- サム・ペキンパー Sam Peckinpah (後編)-

<「砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード」>(1970年)
 ペキンパー・ファンの多くがベスト1に押す作品、「砂漠の流れ者 The Ballad of Cable Hogue」(1970年初公開)は、「ワイルド・バンチ」で気力と体力を使い果たしたペキンパー一味が、ある意味休息も兼ねて撮った作品でした。もちろん、だからといってペキンパー自身はけっして気を緩めてはいませんでした。その証拠に、この映画の撮影中、彼はスタッフをなんと36人もクビにしたと言われています。彼はスタッフ全員、電気工にすら脚本を読み理解しておくことを求めたと言います。全員に対し、撮影中「映画を生きる」ことを求めたのです。
 逆に彼に認められ、生き残ったスタッフたちに対する彼の愛情は他の監督とは比べものにならないものでした。だからこそ、この映画の撮影後、生き残りのスタッフたちはマスコミから批判を浴びていたペキンパーの立場を擁護するため、新聞に広告を載せたほどです。
 この作品もまたワーナーによって切り刻まれてしまい、ついにペキンパーはワーナーを去る決意を固めます。ちなみに、この作品は後に再編集されてリヴァイバル公開されました。邦題も新たに「ケーブル・ホーグのバラード」と変えられました。
 ノスタルジックな西部劇であるというよりは、世界で初めて自動車事故で死んだ男の物語とも言えるこの作品は、僕も大好きです。ザ・バンドの音楽を映像化したかのような土臭さとノスタルジーは実に味わい深いものがあります。見ていない方が多いと思いますが必見です。

<「わらの犬」>(1971年)
 再びペキンパーは暴力映画に挑戦します。それもより哲学的な意味で「暴力」という存在の本質に迫ったのがこの作品「わらの犬 Straw Dog」でした。
 主役が名優ダスティン・ホフマンだったことで、この映画にはこれまでにない深みが生まれました。彼にとって唯一イギリスを舞台にした作品ということでも異色作と言えるでしょう。暴力とはまったく縁がなかったはずの平和主義者の大学教授が思わぬ事から、殺し合いの主役になってしまうという皮肉なストーリーは、バイオレンス映画の原点とも言えます。

<「ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦」>(1972年)
 ペキンパーを評価しない評論家の多くは、彼の作品から「暴力」を取り除いてしまえば何も残らないだろうと言います。そんな評価に対する彼の答えが、彼の作品中、唯一「暴力」が登場しない作品「ジュニア・ボナー Junior Bonner」でした。
 プロとして食べて行くには、、お金にならなすぎるロデオの世界で生きる男(スティーブ・マックィーン)とその父親の人生ドラマは、それまでの作品とは異なり、優しい愛情に満ちた内容でした。

<幻の作品「北国の帝王」「脱出」>
 ザ・バンドボブ・ディラン、そしてウディー・ガスリーが好きな人なら「ホーボー」について聞いたことがあると思います。
 鉄道貨車にただ乗りして旅をする移動労働者=ホーボー(そのほとんどは大恐慌が生んだ失業者でした)たちと、彼らを列車からたたき落とすことに執念を燃やす車掌の闘いを描いた異色のアクション映画。悪役のアーネスト・ボーグナインにとっては、最高の当たり役でまさに怪獣役者の面目躍如といった感じでした。
 この作品はもともとペキンパーが製作するつもりで脚本まで自らリライトしていました。(リライトとは、すでにできている脚本を映画用に再度書き直すこと)しかし、プロデューサーとのトラブルがもとで、監督はロバート・アルドリッチになってしまったのです。
 それともう一本ジョン・ブアマン初期の代表作、これまたカントリー・ロック・ファンなら要チェックの傑作「脱出」も、ペキンパーが監督をするつもりだったようです。確かに、両作品ともペキンパー作品っぽい内容でした。

