打ちのめしてくれる雨にでくわしたい   泣かせてくれる風に巻き込まれたい   それが逃避の旅であれ 解放の旅であれ   僕は靴をはき 窓から這い出さなければならない   (「旅に出る理由」 佐野元春)  そう鮮かに決意して、少年は15の時、旅に出た。片方にロックン・ロール・シューズ、もう 片方にビート・ポエトリーという靴をはいて。それから幾星霜、いくつもの時といくつもの星 が流れて消えていったが、ポップスターになり、時代の真正のアーティストとなったこの少年、 佐野元春の旅はますます鮮烈な軌跡を描いて続いている。  商品としてたちまちを記号化し、搾取し、消費、解体するモンスター・マシーンの真 只中で、人気や名声に甘んじることなく、自分の音楽を深化させ、成長しつづけてきた彼。 音楽ばかりではなく、反抗と思いやりというビートの兄貴たちゆずりの姿勢とスピリットを崩 さず、自らの雑誌を立ちあげ、ポエトリー・リーディングという当時耳慣れないアート・フォー ムを紹介するイベントやカセット・ブックをつくり、さらにはラジオ、インターネット、別のさ まざまなメディアに越境し、それらを通じて自分がどこから来て、どこへ行こうとするのかを 常にクリアーに発信しつづけてきた彼。  このワンダー・ワンダラーは、だが、そうした比類なき実験と挑戦をなしとげた人への、僕 らのラヴ&リスペクトの熱い眼ざしなどおかまいなし。仲間のミュージシャンと共同で作る時 のグルーヴに体をあずけ、歌うように、語るように、祈るように、うそぶくように、こうポエト リー・イン・モーションしていたのだ。    おれたちは文明の砂塵に息する    落着きのない夢旅行者    (「エーテルのための序章」 佐野元春)  ロックン・ロールとビート・ポエトリー、この誕生の時期を同じくする若者文化の二大キイ ワード。その片方だけを欠落させたままやり過ごしてきた、この国の植民地文化ハンドラー たちに鞭を。そして単独でこの道のありかを示し、切り拓いてきた旅人、佐野元春に花束を。 新しい世紀の、アート・オデッセイが始まろうとしているのだ。窓の向うに、いや幕の向うに 新しい靴音が響き出そうとしているのだ。 MOTOHARU SANO GREATEST SONGS COLLECTION 1980-2004

 1980421日。EPIC ニーからリリースされた1 のアルバムには『BACK TO THE STREET』というタイ トルが付けられていた。毎月 数え切れないほど発売され る新譜の中で、その無名のアーティストのファ ースト・アルバムは、タイトルだけでも目を引くに は十分だった。  そのタイトルは、単に英語だというだけでなく、 ロックンロールが都市の音楽であることを示 唆していた。「こんなタイトルのアルバムを引っ 提げてデビューした新人って、いったいどんなや つなんだ!?」。佐野元春の名前は、音楽関係者 の間でそんなふうに囁かれはじめた。 BACK TO THE STREET』というのは単な るアルバム・タイトルではなく、アルバムを貫く ンセプトのような意味を持っていた。ひとつの テーマをもとに構成された、あるいはそれが目 指されたアルバムは、日本のロックではそれま で数えるほどしかなかった。 BACK TO THE STREET』に収められた 曲は、大きくふたつのタイプに分けることができ る。バンド形態によるポップ・ロックと、ピアノの 弾き語りを中心としたバラッドだ。この時点では、 この先、佐野元春というアーティストがどちらの 方向に進むのかは判然としなかったが、そのど ちらにもいい曲があった。前者のタイプを代表 するのが「アンジェリーナ」、後者が「情けない 週末」だ。  アルバムに収録された曲の大半は街の生活 をうたったもので、どれもはつらつとした態度に あふれていた。なかでも、シングルとしてアルバ ムに1か月先行する形でリリースされた「アンジ ェリーナ」は、その点で際立っていた。  サックスとピアノを前面に押し出したイントロ が雄弁に、これからうたわれる歌が街の物語だということを伝え、それに続いて歌が聞こえて くる。〈シャンデリアの街で眠れずに/トランジ スターラジオでブガルー〉。 “Boogaloo”とはR&Bとラテン音楽が融合し 60年代のアメリカのダンス系黒人音楽だ。 1980年の日本にこの言葉を知っていた若者が 何人いただろうか。知っていようがいまいが、そ んなことはお構いなし。ここにはブガルー いう言葉しか来ないんだ、とでも言っているかの ように、佐野元春はうたいまくる。〈今晩、誰か の車が来るまで/闇にくるまっているだけ〉。言 葉がビートと一緒に転がってゆく。ロックし、ロ HISTORY of MOTOHARU SANO 1980-1984 寄稿:山本智志 1

