- サム・クック Sam Cooke -

<誤解されてきた存在>
 サム・クックほど有名でありながら、誤解されている黒人アーティストもいないでしょう。かくいう僕も、以前はサム・クックのことを元祖ブラック・コンテンポラリー・アーティストというイメージでしか見ていませんでした。確かに、一般的に出回っている彼のベスト・アルバムなどを聞く限り、そう考えるのも間違いではなかったはずです。
 しかし、彼には日本に住む我々には見えない部分が数多くありました。ゴスペル・シンガー兼プロデューサーとしての聖なる側面、黒人大衆を前にファンキーにシャウトする泥臭いR&Bシンガーとしての側面、音楽出版社、レコード会社の設立者、経営者としての側面、マルコムXやモハメド・アリとの親交を結ぶ人種差別と闘う者としての側面、などなど。
 こうして彼は、白人社会において有名になることを目指す上昇志向と黒人社会のために役立とうとするコミュニティー重視の姿勢、そしてジーザス・クライストとともにあらんとするクリスチャンとしての生き方、そのどれをも生きようとしたのです。それは、彼の歌と同じくクロスオーヴァーを目指す生き方でした。
 残念なことに、その生き方の歪みが彼の早すぎる死の原因となったのかもしれません。しかし、彼の死がキング牧師に匹敵する関心を集めたのも、その生き急いだ生き方のせいだったのです。

<南部からシカゴへ>
 1931年1月22日、サム・クックは南部の小さな街クラークスデイルで生まれました。その後、大恐慌の影響で食べて行けなくなった彼の家族は、南部を離れシカゴに移住します。父親はバプティスト派の優秀な牧師で、彼もすぐに聖歌隊のメンバーとして活躍を始めました。その後、シカゴの黒人居住区にあるハイウェイ・バプティスト教会で、ゴスペル・グループ、ティーンエイジ・ハイウェイ・QCズを結成します。彼らは優れたゴスペル・グループが集まるシカゴの街でその技を磨き、しだいに人気を集めるようになりました。特にサムのヴォーカルは力強さには欠けるものの声の美しさはピカイチでした。

<ゴスペル界のアイドル誕生>
 その時の彼らのマネージャー兼指導者は、当時の人気ゴスペル・カルテット、ソウル・スターラーズのバリトン担当、R・B・ロビンソンでした。さすがはシカゴ、超一流の人たちが後輩を育てるために働いてたのです。そして、彼のおかげでサムは、大きなチャンスを得ることになります。
 ちょうどその頃、ソウル・スターラーズのリード・ヴォーカリストだった名テナー歌手ロバート・H・ハリスがソロ・シンガーとして独立することになりました。そこで、その後継者を選ぶことになり、まだ20歳にも満たない彼では若すぎるという回りの声を押し切って、サムに白羽の矢が立てられたのです。こうして、ゴスペル界に新しいアイドルが誕生しました。
 その後7年間、彼はソウル・スターラーズを率いて各地を回り、ゴスペル・グループのトップの地位を得ます。当時の彼の人気の秘密は、その甘いマスクと黒すぎない肌の色にもありましたが、甘くソフトな声とそこからは予想もできない力強いシャウトこそが最大の魅力でした。そして、彼の人気はゴスペルのライブの雰囲気を大きく変えてしまいました。彼の歌を聴くために女性たちが殺到し、黄色い声を上げるようになったのです。

<ロバート・H・ハリス>
 彼の美しい歌唱法は、ソウル・スターラーズの先輩ロバート・H・ハリスの影響によって生まれたと言われています。そして、そのR・H・ハリス自身は、なんと窓の外から聞こえる小鳥たちのさえずりを真似ることからその歌い方を身につけていったと言われています。
 サムはそんな先輩の歌唱法をマネすることで、いち早く人気者の地位を獲得したわけですが、そのままでは彼がR・H・ハリスの実績を越えることはできなかったでしょう。彼の歌は、あまりにR・H・ハリスのそれと似すぎていました。しかし、元々彼はゴスペル界のアイドルが目的ではありませんでした。彼には、すでに次なる目標があったのです。それは、ゴスペル界からポップス界への進出でした。

