- サム・ペキンパー Sam Peckinpah (前編)-

<サム・ペキンパーの魅力>
 意外なことに、アメリカにおけるペキンパー作品の評価は、驚くほど低いようです。それだけでなく、「ゲッタウェイ」以外のほとんどの作品は興行的に失敗しています。逆に日本におけるペキンパー作品への評価は昔から高く、興行面でもペキンパー作品中最悪のデキと言われた「コンボイ」ですら日本では大ヒットしています。(これは公開当時日本ではトラック野郎がブームだったせいでもあるのですが・・・)
 僕自身も、中学、高校の頃、テレビで彼の作品をみて以来、ずっと彼の大ファンでした。大学時代に再び名画座で彼の作品をひととおり見て、その素晴らしさを再確認。「ワイルド・バンチ」は、マイ・フェバリット・ムービーのベスト10に常に位置しています。
 サム・ペキンパー作品の魅力は何なのでしょうか?
 あの美しい暴力描写は、どうやって、なぜ生まれたのでしょうか?

<サム・ペキンパー家の生い立ち>
 サム・ペキンパーこと、デヴィッド・サミュエル・ペキンパーの祖父、チャールズ・モーティマー・ペキンパーは、イリノイ州から幌馬車に乗ってカリフォルニアへと移住し、その後1983年現在のヨセミテ公園近くに土地を購入、そこでペキンパー製材所を始めました。1895年にそこで生まれた次男のデヴィッドがサムの父親となる人物です。
 残念ながらペキンパー製材所は20世紀に入り不景気のあおりで他の製材所に売却されてしまいます。そのため、家族は山を下り、子供たちの学業のためフレズノで生活するようになりました。
 その後、デヴィッドは1914年にカウボーイとして雇われていたチャーチ家の娘ファーンと恋に落ちます。彼女の父親は、地方検事を勤めた後、民主党から立候補し下院議員にまでなった人物で、ペキンパー家とは家柄的に大きな違いがありました。しかし、二人の愛は固く、デヴィッドは無事彼女と結婚にこぎつけます。さらに、彼は義理の父の意志を継ぐべく大学に進学。見事弁護士資格を取りました。

<サム・ペキンパー誕生>
 サム・ペキンパーは、そんな正義感を重んじる弁護士一族の次男として1925年2月21日に生まれました。しかし、名家と言っても、彼はけっしてお坊ちゃま扱いされて育ったわけではありません。それどころか、徹底的にサバイバルな生き方をたたき込まれて育ちました。その師匠は、祖父のデンヴァー・チャーチで、彼は狩猟の仕方やマナー、銃の扱い方などを厳しく孫たちに教え込んでいました。
 例えば、それは「狩りをするとき、しとめる動物に命がけで最後までつき合うこと」だったり「銃を敬う気持ちをもて」だったりしました。さらにこの頃、彼はジュニア・ロデオ大会にも出場しており、そんな生活が後の彼の作品に大きな影響を与えたことは明らかでしょう。
 それと彼が当時通っていた学校ですが、東洋人、インディアン、メキシコ系、黒人、白人が入り乱れ、まったく人種差別が存在しなかったそうです。考えてみると、彼の作品には、多くの人種が登場しますが、誰も人種差別をしていません。
 もうひとつ彼の家では父、祖父、そして兄と叔父がみな弁護士、もしくは判事でした。そのため、家庭での会話にはいつも裁判の事が話題に登り、彼は裁判が下すことのできる判定の曖昧さをいつも感じていました。「世の中には、単純な真実など存在しない」彼は幼い頃から、そのことを意識しながら育ったのです。

<悪ガキ、軍隊へ>
 荒っぽい育てられ方をしたせいか、サムは学校でも荒っぽいことで有名でした。喧嘩やもめごとが絶えず、困り果てた両親はハイスクール最後の年に、彼をミリタリー・アカデミーに入学させました。1943年、彼はアカデミーを卒業すると、そのまま海兵隊に入隊。すぐに幹部候補生学校へ行かされます。ところが、やはり彼に軍の幹部が似合うはずもなく、途中で見事落第してしまいます。(とはいえ、彼の同級生たちのほとんどは、この後戦場で戦死してしまいます。人生とは皮肉なものです)