ールしている。歌詞は寂しげなものだが、聴いて いるとなんだか愉快になってくる。  街の夜の光景とそこに暮らす若い男女のやる せないロマンス。佐野は、歌の登場人物に優し い視線を投げかけ、その姿をクールに描写した。 そして、そうした歌をホットにうたってみせたのだ。 「情けない週末」は独白風のバラッド。そこでも 夜の街と男女の姿が描かれている。〈パーキン グ・メータ/ウイスキー 地下鉄の壁/ Jazz men 落書き 共同墓地の中/みんな雨に打 たれてりゃいい〉。頭に浮かんだ言葉をつぶやい ているようなこの一節の効果は絶大で、鮮やか に都市のイメージを浮かび上がらせる。佐野の 歌は、こうしたスロー・バラッドからもリズムがあ ふれ出てくる。  年上の女性に思いを寄せる歌の主人公は、 彼女への思いと現実との間でもがいている。佐 野はこう言っている。 「(日本の)それまでのラヴ・ソングというのは、 ひどく閉鎖的な空間で描かれているものが多か ったから。たとえば4畳半の中での愛だったり、 あるいは個人的な心象風景を述べたりする、閉 ざされた空間の中の愛のやりとりだった。70 代後半の(日本の)フォーク・ソングというのは だいたいがそうだったでしょう? ぼくはそれを 街に解放したいと思って、街の中に彼らふたり 佐野の姿が写っている。撮影したのは、早くから 佐野を追い続けた写真家、岩岡吾郎だ。  ルイードでのライヴの評判が広まるなか、「ア ンジェリーナ」に続くシングル「ガラスのジェネ レーション」が'8010月に発売される。〈つまら ない大人にはなりたくない〉という1行が抜き出 され、あちこちで引用されたこの歌について、佐 野はこんな発言を残している。 「つまらない大人になってしまった人がつまら ない大人になりたくないと言ったときに、それ はインチキになってしまう」。忘れないようにした い言葉である。  佐野元春に注目したのは限られた音楽ファン や評論家たちだけではなかった。当時、沢田研 二のプロデューサーだった木崎賢治は、佐野の を連れ出した」(『ミスター・アウトサイド~私がロックをえ がく時』長谷川博一 編) 「情けない週末」の主人公は、ほどけた靴紐の ようになった感情を吐き出す。1編の小説や映 画のように、主人公の姿が聴き手の目の前に浮 かび上がる。そして聴き手は、そこに自分の姿を 見るのである。  佐野元春は1956年生まれ。レコード・デビューは24歳のときで、決して早いデビューではな かった。  EPICとの契約が結ばれたのは'79年の暮れ。 その2か月後にはアルバム制作が開始されてい る。'801月から3月にかけてレコーディングが された佐野元春のデビュー・アルバムは、なん 421日にはレコード店に並んでいた。これはさっさと作ってさっさと出したというよりは、 彼がアルバムの明確なプランを持っていたから こそ可能なことだったのだろう。レコード・デビューしてまもなく、佐野は'80 8月から'8112月まで毎月、新宿のライヴ・ハウ ルイードのステージに立った。そのライヴ は前半がピアノの弾き語り、後半はバンドを伴 ってのエレクトリック・セットという2部構成だっ た。2000年にリリースされたデビュー20周年を記 念したアルバム『THE 20TH ANNIVERSARY EDITION』のフロント・カヴァーに、ルイードでの 才能を高く評価し、デビューして間もない彼に 沢田研二のアルバム用の曲を依頼した。  木崎の申し出を受けて佐野は、「ヴァニティ・ ファクトリー」「彼女はデリケート」「I'm in Blue Bye Bye Handy Love」「Why Oh Why を提供している。それら5曲は、沢田の『G.S. I LOVE YOU』('80年)、『S/T/R/I/P/P/E/R '81年)、『A WONDERFUL TIME』('82年) という連続する3枚のアルバムに収められた。そ 3作では、実績のあるミュージシャンであり、 ザ・ハートランドの初代ギタリストも務めた伊藤 銀次が楽曲のアレンジを担当している。これも 木崎の人選だった。沢田研二という歌謡界のス ター・シンガーが、ザ・タイガースや初期のソロ 活動以来、ひさしぶりにロックのフィールドに帰 ってきたわけだが、そのときの佐野や伊藤の貢 献は小さなものではなかった。  勢いにまかせて佐野元春は1981221 にセカンド・アルバム『HEARTBEAT』を発表 する。ここから「ナイトライフ」がシングルとして 同時発売されている。  アルバム『HEARTBEAT』発表の2か月後、 NHK-FMで『サウンド・ストリート:元春レイディオ・ショー』がスタートする。 佐野がDJだけでなく、選曲 や構成などをすべて担当す る音楽番組で、'873月ま 6年間、“Less Talk, More Music”(お喋りは少なく、音 楽をもっと)という方針のもと、彼は毎週月曜日 の夜、全国にロックンロールを届けた。  ライヴ・コンサートに欠かせない「悲しきレイデ ィオ」は、高らかなラジオ讃歌だ。佐野は10 代の頃、FENFar East Network=極東放送 網。在日米軍の兵士向けラジオ放送。現AFN American Forces Network)を熱心に聴い ていたという。彼が言うには、当時は「東京でも 純粋な音楽番組は少なかった」ということで、早 熟なロック少年だった佐野にとってラジオは大 切な音楽の水先案内人だった。  主人公は、ポケットからこぼれ落ちそうなくら いの失意を抱えて、夜の街を車で走り続けてい る。そして〈この気持ちを わかってDJ/いか したミュージック 続けてもっと〉とラジオのDJ に懇願する。さらに、ジーン・ヴィンセントやチ ャック・ベリーら、ロックンロールのパイオニア の名前を叫び、率直にその音楽を讃えている。 佐野はこうも言っている。「ぼくはニーチェの哲 学書と同じくらいのインパクトを3分間のロックン し、歌詞に登場させる人物やその話し言葉に磨 きをかけ、そしてロックした。  テーマの確かさ、そのテーマにぴったりのメ ロディ、聴く者のイマジネーションを掻き立てる サウンド、そして佐野の熱意に満ちたヴォーカル ――。佐野元春に初めて会った'81年のなかば のこと。そのとき彼がこう言ったことを、いまも覚 えている。 「ぼくは作り物を尊敬している。フィクション の中にどれだけリアリティを注ぎ込めるか、それ が大切なのだと思う」。佐野は最初から作家性を持ったソングライターだったのである。  佐野元春は、それまでには見当たらなかった 新しいタイプの(日本の)ロック・アーティストだ った。その歌と演奏は初々しく、高い音楽的理 想にあふれていた。佐野は日本語のロックにハッとするようなロックンロールの快活さと熱 さと若者の瑞々しい、そして傷つきやすい感情 を持ち込んだ。  1970年代後期、ロック/ポップ・ミュージック の世界では、ディスコとパンク・ロックという 代の徒花のような音楽がそれぞれ奇妙な形で 注目されていた。そして、そうした流行の中から テクノ・ポップとニュー・ウェイヴという、これまた鬼っ子のような音楽も生まれた。メジャーの 世界では、長髪の男が高級スーツを着たような ロールから受けた」。なんて彼らしい発言だろう。 「ガラスのジェネレーション」はポップの優等生 のような曲だが、歌のテーマ自体は万人向きな ものではない。よく引用される〈つまらない大人 にはなりたくない〉という1行は、社会の現実を 前に立ち尽くす若者が苦悩の末に発した決意 表明とでもいったもので、次のシングル「ハッピーマン」の〈ただのスクラップにはなりたくない んだ〉につながっていく。ただし、その歌で ラスの世代はもっと、たくましく思えるほどに 成長を遂げている。  アルバム・タイトル曲「ハートビート(小さなカ サノバと街のナイチンゲールのバラッド)」は、佐 野のソングライティングの力量を示している。こ の悲しくも美しいソウル・バラッドは、聴く者を惹 きつけて離さない。歌は深い情感にあふれ、そ の中で溺れてもいない。佐野は決して自己憐憫 に浸ったりしないし、歌の悲しみや情緒に自ら 反発するような彼のロックの衝動性がいつも顔 を出す。それだからこそ、佐野は抒情フォークでもニュー・ミュージックでもない、真のロッ クンローラーであり続けたのだ。 HEARTBEAT』は、評論家たちから高く評 価されたにもかかわらず、商業的にはおよそ成功 とは言えない結果に終わった。しかし佐野は、 このアルバムでストリート・ライフの歓びを謳歌 AORと様式から一歩も出てこないハード・ロック /ヘヴィ・メタルが幅を利かせていた。  一方、国内制作の音楽は、ニュー・ミュージ ックという業界主導の曖昧な呼称を掲げたポ ップ音楽が人気を得ていた。その多くは70年代 歌謡フォークに洋楽的な化粧を施したよ うなもので、新しくもなんともなかった。  歌謡曲もしたたかにロックやソウルなど海外 の音楽の要素を取り入れ、時代に遅れまいとし ていた。その激しい動きのなかで、それまで華 やかな世界とは無縁だった日本(語)のロックが市民権を得るようになり、なかにはメジャーのシーンに進出することと引き換えに歌謡化したロック・アーティストも少なくなかった。  そうした時代に佐野元春は登場した。ロック ンロール・シューズを履いて闇雲に駆け出すよう な佐野元春に、当時の音楽ファンがいささか場 違いな印象を抱いたとしても不思議はなかった。 彼はある意味で遅れてきたロック・アーティストだったし、その音楽は真っ当過ぎるほどのロッ クンロールだった。彼の音楽的なスタイルがで はなく、その本質に触れようとする音楽的態度 がロックそのものだったのだ。  当時、大半の音楽関係者は、佐野のようなア ーティストは「シングルは売れない」と思っていた。 それが80年代の業界の常識だった。しかし、そのような常識を、佐野は(多少時間はかかった が)覆したのである。  1982年は飛躍の年 なった。いや、正確に言えば覚悟の年として迎えたこ とが飛躍につながったのだ。  '81年から'82年の佐野の 活動はライヴが中心だった。 ライヴ・ハウスでの手応えを彼はホールに持ち込 み、十分な成果を上げた。そして'8010月の 横浜教育会館や'815月の中野文化センター などでの単独ホール・コンサートを経て、'822 月、佐野は初の全国ツアー〈Welcome to the Heartland Tour〉に打って出た。全40公演。当 時、地方都市のホールやプロモーターは、ロッ クのコンサートをやるシステムもノウハウも、何 も持ち合わせてはいなかった。それを思えば、 40という公演回数はその数字以上に大きな意 味を持つものだった。  この年の3月、大滝詠一の『ナイアガラ・トラ イアングル Vol.2』がリリースされている。山下 達郎と伊藤銀次と大滝による『ナイアガラ・トラ イアングル Vol.1』に続くコラボレーション・アル ュガータイム」('824月)と、シングルを切れ目 なくリリースしたあと、佐野は'82521日、 満を持して3枚目のアルバム『SOMEDAY』を 発表した。伸るか反るかのそのサード・アルバムは、大 きな意欲と高い理想にあふれていた。前2作と 異なり、この3作目で佐野は自らプロデュースを 手掛けた。このアルバムがダメだったら引退する ことも覚悟していた佐野は、「こうなったら、プロ デューサーとか人を頼らずに全部自分でやって みよう」と決意した。  最初は「サムデイ」だった。佐野はザ・ハート ランドと録音した「サムデイ」を自分でフィル・ス ペクターのウォール・オブ・サウンドっぽくラフ・ ミックスし、それを直接エンジニアの吉野金次 のところに持ち込んで、この曲のミキシングを依 バムの『Vol.2』に、佐野は杉真理とともに参加し、 「彼女はデリケート」「Bye Bye C-Boy」「マンハ ッタンブリッヂにたたずんで」「週末の恋人たち」 4曲を持ち込んでいる。佐野の才能を認めた 大滝が彼の参加を強く望んだことから実現した 共演だった。  しかし、この企画が進むなか、大滝と佐野の 間で収録曲について意見の食い違いが生じた。 「マンハッタンブリッヂにたたずんで」を収録し たいという大滝の申し出に、『ナイアガラ・トライ アングル』のトーンに合わないのでは、と佐野が 難色を示したというのだ。 《私はこの「マンハッタンブリッヂにたたずんで」 が彼(佐野)の言う非はっぴいえんど的な、 彼独自のメッセージ色の濃い作品であり、この ようなタイプの楽曲こそメジャーなポップ・フィー ルドで展開していくべきだと説得し、かなりの時 間を要しましたが、何とか納得してもらいました》 と、大滝詠一は書き残している。 『ナイアガラ・トライアングル Vol.2』に参加した ことは、佐野の重要な経験となった。大滝との 仕事を通じて刺激や指針や確信を得た佐野は、 すぐさま次の作品に取り組むべくスタジオに戻 った。  その成果はすぐに表れた。「サムデイ」('81 6月)、「ダウンタウン・ボーイ」(同年10月)、「シ 頼したという。  その結果は言うまでもないだろう。「サムデイ」 は日本のロック史に燦然と輝く名曲となった。耳 に残るメロディ、新しく、しかし懐かしさも覚える サウンド、そして心を捕らえる歌詞――。無駄な ものはいっさいなかった。  冒頭の〈街の唄が聴こえてきて〉という1行だ けで、これからはじまるのが都市に暮らす若者 の歌だということがわかる。〈口笛で答えていた〉 という反抗の気持ちの表現。ロックンロールが 本質的に若者の反抗の音楽だということを、「サ ムデイ」は簡潔に示してもいた。こんな日本の歌 は、それまでにはなかった。  佐野と吉野はそのあとも、さらに1年近く共同 作業を続け、アルバム『SOMEDAY』を作り上 げた。『SOMEDAY』は大きな支持を受け、ア ルバム・チャートの4位まで上がった。 BACK TO THE STREET』『HEARTBEAT は不遇なアルバムだったが、佐野は方向転換す ることなく、前2作の上質な部分を集約し、さら に磨きをかけた。そうして完成させたのが SOMEDAY』だった。その3作が“3部作 ように受け止められたのも当然だった。 「サムデイ」「ロックンロール・ナイト」の2曲はも ちろん、ささやかな希望を抱きしめる恋人たち を見守る「シュガータイム」、力強いロック・ビートに貫かれた「ハッピーマン」、頑固に孤独を宣 言する「ダウンタウンボーイ」など、このアルバ ムには耳に残る佳曲が多く収められており、ど の曲にもこういうことをうたおうという明確な意 志が感じられる。そして重要なことは、佐野元 春が、母音の多い日本語の音律そのものがロッ クンロールのビートや高揚感を妨げるのではな く、逆に高めていくという試みの、ほとんど最初 の成功者だということだ。  それにしても、ロック世代の成長をテーマに した、長い、そして充実したバラッド「ロックン ロール・ナイト」の素晴らしさはどうだろう。そこ では憧れと失意、夢と現実の間で宙吊りになっ た若者の姿が、成熟した視点で描かれている。  佐野は自己憐憫を振りまいたり同情を買うよ うなことはせず、成長することの痛みを、感情を 抑えるようにうたっている。社会の現実にぶち当 たって知った、無邪気な時代が終わることの苦 しみや、そんな時代に希望を持つことが生む痛 みを、佐野は当事者の立場からうたったのだ。  '821月から7月にかけての初めての全国ツ アー〈Welcome to the Heartland Tour〉が終 了してわずか2か月後、佐野元春とザ・ハートラ ンドは再びロードに戻った。'82926日にス タートした〈Rock & Roll Night Tour〉は、翌 年の1月まで、前回同様40公演が組まれた。こ  この突然の発表には、ファンはもちろん、音 楽関係者も少なからず驚かされた。ツアーの成 功や『SOMEDAY』のヒットなど、デビューから 2年、苦戦を強いられてきた彼の努力がようやく 報われたというときに、日本を離れると本人が言 い出したのだから、驚きや困惑も当然だった。 佐野は「自分の音楽をさらに追及するために制 作環境を変えたかった」と決断の理由を語って いるが、そう聞いても簡単に納得できるというも のではなかった。  しかし、周囲の反対を押し切って、'835月、 彼はニューヨークに向かった。そしてそのあとに は置手紙のように、シングル「グッドバイからはじ めよう」とアルバム『NO DAMAGE』が残された。 「グッドバイからはじ めよう」のシングル・ス リーヴには、雪景色の 中、うつむき加減でそ こを立ち去ろうとする 佐野の姿が写ってい る。着込んだ長いオー バーコートのポケット には『インタヴュー』誌が無造作に突っ込まれて いる。アンディ・ウォーホルが主宰するその雑誌 は、佐野が向かう先がニューヨークであること をほのめかしていた。その歌で彼は〈言葉は  のふたつのツアーを経て、ザ・ハートランドはた くましいロック・バンドへと成長を遂げていた。 佐野とバンドのエネルギッシュなライヴ・パフォ ーマンスの評判は全国に行き渡った。 Rock & Roll Night Tour を成功裏に終えた佐野元春 は、'833月にそのアンコ ール公演として11回のコン サートを追加した。そしてそ の最終日の318日、東京・ 中野サンプラザ・ホールのステージで、彼はニュ ーヨーク行きを表明した。休暇を取るのではな く、しばらく向こうに住むというのである。 もう 何もいらない/ただ見送るだけ〉と、ため息 を落とすようにうたっている。そして最後に〈終 わりは はじまり〉と自分に言い聞かせている。  佐野にとって初のコンピレーション・アルバム である『NO DAMAGE』は、既発売のアルバ ム収録曲やアルバム未収録のシングル(とその Bサイド)などを集めて再編集したものだが、レ コード会社主導によるありきたりなベスト盤とは 性格も意図もまったく異なっていた。そして、見 方によってはオリジナル・アルバム以上にコンセ プチュアルな作品だった。  アルバムのライナーノーツの中で、佐野はこん なふうに語っている。 「みんなに断っておきたいはのは、これはグレ イテスト・ヒッツ・アルバムではないということだ。 残念ながらぼくはベスト10に入るようなスマッシ ュ・ヒットを出してはいないんだ」。彼らしい言い 方だ。  佐野は自分の過去の作品から注意深く14 を選び出し、並べ、そこに浮かび上がる街の 物語を再構成してみせた。『NO DAMAGE というアルバム・タイトルや“14のありふれたチ ャイム達という副題は、前3作で佐野が提示 した都市に暮らす若者たちの夢と苦悩とい ったテーマに念を押したようなものだった。1 目の「スターダスト・キッズ」から「グッドバイからはじめよう」までがアナログ・レコードのサイド 1“Boys' Life Side”と命名されていた)、後半 の「アンジェリーナ」から「バイバイ・ハンディ・ ラヴ」の7曲がサイド2“Girls' Life Side”)だ。  アルバムに収められた曲は、それぞれが独立 した曲であるにもかかわらず、その14曲の連な りは、14章から成る1編の小説を思わせた。歌 詞だけでなく、サウンドやテーマ、あるいは楽曲 に込めた精神といったものまでが、一貫し、継 続性を保っていた。  佐野は、シングル用の曲だからといって、ポッ プの手法を生かすために何かを犠牲にしたり、 ロック的でないものを採り入れたりはしていない。 「サムデイ」に顕著なように、佐野の楽曲はどれ もロックンロールの本質を継いでいる。  この一風変わった、コンセプチュアルなベス ト盤は、音楽ファンから大歓迎を受け、アルバム・ チャートの1位を獲得した。佐野元春にとって 初めてのナンバーワン・アルバムとなったわけだ が、そのうれしい知らせを佐野はニューヨーク で聞いたのである。  マンハッタンの下町で暮らしはじめた佐野は、 ほどなく次の作品の準備に取り掛かった。彼は 東京で書き上げていた何曲かをもとに、「ニュー ヨークのブルー・アイド・ソウル系の白人ミュー ジシャンを起用して、ニューヨークのムードにあ き、ときにはテープ・レコーダーを持ってニュー ヨークの街に繰り出し、ライヴやインタヴューも 録った。ニューヨークの最新音楽事情を伝える DJ番組など、ひとつとしてなかった時代に、彼 は音楽ジャーナリストのような仕事もこなした。 そして、できあがった番組の完パケテープを 毎週、東京に送り続けたのである。  さらに'834月、佐野は自身が責任編集す る季刊誌『THIS』(CBS・ソニー出版)を立ち 上げた。彼は活字メディアを通してもファンとコ ミュニケートしたいと願い、同時に文学、映画、 アートなど、カルチャー全般と自身の音楽表現 が根底でつながっていることを暗に示したので ある。  この年の7月に は、佐野元春の デビューから3 間の歩みを追っ た映画『Film No Damage』が全国 のホールで上映さ れている。この日 本初とも言える長 編ロック・ドキュ メンタリー(70分) はその後ビデオ化 ふれたロックンロール・アルバムが作れたら」と 考えていたという。  しかし、ニューヨークで生活を続けるうちに、 「いま、この街に暮らしていることをリアルに音 楽で表現してもいいな」と、考えが変わっていっ た。「黒人やプエルトリカンのミュージシャンたち に接近し、クラブに毎晩行き、いま、この街で 何が起こっているのか、肌で感じた」佐野は、な んとそれまでの曲を全部捨て、新たに曲を書き はじめたのだ。  知り合った黒人ミュージシャンたちはみんな、 DMX(自動ドラム・マシーン)を使ってラップし ていた。佐野はそのマシーンを買い込み、ギタ ーやピアノを使ってコードから入っていくそれま での曲作りのやり方ではなく、ビートから曲を立 ち上げていった。 「彼らは和音から入るのではなくビートから行く んです。まあ、黒人音楽は昔からそうなのだろう けれど。それを如実に目の当たりにして、僕は日 本語でこれをできないだろうかと思った。そこか ら『VISITORS』の一連のモチーフが生まれて きたんです」(『魔法のビート』長門芳郎 著)  こうして佐野元春はニューヨークで新しい音 楽に取り組んだのだが、その傍ら、NHK-FM の『サウンド・ストリート:元春レイディオ・ショー』 も続けた。いつものように自ら選曲し、台本も書 されなかったため、長いことファンの間で幻の フィルムと呼ばれていた。しかし、2013年にめ でたくDVDで発売され、観ることが可能になっ た。  このように、日本を離れていた1年間、佐野 は実に精力的に活動した。レコード、ライヴ・パ フォーマンス、雑誌、ラジオ番組、そしてヴィジ ュアル作品など、さまざまな形で「佐野元春」と いうアーティストを表現しようという彼の多岐に 渡る活動は、この頃本格的に始まったのである。  佐野はニューヨーク・ア ルバムに取り掛かった。レ コーディングは'8312月か ら翌'841月まで約2か月 間行われた。ドラムのオマ ー・ハキムをはじめ、参加し たミュージシャンやプロデューサー、エンジニア は全員ニューヨークの住人で、佐野は彼らとの 有意義なコラボレーションとして新作を完成さ せた。 '845月、1年間のニューヨーク生活を終えて 佐野が帰国し、それに合わせて新しいアルバム 521日にリリースされた。アルバム・タイトルは『VISITORS』と付けられていた。訪問者というタイトルは、それがニューヨー クでの生活体験の中から生まれたアルバムであ ることを示していた。いまでこそ傑作という定評 のある『VISITORS』だが、そのアルバムを携 えて彼が帰国したときの音楽業界やプレスの反 応は、絶賛とか驚嘆というよりも困惑に近かっ た。なにしろ当時、そうした音楽を試みるアーティストはまだ日本には現れていなかったし、ラッ プやヒップホップという言葉自体、音楽ファンの 間ではもちろん、音楽業界でもほとんど知られ ていなかったのである。  80年代なかばのニューヨークのムードにあふ れた演奏をバックに、ビートに乗って詩を朗読 するような佐野のラップには、新しい表現に 向かおうとする彼の音楽的衝動や決意がうかが える。それが『VISITORS』の息を呑むような 昂揚感の源泉だ。  佐野がロックンローラーとしてはもちろん、詩 人としての内的衝動を持った人物であることは ここで繰り返すまでもないだろう。初期の彼は1 小節の中にこぼれ落ちそうなくらい多くの言葉を 詰め込み、それをメロディやビートの感覚を妨 げることなくうたってみせたが、ここではなんと、 剥き出しの言葉とビートを際立たせ、メロディを ほとんど削り取ってしまっている。 感じているようだ。そうした若者たちに佐野は、 そっと手を差し伸べる。 〈数えきれない痛みのキス/星屑みたいに降っ てくる/何も分けあえられない/何も抱きしめら れない/でも今夜だけは君と輝いていたい そ れが人生の意味〉(「ニューエイジ」)  言うまでもなく、佐野はこのアルバムによって日本で初めてラップ・レコードを作ったアーティ ストという称号を得ようとしたわけではない。 ニューヨークでの暮らしの中で、ラップをはじめ とする黒人の新しいストリート文化に刺激を受 けたのは確かだろうが、言葉の密度やリズムを 凝縮していくといったアプローチは、彼のソング ライティングや詩人としての作品を思えば、自然 なものだ。このアルバムに収められているファ ンク的8曲はそのまま、ニューヨークにやっ てきたひとりの訪問者が味わった興奮や閃きの 大きさを示している。  佐野は『SOMEDAY』で与えられた高い評価 を返上するかのように、そして『NO DAMAGE の商業的成功をほとんど意に介さないかのよう に、〈すべての使い古されたブーツ 窓から投げ 捨て 新しいマッチに灯をともして〉(「コンプリ ケイション・シェイクダウン」)新境地を拓いたのだ。  10月、アルバムがチャートの1位を獲得する のと前後して、〈Visitors Tour〉がスタートする。 Rock & Roll Night Tour〉からおよそ2年ぶり のツアーということもあって、'855月まで69 都市で計80公演が組まれた。佐野にとってこれ まででもっとも大きな規模のツアーとなった。  佐野元春の歌に登場する人物は、現代では 夢を持とうとするだけで心がすり減ってしまうと  光と闇が交錯する大都市ニューヨーク。 問者は闇に向かっていく。いや、その闇に隠 されているかもしれないものに向かって進んでい くのだ。『VISITORS』は暗い情感に包まれたア ルバムだが、主人公の目は輝きを失っていない。2020年の3月にデビュー 40周年を迎えた佐野元春。 彼のような息の長いアーティ ストにとって、1985年から 1992年までの7年間はどうい う意味を持つのだろうか? そのことに思いを巡らせていくと、本当に様々な 感慨に襲われる。溢れ出る才能を認められなが らも鳴かず飛ばずだったデビュー当時の状況か らやっと抜け出し、'81年の6月にリリースされた シングル「サムデイ」が若者たちから支持され始 めた。しかしそれも束の間、単身ニューヨークに 渡って作った早過ぎるヒップホップ・アルバム VISITORS』で賛否を分けたのが'80年から '84年までの最初の4年間だとしたら、「ヤング ブラッズ」の大ヒットに始まる'85年からの佐野 は、次なるステップを目指して足固めしていく時 期であった。  革新的過ぎた『VISITORS』の路線を軌道 修正し、日本語の歌詞をもう少し正統的なロッ ク・スタイルのなかで響かせることを模索し始め た日々と言い換えてもいいだろう。それを実現す るためには自身のバンドであるザ・ハートランド との更なる連携が必要だった。佐野元春という 個人名義のシンガー・ソングライターとしてデビ ューしながらも、彼は当初からずっとバンド・サ ウンドに大きな価値を見出してきた。多くのプロ モーターを驚かせたことの一つに、佐野がコン サート会場の楽屋を佐野個人のための一人部 屋ではなく、ザ・ハートランドの一員として大部 屋を指定したことが挙げられるが、彼はザ・ハートランドをバック・バンドとして扱うのではなく、 自分とともに歩みを進めていく共同体のように 考えていた。元春流に言えば「いつもバンドとと もに~ With A Band Always」の実践である。 ロック世代らしい彼のそんな理想主義は、のち に組むザ・ホーボー・キング・バンドや、今まさに 脂が乗っているザ・コヨーテ・バンドとの結び付 きに於いても一貫している。音楽のスタイルを多 角的に広げつつも、佐野が伝説の新宿ルイード 時代から少しもブレていないのはまさにその一 点に他ならない。拙稿からそんな佐野のバンド 志向を感じ取って頂ければ幸いである。  エポック・メイキングな傑作『VISITORS』を '84年の5月にリリースした後の佐野元春は、そ れまで以上に精力的な活動を続けた。101 の前橋文化会館を皮切りに行われた〈Visitors Tour〉は、'85年の5月末までに及ぶ大規模な 全国ツアーであった。