<聖から俗へ、ゴスペルからR&Bへ>
 しかし、彼のこの挑戦は当時所属のレコード会社、スペシャルティーの社長アート・ループの反対にあいました。それは、ゴスペル界のアイドルである彼がR&Bの世界に進出して、もし失敗すれば両方のファンから見放されてしまう怖れがあったからです。結局、妥協案として彼はキーンという別のレーベルからR&Bタイプの曲を発表することになりました。そしてそこから、彼にとって初のR&Bシングルであり、ナンバー1ヒットとなった「ユー・センド・ミー You Send Me」(1957年)が生まれました。(彼はそれ以前にも偽名を使ってシングルを発表していましたが、中途半端な曲に終わったため、ヒットしていませんでした)
 こうして、サム・クックのポップ・スターへの道が踏み出されたわけですが、それは彼の目標のほんの一部に過ぎませんでした。

<音楽出版社、レコード会社の設立>
 1958年、彼はマネージャーを担当していたJ・W・アレクサンダーと共同でカグス KAGS音楽出版社を設立します。この会社は黒人アーティストによって設立された音楽出版社の先駆けとなり、そのおかげで彼は自分の曲の印税を自らの手で管理できるようになりました。彼はソング・ライターとしても優れた能力をもっていただけに、そこから得られる収入は後に非常に大きなものとなります。さらに彼らは、キーンレコードを相手取り、彼の曲に対する印税の払い戻しを求める訴訟を起こしました。(キーンは結局多額の示談金を払うことになり、それが原因で倒産してしまいます)
 その後彼らは、SARレコードを設立。ジョニー・テイラー、ボビー・ウーマックとヴァレンティノス、ルー・ロウルズなど、彼の後を追ってきたアーティストたちを育ててゆくことになります。

<ジェームス・ウディー・アレクサンダー>
 
サム・クックが出版社を設立し、黒人アーティストとして初めて自らの曲の著作権を管理するようになったのには、その重要性を指摘することができる知識と経験豊富なアドヴァイザーの存在がありました。それがスペシャルティー・レーベルにおけるサムの同僚であり、マネージャーも勤めていた人物、J・W・アレクサンダーでした。
 彼は1950年にあのB・B・キングが結成した初めてのバンドにおいて、ヴォーカルとピアノを担当していました。その後、キングが有名になってニューヨークへ進出すると、彼はそのバンドを引き継ぎリーダーとして活躍を始めます。しかし、バンドはなかなか上手く行かず、彼はゴスペル・グループ、ピルグリム・トラヴェラーズの看板として活動するようになり、スペシャルティーと契約。そこで彼はそれまでの経験を生かしてマネージャーなど、ミュージシャンを助ける仕事もし始め、その中でサムと出会うことになったわけです。アレクサンダーがサムに教えた業界で生きてゆくための知恵は、サムのその後の活動に大きな影響を与えることになりました。

<RCAの大スターへ>
 サムはその後キーンで名曲「ワンダフル・ワールド」を発表したのを最後に大手のレコード会社RCAでと移籍します。当時、RCAはエルヴィス・プレスリーも抱えており、絶好調でした。彼はこうして次々とヒット曲を連発します。
「キューピット」「トゥイスティン・ザ・ナイト・アウェイ」「センド・ミー・サム・ラヴィン」「アナザー・サタデナイト」「フランキー&ジョニー」「テネシー・ワルツ」など。
 さらには、ニューヨークの高級クラブ、コパカバーナでのショーを実現させるなど、その人気はいっきにポップス界のトップへと登りつめて行きました。(このクラブは黒人が出演することだけでも、たいへんなところでした)

<公民権運動との関わり>
 まだまだ人種差別が当然のことだった1950年代に彼のような行動をとることは、非常に困難なことだったはずですが、それを彼はしたたかな計算と異常なまでの負けん気で、次々に実現させて行きました。そして、その精神的な支えには、当時の時代状況が反映されていたということも重要かもしれません。特に彼は黒人解放運動における最重要人物のひとりマルコムXとの親交が非常に深かったと言われており、もうひとりの同時代のスーパー・ヒーロー、モハメド・アリとも親しい間柄でした。
 その意味で、彼は当時ピークを迎えようとしていた公民権運動にも深く関わりをもとうとしていました。しかし、彼らが手を組んでそのための運動を展開することは、残念ながらありませんでした。
 1964年12月10日、サムはモーテルの管理人室で管理人に撃たれこの世を去り、その二ヶ月後にはマルコムXもまた射殺されてしまったのです。

<ささやかな意思表示>
 
公民権運動の盛り上がりの中、ボブ・ディランが発表した「風に吹かれて」を聞いた彼はこう言ったそうです。
「人種と政治のこととをポピュラー・ミュージックにのせて人前で歌ったのが白人の坊やだったなんて、黒人パフォーマーの俺にしちゃきまり悪いことだぜ」