<悪ガキ、戦場へ>
 彼は結局一兵卒として中国に渡りましたが、終戦間近だったこともあり、戦闘に巻き込まれることはありませんでした。ただし、彼がたまたま乗り合わせていた列車が共産党軍に狙われ、彼の近くにいた一人の荷役夫(クーリー)が狙撃兵によって撃ち殺される瞬間を目にしたことがありました。彼は後にこの時のことを「人生で最も長く感じた瞬間」だったと語っています。
 「ワイルド・バンチ」におけるあの有名なスロー・モーションの殺戮シーンは、この時に脳裏に焼き付いた映像が元になっているのかもしれません。

<演劇からテレビへ>
 フレズノにもどったサムは、フレズノ州立大に入学。女優志望のマリー・セランドと恋に落ち、すぐに結婚します。そして、彼女の影響で演劇にのめり込んで行くようになります。大学を出た彼は、ロサンゼルス近郊のある劇団に入り、そこで演出家を勤めるようになります。しかし、彼の目標はこの頃すでに映画監督だったため、2年後、彼は映画界への近道と思われたテレビの世界へとその仕事場を移します。
 最初はロサンゼルスのテレビ局KLACに就職しますが、重役と口論してしまいすぐに首になります。ところが、ここにきて彼の血筋が役に立ちました。なんと父親の友人だった法務長官がペキンパーのためにあるプロデューサーを紹介してくれたのです。そのおかげで彼は当時活躍を始めていたドン・シーゲル監督の助手の仕事を得ることができました。(映画「ダーティー・ハリー」などの監督)この時彼が参加した作品「第十一監房の暴動」は実際の刑務所で撮影を行っており、その経験は後に「ゲッタウェイ」で活かされることになります。

<テレビ界の人気作家へ>
 その後、再びテレビの仕事にもどった彼の名が知られるきっかけとなったのは、テレビ史上に残る長寿番組「ガンスモーク」の脚本でした。この番組のヒットにより彼はテレビ界における人気脚本家の地位を得ました。さらに彼は、マーロン・ブランドが自ら監督を務めた西部劇映画「片目のジャック」の脚本原案を書き、映画界でも注目されるようになりました。
 こうして、彼はテレビ・シリーズ「ライフルマン」、「遙かなる西部」で演出の機会を与えられます。さらに、それらの作品が高い評価を得たため、彼はついに映画を監督するチャンスを得ました。それが1961年の「荒野のガンマン The Deadly Companions」です。しかし、この作品は、彼が監督だけを任された形だったため、ペキンパーらしさはそれほど発揮されていません。その意味では、2作目の「昼下がりの決闘 Ride the High Country」(1962年)こそが、彼にとって本格的なデビュー作だったと言えます。

<「昼下がりの決闘」>
 この作品は、いろいろな意味で彼の本領が発揮された作品でした。やる気のないスタッフをクビにする彼の異常なまでのこだわりは、この時すでに始まっていたようです。さらに編集に関して製作会社ともめにもめ、なんとか自らの意志を押し通したものの、その後スタジオへの出入りを禁止されることになってしまいました。そんなトラブルがらみの公開だったため、ろくな宣伝をされませんでしたが、口コミでその面白さが評判となります。ついには「スリーパー・オブ・ザ・イヤー(その年、最も思いがけなくヒットした作品」に選ばれ、彼は監督として一流の仲間入りを果たします。(ベルギー映画祭では、なんとフェリーニの代表作「8・1/2」を押しのけてグランプリを受賞しています!)