この時期はヒップホップ HISTORY of MOTOHARU SANO 1985-1992 寄稿:小尾隆 1をザ・ハートランドによるバンド・サウンドに翻訳 するという困難な課題があったが、彼らはそれ を文字通り若さと情熱で乗り越えてみせた。ま たアンコールとして催された528日と29日の 品川プリンスホテル・アイスアリーナ公演では、 舞台脇に数十台のカメラ・モニターが用意され、 音と映像とが同期し融合するという先駆的な試 みが、エッジの鋭いモダンでダンサブルな演奏 と相まって大きな話題を集めた。   そんな多忙な日々を送っていた佐野だが、彼 にとって'85年という年はまず21日にシングル 「ヤングブラッズ」を発表したことに始まる。新 年に東京の代々木公園でプロモーション・ヴィデ オが撮影されたことでもお馴染みのこの曲は瞬 く間にチャートを駆け昇り最高第7位を獲得。 これは佐野にとって初めてのベスト10に入る大 ヒットとなった。またこの曲は国際青年年のテ ーマ・ソングとしてNHKのテレビ放送を通して より広められ、楽曲印税の一部がアフリカの難 民救済金として寄付された。国連食糧農業機 関の報告によれば、一億五千万人ものアフリカ 人が飢餓状態にあり、その惨状に胸を痛めたボ ブ・ゲルドフが英国のミュージシャンたちに声を 掛けてバンド・エイド名義でレコーディングを行 い、シングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマ ?」を世界規模でヒットさせたのが'84年後半 イヴェントのためにヴィデオ作品「シェイム-君を 汚したのは誰」を作った。それは自らのライヴと 第二次世界大戦時の映像を組み合わせた内容 であり、単なる名前貸しとは違う明確なメッセ ージを伝えるものだった。ちなみに当時は従来 の音源だけでなくヴィデオ機器が普及し始め、 音楽の世界でも映像作品が作られ始めていた。 そうした時代の変化をいち早く察知した佐野の アクションは驚くべ きものだった。   そんな佐野元春 のクリエティヴィテ ィは留まることを知 らない。やや前後し てしまうが、'85 5月には新たな伝 達手段を探るべくカセット・ブック『ELECTRIC GARDEN』を発表し、詩と音を融合させること に成功した。この手法は佐野にとって今なお重 要な活動となっているスポークン・ワーズの第一 歩といっていいだろう。活字としての詩ではなく、 自ら発声し、音を加えながら躍動させていくこ のアートは、アレン・ギンズバーグやジャック・ケ ラワックといった50年代のビート詩人たちのス ピリットを受け継ぎモダン化したものだった。6 月には『ELECTRIC GARDEN』から「リアル のこと。そうした動きに刺激された佐野だった が、こうしたチャリティ活動も日本ではまだ馴染 みがない出来事だった。   '85615日に東京・国立競技場で行われ た国際青年年を記念するイヴェント〈ALL TOGETHER NOW〉に出演した佐野は「ヤングブラッズ」など数曲を熱唱した。他の出演者 はこの日のために再結成されたはっぴいえんど とサディスティック・ミカ・バンドを始め、オフコ ース、松任谷由実、吉田拓郎、坂本龍一、サザ ンオールスターズといった錚々たる顔ぶれであ ったが、佐野は見事に大トリとしてステージに立 っている。なお、この日のライヴに先立つ3月に は「ヤングブラッズ」の12インチ・シングルも発 売されていた。日本では当時まだ物珍しい12 ンチというフォーマットだったが、ニューヨーク で施されたこの曲のダンス・ミックスは、言うま でもなく『VISITORS』で得たノウハウを活用 したものだった。  さらに7月になると佐野は世界規模のロック・ イヴェント〈ライヴ・エイド〉に出演した。日本か らは他に矢沢永吉、小田和正、忌野清志郎が 参加したこの催しは13日にロンドンとフィラデル フィアで同時に始まり、60組以上のスターが競 演した。そのチャリティ・ライヴの模様は世界80 か国余りに衛星中継されたのだが、佐野はこの な現実 本気の現実」がシングル盤としてリリー スされ、『VISITORS』には付いていけなかった ファンも、この頃になると佐野のチャレンジング を少しずつ受け止めていくようになっていく。当 時の佐野はHolland Roseなる変名で松田聖子 の「ハートのイアリング」を作曲し、11月にナン バー・ワンのヒットにするなど、ポップと前衛と の垣根を跨ぐ変幻自在な活動ぶりを示している。  ところでライヴという場で の交信を何よりも大切にし、 毎年のツアーを精力的にこ なしてきた佐野元春とザ・ハ ートランドであったが、とり わけ'86年の4月から9月ま で日本青年館を拠点にマンスリーで計画された 6公演は忘れられないものとなった。というのも 奇しくも佐野の誕生日である313日に売り出 されたチケットは、午後6時半の予約が始まる と同時に電話が殺到し、都内の2万近い回線が パンクして2時間以上も不通になるという社会 現象まで引き起こしたのだ。この一件もあって 佐野は日本で最もチケットを取るのが難しい アーティストとまで形容されたが、裏を返せば今までそれだけ地道にライヴ活動を積み上げて きた結果でもあった。   そんな風にして人気を極めようとしていた佐野 だが、決して状況に流されるまま天狗になって いた訳ではない。マンスリー・ライヴの発端とな 大きなポイントとして、佐野が初めてザ・ハートラ ンドとともにレコーディングに臨んだことが挙げ られよう。ソロのシンガー・ソングライターであり ながら、熱気溢れるバンド・サウンドによるライ った'86年の4月にはこれまで所属していたヤン グジャパンから独立し、新しいマネジメント会社、 エムズ・ファクトリーを興した。また同時に従来 の音楽活動では表現しきれない創作への意欲 が、佐野を自主レーベルM's Factoryの発足へ と駆り立てた。'84年の2月を最後に休刊してい たマガジン『THIS』を再スタートさせたことも、 やる気を えていた。発 元をM's Factoryとする自費出版の新装版『THIS』では 前回より佐野本人の責任編集を徹底し、自らの 作家的ルーツを辿るように、アレン・ギンズバー グら、50年代ビート作家たちへのインタヴュー を試みた。このマガジンの影響力は大きく、後 にマガジン『BARFOUT!』の発刊に繋がった。  5月にはレーベル初となるシングル「ストレン ジ・デイズ-奇妙な日々」を発売。以降2か月に1 回のペースで「シーズン・イン・ザ・サン-夏草の 誘い」「ワイルド・ハーツ-冒険者たち」と、パッケ ージのデザイン面にも贅を尽くしたこだわりの シングルを相次いでリリースしていった。きっ と英国のラフ・トレードやチェリー・レッドといっ たニュー・ウェイヴ以降のインディー・レーベル の勃興にも刺激を受けたことだろう。   これらのシングル3曲はいずれも'86121 に発売されたアルバム『CAFÉ BOHEMIA』を 構成するナンバーともなったが、忘れてはならない ヴを実践してきた佐野であったが、ことレコーデ ィングに関してはスタジオ・ミュージシャンを起 用しながら完成度を高めてきたのもまた事実だ った。そんな佐野がやっと自分のバンドとともに 録音に入った興奮は如何ほ どのものだっただろうか。佐 野はよく初期のザ・ハートラ ンドを映画『がんばれ!ベア ーズ』に喩えていたが、当時 から彼らに理解を示してき た音楽評論家の山本智志 はこう振り返る。 「デビュー当初から佐野に 才能があったことは確かで すが、初期の彼の、とくにラ イヴは、傍で観ているこっち が気を揉んでしまうほど危な っかしいものでした。ザ・ハートランドも、そんな佐野を バックアップするというより は、自分たちもどこへ向かっ ているのかわからないまま 突っ走っているという感じで、 まるでパンク・バンドのよう でした。初期のザ・ハートラ ンドは佐野が言う通り、試 東京マンスリー公演楽屋での佐野元春&ザ・ハートランド合をやれば負けといった具合で、エラーはする わ、打てないわ、投げられないわ、その挙句に 試合はそっちのけで喧嘩を始めるといったベアーズ状態でした。それでも、そんなザ・ハー トランドには確かな友情があり、不屈さと向上心 があった。佐野を含めて彼らは少しずつ成長を 続けていったんです」(201112月・筆者による取材時に)  カフェ・ボヘミアとは1950年代にパリの芸術 家たちが集まる実在したカフェの名前であり、 佐野はそこに時代が変わっても侵されない自由 な精神のありかを求めた。カフェの専属バンド であるザ・ハートランドがジャズ、R&B、スカ、 レゲエなど多彩な音楽のヴァリエーションを生 かしながらお客をもてなすというアルバムのコン セプトは、カフェのざわめきを録音した冒頭の SEからも伝わってくるが、レコーディング直前の 佐野がボードレールの詩集を読んでいたという エピソードも、先人の自由奔放な魂に敬意を表 したものだった。振り返って見れば'86年の1月、 佐野は自らニューヨークに飛び、アレン・ギンズ バーグやグレゴリー・コルソといった「現役」と の邂逅を果たしている。とくにギンズバーグとの 対話は短いながらも充実したもので、「時代によ って呼び名は変わるがビートは生き続ける。そ れはボヘミアンとして生きることだ」という名言に 触れることになる。こうした出会いが名作『CAFÉ れたアルバム・ヴァージョンとは似て異なる音像 を導き出していた。先に触れた「ヤングブラッズ」 12インチ・ヴァージョンにも驚かされたが、そ の延長線として出された「99ブルース」と「イン ディビジュアリスト」のリミックスもまたクラブ・カ ルチャーの先端を行く試みだった。2曲ともシリ アスな現実と拮抗するような言葉が、激しい音 の塊とともに唸りを上げている。 CAFÉ BOHEMIA Meeting〉ツアーは'86 1029日の浦和市文化センターからスタート '87年の9月に終わるまで、幾つかの忘れ難い 光景を生み出した。その直前〈BEAT CHILD と題され822日に行われたアスペクタ熊本で の野外フェスでは、県内外から7万人のオーディ エンスが集まった。集中豪雨並みのドシャ降り という悪天候のなか、大トリの佐野元春 with ザ・ハートランドがあの光の向こうに突き抜け たいと「ストレンジ・デイズ-奇妙な日々」を演 奏し始めると同時に雨が止み、朝日が昇り始め た。それは演出では計算し切れないほどの奇跡 的な偶然だった。またツアーを締めくくる914 日と15日の横浜スタジアムは、彼らにとってデビ ュー7年目にして初めて体験するアリーナ規模 の公演であり、初期から見守ってきたファンにと っても誇らしい出来事だった。そんな高揚感を パッケージすべく15日の音源を中心に初のライ BOHEMIA』を作る大きなモチベーションとなっ たことは言うまでもない。ファン・クラブの会報誌が CAFÉ BOHEMIA』に改められ、秋から始まっ た全国ツアーまで〈CAFÉ BOHEMIA Meeting と名付けられるという徹底ぶりだった。   アルバム『CAFÉ BOHEMIA』のリリースか ら半年後の'876月には12インチ・シングルと して「99ブルース」のリミックス・ヴァージョンが 発売され、アルバム発表からおよそ1年経った '87年の11月には「インディビジュアリスト」の12 インチ・リミックス版が発売された。いずれも以 前から「コンプリケイション・シェイクダウン」や 「トゥナイト」の12インチを手掛けてきたジョン・トークスポトカーによるエッジの鋭い音処理 が斬新であり、『CAFÉ BOHEMIA』に収録さ 2 組『HEARTLAND』が作られ、'88 4月にリリースされるとアルバム・チャートの 1位に輝き、40万枚ものセールスを記録した。 なお横浜での大団円の後も彼らは新たに PISCES TOUR〉を敢行。'871223日の 四日市市文化会館から始まり、'8851日の NHKホールにて終了するまで全国をくまなくま わった計42公演は、ライヴ・アクトとしての佐野 元春 with ザ・ハートランドの実力を知らしめた。  この頃には名実ともに日本 のトップ・アーティストとして 広く認められていた佐野だが、 成功という甘い果実に溺れ るというよりは、常に自分を 冷静かつ客観的に見つめて いたことは論をまたない。むしろ商業的な成功 と引き換えにアーティスティックな欲求を次第に 失ってしまった先人たちを反面教師としながら、 彼は警戒心まで働かせていた。横浜スタジアム を満員にしつつも、それから1年後の'88年の8 月にはチェルノブイリの原子力発電所の事故に 触発されたシングル「警告どおり 計画どおり」を急遽リリースするなど、 佐野は時代への意識を緩 めたりはしなかった。やっ と世間に認められた矢先 に単身ニューヨークに渡り VISITORS』を作った時 と同じように、人気がまさ にピークを迎えつつあった '88年の夏、佐野元春は再 び一人ロンドンへと旅立ち、 『ナポレオンフィッシュと泳 ぐ日』を作る準備に入って いる。佐野はこう回想する。 「当時はとても充実してい ました。そういう意味では ザ・ハートランドとともにもう1枚スタジオ・アルバ ムを作っても良かったのかもしれません。実際 彼らとレコーディングした『ナポレオンフィッシュ と泳ぐ日』のデモ録音は6~7割出来上がって いましたし、それをミックス・ダウンしていっても 良かった。しかし、誰もが20代の頃そうである ように、当時の僕はとても性急でした。新しいア イディアが浮かぶと、すぐにそれを実行に移し、 なるべく早く結果を出したかった。それも予想出 来る結果ではなく、自分でもこれからどうなって しまうのか予測不可能な結果に辿り着きたかっ 20146月・筆者による取材時に) 『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』はエルヴィス・ コステロの制作でも知られるコリン・フェアリー を佐野の共同プロデューサーとして迎え、ブリ ンズリー・シュウォーツ~グレアム・パーカー&ザ・ ルーモア出身のブリンズリー・シュウォーツ(g とボブ・アンドリュース(kbd)、エルヴィス・コス テロ&ジ・アトラクションズのピート・トーマス ds)、ニック・ロウやデイヴ・エドモンズがプロデ ュースを手掛けてきたテキサス出身のファビュラ ス・サンダーバーズからキース・ファーガソン(b と、凄腕のプレイヤーたちが集結した質実剛健 なパブ・ロック・アルバムであり、リズムのヴァリ エイションに趣を置いた『CAFÉ BOHEMIA とは対照的に、シンプルな8ビートへと方向性 が絞られていた。やや細かい話になってしまうが、 佐野は彼らを起用した理由についてこう説明す る。  「僕なりに思い描いたのは、ピート・トーマスと スティーヴ・ナイーヴの組み合わせだったら、ア トラクションズそのままになってしまう。でもステ ィーヴの尖ったキーボードではなく、ボブ・アン ドリュースの温かいハモンド・オルガンとともに ピートがドラムスを叩けば、きっといいコンビネ ーションが生まれるんじゃないか、ということで す。ベースにファビュラス・サンダーバーズのアメ たんですね。そこでぼくはまずロンドンに行き、 そこで暮らすことから始めました。ぼくの計画は ロンドンで地元のミュージシャンたちと新しいバ ンドを組み、彼らとレコーディングし、全英をツ アーして回るというものでした。やはり重要なの は自分のバンドを作るということなんです。僕た ちはまずリハーサル・スタジオで一緒に演奏す ることから始めました。商用スタジオへと向かう のは音が出来上がってからの段階です。そう、 僕たちはモト&ブリティッシュ・フライング・ソー サーズと名乗りながら音を固めていったんです」 リカ人、キース・ファーガソンを選んだのも、ベ ースまでニック・ロウに頼んでしまうとブリンズリ ー・シュウォーツそのままのサウンドになってしま うからです。それは決して僕が望むものではあり ませんでした。僕はソングライターであると同時 にプレイヤーであり、バンド・リーダーでもありま すから、自分が思い描いているサウンド・デザイ ンに対して、誰が一番僕の音楽を損なうことなく 貢献してくれるだろうかということをまず第一に 考えます。僕は曲を作るだけではなく、自分でリ ズムやテンポを決め、自分でハーモニーやアレン ジなどのアイディアを決め、自分から彼らに指示 を出していきました」(20146月・筆者による取材時に)  そのような自発的で力強いバンド・サウンドと 抽象化された日本語の歌詞が融合した意味でも 『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』は80年代を締 めくくる大傑作となった。発売は'89年の61日。 既にCDという新しい音楽ソフトが主流になって いたせいか、佐野にとってはアナログのLP盤が プレスされた最後(当時)の作品にもなっている。 ちなみに'89年の6月には北京で民主化を求め た天安門事件が勃発し、11月には戦後ドイツの 東西対立を象徴するベルリンの壁が取り壊され ている。偶然とはいえ、こうしたワールド・ワイド な事件と響き合うような作品が生まれたことは 奇跡だった。アルバムのキー・トラック『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』レコーディング・メンバーとロンドンにて 30 3べき「とも言う約束の橋」は、今なお佐野のライヴに欠 かせない名曲として愛されている。それはきっと 自由への願いというものが、世代や人種の壁を 超え、広く伝播していったからに違いない。   本来であればレコーディング・メンバーととも に英国ツアーをするはずだった佐野だが、日本 での全国ツアーが先に予定されていた為に断 念。しかし彼はすぐさまザ・ハートランドのメンバーを招集し、〈ナポレオンフッシュ・ツアー〉を '89618日の戸田文化会館から始めている。 これまた大規模な全国ツアーであり、途中に横 浜スタジアムの2デイズや大阪フェスティヴァル・ ホールでの3デイズといった山を盛り込みつつ、 1225日の神戸国際会館で終えているが、冬 のシーズンが近づいてきた頃からは名曲「サムデイ」の次に「クリスマス・タイム・イン・ブルー ~聖なる夜に口笛吹いて」が演奏され、その夜 のステージを締めくくるというロマンティックな 光景が繰り広げられた。『CAFÉ BOHEMIA が発売される1年前の'85年の11月に12インチ・ シングルとしてリリースされた同曲は、ダブやラ ヴァーズ・ロックという日本ではまだ馴染みがな かったサウンド・メイキングが大胆に取り入れら れた画期的な内容で、佐野はリミックス・エンジ ニアとしてわざわざスティーヴ・スタンレー(トーキング・ヘッズ、トム・トム・クラブ、ブラック・ウ フルーなど)を起用するほどの熱心さだった。佐 野元春といえばとかく都市の青年群像を描いた 歌詞ばかり評価されるキライがあるが、バンド・ メンバーが「棟梁」と親しみを込めるように、音 の建築士としての情熱も並々ならぬものだという ことをどうか知って欲しい。  そして佐野はいよいよ90年代を迎える。'90 は彼のデビューからちょうど10周年に当たる区 切りの年であり、まず5月にこれまでシングル盤 で発表されてきた曲をコンパイルした2枚組の ベスト『MOTO SINGLES 19801989』がリ リースされた。7枚目のオリジナル・アルバム TIME OUT!』のレコーディングに関しては、 完成度を高めるべくミックス・ダウンのために佐 野が再びロンドンに出向き、前作の共同プロデ ューサーであるコリン・フェアリーとともに作業 を進めた。しかしながら、アルバム全体に暗さ や諦観が漂っているのは何故だろうか? 長年 在籍してきたEPICレーベルとの関係がかつて ほど信頼感溢れるものではなくなってきたとも伝 えられているが、デビューから10年の間にEPIC の社員の間でも世代交代が進み、佐野と必ずし も価値観を共有出来なくなっていたのかもしれ ない。   制作期間が1か月足らずという異例の短さだ った『TIME OUT!』は'90年の11月にリリース されたが、〈つまらな い大人にはなりたく ない〉と歌われた初 期を代表する世代賛 歌「ガラスのジェネ レーション」に対する アンサー・ソング「ぼくは大人になった」 がアルバムの冒頭に置かれていたことや、 深く沈み込んでいくような「クエスチョン ズ」で歌われる〈誰かここに来て救い出 してほしい/部屋の壁際に追い詰められ ているのさ/傷が深すぎて何も感じられ ない〉というフレーズが、当時の佐野が 置かれていた状況を端的に物語ってい るとは言えないだろうか? デビュー当 時の瑞々しさを湛えたピアノ・バラード 「君を待っている」や、珠玉のパワー・ポ ップ「ジャスミンガール」といった楽曲も 収録されているだけに、世間が求める佐 野元春というパブリック・イメージと、 人になった佐野との乖離が気になって しまう。思えば『TIME OUT!』(中断 せよ!)というアルバム・タイトルも皮肉に 満ちたものであり、アニヴァーサリーの 年に相応しい表題とは言い難かった。   むろんこうしたシニカルな認識は前作『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に収録された 「ブルーの見解」や「おれは最低」といったナン バーにも漂っていたのだが、そうした苦悩がより 前面に出てきた時期なのだろう。佐野は当時34 歳。〈「手おくれ」と言われても口笛で答えていた あの頃/誰にも従わず/傷の手当てもせず ただ /時の流れに身をゆだねて〉いた青年期は残酷 にも終わろうとしていた。『TIME OUT!』は'90 年の119日に発売され、翌10日には北海道 りに〈TIME OUT! TOUR〉が始まり、1221日と22日に佐野はジ ョン・レノンの生誕50周年を記念したイヴェント(グリーニング・オブ・ザ・ワールド〉(GOW)に 参加。新曲「エイジアン・フラワーズ」とビートルズの「レヴォリューション」の2曲を東京ドーム で熱唱した。さらに〈TIME OUT! TOUR〉の 最終日である1228日の大阪フェスティヴァル・ ホールでは、GOWを主催したオノ・ヨーコと息 子のショーン・レノンがサプライズ・ゲストとして 登場し、「エイジアン・フラワーズ」とボブ・ディラ ンの「天国の扉」の2曲を佐野とともに歌った。  '91年になると佐 はまず2月に『SLOW SONGS』のレコーディングに入った。これはア オにやって来て「もっと佐野元春らしい曲を作っ てくれ」と要求するなど、アーティストとしての尊 厳を傷付けられる場面もあったとか。きっとバブ ル経済の崩壊で社会全体がギスギスしてきたこ とも関係するのだろう。ビジネスの世界では経 費節減や効率主義が叫ばれ、かつてあったfor ルバムの表題が示すように 佐野がこれまで発表してき た楽曲から静かなラヴ・ソン グばかりを選曲し、曲によっ ては新たに録音し直すという 趣向であり、若き日の佐野 が影響を受けたランディ・ニューマンの『セイル・ アウェイ』のフロント・カバーを意識したジャケットは、ソングライターとしての原点を伝えるよう だった。「バルセロナの夜」と「週末の恋人たち」 のリミックス・ヴァージョンに加え、「情けない週 末」と「バッドガール」のフル・オーケストラ・ヴ ァージョンが何と言っても秀逸な出来映えであ り、後者の2曲を指揮した前田憲男は2014 に佐野と雪村いづみがコラボレイトした『トーキ ョー・シック』でも見事にオーケストラをコンダク トし、昭和初期のジャズの匂いを鮮やかに再現 している。  前作『TIME OUT!』に続く佐野の新しいア ルバムはなかなかリリースされなかった。という のも10月に彼の父親が大動脈癌のため59歳の 若さで急死するという痛ましい出来事があり、佐 野はとても音楽に集中出来る状況ではなかった のだった。また以前から兆候があった音楽の現 場でのレコード・カンパニーとの軋轢も少なから ず表面化していた。EPICの上層部員がスタジ TEAMという友愛の感情は急速に失われつつ あった。佐野本人も6年間続いた個人事務所の エムズ・ファクトリーを一時閉鎖せざるを得ない ほど追い込まれていたのだった。ちなみにこの TIME OUT!』前後の時期を、佐野は自ら 意の日々と呼んでいる。  そんなモヤモヤとした現状を打ち破るにはや はりライヴしかない。そう直感した佐野元春は 彼にしては珍しく、新作を伴わない〈See Far Miles Tour Part〉を'92年の1月から敢行す る。何でも「本当に自分が好きなことを好きなミ ュージシャンと一緒にやろう」という掛け声が彼 から発せられたようであり、いい意味で開き直っ たステージは思いのほか歓迎された。スタジオ・ ワークに専念するため、'87 '88年の〈Pisces Tour〉を最後にバンドを離れていたキーボード の西本明が久しぶりに復帰したことも大きかっ た。佐野は結局のところ会場を埋め尽くしたオ ーディエンスを前に自分を見つめ直す機会を得 たのだった。118日の平塚市民センターで始 まり、42日の福岡国際センターでファイナル を迎えたロードは約3か月とこの時期にしては短 いものだったが、打算抜きで音楽する喜びのほ うが勝っていた。  ツアーで手応えを掴んだ佐野はスタジオ へと舞い戻り、8枚目のオリジナル・アルバム SWEET 16』を完成させる。30代半ばを過ぎ た佐野元春が10代の頃を振り返るという趣向 のタイトル・トラック「スウィート16」は、まるで 彼のアイドルであるバディ・ホリーのようなタム・ ロールが冴え渡る陽性のロックンロールだった。 初期の「君をさがしている(朝が来るまで)」を を終えつつあった彼が、変化してい く環境のなかでもがき苦しみ、葛藤 を繰り返しながらも、ザ・ハートラン ドというバンド・メイトを信じ、ライヴ という場でのオーディエンスとの交 信を大切にし、音楽的にはダンス・ ミュージックからベーシックなロック ンロールまでの激しい振幅を描きな がら、誠実に時代へと立ち向かってい った姿がよく解る。しかも彼の場合は ELECTRIC GARDEN』の一 りによって、今も継続しているスポー クン・ワーズの種まで蒔いていた。そ れもこれも言葉だけに寄りかかるの ではなく、あくまで音と合致させるこ とに尽力した結果であろう。そのよ うに磨かれていった言葉とサウンド の結晶を思う時、佐野元春が切り拓 いていった地平の広さを感じずには いられない。彼なしでは決して導か れることのなかった時代の輝きがあ る。私たちはいつでもそれを拾い集 め、若く勇敢だった日々を取り戻す ことが出来る。そう、昨日の喜びの ように。昨日の痛みのように。 彷彿させる「誰かが君のドアを叩いている」も 快活さを取り戻していた。また一方'90年代の「サ ムデイ」とも呼ぶべき「レインボー・イン・マイ・ソ ウル」には大人になった佐野ならではの深い祈 りが込められており、そんな振り幅が聴き手の 心を捉えて離さない。矢野顕子とデュエットした バラード「また明日」も新機軸と言えるものだっ た。'92年の7月にリリースされたアルバム SWEET 16』はチャートの第2位に輝き、30 万枚を超えるセールスを上げ、ゴールド・ディス クに認定されている。同年の12月に発売された コンピレーション・アルバム『NO DAMAGE もゴールド・ディスクになり、プラチナ・ディスクを 受賞したシングル「約束の橋」も合わせてこの年 佐野は三冠王を達成した。余談だが、佐野本人 がこの嬉しい受賞のことを知ったのは何と2年後。 マネジメント事務所の隅にひっそりと置いてあっ たトロフィを見て、初めてその事実に気づいたと いう。驚くべきエピソードだ。『SWEET 16』で 活力を取り戻した佐野は再びロードへと旅立つ。 '92912日の戸田市文化会館から始まり、 '93123日と24日の横浜アリーナで最終地 点に辿り着いた〈See Far Miles Tour Part は大好評のうちに幕を閉じた。  こうして'85年から'92年までの佐野元春の歩 みを振り返ってみると、イノセントだった青年期終わりは始まり——  思えば、そんな1年だった。 佐野元春の1993年は、前年 秋に始まったザ・ハートランド とのツアー〈See Far Miles Tour Part 〉のファイナル 公演から始まった。12324日の横浜アリー 2デイズ。  激動の1980年代、佐野はザ・ハートランドと 共に試行錯誤を繰り返し、それまでの音楽シー ンの常識をぶち破りながらライヴ・バンドとして の新たな地平を切り開いてきた。彼らは経験を 重ねて成熟してゆきながらも、決して完成を自 覚することなく、ベテランの域に達してなお、ど こかに若々しい危うさを隠し持つような魅力的 な存在であり続けてきた。  