<序文の序文>
今年9月のある日突然、携帯電話で「佐野元春のデビュー40周年記念CDボックスセットに序文を書いてほしいのですが」と依頼を受けました。
僕がもしプロの音楽評論家か有名な作家か何かなら、まあ驚くことはないかもしれません。しかし、ポップスの歴史についての本を一度出したことはあるものの、音楽評論家として仕事をしているわけでもなく、ましてや佐野さんに会ったことすらない僕になぜオファーしてきたのか?
そう正直に質問すると、電話口の担当者の方は「実は佐野さんからのご指名であなたにお願いしたいということなんです」とのこと。これまた驚きの説明。
よく聞くと、どうやら佐野さん自身がネットで僕のサイト、その中の文章を見て興味を持ち、お決まりの評論家ではなく、あえて僕に白羽の矢を立てたのだということがわかりました。
ああ!これこそ佐野元春スタイルだ!この軽く素早いフットワークによって、彼の音楽や様々な作品が生み出されてきたんだ!そんな感動を他人事のように感じながら、僕はこのオファーを受けたわけです。もちろんそんな佐野さんの新たな挑戦の共犯者に選ばれたことを光栄に思う以上に、半端ないプレッシャーを感じていたことも確かです。
では、僕は何を書けばいいのか?佐野さんは僕に何を求めているのか?幸いそこは何となくわかった気がしていました。
40年という活動期間の中で、今回収められているエピック時代のCDが発売されたのは、ほぼその前半の20年です。佐野元春が駆け抜けてきたその20年がどんな時代だったのか?その時代の空気を文章によって再構築し、もう一度その時代に立って彼の音楽を聴き直すことができるようにすること。それが僕に与えられた任務なのだと理解しました。
 
 坂本龍馬や大久保利通のような英雄たちは、生まれた時代が幕末だったからこそ、あれだけの活躍ができたのかもしれません。しかし、彼らは当時誰よりも早く「時代の変化」に気づき、誰よりも早くそのために動いたことだけは確かです。
 芸術家とは、炭坑内に洩れ出す有毒ガスを検知するために、鉱山労働者が持ち込んだカナリアのようなものだ。そう言ったのは、アメリカの作家カート・ヴォネガットでした。時代を超える作品を生み出した芸術家は、誰よりも早く「時代の変化」を感じ取り、その変化を自らの作品によって表現する才能を持っていました
 ピカソと「ゲルニカ」、ボブ・ディランと「風に吹かれて」、デヴィッド・ボウィと「ヒーローズ」、チャップリンと「独裁者」、ローリングストーンズと「悪魔を憐れむ歌」、ヴィヴィアン・ウエストウッドと「パンク・ファッション」、ゴダールと「勝手にしやがれ」、デニス・ホッパーと「イージー・ライダー」、アンディ・ウォーホルと「キャンベル・スープ」、最近ではスパイク・リーと「ザ・ファイブ・ブラッズ」・・・「時代」は彼らとその作品たちと共に語られ続けるはずです。
 そして、佐野元春もまたその定義に当てはまる存在だと僕は思います。
 
 この序文では、佐野元春にとって重要とされる4作品に的を絞り、その作品が世に出た年を多角的に浮かび上がらせようと思います。そこから見えてくるのは、佐野元春というアーティストが、時代の変化が起きる瞬間をあらかじめ知っていたかのようにそれらのエポック・メイキングな作品を送り出していた事実です。なぜ、そんなことが可能だったのか?それは本人にもわからないかもしれません。
ではさっそく最初の目的となる年に向かうことにしましょう。もちろん最初に向かうのは、彼のデビュー・アルバムが世に出た1980年です。
 