<「ダンディー少佐」>
 1964年ペキンパーはメキシコで「ダンディー少佐」の撮影をスタートさせます。主演は大物俳優のチャールトン・ヘストン。騎兵隊とインディアンの死闘を描いた大作映画でした。しかし、この作品の製作過程は、その後の彼の映画人生を象徴するトラブルに満ちたものとなります。
 映画の撮影が始まった時、まだ脚本が完成していなかったというのが、先ずケチのつき始めでした。そのために撮影期間が他の作品とダブったため長期化することになります。当然、撮影費用がかさむことになり、予算を10万ドルもオーヴァーしてしまいました。監督とプロデューサー、映画会社の関係は最悪の状態となり、不信感をつのらせたペキンパーはスタッフを15人以上もクビにしてしまいました。
 撮影中、ペキンパー映画に初めて出演したジェームス・コバーンが、ダンディーというキャラクターのどんなところに興味を持って、この映画を作りたいと思ったのかを尋ねると、ペキンパーはこう答えたそうです。
「やつは生き残るからだ。くだらん騒ぎがあろうと、まわりが嘘だらけだろうと、酔いつぶれようと、どんな目にあってもダンディー少佐は生き残るんだ」
 この言葉がそのまま自分に当てはまるということを、当然彼はわかっていたのでしょうが、・・・。結局この映画の編集作業は監督を排除して行われ、彼の名はトラブル・メーカーとして業界に知れわたることになりました。

<職探しの日々>
 1964年、彼に「シンシナティー・キッド」の監督依頼がきました。ところが、あっという間に彼は下ろされてしまいます。(どうやら、初めからプロデューサーは彼を使う気はなかったようです。さらに業界から「奴を使うな!」という圧力もあったようです)スティーブ・マックウィーンの出世作でもあるこの作品の監督は結局ノーマン・ジェイソンになりました。
 彼にはまったく罪がないにも関わらず、この件でさらに彼の評判は悪くなり、その後仕事の依頼はぱったりと途絶えます。
 再び彼の名が登場するのは、1966年テレビ・ドラマ「ヌーン・ワイン」の演出と脚色によってでした。さらに翌年、彼が書いた脚本が「戦うパンチョビラ」としてバズ・キューリック監督により映画化され、再び彼に映画界復帰のチャンスが巡ってこようとしていました。

<「ワイルド・バンチ」 荒くれ男たちを集めて>
 1968年に撮影された「ワイルド・バンチ」こそ、多くの意味で最もペキンパーらしい作品と言えるでしょう。ペキンパー・ファミリーとも言われる常連の俳優たちが本格的に活躍し始めたのは、この作品からです。
 L.Q.ジョーンズ、ストローサー・マーチン、ベン・ジョンソン、ウォーレン・オーツ、ボー・ホプキンス、エミリオ・フェルナンデス、エドモンド・オブライエンらは、この後も多くのペキンパー作品に登場することになります。

<スローモーション撮影>
 ペキンパーのトレードマークとも言える銃撃戦におけるスローモーション撮影もまた、この映画から初めて登場しています。改めてこの映画を見ると、彼のスローモーション・シーンはただ単に銃撃戦をスローでとらえているのではないことがよくわかります。それは時にゆっくりと、時にスピーディーに、また時には静止画像としてとらえられ、映像のスピードを変化させることが見る者に緊張感を与えることを計算した演出となっているのです。

<ペキンパー式演出法>
 ペキンパーお得意の心理学的?演出方法も、常連俳優たちとのやり取りによって、さらに磨きがかかりました。ストローサー・マーチンは、そんなサムの演出方法について、こう言っています。
「・・・サムはわざと俺をイライラさせる状態へ持っていったのさ。それもこれも、気が狂う寸前の異常な男を俺に演じさせたかったからだ。まったくサムは、たちの悪い精神科医もいいとこさ。・・・」
<歴史的映像「橋の爆破シーン」>
 シーンごとのこだわりも、いよいよ凄みを増し、時には俳優たちを死の危険にさらすこともありました。軍用列車を襲った一味の後を追ってきたデューク・ソーントン(ロバート・ライアン)率いる追跡隊が橋ごと川へ落とされてしまう有名なシーンのセットを組んだスタッフは友人にこう言ったそうです。
「私はレンブラントに匹敵するほどの仕事をした。こんなことは恐らく私の一生に二度と起きないだろう」