やはり佐野元春 with ザ・ハートランドは最 高のロックンロール・バンドだ。  このツアーは、長年のファンにもそんな思い を新たにさせる素晴らしいものとなった。佐野自 身にとっても、このツアーで得た大きな手応えはへと向かう原動力になったはずだ。  ツアーが終わると、佐野はそんな確かな手応 えを胸に、休むことなく次作に向けて作業を開 始した。こうして完成したのが同年11月にリリースされた9作目のオリジナル・アルバム『THE CIRCLE』。ポップかつコンパクトなテイストを 放っていた前作『SWEET 16』と対照的な、生々 しいまでに等身大のを歌うシンガー・ソン グライターとしての佐野元春の姿が印象的な1 枚だった。 〈さがしていた自由はもうないのさ 本当の真実 はもうないのさ〉  タイトル・チューン「ザ・サークル」の中で、彼 はそう歌う。暗闇に向かって言葉を投げつけるよ うな、ざらざらとした声で。これまでファンと佐 野の心をつないできたさがしていた自由 当の真実という〈特別な言葉〉を引用したフレ ーズは、ファンに対するある種の決別なのか、 それとても佐野自身の新たな決意宣言なのか。 当時、さまざまな物議と憶測を巻き起こした。  アルバムのコンセプトとして佐野が提示した のはサークル・オブ・イノセンス(無垢の円環)というキーワード。 「イノセンスは崩壊するのではなくまた消え去る ものではなく、それは確実に継続し、また完璧 に円環を描いていくものなのだ」(ハートランドからの 手紙#63  30代半ばを迎えたひとりの男として、手に入れたものや入 れられなかっ たもの、守りた い情熱や守ら れたい欲 望、 振り返ることと 振り切ること、 そしてこれから 自分が行くべ き場所への錯 綜する思い つまらない大 人にはなりたく ない、という決意を歌にぶつけた20代の頃とは 明らかに違う自分自身と対峙しながら、しかし 今、あの頃に負けない情熱がまた形を変えて心 の奥底から沸き上がってきていることを確信す る。そんな中で模索した新しい形のロックンロ ール。若々しい青春の苛立ちをやみくもに爆発 させるのとも、年齢を重ね達観した地点からシ ニカルに人生を説くのとも違う、30代半ばのポッ プ・クリエイターならではのリアルな表現がそこ にはあった。  一方、サウンド/アレンジ面では新旧、さまざ まなアプローチが交錯。ロック、R&B、ニュー・ ソウル、アシッド・ジャズ、ブルース、ゴスペル、 公園通りでゲリラ・ライヴを敢行した。 〈本日、ストリート・ライヴ決行。教会の脇、パ ーキングエリアで待つ。〉  日曜の朝、奇妙な新聞広告。この暗号にピン と来て詰めかけたファンたちはもちろんのこと、 たまたま渋谷の街を歩いていたところ突如演奏 が始まったことに驚き足を止めた人たちも含め、 公園通りの駐車場に急遽しつらえたライヴ・スペ ースは超満員に。  まるで活動初期を思わせる 熱気に満ちたゲリラ・ライヴだ った。これを皮切りに佐野とザ・ ハートランドは怒濤のツアー活 動に突入した。アルバムのリリースを受けて'93年秋から翌'94 年春の日本武道館2デイズまで 続いた〈The Circle Tour〉。その間、学園祭やイベントもあっ た。この期間、佐野とバンドの 面々はかつてなく濃密な1年を 過ごした。彼らのコンビネーシ ョンは誰の目にも永遠のものに 思えた。  が、ツアー終了後、ザ・ハートランドの解散が突然告げら れた。 レゲエなど、佐野にとってルーツとも言うべき伝 統的な音楽性からその時点で彼を触発していた のであろう新しいグルーヴまで多彩な要素を散 りばめ、ソングライターとして紡ぎ上げた内省的 な世界観をより豊かな色彩感で描き上げていた。  もちろん、2部構成となった長期ツアー〈See Far Miles〉の中で育まれた盟友ザ・ハートラン ドとのワン&オンリーなバンド・サウンドをフィー チャーした作品ではあったが、彼らのスケジュー ルをなかなか確保しきれなかったという事情も あり、多くの曲でコンピューターを使ったプリプ ロダクションが行われた。これもまた大きな変化 だった。  さらに、大きな新味として、ジョージィ・フ ェイムの参加があった。英国モッド・ジャズ/ブ ルー・アイド・ソウルの元祖とも言うべき偉大なア ーティスト。「新しいシャツ」のファンキーなグル ーヴを背後からさりげなく、しかし完璧にサポー トしてみせるハモンド・オルガンも、キュートなレ ゲエ・チューン「エンジェル」でのスウィート&メ ロウなソロも、あたたかいデュエット・ヴォーカル も、まさに夢のようなコラボレーションだった。 演奏だけでなく、このレコーディング・セッション の際、フェイムと交わした多くの会話もまた、そ の後の佐野に大きな勇気を与えることになった。  1017日に佐野とザ・ハートランドは渋谷・  佐野は、バンドの結成当時をしばしば映画 『がんばれ!ベアーズ』に例えた。最初は佐野自 身を含め、決してスター選手の集まりではなか った。それが、やがてアリーナ、スタジアムを埋 め尽くす観客を熱狂させるバンドになった。デ ビュー以来、ずっとソロ名義で活動を続けなが らも、佐野は同時に、いつもザ・ハートランドと いうチームメイトと共にマウンドに立つエース・ピ ッチャーだった。 が、佐野はそんな幸福な関係に甘え続けるこ となく新たな一歩を踏み出す決意をした。文字 通り新しいシャツを身につけ新しいルールを見つける旅へ。'949月、横浜スタジアムでの 一夜限りのワン・ナイト・スタンド〈Land Ho!〉を 最後にザ・ハートランドは解散した。当日は完全 な雨予報。ステージ上にも雨に備えたテントが張 られていた。が、佐野とザ・ハートランド、かけが えのない仲間たちがデビューしたときと同じ横浜 の地で迎える最後の瞬間を目撃するために全国 から集まった観客たちの願いが叶ったか、開演 の頃には雨もあがった。  佐野、古田たかし、小野田清文、長田進、西  こうしてザ・ハートランドと いう母艦から旅立った当時 の佐野元春によるライヴ・パ フォーマンスとして特に強い 印象を残したのは、'953 79日、日本武道館で行 われた阪神淡路大震災の被災者のためのベネ フィット・コンサート〈March of the Music〉だ ろう。佐野はその初日、布袋寅泰、米米クラブ らと並んで出演。ザ・グルーヴァーズのメンバー と西本明をバックに従え3曲を披露した。そのう ちの1曲、「君を連れてゆく」は、歌詞の内容も あいまって大きな感動を呼び、被災したファンと 佐野との約束の歌に。翌'9610月、〈FRUITS Tour〉の中で復興が進む神戸を久々に訪れた 際ももちろんこの曲は演奏され、万雷の拍手を 浴びることになる。  好奇心旺盛な佐野は、当時まだ黎明期だった インターネットにもいちはやく反応。この年の誕 生日、313日に、国内初となるオフィシャル・ホ ームページ「Moto's Web ServerMWS)」を開 設した。スタッフはパソコン通信時代からファン・ コミュニティをボランティアで支えてきたIT 本明、阿部吉剛、里村美和、ダディ柴田、石垣 三十郎、ボーン助谷、メロディー・セクストン、ポ ーラ・ジョンソンという、その時点での鉄壁のライ ンアップに加え、伊藤銀次、横内タケら、かつて 共に活動したメンバーも参加した熱狂の3時間。  佐野元春とザ・ハートランドの14年に及ぶ軌 跡は3枚組のライヴ・アルバム『THE GOLDEN RING』として集大成された。デビュー以来のさ まざまな曲折に満ちた長く険しい道のりという瓦礫を共に乗り越えてきたゴールデン・リン としてのザ・ハートランド。これもまた ークルだった。もちろん、誰もがご存じの通り、 佐野元春はこの段階でを閉じたわけでは なかった。ザ・ホーボー・キング・バンドやザ・コ ヨーテ・バンドをも包括する新たなサークル と、そのコンセプトを大きく広げていくことになる。  アルバム『THE CIRCLE』に対するコメント として、佐野はかつて“The Circle will be unbroken.”と記したことがある。このフレーズ は、20世紀初頭の米国の聖歌「Will the Circle Be Unbroken?」を意識したものだろう。カントリ ー・スタンダードとして今なお歌い継がれるこの 名曲が投げかけ続けるこの環は、この絆は、永 遠なのだろうかという問いに、佐野はきっぱり、環は壊れはしないと言い切ってみせていた。 前線の専門家たち、MIPSMotoharu Internet Project Systems)。これも佐野が用意した新時 代のコミュニケーション・サークルだった。  そしてザ・ハートランド解散後、初の本格的レ コーディングが始まる。バンドがなくなったとい う、それまで経験したことのない喪失感を抱き つつ、しかし、だからといって第二のザ・ハート ランドを作るつもりなど佐野にはなかった。そも そも今後、ザ・ハートランドのようにライヴでもス タジオ・レコーディングでも活動を共にする仲間 たちと出会えるのか、出会う必要があるのか、そ れすらまだわからない段階。とりあえずは、各々 の確固たる表現を持つセッション・ミュージシャ ンで、かつその時点で佐野が思い描いていたヴ ィジョンを的確に表現してくれる腕ききたちを起 用することを選択した。  参加ミュージシャンは、井上鑑(arr)、高水健 (b)、吉川忠英(ag)、安田裕美(ag)、窪田晴男 (g)、井上富雄(b)Dr.kyOn(key)、佐橋佳幸(g) 小田原豊(ds)、有賀啓雄(b)、斉藤有太(key) 新旧世代入り乱れた名セッション・ミュージシャ ンたちのほか、ザ・プレイグスやザ・コレクターズ らロック・バンドのメンバーたち、そして西本明 (key)、里村美和(perc)、メロディー・セクストン (cho)らザ・ハートランド時代の盟友たちという 幅広い顔ぶれ。 このレコーディング・セッションからはまず'95 11月、久々のシングル「十代の潜水生活 経験の唄」が生まれた。東京スカパラダイスオ ーケストラのホーン・セクションをフィーチャーし たソウルフルかつ外向きなロックンロール・チュ ーン「十代の潜水生活」と、佐野自身が奏でる キーボードに乗せてきわめて内省的に綴られる 「経験の唄」のカップリング。このセッションから は佐野元春の多様性を散りばめたこれまで以 上にカラフルなアルバムが生まれるのかも、と。 そんなワクワクをリスナーに先行して感じさせて くれたものだ。  アルバムのレコーディング作業がえんえんと続 くなか、佐野元春は新たなツアーに出ることにな った。翌'961月にスタートした〈International Hobo King Tour〉。ツアーのために佐野は新た なバック・バンドを編成した。アルバムのセッシ ョンに参加したミュージシャンの中から、佐野は 井上、kyOn、佐橋、小田原、西本の5人を選抜。 彼らをインターナショナル・ホーボー・キング・ バンドと命名しスカパラ・ホーンズとメロディー・セクストン、サンディ・セクストンらも引き連れて、 全国8大都市、全13公演のツアーに乗り出した。  ツアー中、時にはセットリストが大幅に変わる こともあった。が、そういった事態にも慌てず、 むしろ楽しげに対応するルースターズの井上、 ることで一気に一体感を強めた。彼らとの出会 いが、そして、このツアーが、佐野元春の分水 嶺となった。  その後、シングル「楽しい時」と「ヤァ!ソウ ルボーイ」を挟んで、'967月、前作『THE CIRCLE』以来2年半ぶりとなるスタジオ・アル バム『FRUITS』をリリース。過去どのオリジナ ル・アルバムよりも多い全17曲という収録曲の ボリュームにも驚かされた。アルバム・ジャケッ トのようにポップでカラフルな曲もあれば、裏腹 に、より人生の深淵へと踏み込んだような内省 的な物語もある。その多彩さに、当時40歳を迎 えた佐野元春の新たな人生探求の物語が二重 映しになる。ブックレットの冒頭には「僕の庭で はじまる」というエピグラフ。自らの原点、始まり の場所に立つことから再び物語を始めようとし ているかのようだった。 「熟してゆきたいけれど、成熟はしたくない」  当時、佐野はそんな言葉をよく口にしていた。 キャリアを重ねてゆく表現者が必ず通らねばな らないセカンド・アクト、第二幕の幕開けを、佐 野元春は『FRUITS』というアルバムで告げよう としていたのかもしれない。『FRUITS』は翌年 1月、『ミュージック・マガジン』誌が発表した年 間ベスト・アルバム日本のロック・ポップス部門1位に選出されたほか、多くのメディアで絶賛 ボ・ガンボスのkyOn、レベッカの小田原、 UGUISSの佐橋。全員がバンドの一員として デビューしたのちに解散あるいは活動休止、そ の腕前を買われてセッションマンとなった連中だ った。バンドマンとしてのミュージシャンシップ に溢れた彼ら凄腕たちは、このツアーを経験す された。  '96831日と91日には、東京・赤坂 BLITZで〈THIS!'96〉というイベントが開催さ れた。“New Attitude for Japanese Rock” いうサブ・タイトルがつけられたこのイベントは、 参加バンドが30分の持ち時間で次々登場。進 行役もつとめた佐野が自分よりも若い新世代の アーティストを広く紹介すると同時に、彼自身の 新たな時代の始まりを感じさせるものとなった。 佐野はまず初日、ザ・グルーヴァーズとの共演 5曲を演奏。曲によってヒートウェイヴの山口 洋やグレイト3の片寄明人も加わった。翌日はイ ンターナショナル・ホーボー・キング・バンドとス テージに立ち、このときも5曲を披露した。このイベントは'97年、'98年と続き、佐野と新世代 アーティストたちの交流を深めるうえで大きな役 割を果たすことになった。  98日からは〈FRUITS Tour〉。インターナ ショナル・ホーボー・キング・バンドとの2度目の コンサート・ツアーがスタートした。前回以上に、 ほぼ毎ステージ、セットリストを変えてゆく。そ んなアクロバティックな仕掛けはスタッフをてん てこまいさせ、メンバーたちにも緊張感をもたら した。が、それもこのバンドがいかにして真のバ ンドとなってゆくか、その成長ぶりを計るハード ルのようなものだったのかもしれない。 ステージ上だけでなく、日常的なコミュニケー ションも濃いツアーだった。楽屋にアナログ・レ コード・プレーヤーを持ち込み、ツアー先各地 の中古レコード店で入手した往年の名盤を開 演前にかけてはロック談義に明け暮れる。いつ しかその様子はツアー・スタッフたちから楽屋 ロック喫茶と呼ばれるようになった。佐野がレ コードに合わせてギターを弾きながらおもむろ に歌い出し、彼の思いがけないルーツをメンバ ーたちが知ることも少なくなかった。ここでの熱 い交歓がそのまま次作『THE BARN』へとつ ながってゆく。  ちなみに、このツアーのスペシャル・ヴァージ ョンとして同年12月に日本武道館、大阪城ホー ル、横浜アリーナで開催されたのが〈FRUITS PUNCH〉。ストリングスやホーンもバックに配し たスペクタクルなロッケストラ・コンサートだった。 そのうち121617日の武道館ライヴの模様は インターネットを通じて配信された。企画・制作・ 運営はMIPS。日本人アーティストによるライヴ のインターネット生中継として、ここまで大規模 なものはこれが初めてだった。   '97年半ば、佐野はフジテレビ系の生特番 通称ザ・バーンで新作アルバムの制作に没 入した。  プロデュースを手がけたのはザ・バンド、サイ モン&ガーファンクルら多くのアーティストと共 に名盤を数々作り上げてきたジョン・サイモン。 エンジニアは名匠ジョン・ホルブルック。ザ・バンドのメンバーだったガース・ハドソンや、ラヴィン・ スプーンフルの中心メンバーだったジョン・セバ スチャンら米ロックの偉人たちのゲスト参加も得 て、アーシーに、ナチュラルにグルーヴする佐野 元春&ザ・ホーボー・キング・バンドの新しいサ ウンドが誕生した。  このアルバムは同年12月、スタジオの愛称を そのまま冠した『THE BARN』というタイトル のもとリリースされることになるのだが。それに Hey! Hey! Hey! Music Awards』や日本テレビ系の バラエティ番組『とんねるず の生でダラダラいかせて!! など地上波のテレビ番組に も積極的に出演。大いに話 題を巻き起こした。番組収録の現場では出演 者やスタッフから、自分が多感な頃、佐野にど れだけ大きく影響されたかを打ち明けられるこ とも少なくなかった。そういった世代が秘かに抱 自分より若い世代にも佐野の魅力を伝えて ゆきたいという熱い思いもまた、この時期の佐 野元春の活動を支える重要な要素のひとつだっ た。シーンにおける佐野の位置はすでに別の次 元へ。第二幕は確実に幕を開けていた。  そして7月、2度の全国ツアーを経てグループ としての結束をより強固なものにした佐野とザ・ ホーボー・キング・バンド(この時期、インターナ ショナル・ホーボー・キング・バンドはザ・ホー ボー・キング・バンドへとオフィシャルに名前を 短縮していた)は渡米。楽屋ロック喫茶でも 大いに盛り上がった70年代米国ロックの名盤 を数々生み出したマジカルな音楽の街、ウッド ストックに長期間腰を据え、現地の伝説的スタ ジオ、ベアズヴィル・スタジオの一角にある納屋 を改造したタートルクリーク・バーン・スタジオ、 先駆けて10月、福岡、大阪、名古屋、東京のク ラブ・サーキットで、発売前の『THE BARN の収録曲を佐野とザ・ホーボー・キング・バンド の生演奏でお披露目するクラブ・キャラバン〈ア ルマジロ日和〉が開催された。このようなツアー もまた画期的だった。いわば試聴会のような、 しかもホール・ツアーに先駆けてのクラブ・ツア ーというプレミアムな仕様。新作アルバムに詰 め込んだ新しい音世界をすぐにでも多くのオー ディエンスに体験してもらいたいという熱意の発 露だった。と同時に、ウッドストックでの合宿レコーディングを経てザ・ホーボー・キング・バン ドが期間限定のスペシャル・プロジェクトを超え た本物のバンドへと成長したのだといううれし い事実や、彼らと共にこれから新しい航海に出 るのだという佐 野の決意をいち 早くファンに伝 えたかったから こそのツアーだ ったのかもしれ ない。 「概ね、好評の ようだね」  このツアーで は、新曲を演奏した後、そうMCするのが決めぜりふになって いた。ちょっと気障だけど佐野らしいチャーミン グな台詞に、会場のファンは笑顔を浮かべなが ら熱い拍手を送った。ステージ上からファンの 熱気を直に感じ取ることが大切だった。アルバ ムのリリースを告知するだけでなく、この新し い仲間と旅を始める喜びをファンと分かち合い たかったのだろう。  12月、『THE BARN』がリリースされた。当 時の米ロックの新潮流、オルタナ・カントリーの 動きとも呼応する意欲作として高く評価する者も いれば、ザ・ハートランドと共に活動していた時 期とは大きく変わった音の方向性に戸惑うファ ンもいた。賛否渦巻く中、'981月、横須賀を 皮切りに〈The Barn Tour '98〉がスタート。佐 野とザ・ホーボー・キング・バンドはさまざまな疑 念や批判に対しても、ひるむことなく力強いパフォーマンスで答えを放ち続けた。ツアー終盤の 大阪公演には、ウッドストックからジョン・サイモ ンとガース・ハドソンが来日してゲスト出演した。  ジョン・サイモンは佐野が英語詞を提供した オリジナル曲「ソー・ゴーズ・ザ・ソング」を披露 した。ガース・ハドソンは「7日じゃたりない」の 演奏にアコーディオンで加わった。出番を控え ステージ脇で佐野のパフォーマンスを眺めてい たジョン・サイモンは、演奏中、佐野の前に備え  こうして2000年代へ。佐 野元春はデビュー20周年 を迎えた。1月にはリミックスやリマスターをほどこした 代表曲満載の2枚組『THE 20TH ANNIVERSARY EDITION』を、11月には新録も含むレアリテ ィーズ集『GRASS』をそれぞれリリースした。  80年代に発表した12インチ・シングル音源をコ ンパイルした『CLUB MIX COLLECTION 1984 -1999』、'85 年に発表された『 ELECTRIC GARDEN』以来、独自のアプローチで挑み続け てきたポエトリー・リーディングの最新型を収めた CD書籍『スポークン・ワーズ』なども、20周年記 念サイト「eTHIS」で限定販売された。  ライヴのほうでも1月の宮城を皮切りに全国8 大都市ツアー〈The 20th Anniversary Tour がスタート。3月の日本武道館での最終公演まで、 ザ・ホーボー・キング・バンドと共にライヴ版『THE 20TH ANNIVERSARY EDITION』とでも言 うべき怒濤のパフォーマンスを展開してみせた。  ここまでの20年間、佐野元春から始まったこ とは多かった。常に時代の一歩先を的確に見据 付けられたプロンプターに“Elvis loves you” というメッセージを送った。佐野とザ・ホーボー・ キング・バンドの国境を越えた新しい航海がひ とつのクライマックスを迎えたかけがえのない 瞬間だった。  が、ひとつの方向性に安住しないのもまた佐 野元春の在り方。ザ・ホーボー・キング・バンド との活動に一段落つけた佐野は、‘995月、 新設したプライベート・スタジオで新作アルバム のレコーディングに着手した。バンドでの一発 録りを基本に進められたアナログな手触りの前 作『THE BARN』から一変。プロトゥールズな どデジタル・イクイップメントを駆使し、ほぼすべ ての楽器演奏やプログラミングを自ら手がけた アルバム『STONES AND EGGS』が同年8月にリリー スされた。石と卵というタ イトルに象徴される通り、さ まざまな異質な要素が渾然 と共存。やがて訪れるホー ム・レコーディング全盛期を予見するかのような、 先見の明に満ちた、きわめてパーソナルな試行 錯誤だった。  同年12月には、新曲シングル「イノセント」を 発表。従来のパッケージと、初のネットにおける ダウンロード販売との同時リリースだった。 える鋭いアンテナとスピード感は、時に早すぎると評されたり、たまには時代とずれている 皮肉られることもあった。が、そんなフロンティア 精神は確かに伝わるべきところにはきっちり伝わ っていた。若い世代を中心に大きな影響を与えて きた。そんな事実が20世紀を総決算するミレニ アム・イヤーに改めて証明されることになった。  2001年、ザ・ホーボー・キング・バンドからドラ ムの小田原豊が脱退し、ザ・ハートランド時代 の盟友、古田たかしが加入した。この新ライン アップで9月、米国の同時多発テロに触発され た新曲「光 - The Light」を急遽レコーディング し無料ダウンロード配信。これもまた当時として は斬新な、近未来を見据えたアプローチだった。  2002年には『SOMEDAY Collector's Edition をリリース。2003年には〈THE MILK JAM TOUR '03〉中の数公演でアルバム『VISITORS の全曲演奏も披露された。過去を否定するので はなく、かといって過去に寄りかかるのでもなく、 現在と過去をすべて分かちいていはやり直さない方がいいけど、この曲について はうまくいったと思う。  詞で言うと、当時まわりから言われたのは、本当 の真実という表現について。真実というのはそも そも本当のことじゃないのかって。でも当時の新 しい世代は、世の中で言われている真実っていう のはまやかしばっかりで、あえて本当の真実と言 い直さないとリアリティがないんだ、ということを嗅 ぎ取ってくれたと思う。  スターダストという言葉は、僕が10代の時に見 た『ウッドストック』の映画の主題歌でジョニ・ミッチェ ルが唄っていた曲の中の一節「We are stardust..」、 あるいは僕の好きなホギー・カーマイケルの曲のタイ トル、そんなところがインスピレーションの元として あった。スターじゃなくてスターダスト。いつの時代 でも「KIDS-子供たち」というのはそういう存在でも あるということ。て2004年、デビュー以来長年在籍して きたEPICレコードから独立。自らの新レーベ “DaisyMusic”を設立した。パフォーマーと リスナーとの健全なコミュニケーションを阻害しかねないCCCD(コピー・コントロールCD の導入に積極的だったメジャー・レコード会社 の方針へのアンチテーゼでもあったという。  この新レーベルの下、7月にリリースされた移 籍第1弾アルバムが『THE SUN』だった。ザ・ ホーボー・キング・バンドが新たなラインアップ になって3年。その間、レコーディングとツアー を繰り返しながらじっくり制作された1枚だっ た。一体感をさらに増したザ・ホーボー・キング・ バンドとのコンビネーションが素晴らしかった。  と共に、ストーリーテラーとしての佐野元春 の成長ぶりにも胸が躍った。収録されていた全 14曲、1曲ごとに佐野は、歩き続けてゆくための月明かりを乞い求め、ありふれた日常にひそ 希望自由を噛みしめ、厳しい現実を 生き抜くための夢見る力の復権を願い…… 大丈夫〉  幸せな時も、やりきれない時も、彼の歌声を 聴くだけでわたしたちは誰もが佐野元春という サウンドトラックが流れる映画の主人公になれ る気がした。  デビュー以来、彼はロックンロール、ヒップホ ップ、アシッド・ジャズ、フォーク・ロックなど、わ たしたちが洋楽として親しんできた音楽にユ ニークな切り口で日本語の響きを与え、躍動さ せてきた。たとえば『VISITORS』。あるいは THE BARN』。そうした意欲的なアルバムが 出たときのように、彼を通してファンが初めて知 った音楽性も少なくない。  とてつもない情報量とスピード感に沸き返る 都市に暮らす若い世代の愛や痛みを浮き彫りに してくれる佐野のパースペクティヴ。それはわた したちにとって絶対に欠かせないものだった。  彼が描き続けてきた世界観が、いかにリアル で自覚的なものだったか。すべては時が証明し た。デビュー以来、1980-2004というのは、そう した歳月だった。そして21世紀、佐野元春は長 年在籍したメジャー・レーベルから旅立ち、自 身のプライベート・レーベルを立ち上げた。  佐野元春は今もなお、無理に若ぶることも、 安易に枯れることもなく、変わらぬ毅然とした 眼差しをたたえながら確かな歩みを続けている。 14篇の短編小説を読むような充実した世界観 をリスナーに届けてくれた。  翌2005年、iTunes Music Store(現・Apple Music)において『THE SUN』のダウンロード 販売を開始。これもまた国内メジャー・アーティ ストとしては初の試みだった。  この時期、やはりデビュー当時からマネージ メントを託してきたヤング・ジャパンとの業務提 携も終了。以降は佐野元春自らすべての活動を 取り仕切ってゆくことになった。そんな環境の変 化も含め、確かな決意のもと、佐野元春の新時 代が始まった。  1980年からずっと、わたしたちは佐野元春の いない世界を知らない。  彼が繰り出す疾走するようなロックンロール は、日々見慣れた冴えない街の通りをいかした ビートが渦巻くストリートに変えてくれた。赤い ローヒール・パンプスの踵を鳴らせば、夜の駐 車場がティーンエイジ・ヴァイブ溢れるロックン ロール・パーティ会場になった。  まるでお守りのように、彼の〈言葉〉をボロボロに なるまでポケットの中にいれていたことを思い出す。 〈心はいつもヘビーだけど 顔では 大丈夫  大丈夫〉  幸せな時も、やりきれない時も、彼の歌声を 聴くだけでわたしたちは誰もが佐野元春という サウンドトラックが流れる映画の主人公になれ る気がした。  デビュー以来、彼はロックンロール、ヒップホ ップ、アシッド・ジャズ、フォーク・ロックなど、わ たしたちが洋楽として親しんできた音楽にユ ニークな切り口で日本語の響きを与え、躍動さ せてきた。たとえば『VISITORS』。あるいは THE BARN』。そうした意欲的なアルバムが 出たときのように、彼を通してファンが初めて知 った音楽性も少なくない。  とてつもない情報量とスピード感に沸き返る 都市に暮らす若い世代の愛や痛みを浮き彫りに してくれる佐野のパースペクティヴ。それはわた したちにとって絶対に欠かせないものだった。  彼が描き続けてきた世界観が、いかにリアル で自覚的なものだったか。すべては時が証明し た。デビュー以来、1980-2004というのは、そう した歳月だった。そして21世紀、佐野元春は長 年在籍したメジャー・レーベルから旅立ち、自 身のプライベート・レーベルを立ち上げた。  佐野元春は今もなお、無理に若ぶることも、 安易に枯れることもなく、変わらぬ毅然とした 眼差しをたたえながら確かな歩みを続けている。

