- サンタナ Santana -

<21世紀に再ブレイク>
 60年代にデビューしたロック・バンドの中で21世紀に入って、それまで以上の活躍をした唯一のバンド、それがサンタナかもしれません。あのストーンズですら、もはやかつてのような活躍はできないし、他のバンドもその多くは解散後に再結成して「昔の名前で出ています式」な活動がメインになっています。ところが、彼は21世紀に入ってからオリジナル・アルバムでグラミー賞を受賞(それもその年の最多部門)しているのです。もちろん、サンタナがここまで活躍しているのは、旬のアーティストたちを上手く使いつつ、自らもしっかりとサンタナ節のギターを聞かせるという独自のスタイルを確立したおかげかもしれません。それにしても、彼がここまで成功しているとは、バンドの育ての親でもあった偉大なプロモーター、ビル・グレアムも天国でさぞや驚いていることでしょう。
 ラテン・ロックというロックの王道からははずれた存在が、ここまでのメジャーになったのには、長く曲がりくねった道筋があり、そこにはある種の必然性もあったはずです。では、その道のりをたどってみたいと思います。

<メキシコからアメリカへ>
 カルロス・サンタナは、1947年7月20日、メキシコのオウトランという町で生まれました。父親はメキシコの伝統的なポピュラー音楽、マリアッチのヴァイオリン奏者で、彼は5歳になるとヴァイオリンを習い始めました。しかし、彼はラジオから聞こえてくるロックン・ロールにひかれるようになり、ギターを手に入れるとチャック・ベリーB・B・キングの曲などをコピーするようになりました。
 その後1960年代に入るとサンタナ一家はメキシコを離れアメリカに移住、サンフランシスコに住み始めます。その頃になると、サンタナはさらに音楽にのめり込むようになっており、より広い範囲の音楽を聴くようになっていました。
 それは、T・ボーン・ウォーカーのようなブルース系のアーティストだけでなく、ジョン・コルトレーンマイルス・デイビスなどのジャズやティト・プエンテ、レイ・バレット、エディ・パルミエリなどサルサにもひかれ始めていました。

<デビューのきっかけ>
 こうして、ミュージシャンを目指すようになった彼は、サンフランシスコの下町にできた話題の店フィルモアに大好きなアーティストを見ようと入り浸るようになります。仕事がなかった彼はお金のない時にはタダで入れてもらったりもする常連客のひとりでしたが、ある日ついにステージに上がるチャンスをつかみます。
 ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのライブの日、彼のマネージャー(といっても高校時代の友人)がフィルモアのオーナー、ビル・グレアムにメキシコ出身の友人のギタリストに弾かせてくれと直訴。すると、彼は「マイク・ブルームフィールドにきいて、オーケーだったら出してやる」と答え、これをきっかけにサンタナはマイク・ブルームフィールドと親しくなり、なおかつステージに上がることができるようになりました。こうして、ビル・グレアムにも気に入られたサンタナは、バンドを補強し、サンタナ・ブルース・バンドを結成。フィルモアに出演するアーティストがぬけた際の穴埋めとして頻繁にステージに上がるようになります。
 当初はブルースを中心に演奏していた彼らですが、ビルの奨めもありラテン色を出すためコンガなどパーカッションを補強、バンド名もサンタナに変更。おかげで彼らの人気はいっきに高まります。この頃から、ビル・グレアム自らが彼らのマネージメントを行うようになります。

<デビュー、いきなりのブレイク>
 1968年フィルモアのステージで正式にデビューを飾ったサンタナはすぐにフィルモアの顔になり、いっきにトリを務めるようになります。なんとこの時まだ彼らは、アルバムを一枚も出していませんでした。そんなサンフランシスコ下町の人気バンドを全国区にしたのは、やはりマネージャーのビル・グレアムでした。
 1969年の巨大イベント・ライブ、ウッドストックの準備が始まると、主催者からビルにプロジェクトへの参加依頼がきました。フィルモアで、どんなプロモーターにも負けない経験を積んでいるビルの協力は誰の助けよりも必要と考えられていたのです。ところが、彼はこのイベントが成功するとは思えず、正式な参加を断ります。しかし、彼は条件付きでフィルモアのスタッフを参加させることと自らがアドヴァイザーとして参加することを了解します。そして、その条件がサンタナを出演させることだったのです。
 こうして、サンタナは東海岸ではまったくの無名だったにも関わらず、数万人の観客を前にステージに登ることになりました。このライブの演奏は、映画「ウッドストック」にも収められていますが、彼らの代表曲となった「ソウル・サクリファイス」での強烈なラテン・パーカッションとサンタナならではのギター・サウンドは観客を一気に熱狂の渦に巻き込み、彼らの存在は一躍全米中に知られることになります。その勢いに乗って発表されたデビュー・アルバム「サンタナ Santana」は、全米チャート4位にまで上がる大ヒットとなり、売上枚数も100万枚に達しました。