 そして1964年、彼は「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム A Change Is Gonna Come」を発表しました。これこそ、黒人のポピュラーソングにおける最初のメッセージ・ソングと言えるものでした。そこで歌われているのは、直接的な人種差別批判ではありませんでしたが、ささやかながらも時代が必ず変わってゆくだろうという力強い宣言になっていました。(それでも、発売当時一部歌詞は変更を余儀なくされたそうです)
(注)メッセージ・ソングのさらに古いものとして、ジャズの世界ではビリー・ホリデーの「奇妙な果実」(1939年)があります。この曲は、黒人に対するリンチ撲滅キャンペーンのために歌われたのだそうです。

<サムの死の衝撃>
 サムの突然の死は、彼の歌を愛してきた人々にとって衝撃的な出来事でした。まして、彼の死の原因が、射殺であり、警察の発表によると彼はモーテルに連れ込んだ女性に逃げられ彼女を追いかけて管理人室に押し入ったために撃たれたというのです。その真相は未だにはっきりしませんが、彼は売春婦に騙され服と現金を奪われたため、仕方なく裸で追いかけることになり、その女とぐるだった可能性の高い管理人室に怒鳴り込んだのではないかと言われています。彼の短気は有名だったので、その剣幕に驚いた管理人が引き金を引いたのが真相かもしれません。しかし、当時数々の疑惑がありながら、警察はあっさりと捜査を打ち切りました。それは単なる不良黒人のどこにでもある死として扱われてしまったのです。

<栄光の影の苦しみ>
 この事件の少し前、サムはシカゴでソウル・スターラーズの結成記念コンサートにゲストとして招待されていました。ところが、彼がステージに上がり歌い出したとたん会場からは、彼に対し激しいヤジが飛びました。
「クリスチャンの面汚し!」それはゴスペルを捨てた彼に対する非難の嵐でした。
 ソウルとポップスのクロス・オーヴァーを成し遂げただけでなく、自らの力で人種間の壁をうち破ろうとした彼にとって、心の故郷でもあるゴスペル・ファンからのこの仕打ちは衝撃的だったことでしょう。聖と俗との間で揺れ動き続けた彼の魂が、無事神の身元にたどり着けたことを願いたいものです。少なくとも、その後行われた彼の葬儀には、その後のマルコムXの葬儀に匹敵するほど数多くの弔問客が訪れ、その人気の高さをうかがわせました。彼が多くの大衆に愛されていたことだけは間違い有りません。

<未だ見ぬサム・クック>
 サム・クックのソウル・アーティストとしての凄さは、日本ではオーティス・レディングに比べてあまり理解されていません。それは彼のアーティストとしての活躍期間があまりに短かったことと、彼が本格的なソウル(R&B)に挑戦した姿はレコードでは披露されておらず、ライブでしか聞くことができなかったせいかもしれません。彼の表の顔は、あくまで白人向けのポップ・シンガーとしてのそれであり、ゴスペル仕込みのソウルフルなシャウターとしてのそれは、あくまで裏の顔だったのです。
 彼の死後、1985年になってやっと発表された彼にとって唯一の黒人観衆を前にしたライブ録音盤「ハーレム・スクウェア・ライブ」は、そんな彼の姿をとらえた貴重な作品で、このアルバムは世界のソウル・ファンに大きな衝撃を与えることになりました。
 彼の活躍した時代は、まだまだ人種差別は当たり前でした。そんな中、彼は数多くの妥協を強いられ、数多くの白人向けポップスを歌わざるを得ませんでした。だからこそ、彼はポップス歌手としての活動と平行して、ソウル・スターラーズとの共演やゴスペル・アーティストたちを育てることを止めなかったのでしょう。
 もう少し彼が長生きしていれば、時代の流れに乗ったよりソウルフルで、よりブラックで、よりファンキーで、よりメッセージ色の強い曲の数々が聴けたことでしょう。彼ほど時代の流れと大衆の心をとらえることの得意なアーティストはいなかったのですから。

<締めのお言葉>
「いったい何が起きているのか、よく観察してみるのさ、イマジネーションを働かせて人々がどのような考え方なのかを察知し、後は自分の出番が来るのを見計らうんだ、そうすれば誰だって人々が共感してくれるものを書くことができると思うね」

サム・クック(テレビ番組「アメリカン・バンド・スタンド」でのインタビューより)

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