 この頃の僕はまだ音楽以外の仕事に就いていて、 環境的には何もかも整った上でのレコーディングと いうわけではなかったけど、そういうことよりもレ コーディング・アーティストとしてデビューできる、と いう嬉しさが先に立っていた気がする。デビュー・ア ルバム『BACK TO THE STREET』の収録曲と一 緒のレコーディングだったので、時間的にはそれほど かかってない。ベースに高橋ゲタ夫、ドラムに島村英 二、ピアノに羽田健太郎、サキソフォンにジェイク・コ ンセプションといった一流のセッション・ミュージシャ ンが加わっていて、彼らのリズム隊のグルーヴ感にワ クワクしたのを覚えている。  サックスのジェイクが僕のことを、日本人のミュー ジシャンでこんなにご機嫌でドライヴするロックン ロールは初めてだって喜んでくれたのが忘れられな い。自分で言うのも変だけど、誰か他の人が書いたよ うな、自分の曲ではないように思う時がある。

 『BACK TO THE STREET』の頃は、こういうこ ともやりたい、ああいうこともやりたいという思いの 方が大きくて、まだ自分の音楽が定まっていなかった と思う。「アンジェリーナ」のようなストレートなポッ プ・ロックもあれば、「Do what you like -勝手にしな よ」のような4ビートもある。いろんなジャンルを表現 しながら自分の今後の音楽性を試行錯誤していた。