 ところが最初のセッティングの時、火薬の量が多すぎることに気づいて抗議したベテランのスタントマンがいなかったら、全員橋ごと吹き飛ばされてしまっていたかもしれないそうです。CGの発達により、このシーンは本当にレンブラントの絵画なみに貴重な価値をもつ歴史的映像になったと言えるでしょう。今見ても本当に凄いシーンです。

<歴史的映像「5000人は死んだ銃撃戦」>
 この映画のラスト近く、メキシコ軍と行われる有名な銃撃戦は未だに語りぐさですが、このシーンではなんと延べにして5000人もの兵士が死んでいるのだそうです。当然5000人もの役者がいたわけではないので、撃たれて死んだ役者に水をかけて血を流し、火薬で空いた穴をテープでふさぎ、新品同様に色を塗った後、さらに着古した感じを出すように処理、そしてまた血糊と火薬を仕掛けるという作業を延々と繰り返したのだそうです。(兵士の衣装は元々300着しかなかったそうです)

<効果音へのこだわり>
 撮影後、ペキンパーは出来上がっていた効果音をすべて録音し直しました。彼のこだわりはこうでした。
「私はそれぞれの銃を違った感じで処理したい。パイクの銃は特別な感じにし、ライアンのライフルは屋根の上にいる他の賞金稼ぎどもの銃とは特徴を変え、パーンとはじける音に。ストローサー・マーチンの銃は特大で、バッファロー撃ちに使うやつだ。それぞれの銃は持ち主にあった音を出さなくてはならない。・・・」そこまでやっているのです!

<膨大なカット数>
 こうして、できたフィルムは4時間近くになっていましたが、当然公開に向けて大幅にカットされ、2時間半にまで縮められました。それでも、この映画の総カット数は、3642もあるのだそうです。(いかに短いカットを数多くつないでいるかがわかります)
 かつてヒッチコックは映画作りについて、こういったそうです。
「映画を本当に面白くさせるには、たくさんのカットが必要だ。並みの映画は600カット以上はないな」なんとその6倍はあったのです!

<再び映画会社と対立>
 またもや最終的な編集段階でペキンパーと映画会社(ワーナー)は対立することとなり、ペキンパーの望む主役たちの人物描写において重要な回想シーンなどがほとんどカットされてしまいました。(ヨーロッパ版には活かされています)ワーナーには、「ワイルド・バンチ」が3時間に渡って観客の目を楽しませるような作品には思えなかったのです。もともとアメリカでは2時間半以上の映画は論外なのです。
 それはこの作品だけではなく、彼の生涯で、思い通りに編集できた作品は後の「ガルシアの首」ぐらいだったようです。

<遅すぎた評価>
 これだけ彼がこだわって作ったにも関わらず、1969年に公開された「ワイルド・バンチ」のアメリカ国内での評判はさんざんでした。アカデミー賞でも、ノミネートされたのはジェリー・フィールディングの音楽賞だけという寂しさでした。やはりペキンパー作品はアメリカ人には不向きだったようです。
 しかし、この作品はその後10年たって、やっとアメリカ国内でも傑作と呼ばれるようになり、ワーナーはホーム・ビデオとして自社作品の販売を始めた際、歴史的名作20選の中に収めまています。さんざんペキンパーは売れないとこぼしておきながら、皮肉なことです。
 ちなみに、「ワイルド・バンチ」の日本での評価は公開当時から高く、キネマ旬報でも年間ベスト10にしっかりと入っています。彼の評価は海外では間違いなく高く、いよいよ黄金時代を迎えようとしていたことは間違いありません。 

サム・ペキンパー後編に続く

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