦後の心的トラウマからの解放、人生の最後の45年間。ヴェーダーンタは、彼が人生のなかで何ににもまして最も真剣に、長期にわたり身を捧げた対象であった。彼の宗教への献身は戦後のトラウマに直結している - それはトラウマを棄て去ろうとする胸の張り裂けるような努力だった。しかし、結果的にそれは彼を二度目の自殺に追いやることになった。彼はまず戦争に殺され、次にヴェーダーンタに殺されたのである。
デヴィッド・シールズ

<手紙と小説>
 こうして彼はどんどん文壇からも、ニューヨークからも、地域社会からも離れて行きました。彼をかろうじて世界と結びつけていたのは、電話と手紙だけだったようです。(インターネットはまだ彼の家にはなかったようです・・・)それでも、彼はその二つをフル活用することで、自らにとっての理想の女性を見つけていました。(ジョイス・メイナードなど、多くの女性と彼は手紙のやり取りから付き合いを始めています)

 サリンジャーが自身の小説に手紙をたくさん使っていることは興味深い。彼がそうした理由のひとつは、サリンジャーにとって書くことは最も完璧なコミュニケーションの形態だったからだ。彼の小説のほとんどすべてで、手紙が決定的に重要な役割を果たす。・・・
フィービー・ホーバン

 「キャッチャー・・・」で、少年の「話し言葉」をリアルに使うことでブレイクしたサリンジャーが、いつしか「手紙」の文章を重視するようになっていったのは、実際に彼が手紙で多くの人とコミュニケーションをとるようになっていたことから、当然のことだったのかもしれません。
 すぐに空に消えてゆく「言葉」から、消えることなく永遠に残される「手紙」への転換は、より完璧な作品を求める彼にとって、当然の行く着く先だったのでしょう。彼の不思議な隠遁生活は、こうして長く続くことになります。

「サリンジャーが社会から引きこもってなどいないのは明らかだ。彼は自分に関して起きている物事にきわめて意識的である。物事を注視し続けて、自分の名前が悪用されていることを自分自身に警告しているのだ。それがカウンセリングになるのだろう。」
ジョン・ディーン

<サリンジャー教の信者たち>
 新作が発表されなくなったものの、彼の作品を求める声は多く、ついには贋作騒ぎまで起きることになります。
 1976年、メジャーの雑誌エスクァイアの編集者ゴードン・リッシュが匿名で「ルパートに捧ぐ - なんの約束もなしに」という小説を発表します。それは明らかにサリンジャーの新作であることを装った作品で、読者の多くがサリンジャーの新作と勘違いしたためにエスクァイアのその号はあっという間に完売してしまいました。それほど時代は、サリンジャーの新作を待ちわびていたのです。
 
 サリンジャーが「キャッチャー・・・」の中で、「僕が本当にノックアウトされる本というのは、読み終わったときに、それを書いた作家が僕の大親友で、いつでも好きなときにちょっと電話をかけて話せるような感じだといいのにな、と思わせてくれるような本なんだ」と書いたとき、この単純な文章がある種の読者に対してシグナルを送る効果を待ち、何十年ものあいだ、自宅の私道に一部のファンが押し寄せることになった。・・・
シェーン・サレルノ

 この後、彼の作品が発表されなくなっても、彼の姿が消えてしまっても、彼の作品の人気が衰えることはなく、そのファンは静かに増え続け、作品が少ないことで逆にその人気はカルト的なものになり始めます。そして、「サリンジャー教」とでも呼べそうな新宗教の信者たちが現れ、彼らの一部がホールデン少年が嫌った大人たちに天罰を下そうとし始めます。

1972年、メリーランド州ローレルにて
 アーサー・ブレマーが、アラバマ州知事のジョージ・ウォレスを暗殺しようとして、未遂に終わります。彼は「キャッチャ-・・・」の愛読者でした。彼の日記をもとに書かれた脚本はその後、映画化され「タクシー・ドライバー」として公開されることになります。

1980年、ニューヨークにて
 エスクァイア誌によるジョン・レノンの批判記事を読んだマーク・デヴィッド・チャップマンが、かつての英雄だったアイドルを自宅アパート前で射殺。その時、彼はポケットに愛読書「キャッチャー・・・」を持っていました。

1981年、ワシントンDCヒルトン・ホテルにて
 憧れの女優ジョディ・フォスター(映画「タクシー・ドライバー」のアリス役)に恋するジョン・ヒンクリーは、彼女に認められるために、当時の大統領ロナルド・レーガンを狙撃。(未遂)彼もまたホテルの部屋に「キャッチャー・・・」を持ち込んでいました。

1989年、ロサンゼルス・ハリウッドにて
 女優レベッカ・シェイファーをストーキングしていたロバート・バルドが、彼女を殺害。彼もまた「キャッチャー・・・」を所持していました。

<隠遁生活の終わり>
 結局、サリンジャーは46歳の時に「ハプワース16、1924」をニューヨーカー誌に発表して以降、一編の短編小説も発表することなく91歳まで生きた後、この世を去りました。

 やれやれ、一度死んじまうとさ、君はひとつところにがっちり閉じこめられちまうんだ。僕は実につくづく思うんだよ。もし僕が真剣に死んじまったら、誰かが遺体を川にどぶんと放り込んだりしてくれないものかってさ。良識ってのはそういうものだぜ。何をされてもいいけど、ろくでもない墓地に押し込められるのだけはまっぴらだね、日曜日になるとみんながやってきて、君のおなかの上に花束やらその手のろくでもないものを置いてったりするわけだ。まったくもう、死んでいる人間が花をありがたがるもんかい。冗談じゃないよな。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」より

 彼が書き遺した未発表小説はどの程度あり、どの程度発表することが可能なのか?
 作家にとって最高の謎を残したサリンジャーですが、今後その謎が少しだけ解けるかもしれません。
 それは楽しみのような不安なようなこれまた不思議な気分です。

「私はこの世界のなかに存在しているが、この世界に属してはいない」
J・D・サリンジャー

「発表されない芸術作品こそ、残された唯一の雄弁さである」
ドン・デリーロ(作家)

<参考>
「サリンジャー SALINGER」
 2013年
デヴィッド・シールズ David Shields、シェーン・サレルノ Shane Salerno (著)
坪野圭介、樋口武志(訳)
角川書店

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