 

当時僕は新宿にあったライヴ・ハウスルイードでマンスリーのライヴを演っていた。デビュー・アル バム『BACK TO THE STREET』を出した頃はまだ あまりパッとせず、お客さんもまばらだった。でもこの 「ガラスのジェネレーション」という曲がリリースされ た後、会場は急に満員になり始めた。同時期にルイ ードに出ていたシャネルズやルースターズがお客さん をたくさん集めていたので、僕は心の中でいいなと思っていた。そして'80年の12月にルイードでクリ スマス・ライヴをやろうということになって、いつもの ようにギターを持ってお店に行くと、表にまでお客さ んが溢れていた。僕は、きっとシャネルズの次の公演 のチケットを求めるお客さんだろうと思ってその群衆 の中に入っていったら、女の子たちが嬌声をあげて駆 け寄ってきて死にそうになった。エレベーターじゃな くて階段で上がっていったら入り口に伊藤銀次が待 っていてすごいことになってきたねって言ったのを覚えている。  10代のはすっぱな頃、僕自身のキャッチ・コピーがつまらない大人になりたくないだった。この歌の テーマは一言で言えば反抗80年代前半は子供 対大人という図式がまだ成り立っていた。親や教師 は反抗の対象であるというマンガのような図式があ って、その中でこの曲を書いた。時と場所を選べば今 でも歌える曲だと思う。この曲は書かれた時点で完 結していると思っているので、今の僕がこの曲を批評 することはできないような気がする。フランソワ・トリフォーの『大人は判ってくれない』という映画がそう であったように、この歌は永遠に存在する10代の反 抗の歌だ。 

 

この頃、レーベルには、できるだけ多くのシングル レコードを出したいと話していた。シングル盤が隆盛 だった60年代、数多くの名曲が生まれた。僕もシン グル曲を聴くのは好きだった。だからシングル盤への 思いいれは人一倍強かったと思う。当時のレコーディング・アーティストの中でもシングル・リリースが多 かった方だと思う。  この曲は「ダウンタウンボーイ」のBサイドに収録 したトラックに、新たにいくつかの楽器をダビングし て、再リリースしたものだ。僕はこの曲が大好きだっ た。原曲は3ピース・バンドのシンプルな演奏だった ので、シングルで発売されるこのヴァージョンは思い きりハデに仕上げようと思った。R&Bなベースライン、 12弦ギター、ホーンも入り、杉真理君を呼んでビーチ・ ボーイズ的なハーモニーを添えてもらった。途中、間 奏ではサキソフォンとマリンバでテックス・メックスな 楽しい雰囲気を出した。レコーディングというのはた 