<「ゲッタウェイ」>(1972年)
 ペキンパーの作品中、唯一世界的大ヒット作と言えるのが、この「ゲッタウェイ The Getaway」です。おかげで、彼は初めて監督として配給会社からボーナスをもらうことができました。しかし、ペキンパーはそのお金をすべてスタッフに分け前として配ったそうです。なんとも彼らしいやり方です。
 この作品は大ヒットしただけのことはあり、撮影中のトラブルもほとんどなかったようです。唯一トラブルらしいトラブルは、ペキンパーという「お山の大将」に対抗するもうひとりの人物スティーブ・マックィーンの存在かもしれません。しかし、もともとこの映画の企画を実現させたのは、マックィーンが経営参加しているプロダクションだったので、二人は基本的に同じスタンスだったとも言えます。
 この映画が当時話題となった理由として、ギャング映画にも関わらず主人公である犯人が、まんまと逃げおおせてしまうという当時としては珍しいラストシーンをあげることができます。今ならそう不思議ではありませんが、それまでのギャング映画「俺たちに明日はない」「デリンジャー」「ボウイ&キーチ」などは、すべて犯人が死ぬ結末が用意されていました。しかし、ペキンパーはこの映画を西部劇の現代版という発想で作ったため、あえてラストをハッピー・エンドにしたのです。そういわれてみると、西部劇なら、ごく普通の終わり方かもしれません。

<「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」>(1973年)
 ペキンパー映画におけるトラブルの多くは、ある意味ペキンパー自らが演出したものとも言えます。それは撮影現場に緊張感をもたらし、より高い集中力のもとで役者たちが演技できる環境を生み出している場合も多かったからです。そして、そんな混沌とした状況の中で生まれる一瞬のきらめきを延々と回し続けているフィルムの中から見つけだしてつないでゆく作業こそがペキンパーの映画作りなのです。(ヒッチコックや小津安二郎、黒沢明のように完璧な脚本による完璧な映画作りを目指していた作家たちとは、そこが大きくことなるところでしょう)
 しかし、この映画の撮影現場におけるプロデューサー、ゴードン・キャロルとのトラブルは、そんな創造的トラブルとは縁遠いものだったようです。映画会社と監督、そしてプロデューサーがお互い足を引っ張り合った結果、この作品はペキンパーの作品中もっとも混乱した作品となってしまいました。編集も滅茶苦茶、スタッフもバラバラ、当然ストーリーもつながらなくなってしまいました。それでも作品として十分見応えがあるというのは奇跡に近いことです。
 この映画にはフォーク・ミュージシャンのクリス・クリストファーソンとリタ・クーリッジだけでなく、ボブ・ディランが出演しており、大いに話題となりました。これはディラン本人の希望によるもので、当時のペキンパー人気を物語っています。ちなみに、この時映画音楽も担当したディランでしたが、彼にとってはまったくの初体験だったため、監修を担当することになったジェリー・フィールディングは大いに苦労させられました。(ディランの名曲「天国の扉」はこの映画から生まれました)

<「ガルシアの首」>(1974年)
 メキシコでメキシコ人スタッフを使って製作された脱ハリウッド映画「ガルシアの首 Bring Me the Head of Alfred Garcia」は、「ワイルド・バンチ」以来のペキンパーらしい土臭い作品です。もしかすると、この映画は彼にとって最も思い通りに作ることのできた作品だったのかもしれません。しかし、相変わらずアメリカ国内での批評家受けが悪く、公開後すぐに打ち切りになったそうです。逆に日本やヨーロッパでのこの作品への評価は高く、僕自身も彼のベスト5に入る作品だと思います。この作品でウォーレン・オーツはいっきに大物俳優の仲間入りを果たしました。それにしても、この映画のタイトル、実に格好いいです。

<「キラー・エリート」>(1975年)
 ブルース・リーの弟子だったという脚本家スターリング・シリファント(タワーリング・インフェルノの脚本でも有名です)によって書かれた脚本によるスパイ戦争を描いた「キラー・エリート The Killer Elite」は、ある意味スパイ・アクション映画のパロディーとして作られました。だからこそ、劇中に忍者部隊が登場するなどマンガのようなつくりになっていたわけです。しかし、このアイデアは映画会社には理解されなかったため中途半端なアクション映画になってしまった感があります。

<「戦争のはらわた」>(1977年)
 彼は1976年に映画「キングコング」「スーパーマン」という2大超大作の監督依頼を受けました。しかし、自分にはあわないと考え、もうひとつまったく別の企画を選択しました。(これは間違いなく正解だったでしょう)
 それが第二次世界大戦終盤の敗走を続けるドイツ軍の姿を描いた異色の戦争映画「戦争のはらわた Cross of Iron」でした。ドイツ軍の兵士を主役とした負け戦のドラマという点で、初めからアメリカでのヒットは望めない作品でしたが、出来映えは素晴らしく、ペキンパーならではの「滅びの美学」に満ちた作品です。