<1980年「Back to the Streetin Tokyo
 1980年、僕は東京の大学に入学して2年目でした。授業にも東京での生活にも慣れてきた僕は、その年、それまでにない不安な日々を過ごしていました。それは自分自身ではなく世界全体の未来に関する不安でした。
 1979年にソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、アフガン紛争が勃発。この年もその戦闘は継続していて、ソ連と自由主義国のリーダーを自認するアメリカが対立。その影響でモスクワ・オリンピックは日本も含めた西側諸国の多くがボイコットする異例の大会となりました。
 同じように前年から続いていたイランのアメリカ大使館占拠事件もまたこの年に持ち越されていました。人質救出作戦の失敗もあり、ハト派のジミー・カーターが国内世論の批判を受け、大統領選挙で共和党タカ派のロナルド・レーガンに敗北を喫してしまいました。
 こうしてアメリカ国民がタカ派の大統領を選んだようにイランではイスラム原理主義の指導者だったホメイニ氏が前年に政権を掌握し、イラン・イスラム革命が始まっていました。ホメイニ氏率いるイランは隣国イラクとの戦闘を開始。より原理主義的な宗教色を強め、これ以降イスラム過激派によるテロ事件が世界各地で起きるようになります。
 ヨーロッパに目を向けると、東欧のポーランドで自主管理労組「連帯」が誕生。民主化運動の高まりは勢いを増し、それに対しソ連による軍事介入が心配され始めます。しかし、それ以上に危険だったのは、長年国をまとめてきたカリスマ的な指導者チトーの死去によって、多民族国家ユーゴスラビアの分裂が迫っていたことです。セルビアを中心とするバルカン半島の紛争は、その後、長く悲惨な戦闘へと発展することになります。
 アジアでは、カンボジアのポルポト政権を倒すためベトナム軍が侵攻作戦を開始。それに対し、ポルポトを支援していた中国が反発し、中越紛争へと発展することになりました。
 お隣の韓国では、民主化を訴える若者たちに対し、軍が武力での弾圧を開始。多くの市民や学生たちが命を落としたあの光州事件が起きました。
 これだけでも十分世界は不安な状況に追い込まれていたはずですが12月に入り、さらなる悲劇が世界を襲います。12月8日ジョン・レノンが暗殺されたのです。彼の死は、ジョン・F・ケネディ暗殺事件以来の衝撃を世界中に与えることになしました。
 ちなみに音楽ファンにとっては、この年はジョン以外にも多くのアーティストがこの世を去った年として記憶されています。
 「ソ連のボブ・ディラン」と呼ばれたウラジミール・ヴィソツキー。ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティス。レッドツェッペリンのジョン・ボーナム。ハワイアン・ミュージック界の最高峰ギャビー・パヒヌイ。ブラジル・サンバ界の大御所カルト―ラとヴィニシウス・ジ・モライス。R&B界ではO・V・ライトとプロフェッサー・ロングヘア―。アメリカではシンガーソングライターのティム・ハーディン、マーシャル・タッカー・バンドのトミー・コールドウェルなど、現役バリバリの大物が亡くなっています。
 ではさぞや日本も暗いムードに包まれていたのだろうと思いきや、実はそうではありませんでした。でもなぜ、日本人は平気でいられたのでしょうか?考えてみると、多くの日本人は世界が危機的状況にあることをほとんど認識していなかったのかもしれません。
 世界のニュースを映像によってリアルタイムで発信するメディアCNNはこの年に誕生したばかりでした。インターネットも80年代にはまだ存在せず、世界の状況をすべての人がリアルタイムで共有できる時代はまだまだ先のことでした。
 そのうえ日本はこの年、初めて自動車の生産台数で世界一になりました。テレビではThe MANZAIがブームとなり、原宿は「竹の子族」で溢れかえっていました。混沌とした世界で日本はバブルに向かい一人勝ち状態になりつつあったのです。そんな時代を象徴するかのように、この年は現在まで続く超ロングセラー商品、ブランドが登場しています。「ガンプラ」、「ウォシュレット」、「チョロQ」、「ポカリスウェット」、「ルービック・キューブ」、そして「ビックカメラ」、「ドン・キホーテ」、「無印良品」。
 そうした世相を反映しているのか、この年の音楽業界は歴史上二度とないほど多くの超ロングセラーヒットを生み出しています。
「雨の慕情」、「異邦人」、「別れても好きな人」、「贈る言葉」、「大都会」、「ダンシング・オール・ナイト」、「さよなら」、「昴」、「順子」、「パープルタウン」、「青い珊瑚礁」、「哀愁でいと」、「不思議なピーチパイ」、「TOKIO」、「ふたり酒」・・・どれも今でもカラオケなどで歌われる時代を超えた大ヒット曲ばかりです。歌謡界は、フォーク、ロックの影響を受けたヒット曲が次々に誕生し、その頂点を迎えていました。
 ただし、音楽界には大きな変化の波も押し寄せつつありました。この年は、歌謡界とは全く別の場所から、山下達郎の「ライド・オン・タイム」、YMOの「ライディーン」という大ヒット曲が生まれています。さらにヒットこそしていないもののRCサクセションは「雨上がりの夜空に」を発表。時代は大きく変わろうとしていました。
 そんな中、脱サラのロック・シンガー佐野元春は24歳でソロ・デビュー。ラジオから都会の喧騒とエネルギーに満ちた曲「アンジェリーナ」が聞こえてきた頃、その曲を生み出した佐野元春自身は、すでに何かの不安もしくは不満を感じていたかもしれません。だからこそ、数年後、彼はまるで自らの成功を否定するかのようにアメリカへと旅立つのです。
 