 

この頃はレコーディングよりもツアーに明け暮れる ようになっていた。レコード・メーカーもそろそろ3 目のアルバムを作りたいと思っていて、そのアルバム に向けたのが「サムデイ」と「ダウンタウンボーイ」だ った。  この曲のレコーディングで思い出すのが、目黒のスタジオの近くを流れていた川が大雨で流れ出したこ と。湿気の強い日だった。レコーディングに湿気は大 敵で、ドラムの音とかが変わってしまう。スタジオが 川の側にあったものだから、全く音が違ってしまって、 曲はご機嫌なのに泣きながら録音した記憶がある。レ コード・メーカーも1日しかスタジオを押さえていなく て、その日に録ってしまわないといけなかった。最悪 の環境の中だったけど、大好きな曲だったからなんと か集中して録った。だからしばらく僕はこのシングル 盤を失敗作だと思っていた。  その後しばらくしてファンから一通の手紙をもらった。それはどうしても言いたいことがある。「ダウン タウンボーイ」は、アルバム・ヴァージョンよりシング ルの方が100倍いいって。その後聴き直してみたら、 本当にそうだったんだ。もちろんどちらのヴァージョ ンにも優劣はつけられない。でも最初に録った方が 当時の僕の思いが正直に反映したトラックなんだと 感じることができた。  この曲はこのオリジナルを含めていくつかヴァージョ ンがあるが、個人的には『THE 20TH ANNIVERSARY EDITION』に収録したリミックス・ヴァージョンが一番 好きだ。「ダウンタウンボーイ」は僕が80年代に書い た曲の中でも間違いなくベストなロック曲だと思う。 

 

この曲を書いたのは16歳の時だ。当時のことを覚 えている。ピアノに向かってコードを弾いているとい くつかの言葉が頭に浮かんできた。その言葉をノート に書きつけながら作曲していった。ラヴ・ソングのリ リックはステレオタイプに陥りがちだ。何か一定の決 まりごとのようなものがあって、そこから外れたもの はあまり好まれない。そこで自分は、そうしたルール には縛られない個性的なラヴ・ソングを書きたいと思 った。  70年代の国内では、シティ・ポップと呼ばれる 歌がたくさんあった。そうした音楽の大半は、都会的 と形容されることが多かった。でも自分の耳にはそれ ほど都会的には聞こえなかった。なぜならそれは都 会の外から見た都会の歌だったからだ。そこで自分 は、同じ街のことを歌っても、都会的ではなく、都 会そのものの歌を書きたいと思った。アウトサイダー の視点ではなくインサイダーの視点だ。パーキングメーターやウイスキー、地下鉄の壁やサイレン、死んで る噴水。僕が知る限りそんな景色を唄った曲はなか った。  ライティングの技法として参考にしたのはふたつあ る。ひとつは山口洋子作詞の歌「よこはま・たそがれ」、 もうひとつは、ウィリアム・バロウズの小説『裸のラン チ』。印象的な景色を、カットバックの手法で切り取 っていく描写を参考にした。  この曲は、年上の女性に憧れる少年の気持ちを歌 っている。思春期の頃に見たロバート・マリガン監督 の映画『おもいでの夏』の影響もあるかもしれない。 今でもこの曲を歌う時には、当時、家を出て暮らして いた横浜の風景を思い浮かべることがある。初期の 作品の中でも、明らかに僕の特徴がよく出ている楽 曲だ。 

 

初期のレコーディングのほとんどは、当時の僕のバ ッキング・バンド、ザ・ハートランドと一緒に行った。 僕らの音楽は、ロックンロールを主体としていたが、 スタイルも含めて、あまり強いこだわりはなかった。 むしろ、ロックンロール・バンドのステロタイプなイメージをぶち壊したいと思っていた。確かに「アンジェ リーナ」とこの「モリスンは朝、空港で」のサウンドは 全然違う。佐野は何をしたいのかよくわからない、と 評論家たちは首をかしげていたが、聴き手の十代は そんなに気にしていないようだった。  今聴いてみると、この曲のサウンドには、いくつか の要素が混じりあっている。後に誰かがソフトロッ と名付けたジャンルだ。60年代のビーチ・ボーイ ズ、フォー・シーズンズ、そしてアソシエイション。特 にアンサンブルやハーモニーはそうしたバンドのレコ ードを意識していたかもしれない。途中の多重ハーモ ニーは自分一人でやった。アカペラが出てくるのは、今のところ自分のレコード中でこの曲だけだ。  よく、モリスンとは誰ですか、と訊ねられた。モリ スンという名前は歌詞には出てこない。そもそも名 前はなんでも良かった。彼が自分の居場所から旅立 っていく様子を描きたかった。舞台は空港だ。自分に とって空港というのは、外に出ていくための玄関のメタファーだ。今まで見ていた景色と何かが違って 見える、目が覚めてきたという感覚。つまりこの曲の テーマは覚醒気付きだ。これって多感な頃 にはよくある感覚で、大人になるとなくなってしまう 感覚。十代のリスナーならこの曲から何かを感じてく れるはずだと、僕は確信している。 

 

デビューしてからの2枚のアルバムが商業的にすご く売れたわけではなかったので、当時は次作がダメだ ったら音楽を辞めようと思ってレコーディングに臨ん でいた。とは言っても悲壮な気持ちはなかった。レコ ードが売れなくても全国のあちこちで会場に入りきれ ないくらいのキッズたちが熱く迎えてくれていたから。 ライヴでは、僕のスーツが女の子たちにビリビリに引 きちぎられるような熱狂したステージを展開していた。 いつ死んでもいいと思い、高いところから飛び降りた り、アクロバティックなことをやった。  それまで僕たちの上の世代は、ロングヘアに、破 れたジーンズとワークシャツ、いわゆるヒッピー世代 のステージを行っていた。しかし80年代という新し い扉をくぐった時から、何か新しい時代がやってきた ように思った。それまでの世代がセックス、ドラッ グ&ロックンロールという典型的なロックのイメー ジを演じているとしたら、僕は眼鏡をかけて白いシャツにスーツでいこうと思った。そうすることの方がフ ァニーで愉快だと思ったからだ。  レコーディングではちょっとした工夫をした。今の ようなモダン・レコーディングでは簡単にできること も以前はたいへんだった。曲をシーケンシャルなサウ ンドにするために、スタジオにあったオモチャのよう なリズム・マシーンを使って、8小節ごとにビートを打 っていった。曲がブレイクするところで聞こえてくる ラテンのリズムがそれだ。あの頃はテクノ・ポップと いうニュー・ビートがハプニングしていた。そこに僕な りにアプローチしたのがこの曲だ。

 

 その名前の通りにハッピーな曲にしたかった。コーラス のところでは僕の友だちをたくさん集めて、うまく歌わな くて良いから叫んでくれ、という調子でわいわい騒ぎな がらレコーディングした。とても楽しかった。この曲は当時 の新しい価値観を持ったヤング・ジェネレーションが、古 い価値観を破って前進していくための景気づけの歌を 書きたいと思って書いた。  歌の詞について言うと、それまで日本のポップ曲では あまり見受けなかったような言葉をふんだんに使った。タフクールヒューマンタッチといった横文字や 「世界中のインチキにai ai ai」といったライン、今でも気 に入っているのはアスピリン片手のジェットマシーン いうラインだ。のちにヒップホップのアーティストがこのラ インをサンプリングしてラップ曲として歌ったりしているけ ど、気が利いた言い回しだったんだろう。それまでの日本 のロックンロール曲といえば、お前の口紅とか、俺の ジャック・ナイフといったイメージで溢れていたから、そういう詞に飽きていた人たちにとっては新鮮だったんだと思 う。  当時『ストップ!!ひばり君』というコミックがとても人気 があって、主人公がウォークマンでこの曲を聴いて街を 歩いている、という場面があった。音楽やコミックやいろ いろなストリートな表現が境界線を越える、そんな時代の 始まりだったんだと思う。この頃僕はたくさんレコーディン グをしてる。『ナイアガラ・トライアングル』をはじめ、沢田 研二さんや松田聖子さんといった他の歌手に曲を提供 していた。このシングルの頃はアルバム『SOMEDAY はツアーの合間を縫って、なおかつそういうことも平行し ながらのレコーディングだった。 

 

アルバム『HEARTBEAT』は、いろいろ制約が多い レコーディングだった。何曲かは仕上がりに満足してい なかった。「悲しきレイディオ」もそのうちのひとつだっ た。この曲はツアーの中で演奏するうちにどんどん思い 描いていた形に近づいていった。そして初期のライヴで は欠かせないレパートリーとなった。どの会場でも、こ の曲のイントロが始まると、バンドも観客も火がついた ようにアガッた。メドレー形式にして演奏時間が長くな り、どんどんドラマティックになっていくのが楽しかった。  ソングライティングを見ると、この曲は当時の街の 景色を忠実にスケッチしている。街の夜、車、ボーイ ズ&ガールズ。80年代はじめ頃の東京は『アメリカン・ グラフィティ』のパロディみたいだったけれど、それな りに楽しかった。ラジオがテレビよりもクールだった 時代。ヒット曲はラジオから生まれていた。光栄なこ とに、全国のDJがラジオで僕のレコードをプッシュし てくれた。テレビに出ていなかったので知らない人も多かったと思う。でもDJたちのおかげで少しずつ僕 の曲が知られるようになった。  十代の頃、よくラジオをかたわらに眠った。特に FENFar East Network、在日米軍向けラジオ局)を 聴いていた。FENにはオールディーズ専門番組があっ て、日本のラジオでかからない曲がたくさん聴けた。 バディ・ホリーやリトル・リチャードの音楽はそこで知 った。日本の番組では、糸居五郎さんの番組をよく聴 いた。かかる曲は僕の知らないものばかり。しかし糸 居さんが紹介すると、知らない曲もなんだかカッコよ く聞こえた。DJってすごいなって思った。  その糸居さんの訃報を、地方をツアーで回っている 時、移動中のタクシーの中で聞いた。僕はホールに着 いてバンド・メンバーを集め、その時のセットリストに はなかった「悲しきレイディオ」を、今日演奏したいと 伝えた。そしてその夜、僕たちは特別な「悲しきレイデ ィオ」を演奏した。 

 

この曲「彼女」のように、弾き語りの曲をレコーデ ィングする時は、吉野金次さんをエンジニアに指定す ることが多かった。このベストに収録したヴァージョ ンは、吉野金次さんが録音したものだ。今はなくなっ てしまった新宿のテイクワンスタジオで、グランドピ アノを弾きながら歌も同時録音した。吉野さんは矢野 顕子さんのレコーディングでもすばらしい仕事をして いる。歌を大事にした繊細な録音が得意だ。吉野さ んのプロデュースでストリングスを重ねてもらい、結 果的にとてもいい仕上がりになった。  多感な頃、人を好きになって、別れるということに なると、けっこう心に堪えるものだ。ソングライター にとっては挑戦しがいのあるテーマでもある。いわゆ る失恋の歌というのは世の中にたくさんあるけれど、 たいていはどれも自己憐憫型だ。そこでこの曲では、 お涙頂戴はやめて、ストーリーテリング形式でいこう と思った。目に映る風景を淡々とスケッチして物語を進めていく。曲を聴きながら、聴き手が心の中で映画 を描いてくれるような、そんな描写をしてみた。  自分の経験だが、どんなに言葉を費やして、思いを “10”綴って唄にしたとしても伝わらない、ということ がある。なんだか野暮ったい。でも表現を“8”に抑 えて、結果、相手に“12”伝わったらラッキー、粋だね、 という話になる。そこに表現の工夫というものが生ま れるんじゃないか、と思っている。  この曲は、後に、映画作家の堤幸彦さんが『SPEC というドラマの挿入歌として採用してくれた。この曲 が思わぬ形で多くの人に届いたことは嬉しかった。 

 

まずはレコーディングのことを思い出す。それまで シングルを3枚、アルバムを2枚出したものの、セー ルス的には鳴かず飛ばずだった。専門家やファンは 熱狂的に迎えてくれたけど、レコードが爆発的に売れ たわけではかった。それもあって次に出すアルバムや シングルは他の人に手を借りないで、自分でやろうと 思った。それがこの曲だった。  この曲はでき上がった時から、ギターやピアノ、ベ ースライン、そして最終的な音像まで、全部にアイデ アを持っていたので、バンドのメンバーに街の小さな リハーサル・スタジオに集まってもらい、みんなに説 明することから始めた。そこで何回かリハーサルを行 い、いい感じになったものを8チャンネルの卓を使っ て録音してカセット・テープに落とした。それをレコ ーディング・エンジニアの吉野金次さんのところに持 っていってこのとおりのサウンドにして欲しい。吉 野さんならわかってくれると思うと頼みこんだ。 その頃のレコーディング・エンジニアといえば、歌 謡曲もジャズもクラシックもやっているという時代だ った。僕は、サウンド作りにおいてレコーディング・エ ンジニアがいかに大事かを知っていた世代だった。 当時、僕は一緒にやりたいレコーディング・エンジニ アは二人いた。吉野さんと吉田保さんだ。保さんは、 大滝さんや山下達郎さんを手がけ一流のサウンドを 作っていた。吉野さんはその昔はっぴいえんど 手がけていて、そのサウンドはロックを感じさせた。 この時のアシスタントの一人が坂元達也で、彼はの ちに僕の重要なスタッフの一人になってくれた。  いろんな人がこの曲とあの時代のことを語ってく れるけど、改めて時代の歌だったと思う。僕が書 いた曲だけど、もう僕の手を離れてみんなの歌になっ たんだとしみじみ思う。 

 

これまでのベスト・アルバムには収録されていない けれど、まちがいなく僕の初期の代表作の一つだと 思う。このような形を持ったロック・オペラ的なポッ プ・ロックは、僕が知る限りそれまでの日本には存在 しなかった。海外でいうと、ザ・フー、キンクス、ジェ スロ・タルなどは、70年代にすでにオペラ的様式で アルバムを作っていて見事だった。80年代に入ってか らも、ミートローフ、ブルース・スプリングスティーン といった優れた表現者たちが、ジャンルは違えどオペ ラ的な手法で曲を作っていて、そういった音楽を僕 はふんだんに聴いていた。そして密かに、自分にもで きるんじゃないかと思って挑戦したのがこの「ロック ンロール・ナイト」だ。  この曲は、正式にレコーディングする前に、リハー サル・スタジオでバンドと一緒に組み立てていった。 バンドは最初、複雑な構成に少し戸惑っていたけれ ど、すぐに僕の意図を理解してくれて、うまくやってくれた。この曲がうまくいったのは、ジェスロ・タルやザ・ フーの音楽を聴いていた古田たかし君のドラミング によるところが大きいと思う。彼はこの曲がロック・ オペラだということをすぐに理解してくれた。古田君 の緩急をつけたダイナミックな演奏がこの曲をいき いきとさせてくれた。  歌詞は当時感じていたことを歌にしてみた。人が 成長していく中での迷いや戸惑い。街の中で孤独に 生きるということ、そこで失うもの。同時期に書いた 「サムデイ」と共通するテーマがある。この曲も、スト ーリーテリング形式だ。目に映る風景をスケッチして 物語を進めていく。曲を聴きながら、聴き手が心の中 で映画を描いてくれるような描写をしてみた。  この曲は当初アルバム『SOMEDAY』の最終曲だっ たが、そうするとなんだか切なすぎる感じがしたので、 急遽、この曲の後に「サンチャイルドは僕の友達」と いう曲を作ってレコーディングしたことを覚えている。 