<ラテン・ロック>
 彼ら以前にも「ラ・バンバ」で有名なリッチー・バレンスのようなラテン系ロック・アーティストはいましたが、ラテン・パーカッションを全面に出しロックと融合させる本格的な「ラテン・ロック」スタイルは、まだ未知のジャンルでした。それだけに彼らの存在は、当時次々に登場していたロックの新しいスタイルのひとつとして熱く迎えられることになったのです。(プログレ、ヘビメタ、パンク、カントリーロックなど現在につながるロックのスタイルの多くはこの時代にその原型が生まれています)
 続くセカンド・アルバム「天の守護神 Abraxas」(1970年)からは、サンタナの代表曲「ブラック・マジック・ウーマン」(オリジナルはフリートウッド・マック)「僕のリズムを聞いとくれ」(オリジナルはティト・プエンテ)がヒットし、全米アルバム・チャートで6週連続ナンバー1に輝きます。こうして、ラテン・ロックのスタイルを確立し、スターの座を獲得したサンタナですが、その後はバンド・メンバーを次々に入れ替えながら、常に新しいスタイルを導入し続けます。

<新たなスタイルの導入>
 「キャラバンサライ Carabanserei」(1972年)ではインストロメンタルが中心となり、ラテン色よりもジャズ色、そしてアジア的で宗教的な色合いの強い音楽を演奏。さらには以前から憧れの存在だった故ジョン・コルトレーンの妻アリス・コルトレーンとの共演アルバム「啓示」を録音。いよいよジャズ的で前衛的なスタイルが強まりました。(しかし、そうしたスタイルの変化に反発して、設立時のメンバーだったニール・ジョーダン(Gui)、グレッグ・ローリー(KeyB)は、サンタナのもとを去り新しいバンドを立ち上げることになります。そして、それがなんとあのジャーニーになります)
 この頃のサンタナの前衛的な雰囲気は、日本での初来日ライブを収めた3枚組のアルバム「ロータスの伝説」のジャケットのアート・ワークによく出ています。このジャケット・デザインは当時人気絶頂だったイラストレーターの横尾忠則です。

<ラテン・ロックへの回帰>
 しかし、こうしたサンタナのジャズ的、前衛的、宗教的な傾向も、70年代の半ばを過ぎると再び変化をみせます。当時世界的なブームとなっていたディスコで若者たちが踊る姿を見て、サンタナは再びかつてのダンサブルなラテン・ロック・スタイルへの回帰を目指すようになります。そこから生まれたのが「ダンス・シスター・ダンス」(1976年)ですが、同じ頃日本では同じアルバムからシングル・カットされた「哀愁のヨーロッパ」が大ヒット。演歌の世界に近いサンタナの泣きのギターは日本人に大受けで、アメリカとは異なるとらえられ方で彼の人気は不動のものとなります。
 その後70年代後半はパンクのブームのせいもあってか彼の名前は聞かれなくなりますが、1981年発表のアルバム「ジーバップ Zebop」では再び人気が再燃、世界中で600万枚を売る大ヒットとなります。
 90年代に入っても彼の活躍は活発で、1992年発表のアルバム「ミラグロ Milagro」を発表。この作品は、前の年に亡くなった二人の大物、ジャズ界の帝王マイルス・デイヴィスと彼らの恩人ビル・グレアムへのトリビュート・アルバムでした。
 その後、90年代も活躍を続けた彼らですが、21世紀に入ってからはそれ以上の活躍をするようになり、いつの間にか音楽シーンのトップに立ってしまいます。それはまさに「ミラグロ(奇跡)」と呼べるものでした。

<奇跡の活躍>
 それにしても、なぜ彼の人気は衰えをみせず、それどころか、21世紀に入って最高のピークを迎えることになったのでしょうか?
 ひとつには、彼は元々ヴォーカリストではなくギタリストだったため、常に旬のアーティストと組むことで新しさを保ってきたことがあげられます。さらに、そうしたコラボレーションという行為が21世紀になると以前よりも一般的になり、受け入れられやすくなったことで彼に追い風になっているのでしょう。(逆に言えば、それだけ孤高の存在、オリジナリティーのある存在が減ってきているとも言えるのですが、・・・)
 しかし、それ以上に重要なのは、どんなに時代に合わせてスタイルを変えたとしても、彼のサウンドの基本には「ラテンの濃い血」が流れ続けていて、芯がぶれることがないことかもしれません。ラテン系ならではのファンキーさと泣きのメロディー、この二つを常に合わせ持つことで他のアーティストとは異なるスタイルをしっかりと保ち続けているのです。

<ラテン民族の象徴的存在へ>
 さらに1990年代以降、アメリカではチカーノ系、ラテン系のアーティストたちが大ブレイク。それまで異端だったはずのラテン音楽はいつの間にか主流派とも言える存在になってきました。例えば、リッキー・マーティン、ジェニファー・ロペス、クリティーナ・アギレラ、インディア、ロス・ロボスグロリア・エステファンなど。こうした流れは、アメリカにおけるラテン系移民の急増という背景にも支えられているだけに、今後も衰えることはないでしょう。こうした、アーティストたちにとってサンタナは遥か彼方から活躍を続ける伝説であり、導師であり、父親であり、ラテン・コミュニティーにおけるシンボルのような存在なのです。
 もしかすると、サンタナの存在は、かつて彼が求め続けた「神」ような存在に近づきつつあるのかもしれません。将来、アメリカの人口の過半数をラテン系が占め、大統領がその中から誕生する可能性は十分あります。もしそうなったら、その後、サンタナの誕生日は国民の休日になるのではないだろうか、と僕は思うのですが・・・。

<締めのお言葉>
「レコードを出さずにフィルモアのトリをとったバンドは、あとにも先にもサンタナだけだ」

ビル・グレアム

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