 つかの間の自由をビートにまかせて
 転がり続ける
 センチメンタルなギャツビー気取って
 じょうずにシェイク・ダウン
すべての使い古されたブーツ 窓から投げ捨て
新しいマッチに灯をともして
「アンジェリーナ」
 
<1984年「VISITORSin New York
 1984年、ニューヨークではヒップホップがブレイクの時を迎えようとしていました。
 ヒップホップを生み出したのは、ニューヨークの中でも黒人とプエルトリカンが多く住むブロンクスでした。60年代にはヘロイン、70年代にはコカイン、80年代にはクラックが住人の間に広がり、その荒廃ぶりのせいで他の地域から隔離された地域となっていたブロンクス。そんな場所で育った少年たちはストリートで独自の文化を生み出しました。それがブレイクダンス、グラフィティー、ヒップホップからなるヒップホップ・カルチャーです。当初は地域限定のアンダーグラウンド・カルチャーだったヒップホップがブロンクスを出るきっかけとなったのは、地下鉄のおかげでした。独特なペインティングがほどこされた地下鉄の車両がマンハッタンにまで走って行ったことで、自ずと白人たちの目にともまることになったのです。
「ブロンクスで何かが起こっている」人々にそう思わせたのです。
 1978年ビルボード誌がブロンクスのヒップホップ・シーンを取材し記事にしました。最高のサウンドシステムを武器にしたクール・ハーク、膨大なレコードを所有するバム、スクラッチなどの技術を駆使したグランドマスター・フラッシュなど、個性豊かな現場からの報告は大きな話題となりました。
 1979年にはブロンクスの外からシュガーヒル・ギャングによる世界初のラップ・レコード「ラッパーズ・デライト」が発売され大ヒットを記録。ヒップホップがビジネスとしての可能性を秘めていることを証明します。
 1983年にはテレビ用のドキュメンタリー「スタイル・ウォーズ」が制作され、同年に製作されたドキュメンタリー映画「ワイルド・スタイル」は、1984年には海外でも公開。いよいよヒップホップは世界へと羽ばたき始めます。
 80年代に入ると、ヒップホップはよりダンサブルなディスコのための音楽と社会のリアルを描く、よりメッセージ性を追求した音楽へと別れ始めます。ちなみに「ハウス」という言葉は、1980年頃に生まれたと言われています。その分裂の原因のひとつには、この時期に世界に知られることになったエイズの問題がありました。1983年ミュージシャンのクラウス・ノミがエイズにより死亡。当初は同性愛者を中心に感染が広がったことから、ジェンダーレス化が進んでいたディスコ・カルチャーは大きな影響を受けます。「ハウス」はそうした状況の中、ダンスにより陶酔するための音楽としてのスタイルを発展させてゆくことになり、ラップはよりリアルに社会を描く言葉の音楽として発展して行くことになりました。その象徴となったのが、1984年にグランドマスター・フラッシュが発表した「ザ・メッセージ」でした。この年、白人のリック・ルービンが黒人のラッセル・シモンズとデフ・ジャム・レコードを立ち上げ、L・L・クールJとT・ラ・ロック&ジャジー・ジェイのアルバムを発表。ラップの白人層への浸透も始まります。さらにRUN D.M.C.はアディダスのスニーカーをはき、金のチェーンとポークパイ・ハットによりファッション・リーダーとなって行きました。
 1983年から1984年にかけ、二ューヨークで生活していた佐野元春は、ブロンクスを出て来たばかりのヒップホップをリアルタイムで体験しただけでなく、それをわずかの時間で日本語化してしまったのです。今思えば、多くのファンが彼の変化について行けなかったのは当然のことでした。
 