<「コンボイ」>(1978年)
 1977年、彼はトラック野郎たちの世界を描いた現代劇「コンボイ Convoy」を映画化しました。しかし、18輪の大型トレーラーが100台も登場するというスケールの大きさは見応えがあったもののストーリー的に面白みがありませんでした。ペキンパー自身、この作品は途中でギブ・アップしたようになってしまい、彼にとっては屈辱的な作品となってしまいました。皮肉なことに、この映画は世界各地で意外なヒットを記録。特に日本では「トラック野郎」のブームだったこともあり、大ヒットを記録していますが、慰めにはならなかったようです。この後、彼はしばしの隠居生活に入ります。ウォーレン・オーツが所有していたモンタナの土地を購入し、そこでいなか暮らしを始めたのです。さらに1979年5月、彼は突然心臓発作で倒れてしまいました。ここにきて、それまでの滅茶苦茶な暮らしのつけが回ってきたのです。特にアルコールの量は半端ではなく、クスリの乱用とも合わさって内臓をボロボロにしてしまっていました。この時点でペキンパーは映画界を引退したと多くの人は思ったようです。

<「バイオレント・サタデー」>(1983年)
 しかし、やはり映画はペキンパーにとってなくてはならないものだったようです。彼はモンタナの美しい大自然よりも、トラブルに満ちた映画作りの道を歩むことを選び、1980年代に入り、自らアルコールを断ち映画界に復帰しました。こうして、1982年彼は遺作となる作品「バイオレント・サタデー The Osterman Weekend」を撮り始めます。残念ながら、彼の身体はボロボロのままで、撮影中も肺のウイルス性感染症と闘うため酸素マスクを付けていました。結局彼はこの作品を完成させた後、1984年12月28日に心不全のためこの世を去りました。
 彼は、あなたにとって最も大切なものは?という質問に対しこう答えたそうです。

「映画を作ること」
「それから、ウォーレン・オーツやストローサー・マーチンのような人間と一緒に仕事をすること。それがすべてだ。それ以外のことは、まったく意味がない」


<なぜペキンパー映画はアメリカで受け入れられなかったのでしょうか?>
 なぜペキンパー映画はアメリカでヒットしなかったのでしょうか?そして、評論家にも受け入れられなかったのでしょうか?
 それは、彼の描く暴力がほとんどのハリウッド映画に登場する「偽物の暴力」とは異なる「本物の暴力」だったからかもしれません。「本物の暴力」だからこそ、そこには美しさとともに空しさや悲しさが拭いようもなく付きまとうのです。
 日本を代表する暴力映画の巨匠、北野武はこう言っています。
「ハリウッド映画では、主人公たちはさんざん人を殺しておきながら自分たちだけは幸せになる。それはちょっとおかしいと思う」

 暴力のもつ本質的な無力感を認めることは、アメリカ人にとって自らの寄って立つ文化を否定することになるのではないでしょうか。逆にそのことを昔から認識している日本人にとって、ペキンパーの美学は以外に理解しやすいのかもしれません。(ではなぜ、北野武の作品が日本でヒットしないのか?ムムムム)
 彼が幼い頃にたたき込まれたアメリカ文化の原点には、暴力のもつ空しさが確かに存在していたのではないでしょうか。しかし、それが時代の変化とともに少しずつ歪められ、ブッシュ親子のようなうそつき政治家によって「アメリカの正義の象徴」にまで高められてしまったではないでしょうか。その矛盾をついていたからこそ、ペキンパー作品はハリウッドから追い出されてしまったのでしょう。
 最後にこの文章を、僕の大好きなペキンパー映画の常連脇役たちに捧げます。この中の多くの俳優たちは、もうこの世にはいないのが残念です。
 ストローサー・マーチン、R・G・アームストロング、L・Q・ジョーンズ、ウォーレン・オーツ、ジョン・デイビス・チャンドラー、スリム・ピケンズ、ベン・ジョンソン、ハリー・ディーン・スタントン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン、エミリオ・フェルナンデス、ボー・ホプキンス、ジェースン・ロバーツ、デヴィッド・ワーナー、ダブ・テイラー、ジャック・ドッドソン、リチャード・ジャッケル、ジャック・イーラム、バート・ヤング、そして、「ビリー・ザ・キッド」に自ら出演していたサム・ペキンパーに・・・!

<締めのお言葉>
「もう、ヘミングウェイみたいな男はいない。ブレンダン・ビーハンもいない。そういう意味では、サムは狂気の人生スタイルを見せてくれる、最後の男かもしれないな・・・」

ジェームス・カーン(俳優:「キラー・エリート」の主役)

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