 

これは僕の10枚目のシングルで、強い思い入れが ある。ビートルズの10枚目のシングルが「イエスタデ イ」だった。彼らはデビュー曲からずっとロックンロール曲をシングルとしてリリースしてきて10枚目のこの 曲で初めてスロー・ソングを出した。僕もそれになら って1枚目から9枚目まではロックンロール曲、そし 10枚目はバラードにしようと密かに決めていた。 それがこの「グッドバイからはじめよう」だ。  この曲は15歳の時に書いた。当時、僕は高校に通 っていた。校内の敷地には寮があって、そこでは音楽 が好きな連中が集まって校内放送を行っていた。そ こで僕のこの曲が取りあげられて、いつのまにかこの 曲が寮で大ヒットをしたんだ。誰かが録音してそれが 流れたんだと思う。たちまち僕はいい曲を書くヤツと して結構有名になった。  この曲は83年にリリースした。ちょうどその頃行っ ていた全国ツアー〈Rock & Roll Night Tour〉の最終日、東京・中野サンプラザでの公演で、僕は初めて この曲を唄った。この公演を最後にニューヨーク行 きを決心していたからだ。ファンにいったんお別れを することになるので、ファンに対してのちょっと悲し いラヴレターみたいな気持ちで演奏し、唄ったのを 覚えている。だから思い出深い曲でもある。この後約 1年日本を離れることになる。ここからが本当のレヴ ォリューションだから見てろ、という感じだった。 

 

アルバム『VISITORS』からは4枚のシングルが2 か月くらいの間隔でリリースされることになる。これ がその一番手。アルバムの方はダンスフロアで踊り やすいようにイントロや間奏、アウトロの部分などを 長めにとってある。7インチ・シングルはラジオなどで かかることを想定して、たとえば7分のものが5分、5 分のものは3分というように短くしてある。すべて自 分で編集してリリースした。だから「トゥナイト」も含 めて、アルバム『VISITORS』からのシングルは全部 ヴァージョンが違う。  この曲は12インチ・シングルもある。ニューヨーク ではダンスクラブがプロモーションに組み込まれるよ うになった頃で、当時リリースされたほとんどの曲は、 バラードを除いて12インチのエクステンデッド・ダン ス・ヴァージョンが作られていた。ダンスフロアでか かることが直接的なプロモーションに繋がるからだ。 僕も『VISITORS』からは2曲の12インチ・シングルを作った。  ストリートでハプニングしていたヒップホップ・カル チャーに刺激を受け、ヒップホップ、ラップに日本語 を機能させた音楽を作ろうと思った。ヒップホップ・ カルチャーをなぞるのではなく、それをきっかけにし て誰も聴いたことのないオリジナルなサウンドを作っ てみた ── そこから出 てきた アルバ VISITORS』だったと思う。  詞について言えば、この曲はまるで商業的ではな い。よくこの曲をシングルとして切ったと思うくらいだ。 冒頭の「つかの間の自由を...」から始まる一節は当時 読んでいた禅についての本から触発されたものだ。  初期の3作とだいぶサウンドが違ったので保守的 な人たちから批判的な意見も耳にした。でもその後 改めてこのアルバムを評価してくれる人も多く、アーティストとして僕自身も変わるきっかけとなったことを思 うと、改めてこのアルバムを作って良かったなと思う。 

 

ニューヨークで新しいアルバム『VISITORS』を作 り、そこからの先行シングルとしてリリースしたのが この曲だ。アルバム『VISITORS』は、新しい試みの 連続だった。エンジニアやマスタリングの技術、アー ティストのプロデュース方法など、ニューヨーク型の レコーディングの一切を学習した時期だった。向こう で暮らしながら詞や曲を書き、レコーディングのノウ ハウを学んでいた。このシングルが発売になった時に はまだニューヨークにいて、周りの反応はわからなか った。  日本に帰ってから、評判が二つに分かれたという 話を聞いた。一つは、ニューヨークまで行って作った 作品にしては、これまでの佐野元春作品と変わらな い、つまらないという意見と、もう一つは説明しがた い新しさを感じた、という二つだった。好意的に言っ てくれた人の中には、カップリングの「シェイム」を聴 いて、これから出るアルバムへの期待を語ってくれている人も多かった。確かに「トゥナイト」は、これまで と同じようなポップさと明快さがあると思っていた。 その後にアルバム『VISITORS』の発表が控えてい たから、まずはこれまで待ってくれたファンにあり がとうというような気持ちを含めたポップ・ソングを 書いたつもりだった。「トゥナイト」を聴いて批判的だ った声もアルバム『VISITORS』を出したあとは静か になった。  ちょうどその頃は、MTVがハプニングし始めた頃 で、日本でもこれからはミュージック・クリップが一 般的になるだろうと思っていた。そこでスクリプトを 書いて何人かの映像作家に依頼し、実際にミュージ ック・クリップを作った。「トゥナイト」のように短篇 映画のような物語性を持ったミュージック・クリップ は国内ではこれが初めてだったと思う。 

 

'83年~ '84年にマンハッタンに暮らしながら思い 描いていたのは、この後に来る新しいエイジ、インフ ォメーション・エイジの到来に対しての直感だった。 まだインターネットなどは一般的にはなかったし、一 部の学者が論文などで発表しているのに過ぎなかっ たんだけど、僕たちは、産業のエイジから情報の エイジという変化を肌で感じていた。当時夜中にベ ッドの中でそういうことを考えて、非常に興奮して、 眠れないまま詞を書いたりしていた。「ニューエイジ」 はその中の曲。  この「ニューエイジ」のドラムスはウェザーリポート のオマー・ハキム。彼と一緒にレコーディングできて、 彼のプレイを側で見ることができたのも感激だった。 僕はピアノとアコースティック・ギターを弾いた。アル バム『VISITORS』のサウンド面でのテーマはアコー スティックとデジタルの融合だった。そのことについ てセッション・ミュージシャンたちと熱く語ったのを覚えている。具体的に言えば、DMXマシンやサンプ リングといった新しい技術とアコースティック・ギターとかアコースティックな楽器を融合させたオーガニ ックなサウンドを作れないかということでレコーディングしていた。  アルバム『VISITORS』の中の言葉は乾いている。 ノスタルジーがない。それは僕自身があの街で暮らし て行くことに精一杯だったためで、誰かを励ましてい るというよりは、自分のケツをひっぱたくという理由 で書かれた曲が多いからだろう。ヘヴィな出来事もあ ったけれど、その中でも楽天性を失わないよう希望 を持って、という気持ちがあった。

 

この曲をリリースする前後に、ヨーロッパ、特にイ ギリスのミュージシャンが中心となって動きが起こっ ている。ボブ・ゲルドフが提唱したエチオピアの食糧 難と自然災害への救済チャリティ・プロジェクト〈バ ンドエイド〉があって、日本版の〈ライヴエイド〉への 出演依頼があった。彼の行動力には敬意を感じてい たので「シェイム~君を汚したのは誰~」のライヴ・ク リップを提供した。欧米ではよくポピュラー音楽が社 会問題にコミットすることがあるが、日本ではそうし たことに慣れていなかった。  その時僕が思ったのは、芸能音楽、ポピュラー音 楽が果たす役割のことだ。自分や周囲のソングライ ティングはもっと成熟すべきではないだろうかと思っ た。なぜなら人は愛について語るように政治につい ても語る。それと同じようにソングライターが書く曲 の中に政治的な意識が反映された曲がラヴ・ソング と同じように書かれ、人々の間で聴かれるようになれば良いと思った。アンダーグラウンドにはあったもの の、当時のメインストリームにそうした曲はなかった。 その点では日本はまだ過度期なんだなと感じた。  この曲は同時に12インチ盤も作っている。12イン チ盤のアルバム・カヴァーには、1985年、その時に 世界で起こっている紛争地域を地図にして、この曲か ら発生するロイヤリティをすべて日本赤十字を通じてエチオピア難民救済のために寄付した。それがど うしたということではなく、みんなと同じように日常 に暮らして詞を書き曲を書いているソングライターの ひとりとして、どういう時代に生きているかというこ とを音楽を通じて個人的に確認したかったんだ。 

 

VISITORS』に始まる一連の流れで、ヒップホッ プ文化に刺激されて言葉とリズムの表現に夢中だっ たが、一方で良いメロディを書くことをすっかり忘れ ていることに気づいた。UKではアコースティックな 音楽や、モータウン、スタックスといったR&B音楽の 再評価があった。僕の中でもメロディ復活の兆しが 見え始めていた。当時UKにあった一連のネオ・アコ ースティックなバンド・サウンドに対しての僕からの 解答として、試しに書いてみたのがこの曲だ。  詞のことで言えば、この曲の舞台は郊外だ。都会 にいることが少し息苦しく感じていた頃だった。エコ ロジーとまではいかないがそれに近い意識を持って いた。  この頃は一緒に活動していたバンド、ザ・ハートラ ンドも結束が強まって、長いロードを共にしながら一 緒の時間を多く過ごした。リズムに加えて2台のキーボード、3菅のブラス・セクションであるTOKYO BEBOPというバンド編成は僕の音楽表現になくてはな らないものとなった。ライヴにレコーディングに雑誌 の編集にレーベルの運営も加わりよく働いた。  カップリング曲は当時片岡鶴太郎さんから依頼が あって書いた曲だ。とっても評判は良かった。セルフ カヴァーとして自分で歌ってみた。自分のステージで 何度か演奏しているので、ファンの中には、僕の曲だ と思っている人もいるみたいだ。この曲も自分のレー ベルを立ち上げたりした時の自分が重なり合ってい る曲かもしれない 

 

TIME OUT!』を出したのは'90年。僕の中では時 代が変わりつつあるな、と感じていた。当時日本は バブルの好景気の中にあった。毎日がパーティだった。 表層的なところだけを見れば、経済が中心にあって、 人々の関心はよくも悪くもお金にあった。  そんな風潮な中で得るものと失うものがあった。 僕はアーティストとして関心を持ったのは、僕らが失 ったものについてだった。景気のいい話が飛び交う 裏で、実に多くの物と心が失われていった。当時は僕 にしては珍しく、どこか諦めていて、ニヒリズムに陥 ってしまっていた。僕は、街の人々の絶望感をちょっ とからかってみたくなった。そうして作ったのがアル バム『TIME OUT!』だ。  そんなアルバムの中にあって唯一ホッとできる楽 曲が「ジャスミンガール」だったと思う。今考えてみて も、シングル・カットするならこの曲しかなかったと思 っている。それまで僕は若い男女のことを主人公にした歌を数多く書いてきた。でも、これはそろそろ自 立をはじめようかという普通の大人の女の人がテーマとなった歌だ。これから社会に出ていこうという不 安の中にいる女性を描いた歌はそれまであまりなか ったので、僕にとっても新鮮なテーマだった。どこに でもいるような、特別ではない女性。そんなイメージ をもった楽曲だ。  この頃について思い出すのはレーベルとのリレー ションがあまり上手くいってなかったこと。スタジオ にレーベルの人は誰も来なくなっていた。アルバムは ザ・ハートランドと僕だけで約1か月で仕上げた。制 作期間としては僕のオリジナル・アルバムの中では最 速だったと思う。

 

アルバム『SWEET 16』からのシングルという意味 ではこの「誰かが君のドアを叩いている」が第一弾だ と思う。そしてなんと僕はこの曲で初めてテレビの生 番組に出演してライヴ演奏を経験した。今では笑って しまうけど、当時テレビに出るというのはきちんとし た服を着て、髪を整えて、どこかにお出かけするよう な気持ちでいた。  さらにあるテレビ局がドラマのテーマ・ソングに「約 束の橋」を使いたいと言ってきた。そこでぼくは少し 手直しをして、シングルとしてリカットした。90年代 はテレビというメディアと深く関わることになり、そ れによって僕を知るファンも増えてきた。「約束の橋」 のヒットがもたらしたものは、この曲から僕を知った 新しい世代が遡って僕のアルバムを聴くようになっ たことだと思う。  「約束の橋」は発表してから3年も経っていた。当 時のステージではテンポを落として、アレンジを変えて演奏していた。そんなところへある日、楽屋にレーベルの人たちがやってきて、レコードどおりのアレン ジでやってほしいと言われた。シングルがヒットして いるからだという。当然だろうと思った僕は了解して、 ステージでの「約束の橋」は、またオリジナルのアレ ンジに戻した。テレビに出演することで、この頃僕は やっと他のポップ・スターと肩を並べることができた と、一瞬思ったりもした。 

 

ロンドンで生活しながらレコーディングしたアルバ ム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』。そこにはさまざ まな逸話がある。「ジュジュ」、この曲のレコーディン グ当日、アコースティック・ギターが必要だったのに 自分はすっかり忘れてしまった。取りに帰る時間もな く困っていたら、イギリス人ローディーのひとりが “OK、じゃあ調達してくるよと言って、まもなくギブ ソンのアコースティック・ギターを抱えて帰ってきた。そのギター、どうしたのと尋ねると彼はエルヴィ スに借りたと言うんだ。エルヴィスって誰だと言 うと、エルヴィス・コステロだと。彼はコステロの ローディーもやっていたんだね。僕はそのローディー のおかげで、無事に「ジュジュ」の録音を終えること ができた。  レコーディングに参加してくれたドラマーのピート・ これはロンドンでコリン・フェアリーのプロデュー スで作ったアルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』 からの第一弾シングルだ。ピート・トーマスの叩くド ラムスがこの曲の骨格となっている。リズムのセンス はモータウンを意識した作りで、そこにブラス・セクシ ョンが入るという構成になっている。さらに僕らしい スポークン・ワーズを取り入れている。当時はまだ日 本ではラップというスタイルがあまり普及していなか ったので、ロックンロールとスポークン・ワーズ、ヒッ プホップ、ラップというものを融合させたら面白いの ではないかと考えて作った曲だ。  このアルバムの制作のためロンドンにアパートを 借りて半年ほど滞在した。ニューヨークとはまた違っ た文化に触れることでソングライティングも変わって いった。UKでのレコーディング・セッションはその後 にとても役に立った。ピート・トーマスやブリンズリー・ シュウォーツといったミュージシャンとのセッションを通じて、バンドに対する考えが変わった。サウンド に対してより創造的に接するようになった。そして日 本語がうまく働いているロック曲をできるだけ多く生 み出すこと。それが僕の何よりの望みだった。プロモ ーションに使う時間さえも創作活動に回した。  この曲のタイトルとなったナポレオンフィッシュと いう魚は、見た目がとてもグロテスクな魚だ。美と醜 の境はあいまいなものだ。僕は以前から、美しく同時 に醜い、そんな有り様に非常に興味があるんだトーマス。彼はコステロのバンド、ジ・アトラクションズの主要メンバーだ。僕は彼のドラムスが本当に大好きだった。一緒にセッションできると知った時には とても嬉しかった。当時、ピート・トーマスが置かれ ていた状況は複雑だった。エルヴィス・コステロはキ ャリアをアメリカに移そうとしていた時期。アメリカ のルーツ・ミュージックを求めて、現地のミュージシャ ンとセッションをしていた。そのため、バンド・メンバーは一時的に仕事がなくなってしまい、ピートも例外 ではなかった。おまけに、彼の自宅が火事になってし まうというアクシデントもあった。ピートの奥さんが そのことで非常に悲しんでいたので、僕は彼女を励ま すつもりでこの曲を書いた。その彼女のニックネーム