<1989年「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」in London
 1989年は日本が大きく変わった年でした。1月7日の天皇崩御から始まり、美空ひばり、手塚治虫、松下幸之助がこの世を去ったことで、昭和の歌謡曲、漫画、企業経営にひとつの区切りがつけられました。そんな中、日本経済はバブルのピークを迎えます。株価が史上最高値の3万円台に突入。その終わりはもうすぐそこまで来ていましたが、まだ誰もその終わりを予見してはいませんでした。
 時代の変わり目を迎えていたのは日本だけではなく、ヨーロッパではそれ以上に大きな変化が始まっていました。「ベルリンの壁」の撤去が始まり、長く続いた東西冷戦が終わりを迎えようとしていたのです。この事件は、ヨーロッパ全体にとってポジティブな出来事であり、ヨーロッパ連合(EU)誕生に向けての大きな一歩でもありました。この後、1993年にはマーストリヒト条約が締結されヨーロッパの統一が完成することになります。
 1988年に佐野元春が発表したアルバム「Heartland」は、アルバム・チャート1位となり、40万枚を売り上げる大ヒットとなりましたが、再び彼は日本を飛び出します。向かった先は、今回はイギリスのロンドンでした。
 ロンドンで彼はエルヴィス・コステロなどのプロデューサー、コリン・フェアリーを共同プロデューサーに迎えアルバムを制作します。バック・バンドは現地で召集され、ブリンズレー・シュワルツやコステロのバック・バンド、ジ・アトラクションズのメンバーらが参加しました。こうしてニューアルバムの録音が始まりました。
 この当時、ロック界はパンク、ニューウェーブの時代を経て、明らかに低迷期を迎えていました。時代は、世界各地の民族音楽を取り入れたエスニック・サウンドの時代に突入していたとも言えます。そんな中、イギリスのロンドンだけは例外的に音楽界が元気な街でした。
 1989年にはローリングストーンズが「スティール・ホイールズ」、ポール・マッカートニーが「フラワーズ・イン・ザ・ダート」、XTCが「オレンジ&レモンズ」を発表。久々に大物復活をアピール。それ以外に注目すべき存在だったのは、アイルランド系のミュージシャンたちです。エルヴィス・コステロ、ザ・ポーグス、ウォーター・ボーイズ、ホット・ハウス・フラワーズ、ヴァン・モリソン、U2、シニード・オコナー・・・そしてアイリッシュ・トラッド系のドロレス・ケーン、メアリー・ブラック、デ・ダナン、エンヤ・・・時代はパブロックやアイリッシュ・トラッドなど、生の演奏によるバンド・サウンドへと回帰しつつありました。そして、この傾向は世界的なものでもありました。
 アメリカではMTVアンプラグド・ライブがスタート。エリック・クラプトンのライブ・アルバムは大ヒットし、世界中に「アンプラグド・ブーム」が広がることになります。
 日本ではTBS「いかすバンド天国」の放送が始まり、日本中でバンド・ブームが盛り上がることになります。この番組から、フライング・キッズ、たま、KUSU KUSU、ビギン、マルコシアス・バンプ、ブランキ―・ジェット・シティーらの活躍が始まります。
 最高にご機嫌なパブロック系のバック・バンドを得て制作された新たな佐野元春の名盤は、世界がまだ前向きだったギリギリの年に世に出ることになりました。
 
 世界は少しずつ形を変えてゆく
 俺達は流れ星 これからどこへ行こう
 So Good Night いつか君の腕に抱かれて
 Good Night どこか行きつく所もなく
「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」 
 
<1997年「THE BARNin Woodstock
 1990年代はグローバリゼーションの時代でした。1991年にソ連が分裂したことで、東西冷戦構造が終わりを迎え、それに代わる新体制の形成が始まっていました。「グローバリゼーション」は、その新体制のためのコンセプトとして最も成功したと言えます。それは世界中の物資や情報の移動を、規制緩和によって自由にし、経済の活性化を図ろうというものでした。
 同じ時期に登場し、世界を変えたのが「インターネット」です。1990年にティム・バーナーズ=リーが初めて公開し世界中で無料での利用が可能になったウェブ・ページは、当初は大学の研究者が情報交換を簡単にできるようにと作った技術でした。そのシステムは、1995年には民間での利用が可能になり、翌年には日本でもNTT直営のOCNがプロバイダー事業を開始しています。
 1996年3月、いち早くオフィシャル・ページ「Moto’s Web Server」を立ち上げた佐野元春は、インターネットの分野でも先駆者となりました。同年12月には、どのミュージシャンよりも早くライブ会場からインターネット生中継を行っています。当時は、ごくごく一部の専門家しかインターネットを利用していなかったので、どれだけの人がその中継を見られたか。2020年、ほとんどのアーティストがインターネット生配信を行うことになるとは、当時は誰も予期していなかったはずです。
 1997年は、世界を制覇しつつあったグローバリゼーションの問題点が明らかになった重要な年と言えます。タイの通貨危機から始まったアジア地域の株価の大暴落が、ニューヨークにも伝搬し、世界中の市場経済を混乱に陥れました。「世界同時株安」という言葉は、この時始めて用いられますが、この後、何度も同じような事態が生じることになります。世界のどこかで起きた事件が、あっという間に世界全体に影響を与えうる時代がここから始まったのです。
 この年、ヨーロッパでは単一通貨ユーロがスタートし、巨大な経済圏が誕生。地球温暖化が世界規模で進行していることに歯止めをかけるため、地球温暖化防止京都会議が開催されましたが、こちらの足並みはまったくそろいませんでした。地球は確実に小さくなっていました。
バブルの崩壊後、長引く不況下の日本でしたが、音楽業界だけはまだバブルのまっただ中にいました。この年、日本における音楽ソフトの総売り上げは4億8千万枚に達し、史上最高の数字となります。しかし、この数字を最後に音楽業界は長い不況の時期を迎えることになります。
そんな中、再び佐野元春は日本を離れます。彼が向かったのは、アメリカン・ルーツ・ミュージックの聖地、ウッドストックでした。そこで、ザ・バンドのプロデューサーとして知られるジョン・サイモンを迎え、ザ・バンドのキーボード奏者ガース・ハドソンやジョン・セバスチャンらをゲストに招いて、新バンドとなるザ・ホーボー・キング・バンドのアルバム録音を行いました。木造の納屋を改造した小さなスタジオで行われたその録音は、インターネットもハイテクも使わない生のバンド・サウンドへの回帰を目指すものでした。新たな「知」の導入を繰り返しつつ、「根」へのこだわりを忘れない佐野元春は、常に若々しく、常に変わらない心の持ち主でもあるのです。
20世紀最後の20年は世界が一気に小さくなる20年でした。その変化はあまりに早すぎて、世界中にそのひずみが生じ、21世紀には様々なかたちでそこから悲劇が生まれることになります。テロリズム、異常気象、移民・人種問題、そして新型コロナの大流行・・・エンターテイメントの世界もその影響から逃れることはできませんでした。
佐野元春というロック・ミュージシャンは、そんな時代の変化を描くアーティストとしての役割を果たし続けると共に、エンターテナーとして我々に前向きなメッセージを発し続けてくれました。その姿勢は21世紀に入っても変わらず、さらに20年の時を経てもなお、そのエネルギーを保ち続けています。これから始まるさらなる20年にも期待します!
鈴木創 インターネットサイト「ポップの世紀」主催者
 
 荒れ狂ったこんな世界に迷い込んだ言葉たち
 変わらない君だけはいつもそこにいてくれた
 Young Forever
 君のその心若くできるだけ遠くまで翔けてゆけ
Young Forever